これまでの演奏会 曲目解説

第66回演奏会

これまでの演奏会のプログラムに掲載された曲目解説(プログラムノート)の翻刻掲載です。

※「ふたことみこと」は創立団員前川のコメントです。

 多くの中学校の音楽室に、作曲家の肖像(実は昭和の日本人画家が製作した教材)が掲げてあります。顔など見分けてどうすんだとは思いますが、見ればハイドンとモーツァルトは羊毛のカツラを被っているのにベートーベン(+以降)はクシャクシャのまま。

 きょうの3曲は同じウィーンで11年の間に書かれました。大音楽家とてヘアスタイルが分かれるくらい、社会の変化や流行の影響を結構短いスパンで受けるなら、日々の生活や浮世のあれこれが音楽に見え隠れするのかしないのか、時節柄もあってか考えずにいられません。

 モーツァルトのウィーンにおける主な生業は貴族の娘に鍵盤楽器を教え、その屋敷の音楽会を作曲込みでプロデュースすること、依頼の作曲、それから自作の演奏会(奏者集めも自腹)などでした。貴族に予約リストを回してもらい、本番で新作が受ければ楽譜が売れ、次のチャンスはどこかの地位かもしれません。

 コシ・ファン・トゥッテ(1790年)はヨーゼフ2世の依頼による大きな喜歌劇の仕事です。立派な筋の依頼にしては台本の登場人物が軽率というか脇が甘いというか、とにかく全員アホばかり。題名の和訳も昨今ではアウトかもしれないアホな筋書きを、モーツァルトはたった3つの単音と2つの和音で「だけど、人間なんてそんなもん、だからさ…」という普遍的な寛容の高みにひっくり返してしまい、短い序曲に「登場人物たちの揺れすぎる心」とともに盛り込んでいます。同じ手が生活費の借金を懇願する手紙を書きまくっていた34歳にして最晩年、人間なんてそんなもんかもしれないけれど、いったい何がまずかったのでしょう。私たちだってそんなもんなのに。

■ふたことみこと■

演奏会は、2年半ぶりとなりました。

1999年暮れから話題にのぼるようになっていた新型コロナウイルスの流行は、2000年に入って、その蔓延への懸念から、社会活動が停止する事態に至りました。

2000年6月に予定していた第66回演奏会に向けては、いつもの練習場所だった教会礼拝堂の貸し出しが止まってからも、時には北広島や大麻まで手を広げて場所を探し実現を目指していたのですが、中止となってしまいました。そして、指揮者・協演者・プログラミングといった企画の全てが白紙に戻されました。

 ハイドンは幅広いお得意様を持つだけでなく有力貴族にも雇用されていて、生活基盤や音楽環境は安定していました。長期の休みをもらってロンドンで興行したハイドンは帰途(1792年初夏)、ボンでくすぶっていた21歳を紹介され「ウィーンに来るなら教える」と約束します。その一言で地元の支援が集まりベートーベンはウィーンに出てきますが、ハイドンは次のロンドン出張がすでに決まっていて、そこで披露する交響曲などの作り溜め中でした。

 そのシリーズ一発目が交響曲第99番(1793年)です。対象はそれなりに耳が肥えていますから、毎度の期待に応えた上でさらに何か趣向を凝らさなくてはいけません。聴き手が無意識に抱く予想を裏切り、転調の飛躍、ハプニング、フレーズの字余りなどで振り回します。観光客をわざと道に迷わせ散々不安を味わわせてから種明かしをするガイドという感じですが、客もそのスリルが楽しみなのです。人気作曲家、演奏家、プロデューサーにしてヘビートラベラーのハイドンが、弟子の提出した課題をちゃんと見ていなかったのも無理はありません。課題をちゃんと見てもらえなかったベートーベンが8年後(1800年‐すでに聴覚違和を自覚)に発表した交響曲第1番は、両端楽章における正体がつかめない始まり方、最速3倍(従来比)で演奏されメヌエットとしては絶対に踊れない第3楽章など、趣向というより挑戦的な大論文です。当時の聴衆は仕込まれたモーツァルトやハイドンの後ろ姿にすぐ気づいたでしょうが、困惑も多かったはずです。ベートーベンは種明かしをしません。

