太陽の処女

四駅離れた高校に入学した。半島の海岸線を走る路線を使って通学する。学校まで遠いことは不便だか、車窓から朝日を拝めるところは気に入っていた。いつも乗るのは六時二十分発の列車だった。その列車に乗ればちょうど朝課外に間に合う。入学して間もない頃、ある女生徒が毎日同じ席に座っていることに気づいた。真っ直ぐな黒髪が腰まであって、とても美しい人だったから、目に留まったのかもしれない。容姿端麗な彼女を常に視界の隅っこに捉えていた。読書をするふりをして彼女のことを見ていた。最初は単なる憧れと嫉妬だった。私はお世辞にも美人とは言い難い顔立ちで、背だって低い。目も小さくて、あばた顔で。端的に言えば、醜い。自分とは正反対の外見的特徴。やはり彼女は綺麗だった。ある日、私は彼女を下駄箱までつけて行った。悪趣味だとは思いながらも、知りたいという欲求は抑えられなかった。話しかける勇気のない意気地なしには、こっそり盗み見るのがお似合いだ。不審がられないように遠くから見ていた。しかし、彼女が生徒昇降口に向かう気配は無かった。本来曲がらなくてもいい地点で、彼女は右折する。ローファーの音。こつり、こつり。美麗な女生徒が吸い込まれていったのは、職員玄関脇の小さな扉だった。彼女は確かに、この学校のセーラー服を着ている。教師でもなければ事務職員でもない。不思議だった。何か秘密があるに違いないと思った。私は高揚した。途轍もない秘密を、自分だけが知りえたような錯覚すら覚えた。その日から、校内で彼女を探し回った。休み時間は、あらゆる場所に赴いた。職員室、図書室、中庭。上級生の教室の前も、通り過ぎるふりをして、室内に彼女がいないか確認した。しかしながら、彼女を発見することはできなかった。彼女が入って行ったあの小さな扉も見てみた。扉の奥には、錆びついたスチールの下足箱がひっそりと置かれていて、彼女の物と思われる革靴が一足だけ入っていた。小さな扉は魔力を持っていて、その力を以て彼女を隠してしまっているのかもしれない。突飛な考えが浮かぶほどに、私は彼女に執着していた。列車の中で一方的に眺めるだけ。この関係に終止符が打たれたのは、それから約一週間後のことである。 その日は、調子が悪かった。下腹部の鈍痛だけでなく、吐き気までしてきたものだから、五限目には耐えきれなくなって、保健室に向かった。「二日目で」言えば、養護教諭は申し訳なさそうな顔をした。「今から先生たちの会議があってね。別のお部屋でもいいかしら。ソファーならあるから」黙って頷く。年齢不詳の養護教諭に促されるまま階段を上り、職員室の正面にある部屋に入った。『教育相談室』という札を掲げた木製扉を養護教諭はノックもせずに開ける。会議のはじまりを急いでいるらしかった。扉の隙間から覗く人影に私は目を見開いた。逆光でくっきりと描かれたシルエットの縁を、その長い黒髪を、私は知っていた。そして、探していた。咄嗟に、私が彼女を探し回っていたことを、悟られてはいけないと思った。今思えば、この時には既に、自分の抱く感情が、ただの憧憬などではないことに薄々気づいていたのかもしれない。「この子も、お願いしていいですか?」「いいですよ」養護教諭に返事をしたのは、初老の男性教諭だった。美麗な少女に釘付けになっていた私は、教諭の存在に少し驚いた。大きな音を立てて養護教諭が出て行き、私はソファーに腰かけた。応接室にあるような黒革のソファー。あちらこちら破れたり、擦れたりしている。昔、校長室かどこかで使われていたものだろう。男性教諭に横になってもよいと言われ、私は肘掛に頭を置いて楽な姿勢をとった。目を閉じてじっとしていると、数分経ったくらいから視線を感じはじめる。視線は正面から来る。男性教諭はL字型に置かれたソファーの、もう一方に座っているから、先生ではない。彼女からの視線だ。思わず、ぱちくりと瞼を上げれば、彼女と目が合った。「あ、ごめん」「いえ」持っていた本で、口許を隠しながら彼女は謝った。その仕草がかわいらしくて、表情筋が溶けそうになる。「もしかして、同じ列車に乗ってる子かな、と思って」端正な顔が、私に向けられていた。横になったまま喋るのは失礼だと思い、ずるずると上体を起こす。「列車、一緒です」緊張して、片言のようになってしまう。