2006年5月、当時ドイツのハンブルグ大学に留学中だった前代表・永園充氏から寄せられたメッセージです。
ラジカルズの思い出
ドイツ・ハンブルク大学・実験物理学研究所
永園 充
「グーテンタッグ」
私は、FIFAワールドカップドイツ大会の会場の1つであるハンブルクスタジアムに隣接する(居室からスタジアムの歓声が聞こえる)、ドイツ・電子シンクロトロン研究所(DESY)で働いています。現在、私が海外に飛び出た理由の1つに、ラジカルズで出合った人々の影響があります。そんな私のラジカルズの思い出を書き記したいと思います。
私が岡崎研究機構(現:自然科学研究機構))・分子科学研究所に、研究系技官として赴任したのが、かれこれ13年前、ちょうどJリーグが始まった年でした。 小学時代の私は、野球少年だったこともあり、赴任するまでは、サッカーはほとんどプレイしたことがなかったです。 赴任してまもなくして、同じ研究系で、総研大生として1年前から分子研で研究していて、当時のラジカルズのキャプテンだった、河野光彦君を知り合いになり、Jリーグの影響もあったことで、ラジカルズでサッカーを始めることになりました。
そのときラジカルズは、人数が少ないために、岡崎市民リーグには参加はしていなく、毎週日曜日の午後に、山手ロッジ前グランド(現:岡崎統合バイオサイエンスセンター所在地)でミニゲームと、現在でも続いている静岡県三島市にある遺伝子学研究所との春と夏の定期戦だけでした。
その後、キャプテン河野君が、積極的に勧誘して、なんとか試合ができる人数を集めることができ、その秋から、岡崎リーグ(一番下位の4部)に新生ラジカルズとして再参加しました。その初参加したリーグの戦績は、素人の私が試合に出場していたにもかかわらず、10チーム中1位、それも失点1という好成績でした。 この好成績であった要因は、なんといっても、セミプロ級のDF福重さんとGK小嵜さんの活躍以外のなにものでもなかったでしょう。優勝したときももちろんですが、ほとんど毎週、練習後にみんなで開いた飲み会は、今でもほんと楽しい思い出になっています。
その時のチームメンバーは、以下のとおりです。
FW 真野(トヨタ自動車)、河合(高校生)
MF 河野(分子研)、長澤(分子研)、永園(分子研)、飯尾(基生研)、藤田(高校生)
DF 福重(豊技大)、児玉(分子研)、近藤(愛知県)、荒川(荒川園)、西田(基生研)
GK 小嵜(分子研)
マネジャー、神林(分子研)、谷口(分子研・秘書)
しかし、若手研究者・学生が主なラジカルズの新陳代謝は早く、そんな活躍する選手も春になると新しい研究環境へと移っていきます。 その新生ラジカルズの主要メンバーのほとんどは、その新しい研究環境として、海外を選んでいました。 私が分子研で6年間過ごしたあと、スウェーデンへ現在海外したのも、その彼らの高いバイタリティーに影響されたのは確かです。
現在、ラジカルズは岡崎市民リーグ1部に復帰されているとのこと*。 ラジカルズの快進撃の朗報がラジカルズホームページで伝わるたびに、昔ラジカルズに在籍したメンバーとして嬉しく感じております。 今後もラジカルズが、若手研究者と地域の若者と良い交流の場となり、すばらしいチームであり続けることを、遠くドイツから祈っております。
*歴史的には創部当時には市民リーグ(1部または2部)に参加しており、創部当時の主要メンバー(阿形清、馬場正明、長嶋雲兵など)が転任して岡崎が離れたことにより、メンバーも11人集まらないために、リーグから撤退していました。