■ふたことみこと■

人が集まることが許されるようになってようやく練習を再開し、演奏会を開ける見通しが立って改めて組み直したのが、いつもならあるはずの協奏曲が入っていない、このプログラムでした。でもメンバーの中には仕事上の理由などから参加を見送る人もいて、まだ恐る恐るの再開ではありました。

練習場所も、ちえりあをメインにしつつ、ほかの会場も手当てしながらの日々でした。それでも札幌市内で確保できるようになったことだけでもありがたいことでした。

 ところで、ベートーベンの楽譜は多くに「誰それに献呈」とあります。献呈先とは通常、敬意または「スポンサー」であることを示し、交響曲第1番の場合は9年前にモーツァルトの葬儀代(最安グレード)を立て替えたような貴族(男爵)ですから、やはり名誉です。

 いっぽう、曲名に人名を付すというのは現代の「命名権(〇〇ドームとか)」に通じます。どうやら「一方的に献呈」のパターンもあるようで、名指しされた人は世間体から「ふさわしい対応」をしないわけにいきません。それを見越したネガティブオプション方式についてベートーベン自身は「俺の音楽はずっと残る。貴族など名前だけでありがたいと思え」とか「楽譜だけ提出すれば金と引き換わる役所があればいいのにな」と語っていたそうです。

 作品だけであんなにエネルギーを注ぎ、遠くは英国の出版社にまで売り込み、支援者に配慮しながら演奏会を企画し予約を募り、奏者を手配し、パート譜を校正し、支出に目を配りながらリハーサルと本番の指揮を不自由な耳でこなし、これで疲れないわけがありません。没後15年、その実情を直に知っていた演奏家たちが「作曲家と聴衆のため演奏に専念する組織」の必要性を訴え、旗揚げした独立団体がウィーン・フィルハーモニーですが、これがほぼ最古にして今も最新のオーケストラ運営モデルになっているわけです。

 かつて私たちの練習で、当時の指揮者がこうつぶやきました。

「細かいところまできちんと練習すると、作曲家~そこではモーツァルト~がご褒美をくれる…」

きょうの3人がウィーンで同時に活動した期間は実質ゼロでした。3人は髪型が違い「ご褒美」(くれるかな)も種類が違いそうです。それでも共通して漂うものが都市文化でしょうか。ウィーンの老舗飲食店は当時から変わらず営業、最近の街頭カメラには「最近あの国から移住」らしき人々が生活者として多く映ります。「歴史の明暗、表裏」「ウィーン的ユルさ」などを飲み込んだ現行政(市=州、連邦政府とは別)が「共生と多様性」の優先順位を譲らないのは、「だけど、人間なんてそんなもん、だからさ…」という独特の誇りかもしれません。

 きょうの演奏会はかつてのご案内から日時、共演者などいろいろ変更しています。この間就任した新代表にとって実に大変な仕事でした。でも羊毛カツラとクシャクシャの枠組みだけはそのままです。964日ぶり、「ご褒美」がもらえたら山分けしましょう。

■ふたことみこと■

オーケストラ全体での練習を控えていた間には、アンサンブルでの集まりが設けられました。ちえりあのスタジオを、弦楽器と管楽器で時間を分けて使いながらの取り組みです。

管楽器セクションではモーツァルトのセレナーデ(八重奏曲)を練習しました。取り組んだ中には、弦楽器と一緒になっての、バッハ「シャコンヌ」の編曲ものもありました。通常のオーケストラ活動の中では取り組みにくい編成のものでしたが、その練習風景をいま振り返ると団の創立を控えた40年前の「前シンフォニエッタ期」時代になぞらえることができるかもしれないと考えたのですが、当時の人数はもっと少ないものでしたから、これでも十分に「豊かになった」と感じさせてもらえる光景だったのでした。