胚と液

埃が薄膜を張った床の上に、ひそめた声は落とされた。「堕ろすしかないんちゃうん」瑚都にとってそれは、予見していた反応ではあった。自分と同じ学生身分の桑野に、甲斐性なんてものは無いのだと理解してたから。それでも、淡い期待が無かったと言えば嘘になる。片腕で頭を抱え込んで俯く彼と、その姿をぼやけた視界にとらえる自分。瑚都は二人を、天井から俯瞰して見ていた。「どうすんねん」 薄い合板の壁を気にしているのだろうか、瑚都の判断を怖れているのだろうか。低めた言葉の連なりが情けなく思えた。自分に言い聞かせるように、返事をした。はじめから、瑚都と桑野の間には色めいた感情なんてものは無かった。それでも互いに互いの入れ物だけを求めるような、乾いた関係であったとは言えない。体表面を流れる水の線を掴むことができなくて、そのまま排水溝に見送ってしまうような虚しさが、不意に生まれるくらいには何かしらの気持ちがあった。「無理、だよね。うん」もし時期が悪くなかったら、と考える。これが今じゃなかったら、下すべき判断もそれに伴う情動も全く違うものになっていただろう。「いくらかかんの」費用の話だ。自分たちの時間とかぼんやり描いていた将来設計とか、そういうもの全てを投げ出して、ひとつ宿った存在を死守するためではない。利己的な考えの末の費用。「十二万」「全部合わせてやんな?」やはり、支払う心積もりのようだった。「そう。でも、預金があるから大丈夫」費用を全額負担して厄介事から手を引こうと、少しはそんな風に考えたとしても、桑野がそれで既に責任を取り終えたような態度に出ることなんて、無いと分かっていた。むしろ、瑚都の気が済むまで話を聞き続けるだろうし、何度だって申し訳ないと口にするだろう。だからこそ、嫌だった。一線を越えたのだって、瑚都のためだったから。慰めが必要だった。表層の細かな傷や誰かに穿たれた鳩尾みたいに、自分では治せない部分をどうにかして欲しくて、桑野に縋った。「そうやないやん」喉仏を親指と人差し指の関節で挟む桑野。困り果てたとき、息が詰まるくらい苦しいとき、そうする癖があるのだと知り合ったばかりの頃に言っていた。指が喉から離れた。これから説得のための材料が立方体の空き箱に詰められて、積み上げられていく。だからその箱が順々に開かれ、梱包材に覆われた中身が取り出されるのを待つわけにはいかなかった。桑野が喋り始める前に、次を言わなければ。「同意書だけは、書いてもらわなきゃいけないけど」事務机に転がったボールペンを拾い上げて、余り紙の一枚にコイルを描く。クリアファイルから取り出した同意書の、もう何度も読んだ文字列を追いかけて、空所を埋めていった。最後に朱色を押し付けて差し出す。彼にそれを拒む理由は無くて、それでも瑚都がこの選択を本心では受け入れていないのを知っているから、なかなか同意書を手元に寄せようとはしなかった。「後が怖いだけやねん。瑚都はどっちを選んでも悩むやろうけど、腑に落ちんまま進めんのは違うやん」本当はどうしたいのかを話しても、目の前に紗幕がかかったような気分を打ち明けても、結果は変わらない。今更ながら、自分の弱い所が晒されて呆れられるのが怖くなったのもある。これまで以上に駄目な人間だと思われるくらいなら、口を噤んでいたかった「書いて。とにかく、書いて」ボールペンと朱肉を渡す。桑野は自分の首元を一度掴んでみせた。指先に力が入っていた。「分かった」整った黒い文字が並んでいく。そして朱色が落ちる瞬間、思わず下腹部に手が伸びた。軽い二日酔いみたいな感覚があって、それが胚芽の存在を知らしめる。皮膚や皮下脂肪、筋肉や腹膜なんかを隔てた先にいるのだ。自分じゃないみたいな体よりも、よっぽど実在感がある自分じゃない存在が。ごめんね、と両腕で抱えた。「瑚都さん、大丈夫?」ほら、こういう反応をするんだ。もっとぞんざいに扱ってもいいのに。「大丈夫」クリアファイルに戻した同意書を鞄に押し込んで、逃げるように外に出た。コンクリートの階段を下りて、開けた中庭へ。煙草のにおいが鼻につく。胃酸が上がってくる前に、この場所を去りたい。レンガ敷きを踏みしめて、駆けて。彼が追いかけてこないのは知っていた。部活棟を後にして道路を横切った。間近で鳴った自転車のベルに、足を止めることはできない。桑野から逃げるようにして向かったのは、学部棟のとある研究室だった。瑚都と桑野は学部が違うから、彼はここまでは来ないという確信があって、身を潜めるのには好都合だと思った。逃げる必要も隠れる必要も、本当はどこにも無いけれど。紅茶で染めたみたいな資料たちが積み上げられている。布の表紙、金色の文字。フォークロアの語彙を集めた、ずいぶんと古い本。この研究室に入り浸るようになってから、既に幾度か手にしている書籍だ。赤い杵のモチーフが描かれた本の外箱を、視界の隅に追いやって、頁を捲る。頭は判然しなくて、無意味に「どうしよう」が浮かんで消えて、浮かんで消えて。一回生の中頃、所属している生物研究会の上回生が、霊山と植物の話をしているのを聞いた。興味があって詳しく調べたいのだと言うと、ここの教授に紹介してくれた。以来、週に一度ほど訪れては、資料を読んだり教授と話したりしている。あれから、まだ一年しか経っていないのかと思うと怖ろしかった。