艀の子

きみは海に生まれ、波を受け揺れる船の上で育った。ずっと昔、油が浮かび赤潮で小魚たちのの死んだ海よりも、いくぶんも綺麗になったこの海で、きみは育った。確かに、きみには海が似合う。水面に輝くさらさらの光の粒子が、きみには似合う。きみはこの地に魅入られたから。だけれど、きみはかつての小魚や海鳥たちのように、誰かの犠牲になる必要はない。ふたつの産業が栄え、膨大な人口を抱えたこの地にとって、きみはたかが一人の人間に過ぎない。大洋のうちの、一匹の魚に過ぎない。きみにかけられた網は、外すことができる。嗚呼、海原。青海原。きみは、思うままに――。 生徒たちが教室から散っていく。今しがた空調の切れたばかりの室内は涼しく、若人たちのにおいが充満している。外気はじとり汗ばむほどではあるが、生徒たちの活力は衰えない。午後四時半には完全下校になって、彼らは塾に習い事にあるいは地域のスポーツクラブに精を出す。公立校の部活動が廃止になって以降、教職員も五時には帰路につくことができるようになった。鈴子はプロジェクターの電源を切って、教室前方のホワイトボードを消した。トートバックに荷物をまとめて教室を出ようとしたとき、まだひとり生徒が残っていることに気づいた。海崎ミナモという女子生徒だ。ふた昔前のように、レイヤーを作らず肩より上で切りそろえた髪型。同じように前髪は眉上で断たれ、化粧っ気の無い肌は、まだ初夏なのに小麦に焼けている。「もう、教室閉まっちゃうよ」声をかければ、彼女は魚眼レンズのような瞳をこちらに向けた。眼窩から零れ落ちそうなそれが、鈴子は少し苦手だった。「艀の場所が分からなくて……」ミナモはタブレット端末の上に視線を落として、液晶をひと撫でした。「ちょっと見てもいい?」「あ、はい」端末を借りて画面を見れば、地図上に赤文字で〈Not Found〉と表示されていた。最後に位置情報が発信された時間を確認する。今日の午前十時三十二分と書いてあった。「GPS、切れてるのかもしれないね」「ですかね……」ガラス張りの壁面に映った低層ビル群、その向こうに並んだ白煙を吐き出す幾本もの煙突、高炉たち。かつて国の殖産興業に寄与し、現在も周辺地域の産業の中心を担う製鉄所だ。あの近くに彼女が帰るべき艀船があるはずだ。校内放送のスピーカーから音楽が流れ始めた。完全下校の五分前である。「これ、好きなんです」おおよそスピーカーの辺りを指してミナモが言った。「遠き山に日は落ちて?」「ですね。ドヴォルザークの交響曲第九番、新世界より第二楽章」「よく知ってるのね。歌詞より曲が好き?」「西に山が無いからって言うと変な話なんですけど、歌詞よりも曲が好き」言ってから語尾の敬語を忘れたことに気付いたらしく、ミナモは少し慌てた素振りを見せた。気にしないで、と笑って返す。高速道路の高架が皿倉山の全貌を隠していた。もしも皿倉に日が落ちたなら、彼女は歌詞も好んだのだろうか。「親御さんと連絡とれる?」「いえ、父も母も電子機器を持たないので……」そんな時代錯誤があるものだろうか。通信機器を持っていなければ日常生活に支障があるはずだ。現に、彼女は帰る場所が分からないでいる。鈴子はミナモを連れて職員室に行くことにした。市役所や製鉄会社に艀船を探してもらって、それでも見つからなかったら学生寮の一室を借りればいい。「すみません、ご迷惑おかけして」「いいのよ」蒸し暑いミラーハウスのような廊下を歩いて、職員室に至る。数年前の市内公立校統廃合の折に、この学校の全ての校舎は建て替えられた。設計を一体どこに依頼したか知らないけれど、あまりに開放的過ぎて鈴子は未だに違和感を拭いきれずにいる。それに空調の効かない廊下は直射日光がそのまま差し込むから、夏場は暑くて仕方ない。職員室までの道すがら、薄緑がかったガラスの表面が気になった。学生たちの指紋の跡が目立つ。ガラス壁の清掃に業者が入るのは今週末だったか。新聞紙で窓を磨いていたのは、今は昔の風景だ。透明の職員室には、珍しく数人の生徒が残っていた。彼らの纏う雰囲気を見て、皆ミナモと同じ状況なのだろうと推測できた。スライド式のドアを開けて室内に入る。学年主任に「先生、あと海崎も」と手招きされた。