宵闇は肌を蹴る

s̀icïnu juːnna pstunudu pavviuzsa sakˢiɳ bakamidzu amiutaribadu/pstoːbakagaiz/pavva bakagairadana ntazsuga/aru tusï pavn makiːbakamidzuamiutiː/pavva bakagaiz/pstoːbakagairan´n´oːɳ naztaz ca. 「節祭の夕には蛇より先に人が若水を浴びて居ったから、人が若返り、蛇は若返らずに居った。処がある年、蛇にまけて人が後で若水を浴びたから、蛇が若返り人は若返らぬ様になったという」ニコライ・ネフスキー『月と不死』より

帳簿を閉じた。肩甲骨を寄せて寄せて、ふっと力を抜く。若者たちの熱気の去った空気が、肌に虚しく纏わりついた。他の部員たちは二時間ほど前に部会を終わらせて、学生街へと繰り出して行った。両隣の部室だって、既に施錠されているだろう。蛍光灯を眠らせて、鉄扉に手をかけた。中空の叩けば喧しく鳴る扉。入るときはうるさいけれど、出るときは静かだ。鍵をかけて振り返れば、黒漆を塗りつけて螺鈿細工を施したみたいな空。さそり座のアンタレスが、やけに眩しい。「月が無いのか」確認するように言っても、誰もいないけれど。三つ、部室の前を通り過ぎて階段へ。剥き出しになったダクトも壁も、黒々の影に一体化している。ふと、靴底がコンクリートを撫ぜる音がした。上の階だ。こんな時間まで何をしているのだろうと、自分の事を棚に上げて不審に思う。だけれど駅までの連れができたら、なんて淡い期待も抱いた。五階から降りてきたのは、あどけない顔立ちの少女だった。膝丈の黒いワンピース姿。なぜか重そうなバケツを抱えて。「お疲れ様です」声をかければ、彼女は階段をあと二段ほど残して、立ち止まった。中央で分けられた前髪の間から、黒目がちな眼が覗いていた。なんだか、両生類みたいな印象を受ける。「運びましょうか」訊けば、一拍置いて彼女は返事をした。「大事な、水なので……」ただの水道水だろうに。「じゃあ、鍵開けますよ。貸してください」右手を差し出せば、彼女はちょっとの戸惑いを眉尻に滲ませて、軽やかな金属音を私の掌の上に落とした。鍵の先端を抓んで、そこにぶら下がっている札の文字を読む。癖のあるボールペンの字で、「生物研究会」と書かれている。初めて聞く名前の部だった。部員の数も部室の場所も知らない。彼女はそのまま私の横を通り過ぎて、物置部屋の前で立ち止まった。誰かがその部屋に出入りするところを、私は見たことが無かった。「そこ?」ちょっと腰を反らすようにして、バケツを提げた少女。実体はあるのに、どこか朧気な印象。離れて眺めると、霧とか霞とかそんなので構成されていそうな感じがする。彼女の脇まで行って、扉を観察した。しかし他の部活のように、張り紙がされているわけでも、プレートが掛かっているわけでもない。鍵を開けて扉を引けば、少女は軽く会釈をして室内に入って行った。私も彼女の後ろから部室に滑り込む。いつもの癖で照明のスイッチを弄ると、寿命の近そうな蛍光灯がひとつだけ数回の点滅の後に命を灯した。無機質な白い光に照らされた部屋は殺風景だった。事務机にデスクトップパソコン、アルミラックには大きな飼育ケースがひとつ。あとは黒いソファと冷蔵庫と、なぜがタライがある。少女はその鈍銀のタライの上で、バケツの水をひっくり返した。既にいくらか水は溜まっていたらしく、タライは満杯になった。「何か、飼ってるんですか?」こくりと頷く少女は、飼育ケースを指さす。「カラスヘビ。シマヘビの黒変種」確かに、飼育ケースに黒くとぐろを巻いた蛇がいる。結構、大きい。「そのタライは?」