足元が液状化して不安定になる。このままでは深い沼底に引きずり込まれる気がした。座っていても、立っていてもいけない。指先の感覚に集中して、紙の質感とか薄さとか、繊維の交わった無数の点とかを考えた。活字は全部あの同意書と一緒に見える。字体だって違うのに。アルミラックが携帯電話の震えで、うるさく鳴った。「すみません……」学生の提出物を採点している先生に断りを入れて、小走りに研究室を出る。画面に表示された名前と、見慣れた昆虫標本の画像。桑野からの電話だ。彼から電話が来るのは、予想の範囲内だった。時間を置いて落ち着いて対話するのは彼の常套手段だから。心臓がいやに蠢く。節足動物の無数の足が胸の内側を這っているような感覚。鎮まれ鎮まれと願っても、なかなか消えてはくれない。それでも窓際に数歩踏み出して、瑚都はどうにか電話を取った。通話の第一声は、いつも桑野だ。そういう些細な点でも瑚都は自重を支えられていない。「今、話せる?」電話の音声は明瞭で、桑野の声は三半規管を乱す。骨張った指が挿入されて、中を満たしたリンパ液が溢れてくるようだ。「なに」絞り出すように返事をした。「まだ、話すことあるやろ」向かいの校舎の媚茶色をしたレンガの壁に、自分の半透明が重なっていた。「親御さんには相談したん?」数秒の躊躇の後に答える。「してない」瑚都は母親にとって、決して良い子ではなかった。互いに神経に障り合うような生活を送っていた。双方共に神経質で、似ているが故に母娘であることが困難だった。まるで、有刺鉄線を頂いたフェンス越しに接しているようだった。網目を越えた向こう側は、地雷原だ。だから瑚都の現状なんて話そうものなら、どちらも錆色の棘で怪我をする。地雷に身が粉々になる。「全部、瑚都さんひとりで完結するん?」蝸牛の渦巻きの最奥が突かれる。痛覚が頭をもたげた。「そうしなきゃいけない」「なんで?」端の処理もままならない、襤褸みたいな言葉は桑野が繋いだ。いつもそうだ。キルトの模様を作るみたいに、瑚都の中に散らばった布切れを針と糸とで丁寧に。綿まで詰めて。「だって、あなたが責を負うのは違うもん」解れた部分に指をかけて、細い糸を切って。「俺は無責任な奴にはなりたくない」また繕われて。「……いらない。同情みたいなの、いらない」引き裂いた。本心ではない。けれど、二人の曖昧な関係性のひとつの答えを迷う余地もなく流さねばならないなら、この関係を桑野ごと拒みたかった。向こう側から呼吸音。桑野が苦悩を吐く音だ。「日取りと病院の場所だけは教えてや。それだけでええから」「来週の金曜日から。三時過ぎくらい。宝珠駅前のとこ」本当はもっと大学から離れた病院に行きたかったが、そこまでの余裕は無かった。時間的にも、精神的にも。「なら、あそこやな。林産婦人科。普通の病院に併設されとるやろ」「そこで合ってる」歯切れの悪いじゃあねを言い合って、電話は切られた。耳介に当たる電子音が、心電図を横切る直線とゼロの数字とを想起させる。携帯電話を額に付けてしゃがみ込んだ。もう少し、もう少し話す時間が長かったなら駄々を捏ねてしまう。皮膚の薄い腹部とか太腿の内側とかを桑野に対して必死に隠して、瑚都は不本意な決断を拒まないようにしていた。硝子の壁に凭れかかる。外気に温度変化を迫られた質感が、服越しにも分かった。 ビル群が夕映えに染まっている。暗色への階調はなだらかで、看板や窓の照明は邪魔だった。高架を揺らす轟音。耳を塞ぐと落ち着く。先ほど同意書を持って行った病院は、古びた雑居ビルの中にあって、剥き出しの無機質が罪悪感を助長させた。体が沈み込むくらいに弾力のあるソファーは、ほとんどが女の人たちで埋まっている。オリーブ色に葡萄の柄。ジャカードの生地。風雨に浸食されていくビルと、妙な調和を見せている。ふと脳裏に浮かんだ、豊穣と退廃が神の御手に委ねられている心象と、小さい生命を生かすのと殺すのが同じ場所で行われているのとは、瑚都にはさほど違わないように感じられた。受付にて、茶封筒に入れた書類を受け取った妙齢の看護師は、当日は付き添いはいるのかと訊いてきた。瑚都は困った。桑野に日取りと場所は教えたものの、来てくれとは頼んでいない。曖昧な返事をする。看護師は、付き添いがいないのなら帰宅にはタクシーを使うように言って、診察室の方へと消えて行った。シャンデリアの薄橙に包まれた女の人たちの姿が滲んだ。彼女たちが自分の事情を察しているのではないかと、いらぬ想像をしたからだ。母親という生き物は鋭いから。隠した嘘も秘めた心も、全て見つけられて呆れられる。砂塵が頭の中を駆けた。耳を塞いだら少しおとなしくなる。一度、深呼吸をして思いつく。薄幸なのは自分だけではないかもしれない。産み育てる人、欲しくても授かれない人、孕んでしまった人。皆同じ場所にいる。この病院は、存外に酷な場所だった。ホームを照らす列車のライトで、記憶の中から今へと帰った。臙脂とクリーム色のバイカラーの列車が入ってくる。アナウンス。降りる人波、乗る人波。流れに従って、車両の中へ。各駅停車の普通列車。大学の最寄り駅まで行く。早足で歩けば、部活に間に合う。吊革すら掴めないほどの満員だった。仕事終わりの会社員の体臭、老女の化粧品のにおい、あまりに強い香水、菓子パンのにおい。