「やっぱり」会話は、それきり続かなかった。静まり返ってしまった部屋の空気は、やがて私に睡魔をもたらした。うつら、うつら。うつら、うつら。しばらくすると、断片的に単語が耳に入ってくるようになった。夢と現の狭間で、彼女と男性教諭の声が聞こえてきた。興味をそそられた。途中途中、どこかの国の言葉が混じっていた。けらけらと軽快な笑い声がする。さらさらと頁が擦れる音がする。先生と彼女は、本を片手に談笑しているようだった。私は、その話に聞き耳を立てていたかったが、ぐわんぐわんと眩暈がしてきたものだから、再び眠ることにした。誰かに躰を揺さぶられて、はっと起きれば、目の前にいたのは年齢不詳の養護教諭と男性教諭だけで、彼女はどこかに消えてしまっていた。「あの、女の先輩は?」寝言のような口調で訊いてしまう。「帰ったわよ」五限目終了と共に帰宅とは、自由な身分だ。進級や卒業には差しつかえないのだろうか。やはり、彼女は不思議な人だった。 翌日、彼女はいつもの席にいた。車両前方の二人掛けの席、その窓際。通勤通学の時間帯とはいえ、この列車の沿線は過疎だから、彼女の隣の席が埋まることはない。車両後方の扉から乗り込めば、彼女がこちらを見ていた。細長い指の春色に染まった先端が、私に向かってちらちらと振られる。急いで会釈を返す。おいで、おいで。彼女の手が、私を招いていた。早鐘を打つ心臓に合わせて、早足で木製の通路を歩く。「おはよう」「お、はようございます」ざっと梳かしただけの髪が気になって、慌てて手櫛をかけた。彼女の髪は、溶かした蝋のような光沢があって、絹糸のようにしなやかだった。「昨日は大丈夫だった?」頷けば、彼女は目を細めて微笑を浮かべた。レールと車輪が触れ合って生み出される、心地よい揺れの中で、私たちは他愛もない会話を楽しんだ。互いに、簡単な自己紹介をした。体調の話、天気の話もした。「私たち、名前が似ているのね」そんな話にもなった。彼女は佑奈で私は友里。色違いの服を着ているような気分だった。窓硝子の向こうを流れていく海原のきらめきが、いつにも増して白銀色を放っていた。日射を遮る雲が無いせいかもしれない。「私、人と話すのが苦手なの」会話の隙間で、彼女はそう告白した。そんな風には見えないのだが。「先輩は私よりも、お話上手です」彼女は、どちらかといえば饒舌だ。かといって、早口なわけでも、語彙が難しいわけでも、口を挟む隙がないわけでもない。間の取り方も上手くて、ハスキーな声は聞き取りやすい。羨ましいくらいに。「今は、気をつけているから、大丈夫なんだと思う」彼女曰く、他人の反応を無視して話し続けてしまう癖があるそうだ。それで、同級生から倦厭されて、教室に居場所がなくなった結果、教育相談室に登校しているらしい。「吉岡先生とは、普通に話されているように見えました」「先生が聞き上手なの」彼女の手が、私の首元に伸びてきた。どきりとする。セーラー服の襟が曲がっていただけらしい。彼女の指が、私の机に直接触れることはなかった。「昨日は、何の話だったんですか?」「気になるの?」「少し」ほんとうは、少しどころじゃないけれど。「インカ帝国の、生贄の話をしていたの。凍死した少女は何者だったのか、そんな話」詳しく教えて欲しいと頼めば、彼女と親密になれるだろうか。いや、その前に、最低限の知識を得なければならない。予習は大事だと、先生たちが言っていた。間もなく、四方駅、四方駅。学校の最寄り駅。ききい、と列車が止まった。 インカ帝国は、およそ八百年前にアンデス高原に興った帝国だ。この国は、一五三二年にスペイン人に征服されるまで続いた。文字を持たず、国中にインカ道が走り、太陽の化身たる皇帝が支配していた。南米に存在した巨大な帝国。正式名称は、タワンティン・スーユ。辞書で、ざっと調べて分かったのはこれくらいで、生贄に関する記述は無かった。図書室の蔵書も当たってみたが、インカ帝国に関する本は見つけられなかった。翌日、彼女はまた同じ席にいた。「先輩、生贄の話。続きが聞きたいです」言えば、彼女は嬉しさと驚きが半々に混じったような表情を浮かべ、自分の隣の席を叩いて示した。小さく頭を下げて、そこに座る。ぷしゅう、と自動扉が閉まって、列車は走り出した。「ユーヤイヤコの、生贄の話なんだけど。