生物研究会だから、生き物の一匹や二匹飼っていて当然だけれども、この大きなタライの用途は想像できない。「水浴び用」「蛇の?」「私の」少女は腕を交差させて、ワンピースの腹あたりの布地を掴んだ。服を脱ぐモーション。私はとっさに飼育ケースに近づいて、蛇の観察をはじめる。蛇は鋭い眼をしているのかと思っていたが、そうでもなかった。案外に、円らな瞳。表皮を見ていると鎖帷子を想起するが、それよりも艶やかだ。管糸をログウッドで染め上げて、丁寧に撚って綯い上げたみたいな。背後で、軽い布とボタンが床を鳴らした。金ダライの内壁を液体が叩いて、空気にぶつかって。飼育ケースの硝子に反射した像に、目を凝らしてしまう。蛇の舌が素早く出し入れされる様がピンボケする。数度瞬きをして、壁掛け時計に目をやった。「帰らなくて大丈夫なんですか? もう閉館時間近いですよ」水粒の音がする。「週明け、また来てほしい」「いいですけども」背中越しの会話は、何となく現実味が無い。「守衛室に荷物が届くから、それを持ってきてくれると嬉しい」「あ、はい」間抜けな返事をする。どうやら使い走りにされるらしい。タライの底がへこんだのか元に戻ったのか、鈍い音がした。少女が立ち上がったらしい。水面に滴が吸い込まれていく軽やかな響きに、耳介が振り向け振り向けと言ってくる。髪を絞ったのか、一瞬だけ蛇口を捻ったみたいな音もした。「そろそろ、ここ閉まるよ」少女は暗に、私に帰れと言っているようだが、先刻私も同じ趣旨のことを少女に言った。帰路につかねばならないのはお互い様のはずなのに、少女は部室を出る気配を見せない。「先に帰りますね。終電あるんで」タライの方を見ないようにしながらドアノブに手をかけて、そろりと闇夜に滑り出る。扉が閉まる間際、星の眩しさに言い訳して隙間から室内を覗き見た。「お疲れ」驚くほど真っすぐに視線が合った。いつの間に服を着たのか、布地が濡れた少女の肌に張り付いていた。さほど主張していない乳房の膨らみ。布地によって模られた輪郭。その影は私と少女とを隔てた鉄扉に残って、なかなか消えてくれなかった。 直射日光に目を細めて、あまりの暑さに日陰へ駆け込む。首筋のべたつきを荒く拭って、守衛室から流れてくる冷気に深呼吸をした。「すみません、生物研究会に荷物は届いていませんか?」訊けば、守衛は奥の冷蔵庫の下段から、発泡スチロールの箱を出してきた。「これ、要冷凍ね」その白い箱を受け取って、階段を昇る。大きさの割に発泡スチロールは重い。何が入っているのか。四階まで駆け上がる。冷凍と聞いたから、早く届けなければと思ったからだろうか。あの物置部屋みたいな部室の鉄扉を、三回ノックする。十数秒経っても扉は開かない。もしかすると、不在なのかもしれない。この時間は、六限目の最中だ。在室時間を聞いておけばよかったと後悔しつつ、念のためドアノブを捻ってみる。開いた。箱を脇に抱えて、照明の息吹がない部屋に入れば、扉の閉まる風圧が脛を摩った。西に傾きかけた太陽の光が、窓硝子に四角く切り取られて、ソファーの端と少女の脚とを照らしている。柔らかくはなさそうな黒革のソファーの上で、彼女は寝息を立てていた。枕にされた肘掛からは、墨汁みたいな髪が傍に置かれたタライの中に滴っている。起こしてしまってはいけないと思って、私は声をかけずに勝手に冷凍庫を開けさせてもらった。そこに入っていたプラスチック製のタッパーを端に寄せて、発泡スチロールごと冷凍庫に入れる。「来てくれたんだ」ソファーに寝転がったまま、彼女は顔だけをこちらに向けていた。冷凍庫の引き出しを閉める。「ええ。でも、よくよく考えたら、私が取りに行く意味って無いですよね」少し嫌味を言ってみる。「ごめんね。この時期は眠いから」微睡む瞼を擦りながら、彼女は返事をした。