普段なら気にならないにおいが混ざって、気持ちが悪かった。優先席がひとつ空いていた。こんなにも人が多いのに誰も座ろうとしない。体が押し潰されそうになる。腕を使い、何とか腹部と誰かの背中との間に隙間を作った。自分の行動の奥で働いた無意識に気づいて、喉元が締め付けられる。車両は揺れて速度を上げ、やがてゆっくりになって停止し、圧縮空気の音と共に扉が開く。においがどろどろになった車内に、晩秋の澄んだ微風がやってくる。そこで、めいっぱい息をする。そして再び扉は閉まって、車両は速度を上げる。またにおいがどろどろになる。そうした扉の開閉を繰り返して、やっとの思いで最寄り駅に至る。においのどろどろから逃れるように、歩く悪臭たちから逃れるように、瑚都は扉と改札を飛び出してトイレに駆け込んだ。駅内のトイレは、下水と汚物の混じった独特のにおいがする。今までに嗅いできた公衆トイレのにおいと変わらないはずなのに、いつもより気持ちが悪い。あらゆる人間の排泄物の回収口であることも同じなのに。個室に入った瑚都は、洋式トイレの便器に顔を翳した。何度も何度もえずいた。その度に、自分の体が変化していることを思い知らされる。唾液が粘膜を潤して、下唇の真ん中から溜まった水に落ちていく。やがて喉を開く。ありったけの要らないものが食道をせり上がってきた。そして、吐いた。鉄扉を叩いて部室に入れば、既に瑚都以外の全員が揃っていた。とは言え、たったの五人だ。「あれ、青柳?」ディスプレイに向かった副部長が、画面の上端から顔を出した。「青柳は来ないかもって聞いてたから」桑野が自分専用の作業台から顔を上げる。展翅台に細い針が幾本も刺さっているのが見えた。パラフィン紙の下に、蝶の死体があるはずだ。「予定があるって聞いてたんです。すんません」「いや、ええねん。時間になっても連絡来んかったら、電話かけるつもりやってん」部長が観察日誌を棚に戻しながら言う。「青柳さん。そろそろタナゴは硬骨染色に移っていいかもしれないです」後輩のひとりが恒温機の中を見ていた。中にはトリプシン溶液とタナゴの入ったビーカーが幾つか入っている。瑚都はロッカーに荷物を置いた。作業台の下から新しいビーカーと薬品を出す。予め作っておいた水酸化カリウム溶液に、薬匙でアリザリンレッドSの粉末を入れた。これで硬骨染色液ができあがる。瑚都は生物研究会の個人研究で、透明骨格標本を作っている。学術的な目的は後付けで、単に綺麗だと思ったからだ。硬骨は赤に、軟骨は青に染まる。肉は透明になって、さながら着色した立体レントゲンのようになる。ビーカーのタナゴをピンセットで掴んで、硬骨染色液の上に持っていく。「あ、待って」桑野の声が飛んできた。「えっ、待つの?」「そのまま一時停止や」「指がプルプルする」桑野が携帯電話を構えた。シャッター音。指先の力を緩めれば、タナゴはとぷんと赤に見えなくなった。「活動写真、集めてんねん」「トーキー? 無声映画?」「俺は大正生まれか」「えっ、違うの」作業台に向かった先輩たちが、じわじわとした地味な笑いに包まれる。「ちゃうわ。まだ二十歳やもん」そうか二十歳か、と瑚都は思った。成人していてよかった。未成年だと保護者の同意書も必要になっていたから。「そんなん、どうでもええんやけどさ」一瞬、あの話を公にされるのかと身構えて、すぐに違うと思い直す。「標本のリスト、データで送ってや。キャプション作るわ」「ほんと? けっこうな数になるけど」壁際の棚には大小様々なスクリュー管が並べてあって、そのひとつひとつに様々な淡水魚や蛙なんかの透明骨格標本が封入してある。「作る作る。せやから、はよ冊子の原稿書きや。瑚都さん細かいとこまでこだわるから、早め早めがええで」「わかった」桑野は小さめのスクリュー管を電灯に翳して、しばし眺めていた。「やっぱ綺麗やねんな」瑚都は自分が褒められた気がして、嬉しくなった。棚に戻された標本は、アカハライモリの幼体だった。今年の夏合宿で捕獲したもので、はじめは飼育しようという話になったのだが、だんだんと衰弱してしまったので瑚都が標本にした。透明骨格標本を眺めていると、透けた肉や皮膚の部分とグリセリンとの境目が見える瞬間がある。そういう時、瑚都は標本が透明であることに魅力を感じた。ホルマリン漬けよりも無機的だが、普通の骨格標本よりも生々しい。ただ今はどうしても、羊水の中で漂う胚芽と重なってしまう。我が子を標本にはしないけれど、鑑賞して研究してという対象ではないから。「時間になったから、部会始めますか」各々、作業を放置するなり片付けるなりして、部員たちはカーペットが敷かれたスペースに集まった。薬品や実験器具を使う場所と、話し合いをしたり他の作業をしたりする場所は分けてある。基本的に個人研究が主な活動なのだけれど、年に数回の行事に向けて毎度、数件の議題が上がる。今は学祭まで一か月を切っているから、そろそろ配布する冊子や展示するボードを作らねばならない。全員が進捗を報告して、必要な書類と個人研究以外の仕事を確認する。進み具合は悪くはなく、部会は一時間もかからなかった。それからさらに一時間程は自分の作業をして、やがて解散となる。「今日、ご飯行く人は?」他の五人が手を挙げたので、瑚都も空気を読んだ。