この間、先生と話していたのは」インカ帝国には、アクリャという少女たちがいたという。乙女とも、太陽の処女とも言われる。太陽神や皇帝に仕えるべく集められた、帝国各地の少女や皇族の婦女たちが、乙女の館にて共同生活を送ったという。アクリャは美しく、賢く、健康でなければならなかったそうだ。一九九九年、アメリカの考古学者ヨハン・ラインハルトが、ユーヤイヤコの山頂付近で、三体のミイラを発見した。スペイン人宣教師の論文と照らし合わせて考えると、彼等はカパコチャという儀式の生贄であったという。三体のミイラのうちの一体は、十五歳くらいの少女で、壮麗な装飾を纏っていた。彼女はアクリャだったのではないかと言われている。そのミイラは、乙女を意味する、ラ・ドンセーヤと名付けられたそうだ。「これが、ラ・ドンセーヤ」彼女が見せたのは、携帯電話の小さな画面。初めて、ミイラの写真を見た。もっと、骸骨のような姿を想像していたが、その少女は、まるで眠っているかのようだった。皮膚の生きたままのようである様子や、髪の丁寧に編み込まれた様子は、写真からも見て取れる。世にも美しい死体。そんな文句が、浮かんで消えていった。 翌日も、また翌日も、私たちは列車の中で話し込んだ。彼女の話に、私が相槌を打ってばかりだったが、話は面白いし、声を聞いているだけで心地がよかった。民俗学の話、歴史の話。彼女は、知識をひけらかしたいのではなく、単に自分の好きなことを語りたいだけなのだ。彼女は、自分は嫌われていると言っていたが、理由が分からなかった。こんなに、面白い人なのに。彼女の語りは熱心だった。私は隙を見て、彼女に触れようと手を伸ばした。本の受け渡しをするときに、少しだけ指先を触れさせることから始まって、徐々に、腿と腿の距離を詰め、座席の上に置かれた手に、そっと自分の手を重ねられるようになった。明らかに多いスキンシップを、彼女は不審がるでも、拒否するでもなく、私の好きなようにさせていた。それ故、彼女は気にしていないのだろうと、私は高をくくっていた、「アクリャにも種類があってね」一生、神に仕えて貞潔を守るのは、太陽神の血族たる皇女たちだそうだ。各地から集められたアクリャの中には、皇帝の側室になる少女も、臣下の妻になる少女もいたという。重ねた手を、列車の揺れに会わせて引こうとした。その瞬間、手首を捕まれた。「私を好きになっても、不幸になるだけよ」ついに、このやましい感情が、伝わってしまった。比喩ではなく、本当に震えた。この瞬間の私は、現行犯で逮捕された咎人のようだった。「そんなこと、ありません」否定すれば、眉根を顰める。「それとも、私のために生贄になる?」自嘲じみた台詞。彼女が、あのアクリャのことを言っているのだと、私には分かった。一人の男も知らぬまま、ユーヤイヤコの山頂で息絶えた、ラ・ドンセーヤ。カパコチャの儀式で、人身御供となった太陽の処女。同時に、彼女もまた、私と同類なのだと知った。「でも、インカの人々は、死して後、神々と共に理想の世界で暮らすのだと信じていたのですよね」あなたの生贄になっても、私は幸せになれる。「彼女たちは、コカやチチャを大量に摂取して、死への恐怖が薄まったところで、人柱にされたの。空気の薄い寒い場所で死んでいった彼女たちが、幸せだとは思えない」私たちは、私たちにしか分からない言語で会話していた。女同士で愛し合っても、幸せになれない。彼女の主張は、理解できた。でも、私の彼女への好意が否定されたようで、辛かった。貴女の言う幸せとは、何なのかと、問いたかった。「現代の価値観に、合わないのよ」人身御供のことなのか、私が抱いている恋慕のことなのか、はたまた両方なのか。その真意を解することは、できなかった。 三連休が明けた。無人のプラットホームに立っていれば、海風を引き連れて、列車がやってくる。違和感があった。連休前と違うのは、太陽の角度、気温、照り返しの強さ。いや、それだけではない。大事な何かが欠けている。すぐに気がついた。彼女がいないのだ。車掌の声が、焦燥を駆り立てた。 職員玄関横の小さな扉のそばで、見覚えのある男性教諭を捕まえて、彼女の行方を問う。「薄情なやつだと思わないでやってはしい」教諭は、そう言った。彼女は学校を辞めていた。ずいぶん前から決まっていた事らしかった。