HISTORY[陶華の歴史]
HISTORY[陶華の歴史]
HISTORY[ヒストリー/歴史]
昭和47年、ノベルティ(陶磁器製の置き物人形)産業を営む家業から
祖父が独立し「陶華」を開業してから今年で50年。
独立のきっかけとなったのは、商談相手の海外のバイヤーから持ち込まれた
一つの小さな浮き彫りの焼き物でした。
うちの技術を使えばもっと繊細で日本人に合ったものが作れるのではないか、
祖父は家業の傍ら工場の奥でひっそりと研究を始めました。
全国有数の陶磁器産地である瀬戸でさえ、誰も完成させたことがないものを
手探りで土や温度、小さな道具に至るまで試行錯誤を繰り返しました。
本来は洋食器に使われる原料を使い手の平におさまるほど小さな陶磁器に
浮き彫りを施すことなど不可能にも思えました。
しかし祖父は確信していました、培った技術と開発した土はどこにも負けないと。
家族はそれぞれに手先を活かした焼き物の花を作りながら祖父の研究を支え続け
ようやく、陶華のカメオは完成しました。
精巧さが求められるアクセサリーで、私たちのカメオのように髪の一本一本まで繊細で、
肌に吸い付くように滑らかな手触りの美しいカメオは他のどこにもありません。
当時、地元紙の取材に祖父はこう答えています
「集中すれば小さいものもだんだん大きく見えてくる。急ぐと失敗する。」
しくじっては壊しを繰り返したどり着いた陶華のカメオ。人はまねをしたがる、という記者の問いに
「まねをされてもそれ以上のものを作ろうとする。それがいいものを生む」と気にしませんでした。
二代目の父は、まるで一つ一つに魂を吹き込むように大切に作り続けています。
昨日より今日、今日より明日。もっと良いものを。
そこには変わらない思いがあります。
身につける人がただ単に高い有名なアクサセリーをつけるのではなく、
その人の良さが引き立つようなアクセサリーでありたい。
人に喜びと誇りを与え、その人が持つ魅力が増すことを願って作られた陶華のカメオ。
あなたもこれをつけてぜひ感じてみてください。
昭和の戦前・戦後の時代に、ノベルティ産業を営む実家から祖父が「陶華」を独立開業。
細やかな手先から生み出された陶器の花「陶花」を祖母は装飾品へと。
祖父の研究を家族全員で支え続け、ようやく陶華のカメオは完成しました。
「集中すれば小さいものもだんだん大きく見えてくる。急ぐと失敗する。」
しくじっては壊しを繰り返したどり着いた陶華のカメオ。
人はまねをしたがる、という記者の問いに「まねをされてもそれ以上のものを作ろうとする。それがいいものを生む」と気にしませんでした。
それが陶磁の花とはいささか信じ難かった。まるでドライフラワーだ。もう一つ、陶磁を彫った小さなカフスボタンやブローチなど。陶彫と呼んでいるのが心憎い。じっと見つめるうちに目がちかちかしてきた。鳳凰(ほうおう)や鶴、天駆ける馬。細かい羽先や手足が、なんど首を傾げても理解できぬほどの繊細さで彫られている。しかも鶴や馬たちは長させいぜい1〜2ミリの薄さで焼き上げられスカイブルーやサーモンピンクの陶の台に張り合わされている。手がけているのは瀬戸市東町28、加藤紀元さん(52)一家6人。手作りの大きな表札に筆が流れて「陶華」とある。
代々が窯焼き(陶器作り)の家に生まれたさががあった。人形や鳥の置物に添えられる程度だった花の焼き物に思いを凝らした。額に入れられる陶の花を作り出して十年がたつ。クチナシやサザンカに梅、アザミ。庭先の花や木が先生役だ。
スケッチをして決めるまでに1ヶ月はかかる。「(牛)の骨をどれだけ加えるか、粒子は、熱は。湿気が多いほど仕事がしやすい。乾いていると土はすぐ粘着力をなくす。息をしてるんです。」素焼きをして色をつけてまた焼く。花はいま、奥さんの晃子さん(46)が受け持ち加藤さんは陶彫に打ち込む。
竹のヘラ、張りを研いだ手作りの道具が20本ほど。型抜きした鶴や馬を、ルーペでのぞきながら、さっと彫る。「集中すれば小さなものがだんだん大きく見えてくる。急ぐと失敗する。だからこの仕事、早朝しかできない。」しくじっては壊してたどり着いた現在.人はまねをしたがる。そっと買っていったものの「どうしても作れなかった」といった人もいたとか。「まねされてもそれ以上のものを作ろうとする。それがいいものを生む」と、気にもしていない。仕事場では長男夫妻に2人の娘さんが陶磁のアクセサリーを作っている。誰も干渉しない。個性こそ命と思うからだ。
一つ一つに魂を吹き込むように大切に作り続けています。昨日より今日、今日より明日。もっと良いものを。
身につける人がただ単に高い有名なアクサセリーをつけるのではなく、その人の良さが引き立つようなアクセサリーでありたい。