「〈Not Found〉ですか」「というと、彼らも?」会議スペースに集められた生徒たちのことだ。遠慮がちに声を顰めて喋っているらしいが、彼らの声はよく通る。その理由は、騒音の大きい製鉄所の間近で育つからだとも、遠くの船に呼びかけるからだとも聞いたことがある。おそらく、どちらも正解だろう。「ああ。システムの問題だろうってことで事務が市に問い合わせたけども、復旧は明日以降だそうだ。今度は製鉄会社の方に問い合わせているよ」艀船の管理を、自治体と製鉄会社は全く異なる方法で行っている。市がGPSを使って位置情報を把握し、製鉄会社は電子タグを使って荷の積み下ろしを管理しているのだ。今回は市のシステムが動作不良を起こしれしまったために、製鉄会社が持っている明日の荷の積載場所の情報から現在の艀船の位置を割り出すらしい。「海崎さん、あっちでしばらく待機で大丈夫?」「大丈夫です」「まあ、ゆっくりしてて」会議スペースの男子生徒がひとり、ミナモに気付いて「よう」と言った。彼女は一瞬ぴくりと肩を動かしただけで挨拶を返すことは無かった。年頃の異性間にありがちな微妙な空気感だけれども、それとは別の何かがある気もした。五分刈りの彼とミナモが席ふたつ空けて座るのを見届けて、鈴子は自分のデスクについた。ラック上に並んだ多肉植物たちに迎えられる。ただいま、と心の中で呟いてタブレットPCを開く。電源を入れてホーム画面まで僅か五秒。すぐに〈新着の資料があります〉との通知が来た。同じものが届いたらしく、学年主任が「おっ」と声を上げる。資料の送り主は事務部で、製鉄会社が作成した今日の最終荷下ろし場所と明日の荷揚げ場所のリストが転送されてきたものだった。学年主任がタブレットの本体だけを取り外して、会議スペースに向かって行った。艀船の生徒たちを担任している教諭たちも同じように集まった。鈴子も半ば無理矢理にキーボードと本体とを引き剥がして、ミナモの元へ。「今日は午後四時くらいに八幡で鉱石を下ろしていて、明日は小倉で積むみたい」「それなら、まだ八幡にいるはずです」左手首内側の腕時計を見れば、もう終業時間が迫っていた。「生徒昇降口、開けてもらってるみたいだから。気を付けて帰ってね」「ありがとうございました。帰ります」「はい、また来週」ミナモは深めのお辞儀をして、鞄を肩に掛けて去って行った。担任と話しながらも彼女が職員室を出て行くのを、男子生徒がちらちらと見ている。焦りはじめた彼と目が合って、不覚にも笑ってしまった。担任に解放された彼は、ミナモに追いつこうと駆け出した。「商店街通って帰るんやろ」「おつかい頼まれとるけ」水上町の住人らしい、北九州訛りの強い会話だった。彼らの声は、軽い足音と共にフェードアウトしていった。 「すみません、豚こま二百グラム」牛豚鶏のずらり並んだガラスケースの向こうに呼びかけたなら、店員が売り物の腸詰と見まがう指を二本立て「二百?」と聞き返した。「そう、二百です。豚細切れ」少し大仰に頷きながら念押しする。「はいはい、一九六円ね」店員は秤の上に竹の皮を乗せ、針を正午に合わせて、ところどころ白い筋の入った赤身肉を置いていった。針が二百を少し過ぎたあたりで、豚肉は包み隠され赤い輪ゴムをかけられ、半透明のビニール袋に収まって、ミナモの手元にやってきた。ミナモの斜め後ろに佇んだ洋介が訊く。「何作るん?」「母さんが、炒めてっち言いよった気がするけん、たぶん野菜炒め」首だけで振り返って答えた。ぱっくり開いた小銭入れの口腔から二百と六円を摘み上げ、店員に渡す。ガラスケースの向こうで硬貨がちゃりんと鳴った。「野菜は?」「ありあわせ……足りんかったらウロさんから買う」彼は興味無さげに「ふーん」と鼻を鳴らす。店員から銅貨を貰い、それを小銭入れにしまって、スカートのポケットに入れた。「おいちゃん、これふたつ」踵を返そうとしたところで、洋介がコロッケを注文をした。「はい、コロッケ二個。一五〇円」白銀の百円玉と穴の開いた五十円玉の二枚がコロッケが交換される。きつね色の衣を着たコロッケは、さらに上から〈本町精肉店〉と印字された紙を纏って、その白い紙の表面に油の染みをつけていく。