蚯蚓線引

 この都市は谷底にあるから、寒くなると青黒いミミズの群れで満たされる。道という道、通路という通路が蠢く深い青であふれかえり、私たちは必然的に家の中に閉じ込められてしまう。 マンション四階の自室から地上を見下ろしても、出歩く住人は誰もいない。代わりに陰鬱とした流体が街を埋め尽くしている。陽が照れば玉虫色を帯びることもあるが、谷底では稀有なことだった。枕元の液晶画面でミミズホイホイの確認をすると、二体が罠にかかっていた。歯を磨いて、ちょっと豪華に輸入物の鰯缶を使った朝食をとる。文化的な食事はしばらくお預けかと残念に思いつつ、寝間着を洗濯機に放り込んで、背中にスリットの入ったネル生地のワンピースに着替えた。 ベッド下からケーブルを引っ張りだして、三つの端子に破損がないことを確認する。四日くらいは戻ってこないつもりだから、栄養剤の点滴を腕の静脈に繋いでおく。あとは生体センサーが健康状態を管理してくれる。 ビーンズ型の枕を抱えてベッドに横たわる。起きたばかりなのに就寝。後ろ手で三つの端子をスリットから忍び込ませ、背骨の受口に挿入する。つるつるとした丸い端子は一番上、六角形の端子は真ん中、細い端子は一番下だ。液晶画面にずらずらと並ぶ注意事項の表示を読み飛ばし、同意しますにチェックを入れて、開始のボタンをタップする。肌の感覚を研ぎ澄ませ、寝具のやや毛羽だった質感から顕微鏡で覗いた繊維の絡まりを、じっと頭に思い浮かべる。 コットンの繊維たちがぷつぷつと切れ、意識もぷつぷつ切れはじめる。そして、再度ひと繋がりになる。細長い管のようなところを吸い上げられていく。一度開けた空間に出たところで、地面にぺたっと張りつく。あとは息を殺してじっとしていなければならない。青黒い影が近づいてくるのを感じる。あと少しで触れそうなところで、大きく頭を振ってするりと離れてしまう。異物だと気づかれたのかもしれない。心を無にする。考えない、考えない。また青黒い影が近づいてくる。さっきより明るい色をしている。別の個体だ。頭部がもそもそと近づいてくる。落ち葉の破片や土と一緒に、もそもその口に食べられる。 カシャンと罠が開く音がして、晴れてミミズたちはホイホイから解放された。同時に私も街への外出が許される。 出るか出まいか二匹が議論する。出まい、ここは暖かい。出よう、ここは温すぎる。数分間の言い争いを経て、私を食べた彼の方が痺れを切らして外に出た。結局、後ろから濃い色の彼もついてきたらしい。アスファルトの上をするすると滑り、側溝に被せられた蓋の格子状の穴から暗がりへ落ちる。 途端に騒々しい。もしょもしょ、こしょしょと数十匹が喋っている。ノイローゼになりそうな囁きの束をくぐって、私を食べた彼は前進する。乗り物酔いしそう。  もう少しゆっくりにしてよ。 いーやーだ。 ねえ、あとどれくらいで谷を出るの? もっと地面が蒸し上がってから。 それはいつなの? 誰かが土蒸すぞって吹聴しはじめた後。 土、蒸す?  微生物臭くなるんだって。俺にはわからないよ。  彼は私を消化しながら、いっそう激しく身をくねらせた。私はだんだん体内の奥へ奥へと促される。人間の意識が乗っていると、ミミズたちにとってはむず痒いらしい。  ねえ、誰にきいたら土蒸すってわかる?  知らないよ。噂が流れてくるだけだから。 ふうん、貴方には何もわからないのね。  私がそう吐き捨てると、彼は背孔の方に私を追いやって粘液と一緒に噴射した。ミミズの体外に放られてしまい、慌てて群れにへばりつく。早く私を食べてくれと願いながら、別の個体に吸収されるのを待つ。 風に煽られて意識が霧散したら、自室に引き戻されるし、ペナルティとして上乗せ分の給金が減ってしまう。ミミズたちは三年に一度は卵で越冬するのだけれど、彼らは去年も街を占拠したから来年は来ない。つまり、この仕事も来年の冬は休業になる。その分の貯金のため、ペナルティは避けたい。 しばらく群れの中を押し流されると、また頭部が近づいてきて、ぱっくりと私を飲んだ。ああ助かったと安堵する。 ねえ貴方、とミミズに話しかけようとしたとき、後ろに誰かの意識を感じた。まさかと思ったが、ミミズの体内で同業者と鉢合わせてしまったらしい。 先客がいたなんて知らなかったのだと謝ったけれど奥にいる意識は無反応だ。私には気づいていると思う。こんなに近くにいてわからないほど、私の意識は淡くない。もう一度、語りかける。  この仕事は何年目? 三年目。 私とおんなじね。学費のため? ううん、ただの、遊び。  奥の意識と話せたことはそれだけだった。彼か彼女かもわからない意識は、そのままずるずると消化されていった。おそらく、糞として排出されたのだろう。 二日ほど、ミミズたちへのヒアリングを続けた。いつ谷底を出るのか、土蒸すのはいつか、誰が気づくのか、明確な答えをくれたミミズはいなかったし、滑舌が悪くもしょもしょ囁くだけのミミズも多かった。それに、出身をきいても、ふかふかの場所とか、水っぽい場所としか教えてくれなかった。 ちょうど意識になって三日経った頃、私はミミズの消化管のちょうど真ん中あたりで詰まってしまった。自意識が大きく育ち過ぎてしまったらしい。ミミズは苦しげに悶え、私は窮屈さに辟易する。もう、このまま、膨らんでいくほかなかった。 私の意識は肥大する。私は、私が、私こそが。ミミズの胴体を膨らませている。張り詰めた表皮がつうっと裂ける。ぬちぬちと肉を割って私の意識は起き上がった。辺りのミミズたちが怖ろしや怖ろしやと渦になる。十匹、百匹、いや千匹のぬらぬらと青いシーボルトミミズの塊が蠢いて、そして大きく膨らんでいく私の意識の影から逃れるように四散した。私は、私が、私こそが、唯一無二の私だけが、呆気なく破裂してしまった。  端子をぶちぶちぶちっと引き抜いた。ついでに、静脈注射も外しておく。干上がった喉のために、冷蔵庫から野菜ジュースを持ってくる。髪や肌のべたつきに、ミミズの体内にいた感覚がよみがえる。内側から生き物を破壊した生々しい記憶を落ち着かせ、枕元の液晶画面に目を落とした。この都市の地図に、私が移動した線が表示されている。 確認ボタンをタップして、次はミミズたちに聞いたことを四百字程度で記入する。彼らの出身や、好物や、土の中の微生物のことを書いた。 また、確認ボタン。今度は都市の白地図に青く、ミミズ前線を引く。長い曲線に短い無数の曲線の飾りがついた不格好な線だけれど、これがミミズの様子を伝えるのに丁度いいらしい。誰かえらい学者が開発した線だと、正規雇用の役人が言っていた。 未だ、ミミズ前線は停滞中。土蒸すのは随分と先だろう。まだまだ、青黒い客人は谷底に居座るつもりらしい。