生命現象の理解へ向けて - 物理学によるアプローチ
「生命とは何か?」その問いに対する自然科学的アプローチとして生物学は発展してきました。しかし、学問同士の境界、いわゆる学際領域の研究が盛んになるにつれ、生命現象は生物学だけでなく、化学や物理学の対象としても精力的に研究が行われるようになっています。 物理学は「モノがナゼそのように振る舞うのか?」ということを追求する学問といえます。その研究対象となるモノは原子核を構成する素粒子であったり、金属や半導体、水のような液体であったりという違いはありますが、基本的な考え方は同じです。極端な例で言うと、交通渋滞や経済といったものもモノの集合と見なすことで、ナゼそれが起きているのか?ということを追求することができます。ですから、生命現象のナゼ?を物理学の立場から研究されるようになったのも自然な流れといえるでしょう。
しかし、残念ながら実際の生物は複雑すぎるため、そのままの形では物理として扱うことは困難です。そこで、生物を模倣するような様々なモデル系が考案され、生命現象のナゼ?を解き明かそうと物理学者は日々研究を行っています。その中でも、私が興味を持って研究しているのは細胞やその小器官の境界となる「生体膜」を模倣した系です。生体膜のベースとなるのはリン脂質と呼ばれるセッケンによく似た分子で、水中で自発的に「脂質二重膜」と呼ばれる膜を形成し、さらには「ベシクル」と呼ばれる小胞を形成します。このベシクルは実際の細胞のモデルとして盛んに研究が行われており、ナゼこのような構造が自発的に形成されるのか?といった研究から、実際にタンパク質などの生体分子と組み合わせる、といった幅広い研究が行われています。
ここでは、私が大学院生~ポスドクの頃に取り組んできた研究について簡単に紹介します。
静電斥力と波状運動に起因するunbinding
先ほど紹介したリン脂質によるベシクルは細胞のモデルとしてしばしば用いられますが、残念ながらベシクルを形成する脂質二重膜の殻が単層ではない、等の問題もあります。これは脂質二重膜の間に強い引力(van der Waals相互作用)が働いているためで、これに打ち勝つような斥力を与えないと生体膜のように単層膜のベシクルは作成できません。 一方、代表的なリン脂質であるDPPCを使った脂質二重膜にCaCl2を添加すると、膜にCa2+イオンが吸着し、静電的な反発力によって膜間距離が変化するという現象が知られています。また、脂質膜は柔らかいため水中でうねうねとした波状運動が起き、これが隣接する膜とぶつかることで斥力が生じることも知られています(いわゆるHelfrich斥力)。
私は、X線小角散乱や中性子小角散乱という実験手法を用いてこの膜間距離の変化を調べると共に、中性子スピンエコー法という方法で膜の波状運動の観察を行いました。これらの実験結果を簡単な理論的考察と比較したところ、あまり遠距離まで働かない静電的な斥力と近距離ではあまり強くないが遠距離まで働くHelfrich斥力が協同することにより、膜間距離が無限遠まで離れる"unbinding"と呼ばれる現象が起きることが明らかになりました。後でも述べますが、このunbindingは単層膜のベシクルを効率的に作成する上で重要な役割を果たしていて、この研究により解明されたそのメカニズムは理想的なモデル系を作成する上で重要な知見であるといえます。
閉じこめによる両親媒性分子膜の波状運動の抑制
先ほど紹介したように、膜の波状運動は膜間に働く相互作用に非常に大きな影響を与えています。この波状運動は膜が柔らかくなるほど激しくなるのですが、実験を繰り返すうちに膜間距離によっても波状運動の激しさが変化していることがわかってきました。 そこで私はリン脂質と同じ両親媒性分子である非イオン性界面活性剤C12E5が水中で作る二重膜について、波状運動の膜間距離依存性を中性子スピンエコー法で調べました(C12E5を用いたのは、容易に膜間距離を変化させることができるためで、本質的には脂質膜を用いた場合も同じことが起きていると考えられます)。その結果、波状運動は隣接する膜による閉じ込めの効果(水の流れの変化や相互作用による影響)を受けるため、膜間距離が狭まるにつれて波状運動は抑制されていることが明らかになりました。このような膜の波状運動の振る舞いを詳しく理解することは膜間に働くHelfrich斥力の効果を明らかにする上で重要なことであるといえます。
中性子スピンエコー分光器iNSEの整備・改良
これまで述べてきた研究では中性子スピンエコー法という実験手法を使って膜の波状運動を観察してきました。この実験手法は中性子散乱の中でも非常にユニークな実験手法で、中性子がもつ磁石としての性質を利用して磁場中でラーモア歳差運動を起こし、これを計測することによって、様々な物質の集団的なダイナミクスを高い分解能で観測することができます。しかし、中性子のラーモア歳差運動を制御することは非常に難しく、世界で10台以下、日本では今のところ1台しか定常的に動いている装置はありません。 私が学生時代に師事していた広島大学の武田隆義教授(2007年3月退官)は日本で唯一の中性子スピンエコー分光器であるiNSE(旧名:ISSP-NSE)の開発を行ってきました。その一環として、私はデータ集積、およびデータ解析ソフトウェアの整備を行うと共に、中性子の制御に欠かせないスピンフリッパーを白色対応した"current sheet"の開発や、大面積の検出器における測定効率を向上させるための解析手法の提案等を行ってきました。
これらの改良により、現在のiNSEは世界の他の装置に匹敵する性能をもつ装置へと進化を遂げています。