「ん」洋介が右手に持った熱を発する食べ物を、ミナモに押し付ける。「なんね」「食わんの」「貰っていいの?」「食えっち言いよるっちゃね」指先に揚げたてを感じながら衣に歯を立てたなら、じゃがいもが香って、牛肉の味が広がった。帰路の空腹が埋まっていくのを感じながらコロッケを口いっぱいに頬張る。もごもごと口を動かしながら女店員に会釈をした。「また来てね!」が大声で聞こえる。製鉄所の労働者で賑わう商店街、軒を連ねる飲み屋に彼らは吸い込まれていく。ミナモは、労働者たちの流れに逆らうように製鉄所へと向かう。顔を赤くした男が口ずさむ炭坑節、若い女の呼び声が耳を掠める。どこかの店からは、煮込まれているカレーのにおいが漂ってくる。商店街を抜ければ門に至った。横並びになった自動改札のひとつに、ICカードをかざして通過した。通称の〈WANOC〉はWater Nomad Certificateの略で、即ち水上生活者証明証である。身分証明になる他、各製鉄所への入場が可能になり、さらに市内の公共交通機関を全て無料で利用できる。管理棟や労働者たちが使う共同浴場の横を通って、埠頭に向かう。ずらり並んだ艀船を眺めれば、それは鯱なんかが群れているのに似ていた。ダンブロを空にした艀は軽そうにぷかんと浮かび、ロープで岸に繋がれている。四百トンめいっぱい詰まったときの切迫を手放した艀は、緊張感が無くて好きだった。歩きながら自分の帰る艀を探す。「あれ、お前んとこ」洋介が指した方に、赤い屋根のコンパニを持った艀があった。それは海崎家の艀で、隣に祖父の艀が並んでいた。少し距離をとった隣に、洋介の父と兄の艀もあった。デッキでは妹のシズクがひとりきゃっきゃと遊んでいた。ミナモは声を張り上げる。「たーだーいーまー!」まだ三歳の彼女は、小魚のようにぴちぴちと跳ねた。「おーかーえーりー!」艀まで駆けていき、船尾をコンクリート壁に寄せて飛び乗る。「また明日な」「うん」洋介も同じように艀船に帰っていった。コンパニに入って梯子を降りれば、四畳半の部屋がある。ここが居間であり、寝室でもあった。ミナモ以外の三人、妹と両親はここで寝ている。ミナモも中学に上がる前までは、ここで川の字になって眠っていたが、今は船尾の倉庫を自室のように使っている。室内には廃材で作ったストーブとダンブロに向かって開いた窓の設備があっる。食事はストーブをコンロ代わりにして作り、夏でも飯時になれば、コンパニを突き抜け赤屋根から細く伸びた配管から煙がなびく。窓は荷が無いときだけ開けることができ、採光というよりも換気に使われるのが主だった。室内では母親が炊いたご飯をおひつに移していた。つやつやの米と炊きたてのにおいが食欲をそそる。「ただいま、豚こま買うてきた」振り返った母に、シズクが纏わりつく。「なんかからんで」と言いながらも、母は彼女の頭を撫でてやる。妹の茶色い猫っ毛は触り心地が良い。「外にウロさんおらす?」「たぶん、おらんだら聞こえる距離にはおらす」「ほんなら、キャベツ買うてきて」「行ってくる」「お金足る?」「足るよ」梯子を再び昇って、荷物を倉庫に入れてから、船上で周囲を見渡した。高炉と煙突との隙間に、陽は落ちつつある。ミナモは、動いている伝馬船を一艘見つけて、そちらに叫んだ。「ウーローさーん!」遠くからでも見えるように腕を振ったなら、伝馬船はこちらに気付いたらしく舳先をこちらに向けて近づいてきた。自室から籠を結んだロープを持ってきて、そいつを船べりから垂らす。籠の中には、小銭を入れて。伝馬船は艀にぴったりと寄ってきた。船上には日用品や食料品のあれこれが所狭しと並んでいる。乱雑に置かれているようにも見えるけれど、販売している人たちは自分の船のどこに何があるのかも、どれが何円するのかも、全て記憶しているらしい。薄紫の頭をしたおばあちゃんがロープつきの籠を受け取った。「なん買うね?」「キャベツ一玉」「はいよー」籠にキャベツと釣り銭が乗せられたので、ミナモはロープを引っ張った。「ありがと!」「まいどー」おばあちゃんはオールを漕いで、艀を離れていった。水上移動販売の彼らが、一体どこに帰るのか、ミナモはあまりよく分かっていない。タンクの水でキャベツを洗って、母の元に戻る。