「はい決まり」外に出て戸締りをして、まだ手袋もマフラーも必要ないけれどずいぶんと寒かった。 学生食堂での夕食を終えて後、帰り道の三叉路で先輩後輩と別れて桑野と一緒に下宿まで帰る。住宅街なのに街灯の少ない道は苦手だから、桑野が一緒にいると安心する。密集した家屋の間で迷路のようになってしまっている小路を、ひとりで帰るのは難儀だ。螺旋階段を昇って開錠、そして室内へ。誰も家の中にはいないから、瑚都がただいまを言って、桑野がおかえりを言う。交互にシャワーを浴びて、その間に洗濯物を畳んだり食器を洗ったりする。最後に桑野が風呂場を洗って、瑚都がワンルームに掃除機をかける。それが金曜日の習慣で、もう半年は続けている。「瑚都さん。換気扇のフィルターみたいなの、黒くなってる」桑野の手がユニットバスから伸びる。リレーのバトンを受け取る走者の手みたいな形。瑚都は戸棚から換気扇用の不織布を出してきて、大きさを整えて筒状にして、桑野に渡した。下着一枚の桑野が、古いフィルターを外して、新しいものに取り換えた。不織布には黒い正方形が描かれていて、そこを掠めた人差し指の先が汚れてしまった。歯を磨いて寝る仕度を整えて、日付が変わる前のニュースを観る。アナウンサーが挨拶が終わったと同時に秒針の音がテレビのスピーカーから流れ始めた。瑚都はそれに合わせて、桑野の肩に腕を回す。産毛の並んだうなじに顔を埋めて、大きく深呼吸をする。皮脂のにおいに、広い背中の筋肉に安心する。裏起毛のスウェット生地一枚を隔てて背骨の起伏を感じる。桑野は何も反応しない。いつも通り。瑚都の好きなようにさせる。「なあ、瑚都」テレビの音声が消える。桑野の呼吸音がよく聞こえるようになった。顔を上げる。画面には帳が降りていた。「ええの?」何を桑野が確認しているのかは分かった。でも、肝心な事が分からなかった。「悪いことだってちゃんと頭では理解してるの」桑野の肩口に下唇を付けたまま、くぐもった声で喋る。「ええなら、ええんやけど」「うん」リンパ節を撫でる。顎関節付近から鎖骨まで。延々と撫で続ければ、桑野が身震いをした。その反応は、桑野が果てる一瞬を想起させる。「こそばい」声帯が言葉を発するのが指先に伝わってきて、なぜか安堵する。「知ってる」そうして、もう一度後ろから抱きついて。桑野の手が髪を梳いて、頭を優しく撫でていった。「もっと」強請れば頭が後ろに押される。背中と腹部が離れて、籠っていた熱が散らばってしまう。桑野の影が落ちてくる。無言のままに腕の中に収まって。桑野の表皮は乾燥している。皮脂も少ない。それこそ桑の樹皮みたいで、ところどころ毛羽立っている。唇のかさつき、ニベアのにおい。人工的な油分、そして渇きと乾きを癒すみたいな多量の水分。一体、自分のどこから溢れて来るのだろう。不意に第七頸椎の突起に触れられて、中枢神経沿いに痺れるような感覚が広がった。桑野の平熱は高い。三十七度二分くらいだそう。だから瑚都は桑野の皮膚が好きだった。二人の触れ合いは、瑚都が熱を貰い受ける為だ。何も与えていないから、非等価交換だと思う。それでも、桑野がいなかったら低体温で動けなくなってしまうから、この習慣を止めることはできない。やがて直接の接触面積が広くなっていく。ほとんど無に等しい胸のふくらみが、桑野の肋骨のあたりで自重に潰される。そうしてどちらも動かない。この時間が好きだった。温まっていくから、好きだった。でも今日は、下腹部に意識が向けば向くほどに、罪悪感が助長されていった。潰されるのは乳腺ではなくて、胚芽なのではないか。小学生の時に顕微鏡で見た、潰れてしまったミジンコを思い出す。我が子が圧死する想像ができてしまった。気づけば桑野の腕を振りほどいていた。「大丈夫?」めいっぱいの優しい声に、呆れたような響きを感じてしまう。「ごめんなさい」距離をとって、シャワーを浴びに行った。 冷水のシャワーで桑野の熱を洗い流した。欲しかったのに、どうにも熱いものは穢れているように感じられた。雑菌が繁殖しているような、そんな汚らしさ。風呂場から出てくれば、桑野は既に服を着てベッドから離れ、大きなビーズクッションの上で瞼を閉じていた。「寝た?」「うん」「起きてるじゃん」シーツと掛け布団の間に体を滑り込ませる。やけに足が浮腫んで冷えていた。翌朝になって桑野がベッドにいない理由を探して辺り見渡せば、その生き物はビーズクッションの上で丸くなっていた。哺乳類みたいだと思って、すぐに哺乳類じゃなかったら何なんだと思う。たぶん哺乳類で人で桑野だ。カーテンを開ければ、光から隠れるようにクッションの中に顔を埋めていく。薄い毛布の上には、レースカーテンの模様が転写されている。桑野の呼吸に合わせて動く毛布と、動かない模様。なにか不気味な齟齬があった。台所に立って、卵を二個割る。桑野は器用だから二つ同時に右手と左手でひとつずつ割ることができるけれど、瑚都にはできない。菜箸で混ぜて、香草が混ざった塩胡椒を振る。また混ぜて、フライパンに流し込む。熱による凝固作用。固まった端から離散させていく。半熟くらいの状態で火を止めて、あとは余熱に任せる。安く売ってあったライ麦パンに、トースターで焼き目をつける。しばらく鈍い振動音が聞こえたあと、弾くような甲高いベルが鳴った。人が動く気配。「はやいなぁ」間延びした声は、アクセントの位置が心地良い。