東向山 理正院

理正院縁起

大同二年に空海上人が四国巡錫の折、伊予国司であった越智宿禰實勝と相談のうえ、堂宇を建立して大日如来坐像を本尊に祀り、山号を東向山理正院有喜寺と定めました。

そして時代は下り鎌倉時代前夜の文治三年、伊予の豪族であった河野通信と通俊の親子が境内に金毘羅大権現の堂宇を建立し、一族平安の祈願処としました。

また、江戸時代には松山城(金亀城)主の加藤嘉明が、それまでに焼失していた山門等を再建しました。

武士豪族にとどまらず民衆からも信仰が篤く、春秋の金毘羅大祭は「お十日」として大いに賑わったと伝わっています。