葉を四枚取ってざく切りにする。肉も切って母に渡せば、たちまちにストーブの上でウスターソースの野菜炒めが仕上がり、漬け物と味噌汁が添えられて夕食が完成した。ちゃぶ台に全部並べたところで、ちょうど父が梯子を降りてきた。「おかえり。どこ行っとったん?」「おじいちゃんの船」既に還暦を迎えた祖父母はもう艀を手放して、皿倉の麓で小さな家を借りるか、市営住宅に入るかして余生を過ごすらしい。その際の艀船の所有やら、賃貸の契約やらについて父と祖父は最近よく話をしている。今日もおそらく、その話をしに行っていたのだろう。父が胡坐をかいて座り、四人で夕餉を囲む。シズクは父の組まれた足の間に収まった。父は玉ねぎを箸先でつまんで、シズクの口に入れた。「お肉がいーいー」と彼女がねだる。「ミナモは、夏休みになったらおじいちゃんの艀に乗りんさい」唐突に父が言った。見ないように触れないようにしていたものが、無理矢理に癒着した瞼を切開して、いささか乱暴に提示された瞬間だった。「仕事は今までに教えた通りやけ、洋介も乗せて、船の操舵以外は二人でしい」「待って、洋介も?」「次の春からはどうせ一緒になる」父の決めたことには、否と言えなかった。高校卒業後、祖父の艀を譲り受けることも、洋介を婿に迎えることも、シズクが生まれて女の子だと分かった時点で、親たちによって決められた。「艀暮らしは伝統文化」というのが父の口癖で、自分たちは行政から保護されるほどに貴重な文化の継承者であり、水上生活の形態や水上町のコミュニティは後世に残さねばならないのだと、暗に言っていた。「……分かった」夕食の片付けを終えて、四人で銭湯に行った。道中、ミナモは父とも母ともほとんど口を利かなかった。女湯の脱衣所に入るなり、シズクは走り回って、よその人に叱られていた。艀の自分の部屋まで帰って、半乾きの髪のままミナモは布団を敷いて寝転がった。少しの間だけ、カーバイトランプを灯す。燃料は運搬する分から拝借したものだ。艀暮らし――。なぜ、多くの同級生に用意された進学という選択肢が、自分には無いのだろう。どうして、一生を海上に捧げねばならぬのだろう。どうして。紺色のうねりに、ミナモはのまれていった。 進路希望調査の面談期間ということで、夏休みにもかかわらず幾人かの生徒が、保護者を伴って登校していた。鈴子が学生だった頃、授業参観日でも三者面談でも、学校にやってくるのは、おおよそ八割の家庭が母親だった。今では父母が約半々くらいになっている。ロッカー上のモンステラに水差しを傾ける。光沢のある葉は、壁に透けた入道雲によく映える。腕時計を見れば、十四時前五分。もうそろそろ、一組が教室に来る頃だ。「失礼します」ミナモがスライド式のドアを開けた。後ろから顔を覗かせて会釈したのは、ほっそりとした母親だった。ベージュのスカートに紺と白のボーダーシャツといった装いで、飴色をした藤のハンドバックが服に合ってた。化粧はペールオレンジのリップだけ。素朴な感じの人だ。「いつもお世話になっております。海崎ミナモの母です」「いえいえ、こちらこそ。あっ、担任の桜丘と申します。どうぞお座りください」机と椅子を並べ替えて作った臨時の面談スペース。着席を促して、自分も座る。普段からあまり口数の多くないミナモ同様、母親の方も大人しそうな人だった。「今日はですね、進路に関する面談ということで、親御さんをお呼びしました」二人とも固い表情をしている。緊張だけではない、解さねばならぬものがあることを鈴子は悟った。「ミナモさん、事前の希望調査には、就職と答えているけれど」タブレットPCで開いた進路希望調査のデータ、海崎ミナモの回答は就職希望で、職種はその他、自由記述欄は空白だ。「職種、どれが当てはまるかわからなくて……」ミナモは長い睫毛を伏せていた。魚眼レンズの瞳はほとんど見えない。「何の仕事かな?」「父と母と同じ仕事です」「艀船の?」「……はい」視線が合わない。彼女と会話するときはいつも、じっと見つめたまま沈黙するような妙な間があって、そのときの眼はときに表情より多くを語る。しかし今日は、視線が合わない。「進学は、しないの?」ミナモが言葉を詰まらせる。