トースターから出したパンに、ハムを乗せて炒り卵を乗せてチーズも乗せて。また、トースターに。電気ケトルが沸騰を知らせて、カボチャスープの粉末に熱湯を注ぐ。「はい、いつもの」「常連みたいやな」誰かと食事を共にするのは、嫌いじゃない。一緒にいる人を観察できるから。ひとりで食べていると、食べること自体に目が向いてしまう。目の前にいる桑野が、伸びたチーズに苦戦するところをじっと眺めていると、自分が栄養を摂取して生命活動を続けていることを考えなくて済む。だから、誰かと食事をするのは嫌いじゃない。食べ終わって、皿洗いは桑野が引き受けてくれた。胃の中に全て詰め込んだ途端に、食道と喉の奥が爛れるような感覚を覚える。瑚都はベッドに頭を預けるようにして、その酸性の朝食を嚥下した。重力に逆らうことのできない、床と並行になった瑚都の頭を覗き込んで、桑野が視線を注いでいるのが分かった。だけど目は合わせない。瞼の奥で動く孔雀羽根の極彩が、万華鏡みたいで綺麗だったから。「どしたん」髪が一房掴まれて、指先で弄ばれている。目を開けたなら、普段は斜めに分けている前髪が都会の電線みたいになって、乱雑な縞模様を作っていた。桑野は幾本もの電線を一息に撤収させる。途端に青空が開ける。だけれど、都会の空はそれだけで狭いのだ。「部室行くんやけど、瑚都さんは?」「ついてく」頭が重いけれど、冷たい空気に当たれば少しは良くなる気がした。くすんだターコイズブルーの膝下丈ワンピースに着替えて、鏡に向かって化粧をしていく。一層だけでは足りない。三層分くらいの防壁が無ければ、誰かに会う気が起きない。桑野以外の言葉は刺さって痛いから、少しでも傷つかないための壁がいる。ファンデーションの薄い膜なんて、気休めにもならない事くらい分かっているけれど。唇にべたついたボルドーを乗せて、それで終わり。「行こ」戸締り。確認してから、自宅に背を向ける。弱々しい日差しだ。日が昇ってずいぶん経つはずなのに。今日帰ったら、防寒具を出してこよう。もうそろそろ必要になる。部室棟は近くて、瑚都の下宿からは十分以内の場所にある。この道は週に一度は必ず桑野と一緒に歩く。いつもは二人、腕が当たるか当たらないかくらいの距離感で歩くけれど、今日は一度も手の甲が触れ合うことは無かった。守衛室で鍵を受け取って、煉瓦敷きを過ぎて。コンクリートの階段で四階まで。部室に入れば、陽光が小さな埃を捕まえて浮かべたり沈めたりしていた。蘚苔類の飛ばした胞子みたい。目を細め、そして閉じて、めいっぱい吸い込む薬品のにおいとハウスダスト。「外より寒いやんけ」空調を入れると、埃と黴のにおいがする温風が排出されてきた。桑野は鞄をカーペットに放り投げて、展翅台に向かった。瑚都は鞄の隣で足を伸ばす。彼は作業台下の引き出しから標本箱をひとつ出してきて、そこに磔刑の蝶を一匹、移動させる。鱗粉に覆われた翅の水色の帯は遠目からも鮮やかだった。着信音が鳴った。「はい、もしもし」「どこおんの?」相手の声はスピーカー設定にされて、瑚都にも聞こえた。副部長の声だった。「部室です」首を伸ばして音を拾う。「こないだ実験器具注文したやんか。あれが学生部に届いたって電話入ったんよ。それ、取りに行く暇ある?」「あー、行きます」「助かるわー」お疲れ様です、を交わして通話は切れた。「ちょっと面倒やねんな」瑚都の前では、桑野もこうやって小言を言うことがある。唯一の同回生だからなのだろうけれど、こういう他の部員たちよりも微妙に近い関係性が、二人を難しくした。「私、ここにいる」やはり調子が悪かったから体を休ませたい。歩き回ったら、また吐いてしまう気がする。「ええで」桑野は冷蔵庫からレモン味の炭酸飲料を一本出して、それを三分の一ほど飲んでから、財布と携帯電話だけ持って部室を出て行った。勢い良く閉まった扉の余韻が頭蓋の内側を揺らした。また頭蓋が揺れた。緩やかな覚醒とは程遠く、人の気配に身を竦める。「寝とるんか」いつの間にかカーペットに伏せていた体を引きずるように起こせば、腕には硬い起毛の痕が血色を帯びていた。「寝てた、うん」桑野は両腕で重そうな段ボールを抱えていた。割れ物注意の物品を彼は床の隅に置く。きっと綿埃のひとつが下敷きにされた。床を少し掃かねばと、あの位置を見て思ったのだ。確か、一度眠ってしまう前に。「下に台車置いてんねや。そんで、まだあと二つ荷物あんねん」床掃除だけじゃなくて、書類とか原稿とか、ここでやることは沢山ある。このカーペットも洗ったらいい。小さな塵が浮き沈みするのが分かるから、そう思う。「手伝わへん?」「ごめん」「あっそう」また頭蓋を揺らす余韻があった。鉄扉の空洞の内側で反響するその音と振動が、途轍もなく不快だった。桑野の不快感が扉を閉める後ろ手に込められているから。二人の言語間には明らかな溝があって、それが潤滑な意思疎通を阻んでいた。空気感染の僅かな感情が溝に菌糸の橋を架ける。しかし脆弱な構造物は、加重に耐えられずに奈落の底へと落ちかけていた。部室を出た。段ボール箱を持った桑野とすれ違う。「おい!」行く手を塞がれた。「どこ行くねん」顔を背けて、門を目指して一歩踏み出す。少し強い風が吹いて、赤茶けた落葉たちが足元ではたはた鳴った。