水袋

私が水袋を見つけたのは、目覚めたばかりのまどろみの中だった。ビニールハウスの天井からぶらさがっている水袋。夜半に降った雨粒たちが地面を傷つけるのと同じ要領で、ビニールの表面を少しずつ窪ませて、朝を迎える巣を作ったのだ。水袋は彼女の鎖骨が作り出した器みたいだと思った。内側にある水の温度が違うだけで。「見て、ほら」水袋を指し示すと、彼女は目を細めてそれを見て「蜜蟻みたい」と呟いた。水袋は私たちの頭上に破裂の危険を孕んだ美しいものとして在った。私たちはストーブの火を消して毛布を畳んだ。昨夜はあまり揺れなかった、という話をした。中途覚醒は随分と減ったように思う。非常時のストレスと住環境の変化とで、私たちは寝起きすらままならなくなってしまった。だから村の人たちに誘われても、少しの安全と錠剤のお蔭でやっと保障された眠りのために、私たちは避難所に行かなかった。母屋も小屋も半壊状態で瓦は落ちて雨漏りはひどいけれど、公民館で村の人たちと生活するのは嫌だった。支援物資の菓子パンとインスタントのスープで朝食を済ませる。彼女は千切ったパンの欠片を三口くらい食べて、スープを半分飲んだ。私は彼女が残した分と、自分の分と、胃袋を埋めるのに必要な分を食べた。いつもより澱んだ春は辛い。私たちの食べることは難しくなって、私はぶくぶくに肥るのに彼女は不健康なくらいに痩せてしまう。全部、春の澱みのせいだ。地面が揺れて割れて、それまで眠っていた太古の澱みまで出てきているのだから、今年の春はいつもより難しい。いわば早熟な春だ。そのせいで孵化あるいは蛹化を経た羽化のような、ある変化の周期が乱れていることを、私たちは何となく感じ取っていた。彼女の体は窪んでいて水が溜まるのに、私の体は胸も腹もせりだしている。傍目には全く異なる体型。でも実際は同じ体をしていることを私たちは知っている。水袋を上から見るか下から見るか。それだけの話だ。計画停電の合間を縫って井戸水で洗濯機を回した。ビニールハウスの中は乾きやすいし雨を避けられるから、そこに物干し場を作っていた。「ねえ、見て」私が黄色いタオルを干しているとき、彼女が言った。天井を見上げると、物干し場にも水袋ができていた。彼女は水袋をぼんっと突き上げた。雨水の大半が窪みから飛び出して宙に舞った。ばらばらばらとビニールが飛沫に叩かれる音がする。彼女のせいで水袋は消えてビニールは少し窪んだ状態になった。また雨が降ったら水袋ができてしまうだろう。陽が傾く頃になって、私たちは自転車に乗って出かけた。買い物と市役所の見物を兼ねた外出だ。防音壁の落ちそうな新幹線の高架を避けながら、あちこちに亀裂の入った農道を走った。高校生のときに使っていた通学用の自転車は、今はどこまでも行ける足となって私たちを私たちの外に連れ出す。敷地の外で衆目に晒されているとき、私と彼女はただの不揃いの友達だった。二台の自転車に積めるだけの食べ物を買ったあと、私たちは市役所に向かった。ラジオから聞こえてくる防災拠点被災のニュースは、私たちを少なからず興奮させていた。しかし、ぐしゃりと四階部分が潰れた市役所は、二人で話していたほどに笑える姿をしていなかった。もっと滑稽で、野次馬たちの玩具にされているのかとばかり思っていた。私たちの外では、市役所の被災は悲しむべき出来事だった。私たちは自分の浅ましさを知った――いや、すでに知っていながら、ずっと忘れてしまっていたのだ。のろのろと自転車を漕いで帰った。なにもかもが気怠い気分でいることを、私たちは互いにわかっていた。帰路に目にした泥で濁った河川を、私たちは見なかったことにした。何のために私たちは避難所に行かなかったのか。そもそも、私たちにとってはあの敷地内だけが避難所だった。外に行くことは避難することにはならない。私たちのビニールハウスに帰ったなら、今朝方、私たちが地面に落としたパン屑に蟻が集まっていた。虫嫌いの彼女が嫌な顔をするから、蝋燭に火をつけて蝋で何匹かの蟻たちを殺した。冷えた蝋に閉じ込められた、小さくて黒い蟻には申し訳程度に土を被せる。そうだ、彼女の鎖骨の窪みに蝋を流し込んだなら、と考えてすぐに後ろめたい気持ちになった。熱せられた蝋は、あまりに暴力的過ぎる。その晩、私は彼女に食べさせたくて仕方がなかった。私が普段食べるくらいのものを、胃が破裂しそうなほどの体験を彼女に与えたかった。彼女は私の我儘を聞いた。私は菓子パンを千切って三口だけ食べた。いつもより大きな余震があった。私たちは互いに手首を握り合った。触れ合ったとき、あの周期が来ているのがわかった。ビニールハウスの骨組みがみしみしと軋む。頭上の水袋を思い出す。破裂の危険を孕んだ状態で、いずれ微生物や藻が繁殖してどろどろになる水袋を。私たちは泣きそうになって不釣り合いな身体を寄せ合った。十数秒間で私たちの体内は攪拌されて、あまりの怖ろしさに震えてしまった。太陽に蒸されていないのに、強いにおいのする春の澱みが迫ってくる。余震が止んだとき、彼女は土気色の顔をしていた。そして靴も履かないでビニールハウスを飛び出してしまった。私は彼女を追いかけた。真夜中だと思っていたけれどそうではなく、雁回山の縁は白んでいた。腐葉土を踏んでいる足から、春の澱みが体の中に入ってくる。彼女にも同じことが起きていて、私たちは吐き気を伴って変化を迎えようとしていた。彼女は里芋畑に分け入った。四列に並んだ艶やかな葉は清らかな月光を照り返している。里芋の葉に顔を翳した彼女は、やがて嘔吐した。つるつるとした撥水性の葉は一度は彼女の嘔吐物を受けたものの、すぐに地面にかえしてしまった。どろどろの粥みたいなものが、太い葉脈の上を流れた。他人の白く濁った液体を私は初めて目にした。「汚いね、すっごく汚いね」慰めるような優しい手つきで彼女の背を摩ってあげた。私の想像の中で、私は慈母で彼女はみすぼらしい子供だった。彼女の口元を覗き込むと、下唇や歯や口端の産毛に菓子パンだったカスが付着している。ぜえぜえと喘ぐ彼女の息は酸っぱいにおいがして、私は噎せて里芋の葉に嘔吐した。葉はやはり受け皿にはならなかった。彼女の嘔吐物と私の嘔吐物は、地面の上で境目をなくしていった。「汚いね、あんたも」彼女は汚い顔で、私を嫌悪した。