およそ50年前、1960年代終わりには世界の交通戦争は激しさを増し、日本では
交通事故死者は歩行者を中心に年間1万6千人に達しようとしていた。アメリカ
ではさらに深刻でアメリカの交通事故死者は年間5万人を超え、ベトナム戦争の
米兵戦死者累計より多いと言われていた。
自動車安全について世界レベルで挑戦しようとアメリカ主導のもと、
ESV(実験安全車)開発が進められることになった。
1970年11月、日米政府間で「実験安全車開発に関する覚書」の調印が行なわれ、
日本は小型車クラス(車重2,000lbs)のESV開発に参加することになった。
多くの目標の中に、時速80㎞で壁に衝突したときの乗員の安全、
時速110㎞で急激にハンドルを切った時のクルマの安定性など、
当時では想像もつかない課題があった。
日産グループはESVプロジェクト・チーム(3年間)を結成してこの挑戦を受けることに
決定。富士重工、日産車体、愛知機械、高田工業、関東精機の各社から逸材が
加わり、総勢33名(内女性3名)のESV開発チームが結成された。
3年間に亘る苦難の末、日本政府とアメリカによる公式試験に合格し、
他メーカーにはない4人乗りの今すぐにでも市場に出せるESVを世に
問うことができた。
極限に近い安全性能を追求、達成したことは関係者の自信にもなり、
また世界に日産グループの技術力を示すことができた。その後のクルマの
安全設計に、ここで培われた技術が生きていることは言うまでもない。
また、若い情熱でESV開発にチャレンジした経験は、各人のその後の人生に生きて
いることだろう。これはその時奮闘した各人の回想を纏めたものである。
2019年7月 日産ESV-OB会有志一同
ESV決起大会 1971年10月
若いわれわれはESV開発の成功を誓った!
---開発者思い出の記---
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有志一同:日産ESV開発の初めと終わり
有志一同:日産ESVの構造
綾 紀元:ESV OB会の発足
楠瀬 直仁: 全てが初体験でありその後の自身の仕事を変えたESVへの参画
斎藤 繁:日産ESVは良い出会いのはじまり
下江 秀雄:日産ESV-E2(ブローチ式エネルギー吸収車体)の想い出
鈴木 昇:ESVプロジェクト参加の想い出
立花 幸宏:若き日の思い出、日産ESV
辻村 玄俊:ルーフの上の出っ張りは一体何でしょう
戸川 達夫:開発報告記録の作成(第4回ESV国際会議・京都)とアリゾナへの出張
中沢 恵二:私の自動車開発の始まりは、日産ESV
中村 悦也:貴重な体験だったESV開発・・・安全基準の向上に繋がるという誇り
藤原 靖彦:ESVプロジェクトで得たもの
前田 輝夫 :二度とないこの3年間
松木 政光:懐かしいESVの思い出
渡邉 衡三:ESVに関する後日談的な思い出