「これ運び終わるの待ってからでええやん」「……帰る」所々黄色も混じった、いずれ清掃員に集められて腐葉土になる彼らが、体表面同士を擦り合わせながら無意味な運動を繰り返していた。その音は集まって騒々しくなり、高い建築物の隙間で風が号哭するのと合わさって瑚都の耳を奪った。「鍵は?」施錠は、していなかった。「そういうの、前からあかん言うてるやろ。後輩に示しがつかへんねん。もっと……しっかせえや」桑野の溜息が聞こえた気がする。座り込んで泣いてしまいたかった。衝動的に動くと、駄目だ。悪いことしか起きない。「ええから、部室戻ろうや」段ボールを持った腕で、軽く背を押された。頭が揺れて、足元も揺れた。底にあったなみなみの貯水池も揺れて、瞬いた途端に堰が切れた。下方へ、あるいは重力に逆らって上方へ、塩分を含んだ水が流れる。桑野が言っていることは正しいけれど、こんなに放埓では叱られて当然だけれど、それでも今だけは、桑野にだけは、丁寧に扱われたかった。真綿で包むようにして全ての外圧を退けてほしいと、そう願ってもいいと思っていた。両手で顔を覆えば、手首を水滴が流れていくのが分かった。「待って、なんでなん」貯水池の水が溢れる前に、桑野がいつも手で掬って水位を下げてくれていた。言葉足らず手も拙くても、汲み取ってもらえていた。今は、違う。他ならぬ桑野が豪雨を降らす。「もう……会いたくない」拒絶を口にして逃げた。桑野は追って来なかった。 家に入って、ユニットバスの洗面台で顔を洗った。クレンジングオイルで化粧を落とす。ざらざらしたマスカラとか薄赤いアイシャドウとか、世の中の怖いものに対しての一種のまじないを水に流していく。鈍い金属の円環の内に効果の失われたまじないが溶けて、白濁した水の筋が吸い込まれた。まだ鼻先から幾滴かが滴っている間に、パイル生地をあてがって水分を吸う。換気扇を仰いで視線を下ろせば、鏡に映った青白く疲弊しきった素顔があった。これが本当に自分の顔なのかと、若干の違和感でもって薄暗い反射を眺める。上着を床に落として、掛け布団が乱れたままのベッドに倒れ込んだ。携帯電話の画面を灯す。桑野からのメッセージは入っていない。イヤホンを両耳に入れて音楽を再生する。鍵盤の上を十本の指が跳ねる音。着地と同時に微かに爪の音もする。毎日聴いている同じ曲だった。一年前くらいに桑野に弾いてもらって録音した。ときに薬になって、ときに毒にもなる。眠っているのか起きているのか分からないない状態が続く。音楽は途切れない。桑野の指はずっと動いている。時折爪が引っ掛かるけれど、内耳や鼓膜を撫でる指が止まってしまうよりもいい。時計は夜中の二時を回って、瑚都はベッドから出た。バスタオル一枚と着替えを持って、風呂に向かう。蛇口を捻って、シャワーが丁度良い温度になる間に服を脱ぐ。ワイヤーに締め付けられた胸部が解放されて、貧相な肢体が鏡面に晒される。目を逸らして、斜線を描くシャワーを起伏の乏しい上半身に受けた。なだらかな胸と腹部。筋肉も皮下脂肪もほとんど無い。それでも隆起した骨盤の内側には、確かに何かがある。消えてしまえと思った。それが、桑野に対してなのか胚芽に対してなのか、それとも自分に対してなのか分からない。ただ、自我の芽生える前に消えることができる我が子を羨む気持ちは確かにあった。バスタブに湯を張りながら、その中にうずくまる。だんだんと体が程よい水圧に包まれていく。水面のゆらぎと共に、瑚都の輪郭は不確かになっていく。二日酔いの気分。いつか飲んだアルコールはグラス一杯で酩酊してしまった。飲むように勧めた桑野が、ひどく焦っていた記憶が断片的に残っている。唾液腺が働きすぎるから、溜まった唾を洗面台に吐こうと立ち上がる。小さな気泡がぐちゅぐちゅに入った液は汚い。そして湯の外は寒いから、二度とここから出たくなかった。それから、翌週の金曜日まで、瑚都は家を出なかった。本当に、ただの一度も。 駅の改札口を出た。切符が出てくるのを数秒待って、瑚都は自分の頭がほとんど回っていないことに気づく。久々の外出に、脳の神経伝達が追い付いていなかった。台風前の土砂降りは駅前の風景を濁らせている。砂泥とメレンゲを混ぜたら、こんな風になりそうだと思う。ビニール傘を開いて、高架の下から豪雨の中に躍り出た。頭上を覆った薄透明の膜が、不規則に連打されている。雨粒の水分はビニールが弾いているけれど、分厚い灰色の雲から落ちてくる冷気までは防いでくれない。もう少し厚手の上着で丁度良かった。でも、こんな体なんか冷え切ってしまえばいいのに、とも思う。いっそのこと、凍えた針金で正中線を貫いて欲しかった。瑚都も胚芽と一緒に息ができなくなったなら、桑野はどんな顔をするんだろう。横断歩道の向こうに見慣れた人影があった。カーキ色のモッズコート。裾が濃くなっている。桑野の方が先に瑚都を見つけたらしく、いつもの穏やかな表情がこちらを覗っていた。信号が青になる。擦れた白線たちを踏んだり跨いだりして、彼の声が聞こえる位置まで。けれど、傘同士がぶつからない位置まで。「来たんだ」「来やんと思ったん」二人の隙間に雨滴が落ちる。ごく、稀に。目的地はお互いに分かっているから、本題の核膜を撫でるように会話を交わしながら小路に入って行く。「授業あるでしょ。