そのまま、しばらく彼女の上体が起きる気配はなかった。寝起きは悪いようだ。この後は暇なのだが、帰宅したいわけでもない私は先週の深夜と同じく、あのカラスヘビを眺めていた。飼育ケースの中には水場があって、蛇はその中に尾の十センチ程を残して収まっていた。あの晩の、彼女のようだと思った。「ねえ、そこの電気ケトル、沸かしてくれる?」やっと立ち上がった彼女に頼まれて、飼育ケースの傍にあった電気ケトルの電源を入れた。背中で、冷凍庫が開く音がする。「あと、マグカップ取って」電気ケトルの横に、白いマグカップが二つ。「これ、ですか」振り返って差し出すと、彼女は首肯してマグカップの中に何かを入れた。真円の縁の内側を覗き込む。そこにはピンクがかった肌色の物体が入っていた。その形は、月齢の浅い胎児を彷彿させた。「冷凍のマウス」これは何かと問う前に、彼女は答えた。なるほど蛇の餌か、と合点がいった。電気ケトルが、沸騰を知らせる。「お湯、ちょっと冷まして」言われるがまま、もうひとつの取手だけ黒いマグカップに、湯を注いで放置した。彼女は、飼育ケースを横から覗き込んで、まるで会話でもしているかのように、蛇と目を合わせていた。往年の友のような、そんな雰囲気だ。突然に彼女は、飼育ケースの蓋を開けると、そのまま中に手を突っ込んだ。息を詰めて見つめる。彼女の手に迷いはなく、とぐろを巻いた部分を上から鷲掴みにして、ケースの外へ出してしまった。カラスヘビは逃げ出そうと、幾度か体をうねらせたが、彼女は指を上手く動かして、それを阻んだ。爬虫類でも手乗りになるのかと感嘆する。左手に蛇を乗せたまま、彼女は器用に床の新聞紙を剥がして、新しいものを敷いた。「手乗り蛇ですか」大人しく人間の手中で丸くなるカラスヘビ。だんだんと可愛らしく思えてくる。「ハンドリングするのは、掃除の時くらいね。この子は、さほど嫌わないけれど、人の手が苦手な子もいるの」蛇が再びケースの中で大人しくなる頃には、湯はぬるくなっていた。 湯煎で解凍するらしく、冷凍ネズミの入ったカップに、ぬるい湯を移す。「お腹がフヨフヨした感触になったら、内臓まで解けてるの」そう言いながら、彼女はネズミの腹部を触る。慣れ、なのかもしれない。頃合いになったらしく、彼女はネズミを抓み出して、水分を布巾で拭った。今度は、割り箸で掴むらしい。「給餌、やってみる?」興味が無いと言ったら嘘になるので、素直に箸を受け取ってネズミの腹を挟む。素手でなくて良かったと思いつつ、飼育ケースの中、蛇の頭の傍に静かに置いた。カラスヘビは首をもたげて、しばし辺りを警戒する素振りを見せた後、口を大きく開いて赤みがかった肌色の物体に牙を立てた。「顎、外れそう……」驚くべき開口角度である。「蛇は顎が外れる、なんて馬鹿げた噂もあるけれど、本当は顎関節が方形骨を介して二つあるの。それで、これだけ開く」やがて、ネズミは蛇の喉より奥に収まっていった。ネズミがいるのであろう部分は、膨らみを持っている。「初めて見ましたよ、蛇の食事なんて」冷凍ネズミにしても、それを丸飲みする蛇の様子にしても、気持ちの良いものではないが黙っておいた。「また、週明けにおいでよ」決して強い語調ではないのに、拒んではいけないような気がした。言葉と言葉の間に置かれた一呼吸に、寂しげな息を感じ取ったからかもしれない。「カラスヘビに会いに来ますよ」「それでいい」眠そうな表情は、安堵しているようにも思えた。 