浸透圧によるunbindingと単層膜ベシクルの効率的作成
リン脂質のベシクルをモデル細胞として取り扱うためには数μm以上で単層膜のものを効率よく作成することが重要です。しばしば用いられる簡便な方法として、リン脂質を溶かした有機溶媒を試験管内で乾燥させて薄膜を作り、それを水で溶かす静置水和方と呼ばれる方法がよく用いられます。この方法で巨大なベシクルは効率よく作成できますが、残念ながら多層膜のベシクルが多く形成されてしまいます。このような問題を解決するためにこれまでにもいくつかの方法が提案されていて、共同研究者の湊元幹太氏(三重大学講師)は有機溶媒に塩や糖といった添加剤をあらかじめ溶かしておくと巨大、かつ単層膜のベシクルができやすいことを明らかにしました。しかし、残念ながらなぜ単層膜が形成されやすくなったのか、そのメカニズムはわかっていませんでした。 そこで、私は添加剤の量、および添加の方法によってベシクルの構造がどのように変化するのかを、X線小角散乱によるミクロ構造観測と位相差顕微鏡を用いたマクロ構造観測により調べました。その結果、湊元氏が示した「脂質/添加塩混合薄膜」を「純水」で水和した試料では巨大な単層膜ベシクルが形成される一方、「純粋な脂質薄膜」を「添加塩水溶液」で水和した試料では通常の方法で作った場合とほとんど同じ多層膜のベシクルが形成されることが明らかになりました。また、添加塩の量を変化させると、ある閾値を境に単層膜のベシクルが形成されやすくなることもわかりました。この実験結果に簡単な理論的考察を加えたところ、前述の"unbinding"と呼ばれる現象が脂質/添加塩混合薄膜の内部で強力な浸透圧(水を吸おうとする力)によって引き起こされること、そしてこのunbindingが単層膜ベシクルの形成が促進していることが明らかになりました。浸透圧は添加する物質の種類によらず一般的に起こる現象であるため、この方法は幅広い状況に適用できる理想的な単層膜ベシクル作成法であると期待できます。
シリコン基板上の乾燥脂質薄膜
前述の単層膜ベシクル作成法に関する研究から、脂質/添加塩混合薄膜という初期状態が重要な役割を果たしていることがわかりました。しかし、その脂質に添加塩を混ぜるとどのような構造になるのかを観測した報告はありませんでした。そこで、先ほど明らかにした脂質/添加塩混合薄膜からのベシクル形成についてもう少し詳しく調べるために、シリコン基板の表面に作成した脂質の薄膜について、中性子反射率計を用いたミクロスケールの積層構造観察を行いました。 実験の結果、添加塩(NaI;ヨウ化ナトリウム)を加えない脂質のみの薄膜が基盤に平行に脂質二重膜が数層積層するのに対し、添加塩を加えると脂質二重膜の密度が薄くなると同時に添加塩が膜の間に主に充填されることが明らかになりました。また、このとき温度を上昇されると、脂質のみの薄膜ではリン脂質の炭化水素鎖が溶けて流動性が高まる"ゲル-液晶転移"が起きたのに対し、添加塩を混合した薄膜では向かい合う脂質が互いに入り組んだ"interdigitated相"(指組み相)と呼ばれる相が形成されることが明らかになりました。なぜこのような違いが出るのかはについては今後の課題ですが、今のところ添加塩を加えた際に脂質二重膜の密度が薄くなったことで向かい合う脂質同士が入れ組みやすい状態になったのではないかと考えています。
ベシクル表面におけるナノポアの形成と温度履歴現象
前述の静置水和法をは巨大なベシクルを効率よく形成するのに優れた手法ですが、大きさが不均一なだけでなく、球やチューブ状など様々な形状のベシクルが形成されるという問題があります。一方、炭化水素鎖の長さが極端に異なる2種類のリン脂質を混合した長鎖/短鎖リン脂質混合系(リン脂質混合系)では、低温で自発的に形成される小さな平板が温度の上昇に伴って融合し、水が少ない条件下では直径数nmの細孔(ナノポア)を有する積層膜が、水が多い条件下では直径が数十~数百nmと小さいながらも均質な単層膜ベシクルが形成されます。これらの構造は水の量や脂質の混合比である程度制御できるため、適切な条件を見つけることによって、均一で巨大な単層膜ベシクルという理想的なモデル系を容易に作成できる可能性を秘めています。 そこで私はリン脂質混合系を用いた理想的なモデル細胞の構築を目指し、水の量に対する単層膜ベシクルの構造変化を中性子小角散乱を用いて調べることにしました。その結果、単層膜ベシクルの中でも水の量が比較的少ない場合は温度を下げると元の平板に戻るのに対し、水の量を増やしていくとベシクルから巨大な平板へ、さらに水の量を増やすとベシクルがそのまま維持されることがわかりました。また、水が少ない条件下で形成される積層膜がナノポアを有していることから、ベシクルのイオン透過性を蛍光分光を用いて調べたところ、水の量が少ない場合はベシクル表面にナノポアが形成されるのに対し、水を増やしていくとナノポアが減少していき、最終的にはナノポアを持たないベシクルが形成されることが明らかになりました。ナノポアの縁と平板の縁は共に短鎖リン脂質からなっていること、そしてこのナノポア形成と先ほど述べた温度に対する履歴はうまく対応していることから、ベシクル表面でのナノポアの数が温度を下げた際の平板形成に深く関わっているといえます。
実際の生体膜も表面にナノポアを有していて、脂質二重膜を透過できない物質を輸送するために重要な役割を果たしています。従って、リン脂質混合系がつくるナノポアベシクルは通常のベシクルから一歩踏み込んだ、生体内におけるナノポアの役割を調べるのに適したモデル系構築に応用できる可能性を秘めているといえるでしょう。