私もだけど」久々に転がした軽口は舌に馴染まなくて、それに皮肉の色を帯びてしまっていて、言わなければよかったと思った。「たまには飛んでもええやろ」桑野の足が水たまりを蹴り上げる。重力への反抗を見せた飛沫は土砂降りと一緒にアスファルトへと帰っていった。藻類に覆われた表札。一階は内科のクリニックで、二階が産婦人科だ。傘を畳んで分厚いガラス扉を押して中に入り、エレベーターの上向き矢印を押す。狭い空間。瑚都は少し前から、骨壺みたいな陶製の容器の中に自分を仕舞っていて、全部が厚い壁を隔てた向こう側の事だった。だから、桑野とどれだけ近づいても、近くにいる事実以外に何かを思いはしなかった。エレベーターを降りて、受付に行く。入院費と手術費の合わせて十二万円を現金で支払った。麻酔のかかり方や手術の具合によっては、返金されることもあるそうだ。「あ、入院するんや」桑野が小声で言ったのが聞こえて、そういえば言っていなかったと気づく。「案内しますので、そちらの看護師について行ってください」小柄な若い看護師に先導されて、診察室や処置室の並んだ通路の奥へ。桑野は自分も行ってよいのか戸惑った様子を見せたが、看護師に「付き添いの方も」と言われて、瑚都の数歩後ろを付いてきた。エレベーターを使って三階に上がって通されたのは、設備の整った個室だった。トイレもシャワー室も室内にあった。トイレで前開きの寝間着に着替えて、その後は桑野と表向きは穏やかな時間を過ごす。瑚都はベッドの端に腰かけて、桑野は丸椅子で足を組んでいる。二人とも、携帯電話の画面に視線を落としたまま。振り子のように瑚都の足は揺れる。骨壺に収納した心が重い蓋を押し上げようとして苦しかった。携帯電話から通知が何件か来て、部活の連絡やどうでもいい雑談が交わされている事を教えてくれる。「冬休み中にフィールドワーク行こうってさ」「この時期だし、バードウォッチングかな」「南港野鳥園やろな」カワセミの碧が頭を過るけれど、季節外れだ。しばらくして、先刻の看護師が呼びに来た。「青柳さん、処置室に」寝間着の裾を払って、ベットから降りる。「コンビニ行くんやけど、晩飯何にする?」「あったかいの、スープみたいな」エレベーターで二階に戻って、処置室の前で桑野と別れた。「また後でね」軽く背中を押されて内診台に向かった。これからラミナリアという器具を入れると聞いていた。堅く閉ざした子宮頚管を広げるために使うそうだ。Laminaria digitata即ちコンブの茎根を用いたもので、水分によって膨張するため、その作用で頸管を拡張させるらしい。脱いだ下着は看護師に預けて、足を開く形で内診台に乗った。処置について改めて担当医から説明を受ける。「細いもの一本から入れていきます。じゃあ、始めますね」骨壺の中身はずっと暴れていた。陶製の蓋は今にもひび割れそうで、内腿の力が抜けない。それでも容赦なく消毒液で拭われて、中に指が侵入してきた。瞼は閉じる。それが癖で。金属製の器具の受け渡しがされる音、やがて冷たい感覚。奥に細いものが来る。「んっ」針で刺されたような痛みが走った。「ラミナリア入りますよ」圧迫感があって、限界を壊される。鈍痛。「もう一本、いきますね」こじ開けられて、液体が流れるのが分かった。出血したのだと分かった途端に体温が引いていく。どこか遠くの場所に連れて行かれそうだった。底の無い深淵のような場所に。「青柳さん、終わりましたよ」既に下着 が穿かされていて、感触からして予め渡していた生理用品も使われているようだった。膣内にも何か詰まっている。「歩けますか?」「……はい、たぶん」看護師の手を借りて、ほとんど這うような形で処置室を後にした。足元は不確かで、はやく横になりたかった。途中手すりに縋るようになる度に、看護師が腰骨のあたりを摩ってくれているのがありがたかった。スライド式の個室の扉まで、ほんの少しなのに進めない。革細工用の太い針で下腹部を縫い付けられている想像。そのまま針は病院の床を潜って瑚都を下へと引っ張ろうとするから、立っているのがやっとだった。「あと、少しですから」手を煩わせてしまっているのが申し訳なかった。左手で握った木製の手すりに、手汗が染みていく。どうして自分がこんなにも痛い思いをしなければいけないのかと、骨壺の中で黒い毒虫が絡まっていた。呻いて叫んで暴れ出したかった。「そっち側、支えてもらっていいですか?」桑野が隣にいた。肩を担ぐように腕。手すりを握り絞めていた指はなかなか開かなくて、手首を揺らされてやっと汗が滑った。「こう、で大丈夫ですか?」「あ、右手こっちに回してもらって。そう、それでいいです」ベッドに横になって、すぐに眠気で幕が閉ざされた。看護師か桑野のどちらかに足を上げてもらっているのは分かったけれど、口を利く気力は残っていなかった。薄暗い中で目が覚めると、骨壺は大人しくなっていた。中に入った黒くて長い盲目の毒虫は、冬眠してしまったのだろうか。「ねえ」もしかしたら桑野は帰ってしまったかもしれない、と思いながらも暗闇に返事を求める。「ん?」少し離れた位置から聞こえた。「いま何時?」「八時過ぎ」蛍光灯が点滅して、そして明るくなった。壁際に桑野が見える。「お腹空いた」痛みはずいぶんと小さくなっていて、少しだけ食欲があった。「よし。