ɳk´eːndu s´icïnu juːnu mizïu tiɳkara urus´ivaːlbadu/niɳgiɳjukara amiru tiːsï̥badu/niɳgiɳja makiːpau̯nu sakˢï nari amital tiːaz´z´ibadu/niɳgiɳja s´ikatainaitiːtïːtu pagᶻitu aruːtaltiː/as´ibadu/cïmeːɳgᶻïbaɳ-ɳgᶻïbaɳ tada m´eːja ksïːksï s´ïːbul tiː/pau̯ia sïnirubamai sïdiːja ikˢïikˢï-stiː 「むかしむかし節祭の夕に天から水を下ろして下されたら「人から先に浴びろ」との事でしたが、人間がまけて蛇が先になって浴びたので、人間は仕方なしに手と足とを洗った。だから爪だけがいくらぬいても、つぎからつぎへと生えて来るのである。蛇は死んでもどんどん蘇生してゆけるのである」ニコライ・ネフスキー『月と不死』より 安全柵の銀色に、月影が神々しいような一直線を刻んでいた。その光の筋を遮断する暗幕のように、彼女のスカートは佇む。補講をこなして部活棟に駆け込んだのは、午後八時過ぎ。来週も来るようにと彼女は言ったが、この時間でも間に合うか不安だった。急く気持ちをそのままに、壁に溶け込んだダクトや張り紙を横目に流しながら、あの部屋に向かう最中だった。闇夜に紛れるはずの黒いワンピースが、妙に浮かび上がって見えた。観察時間を僅かに要して、それが彼女の白魚のような四肢と顔のせいだと察する。柵にもたれかかってちょっと重心をずらしたら、半透明の羽根を生やして、アルソミトラの種子みたいに飛んで行ってしまいそうだと思った。彼女を呼ぼうと思って声帯を開いた。しかし、気道の空気は少しの振動も捕まえずに、口から出て行ってしまった。彼女の名を知らない私は、柵越しに、ただ眺めた。水を多分に含んだような彼女の肌は、今にも溶け出しそうに見える。あと少しで融点を迎えて、月光を捕まえ、乳白色を宵闇に流すのかもしれない。いつの間に、黒い衣は糸を解いていた。これから蛹化するみたいに、彼女は膝を抱える。何かが悲しくて、泣いてしまったのかもしれない。私のせいかもしれない。こんな時間になってしまったから。ごめんなさい、遅くなりました。カラスヘビに会いに来ました。そう背後から告げようと思って、距離を詰める。そんな彼女の背に、黒い線が一本走った。左右の肩甲骨の間、背骨に沿って引かれた直線。一瞬、彼女が身を震わせれば、直線は裂け目へと変じた。皮膚と皮膚の隙間から、赤子のような柔肌が覗く。その様はアイスランドに見えるような、正断層を想起させる。彼女は肩幅を狭めるような姿勢をとる。小さくなった衣を脱ぎ捨てるが如く、皮膚を脱ぐのだ。胴、頭、両腕の順に、朝露のような皮膚が、夜との挨拶を済ませていく。微細な血管なんて透けてしまうのではないか、と思う。甘美な裸体は彼女の複製を生む。腹に虚無を孕んだ、もう一人の彼女。左足、右足と、ストッキングを脱ぐように。つんと伸びた爪先が抜けていく。脱皮、だ。尋常の人間なら、比喩としてしか成せない脱皮。ただ彼女の脱皮は、蛇やなんかの脱皮とは、そもそもの性質を異にする気がした。彼女は捥ぎたての白桃で、幾度皮を剥いても、風味も甘さも落ちることを知らない。捥いだままの瑞々しさで、甘さで。香が熟すのでもない。舌触りも、何もかも変わらないのだ。食べごろには、あと少し時間を要する少女のまま。私は臙脂色のパーカーを、生まれたばかりの皮膚に掛けた。ちょっと指先が触れた体表面は冷たくて、熱帯夜を欲している。「ワンピースの一枚も邪魔、肌も邪魔。全部脱いじゃえ、ってことですか」大胆ですね、なんて冷やかしを浴びせたが、彼女は私に注意を向けなかった。立ち上がって柵から身を乗り出して、彼女は自分の脱皮を放り投げた。一度だけ、弱い風に翻ったそれは、あとは静かに沈んで私の視界から消えた。 蛍光灯は、弱々しい反応の後に、ぼんやりと目を覚ました。