「させないんです」口を開いたのは母親だった。親がミナモの意思決定を阻んでいる、そんな印象を受けた。五年ほど前に親権縮小を定めた法案が制定されて以降、親が子の進路に干渉する家庭が少なくなった感触があるだけに、母親の言葉は前時代的なものとして鮮烈に残った。「ミナモさん、理系科目得意でしょう。教科担当の先生方から聞いてるけど、物理と化学が楽しいって。私、文系だから全然なんだけど」「理科系の科目は、全部好きです。有機化合物の暗記とか、割と楽しくやってます」彼女の瞼は微笑の形を作っていた。「やっぱり、大学行ったら?」鈴子は市立大学のパンフレットを渡した。市内にあるから週末に艀船に帰るのは容易だし、寮に入れば下宿を借りる必要もない。「どう?」「いい、ですね」パンフレットの入った茶封筒を抱えて、ミナモは帰っていった。母親は動揺を隠しきれない様子で、「お父さんには何ち言うか考えとるん?」と強い語調で訊いていた。「まだ、資料貰っただけっちゃ」去り際のミナモは、背筋がすっと伸びて見えた。 舳先を蹴って、海に落ちた。大きく空気を吸って、ずぶり全身を海中へ。頭を水底に向けてドルフィンキック。鼓膜にかかる水圧と酸素の不足を感じて、ぐるりとターン。浮上。青緑だった視界は開けて、朝の太陽は斜めに清廉な光を捧ぐ。「いきなり飛びこむなよ」洋介が手を差し出す。その腕に掴まって。荷が積れていない艀は甲板の位置が海面よりも随分高いから、引き上げてもらわねばならない。肘のあたりを握られたとき、ふっと魔が差した。洋介の上腕に手をかけ、海中に引き込んだ。「おわっ」間抜けな声を出して前のめりになった洋介はそのまま転げるようにミナモと目線を同じくした。「服濡れたっちゃ」「びっちゃになったね」悪戯っ子の笑みを装いながら、頭では別の事を考えていた。「お前、服透けちょる……海とおんなじ色」半袖の白シャツは、ぺったりと肌に貼りついて、下着のミントグリーンが透けていた。「ばーか」そう言って抓んだ洋介の耳朶は朱を帯びて、ひんやりしていた。「洋介、うち陸にあがる」「……陸、って」洋介の口端が歪んだ。「高校卒業したら、進学すって決めたと。やけん、春になっても洋介と一緒にはなられん」「そんなら俺は、海で待っとったらええっちこっちゃね?」ミナモは思わず噴き出した。濡れて目にかかった前髪を掻き上げたなら、洋介の困惑がよく見えた。「……まさか、帰ってこんの? 二度と海に戻らんっち言いよるん?」「帰ってくるかわからん。でも、洋介が艀におるなら戻ってくると思う」後ろに「たぶん」と小声で付け加える。「うちには艀の暮らしが、ここまで保護さるるべきもんなんかわからんし、ずっと残していかなんもんなんかもわからんのよ。水上町は、高度経済成長期に――ふた時代も前の昭和に取り残されとる。言葉も、暮らしも、全部。昔ながらがいかんとは思わんっちゃ。でも、しゃっちがそれは守らなんもんとは思えん。便利の悪いまま、新しい文明を拒んで、水上町の人らは、艀の子らは、陸から隔離されちいく」これまで当たりだと思ってきた自分の生育環境に疑問を持ちはじめたミナモには、盲目のまま海上に浮かんでいることはできなかった。実体験として陸の生活が知りたかった。その上で、もう一度海の暮らしに戻ることなら、きっと許容できる。誰かに、親や伝統という名の拘束具に、定められた将来を海鳥のように丸飲みするのは嫌だった。「分かった。お前が大学行って、二年か四年か六年か知らんけど陸にあがって、そんで海に戻ってこんって決めたんなら、俺が陸に行く」「洋介が陸に?」「俺はべつに海でも陸でもええっちゃ」額と額が合わさった。互いに掌を頬や首筋に寄せた。少しくすぐったかった。「朝から青春しちかあ!」伝馬船に乗った水売りのおばさんが、通りすがりに冷やかして行った。いくつかの艀が動きはじめ、製鉄所の稼働音響く朝はいつも通り。海面に散った朝日の銀砂を掬って、思いっきり太陽の眼前にさらした。 四月一日、きみがノートに書いた詩。 「煙突並ぶ海岸と 第一高炉の数列と 裸足で踏みし舳先には しばし戻らぬ許せよと 父母、君に手を振れば 寝床揺れぬ陸の夜 陸の夜 ドヴォルザーク交響曲第九番新世界より 第二楽章に寄せて」