また買うてくるわ」「厚焼玉子と何かあったかいのがいい」「わかった」食事ができるのは夜の十時までで、それ以降は日付が変わるまでなら飲む分には構わないそうだ。時間が来る前に目覚めることができてよかった。十分も経たない内に、桑野は戻って来た。「そういえば、さっき買ったやつは?」「冷める前に食ったわ。ちゃんと厚焼玉子も買うてきたで」「ありがと」白いビニール袋には、厚焼玉子と胡桃パン、そしてアップルティーのペットボトル。茶色いビニール袋からは温かいミネストローネ。サイドテーブルに夕食を並べる。プラスチックの蓋を外すと、いい匂いがした。「トマトの味付けって美味しいよね」「せやな」胡桃パンをちぎって、スープに浸す。トマト味は酸味があるから食べやすい。インゲン豆を噛み潰して咀嚼して、玉子にも箸をつける。「久々に見た気がする。瑚都さんがちゃんと食べてるとこ」「手術終わるまで食べれないもん」「そっか」食べ終わったものを片付ける手は、やんわりと制される。空容器が入った歪な風船みたいなビニール袋がゴミ箱に放り込まれた。空虚な音だった。 翌日、瑚都は手術室に入った。桑野はただ「頑張って」としか言わなかった。横になったなら、マスクを付けられて注射を打たれた。頭の中で数えた数字は、八で途切れ、嫌に大きなライトが最後まで意識の中にあった。 黒いインクの岸辺。左から右へと流れる。腐敗した苔は削られていて、生物の気配は無い。これは毒虫だらけだと思っていた骨壺の中か、それとも毒虫の体内か。粘性のある液体は進むのが遅い。甘ったるいにおいで、真新しい印刷物のにおいで、それでいて鉄臭い。表面はベルベットみたい。そして足首に纏わりつくのは、硬骨染色液みたいな色。べっとりしている。皮膚から離れない。重力で下に落ちても粘着力でしがみついてくる。水位が上がって来た。膝を越えて腿を越えて、足の付け根に。陰部から入り込んでくる。瑚都の体は染まっていく。内腿も下腹部も。泥炭みたいな底に沈んでいって、醜い肢体がそのままに死蝋化する。インクは落ちない。骨の髄まで染まっているから。内臓まで染まっているから。瑚都の在り処から黒炭みたいになった肉体は剥がれていく。自分じゃない体が、もっと自分じゃなくなっていく。大事なものが引き剥がされる。吐き気がする。「青柳さん、聞こえますか」瑚都の体は軟体動物みたいで、自分の体重が重すぎて支えられない。頭が落ちる。誰かに上体を起こされる。そうされると、気持ちが悪い。うまく息ができなかった。肺が潰れている。まるで内側が癒着していているようで、空気が入り込む度に痛みを覚える。座っていて、動いている。車椅子だ。やっぱり肺が痛い。逆剥けを思い切り引っ張られたような、そんな痛さだ。動かさなきゃと思って腿に力を入れれば、爪先が冷たい床をなぞっていたことが分かった。どうやって人は自分の体を思うままに動かすのだろうか。瑚都の指示通りに腿は動かない。瑚都の思うままに末端でさえ動かない。いつもの自分の体が自分のもので無い感覚とは少し違うけれど、いつかあの感覚と融合してしまいそうだと思った。そうしたら、太陽光が透明でないことも、水が自由でないことも、桑野が本当はそんなに大人じゃないことも何もかも分からなくなって、瑚都の体と瑚都自身たらしめる感覚器官が世界との対話を止めてしまう。嫌だと思った。だから、瞼をこじ開ける。一瞬だけ見えた廊下を消毒するように佇んだ光は清潔だった。しかし手を伸ばし掴むことは叶わず、視界は黒いインクに塗り潰された。 有孔の天井。格子の奥の蛍光灯。眩しい。末端の感覚が戻ってきた。右手の指先が握られている。吐き気がする。銀色のトレーが枕許にある。上半身を捻って、嘔吐する。胃液が食道をせり上がってきて、喉の奥が開いた。トレーに黄色い液体が薄く張る。「瑚都」シーツを掴んで強張った背中が、円を描くように摩られる。骨格のはっきりした、いつもの手だ。ナースコールが鳴った。「青柳さん、青柳さん」看護師さん。多分、さっき車椅子に乗っているときも、声を掛けてくれた人だと思う。 胃液の上にいくつも小さな窪みができては平らに戻っていく。少しずつ嵩が増していく。脱水が訪れる。「吐き気止めの点滴しますよ」針が刺され、テープで固定される。幾度も咳き込み唾を飲み、咽喉の上下を繰り返しているうちに、やがて強烈だった吐き気は止み、頭痛だけが残った。体が若干楽になった途端、消失が目の前に居座った。桑野との繋がりのうち、唯一の具象物が消えてしまった。看護師が去った後、桑野はベッドから離れた位置に佇んでいた。倦厭しているのか、怖れているのか、目を合わせることはない。「ごめん」桑野の言葉は、今や何の意味も持たなかった。縋っても引き剥がされるなら、そんな人間など要らなかった。頑丈な柱が害虫を拒むように桑野は瑚都を拒絶した。それは至極全うな反応だった。あの胚芽を捨てろと言われた時点で、いや孕んでしまった時には既に、瑚都は桑野にとって呪いの毒虫に他ならなかった。「夕方には帰るよ」自宅まで送ると桑野は申し出たけれど、ひとりで帰ることにした。残り少ない体力を桑野との摩擦で消費したくなかった。日が落ちてから瑚都は病院を出た。昨日の土砂降りは去り、小雨がさららと注いだ。駅前で桑野と別れた。人混みに埋もれて行った、くすんだ色のモッズコートを、もう二度と目にすることは無いだろう。