羽虫のような音を鳴らす様は、寿命を予感させる。緩慢な呼吸を繰り返す明かりを、角膜に映して、彼女は口を開いた。「そろそろ交換の時期みたいね」室内は、暗くなったり明るくなったりを繰り返す。「切れたら、私が頼みに行きますよ」言ってみると、舌の上で砂糖がざらつく感じがした。「もう何回も何回も、替えたの。そのくらい長い間、私はここに住んでる」「え、住んでる?」この部屋には生活感が無い。それ以前に部室棟に住むなんて、馬鹿げている。「電気も水道もあるし、自販機もあるし、洗濯機だってあるもの。安い下宿よりも、快適に生活できるから」理由として、適切とは言い難い。彼女は開け放たれた窓に向かって、空気を掬うように掌の形を作った。今、あの掌が拾い上げたのは真白の円だ。「月から、使者が来るでしょう」「ええ、まあ」生けるものたちは皆、月の満ち欠けや潮の満ち引きに合わせた周期を持って、知らず知らずに影響される。だけれど彼女の言う月よりの使者は、もっと狭い意味だ。「私にも、年に一度だけ来るの」年に一度、ある新月の晩に使者は訪れるという。天秤棒で桶を担いで、彼女に水を届けるのだそうだ。その水を浴びた彼女は、次の満月に皮膚を脱ぎ、一年分若返る。「だからね、もう何年も年をとっていないの」わざとらしい明るさと微笑でもって言い放たれた言葉は、病人が気丈な振舞いで自らの余命を吐露する調子と似ていた。年齢を重ねることのできない彼女には、終わりがない。「私、この部室棟が建てられた翌年から、ここにいるの」生の終幕は悲劇だ。普遍的に、そうなのだ。しかし、不死だって悲劇の色を持っている。けれど当人は意図して、その色を視界に入れていない気もする。「ここは楽しいの、本当に」喋り声の集団が、一度だけ大きくなったかと思うと、再び小さくなって消えた。「朝の六時になったら、誰かしらがやってくるのよ。だらだらと空きコマを過ごす人、夜勤明けに眠る人、いろんな人がいる。昼時にはどっと賑やかになって、夜までそれが続くのね」宙ぶらりんな身分の学生たちが集まった特殊な社会の隅っこで、彼女は本当の意味で変わり映えのしない生活を続けているのだろう。現代社会の供犠になる前、最後の宴に興じる学生たちの熱を受け続けて、永えの若さと自由に浸って。「私、きっと酸素以外の何かで呼吸してるの。部室棟には、その何か――きっと蒸し風呂の水蒸気みたいなものなんだろうけど、そんな何かがあってね。だから、私はここでしか息ができないんじゃないかな」彼女は、飛膜を得たとしても、中空の骨を得たとしても、この場所を発つことは無いのだろう。成長しない姿と成長したくない心が、彼女をこの古びた部室棟に閉じ込める。年に一度、馬鹿げた遊びの享楽とか、奴隷になる前の悪あがきとか、色めいた関係性だとか、そういう熱を全身の皮膚でめいっぱい吸い込むのだ。そのために彼女は、宵闇に肌を蹴り捨てる。そうして変化を拒絶する。変わることは、怖いことなのだ。きっと。「そろそろ、帰りなよ。終電来るよ」タライの水を掻きまぜる、大人になれない彼女が見えた。「そうですね」鉄扉に手をかけて強く押す。飽和した月光に、アンタレスは息をひそめている。ものいわぬ望月に聞きたいことがあった。どうして、彼女に水を与えるの。どうして。「待って!」ぐっと、腕を引っ張られた。眼前で扉が閉まるのと蛍光灯の断末魔とが、ほとんど同時だった。利かない夜目を見開いていると彼女の腕が伸びてきて、三本の指が前髪の間に忍び込んで私の額に触れた。ひんやりとした感覚。眉間のあたりに滴を感じる。「……どうしたんです?」「おまじない」中指と人差し指と薬指とで、脈を刻むように三度額を撫でられる。「かのわかみづと みをなして きみと……ね」薄く開いた唇が、さやかに笑んでいた。