三葉虫の屍に萌えるもの

 衰退を哀退に空目した。 かなしみが充填された「会いたい」は会えないことの裏返しで、それをきっと哀退というんだろう。あたしはスマートフォンのメモ帳に書き続けている造語辞典の、一番はじめの項目を更新した。あ、あい-たい、哀退、名、スル。例文、哀退するあたし、哀退した三葉虫。類語、遠縁。 格安ホテルの大浴場から、新幹線の高架が見える。空の半分くらいが灰色の路で埋まっている。まだ早朝なのに高架は鳴っていて、あれに乗ったら故郷にだって帰れるんだって不思議な気持ちになった。道がぜんぶ繋がっているなんて信じられない。だって、あたしの故郷と、この異郷は地続きじゃないもの。あなたも似たようなものでしょう。 虫さんや枯葉さんもお風呂が大好きです。気がつかれた方は、やさしくすくってあげてください。わかりました。三葉虫さんと混浴してもいいですか、だめですか。そうですか。 ここから見上げる空はぎゅっと膝を抱いてしまいたくなるくらい狭い。この街に息づく人間はたくさんいて、あたしの隙間は無いんじゃないかって。夏の光で大呼吸する木々も、沸騰しちゃいそうな水辺も、言葉ばかりが詰まった箱も、すれ違える程度の隙間はくれたってあたしが生活をする隙間はくれない。聞いたこともない鳥の鳴き声や文字の密集体が十秒前にはあった隙間を埋めてしまう。学籍もずっと遠くにあるし、住民票なんか一五〇〇キロくらい先に置いてきた。 ペルムの森、という名の場所。ミチノクのどこかにあるらしい。三葉虫が緑色の血を流して、湯船の縁で泣いている。お揃いね、あたしの血も緑色よ。ほうら、手首の血管が緑でしょう。この痣も緑でしょう。ねえ、三葉虫。あたしがつくった隙間に入り込んで。お願いよ。上手く言って聞かせるわ。あなたの血がもう誰にも利用されないように。ふらふらの間に捕食されないように。大丈夫よ、お揃いだから。あたしたちの血は同じ色をしている。けれど、やさしくすくってあげられるほど三葉虫はあたしの手を信じてくれない。血を抜き取った人間の手とおなじ形をしているから。 え、えん-えん、遠縁。三葉虫は緑色を流して泣いている。  夜が深くなって、あたしはキーを預けて街へと繰り出した。JR東日本の看板は、あたしと土地の不和だった。 傷だらけの三葉虫は、地面に緑色の線を残しながらついてきた。あたしはペルムの森を探す。霜でいっぱいになった冷凍庫みたいな悲しさが、あたしたちを繋いでいた。ひっそりと発光する自販機で緑色のエナジードリンクを買ってあげる。安直だけど流れてしまった命の代わりになるんじゃないかって思った。 三葉虫の前にちょっとだけこぼすと、彼女はおそるおそる触角で触り、ひと舐め。お口に合わなかったようなので残りはあたしが飲んだ。しばらくして、カフェインが強すぎたのか鼻から液体が垂れてきた。それを拭った右人差し指が深緑になった。 ペルムの森はミチノクのどこかにあるはずなんだ。ミチノクだか、キタカミだか記憶があやふやになってきたけれど。杜の都の地下、既に固まってしまった地層、泥濘のなか、まだニホンなんてなくて世界がパンゲアだった頃の森。シダ植物の楽園。すべてが地続きだった時代、濃密な酸素の中を胞子たちが飛び交っていた。 あたしね、あなたも緑色の血をしていて、傷だらけだってこと以外を知らないの。あなたが好きな本も、最後に泣いた理由も、ひと息つける場所も、どんなふうに生きてきたのかも何も知らないの。人間たちから伝え聞いたあなたの姿なんか信じないわ。だって語ってしまえば全部嘘でしょう。だって、だって、あたしたちのナラティヴは誰かに翻訳されて曲解されてしまうのが常でしょう。 過剰適応の綿毛が階段の隅に吹きだまっている。 あたしたちは木々に囲まれた場所に行くために、たった数段しかない段差をひいこら言いながら昇った。ずいぶん緑色を消耗してしまったような気がする。そこは静かすぎるくらいの場所だった。夜街、その蛍光灯の断片は綻んだカーテン越しのようで、あたしたちはやっと落ち着くことができた。 ねえ三葉虫、あなたの異郷はあたしの異郷よ。 あたしたちは石のベンチに少し離れて座った。むんっと酸素が深くなる。まだ誰も言葉を持たなかった時代にあたしたちは戻っていく。乱交する植物たちの飛ばす微粒子にまみれる。三葉虫はぐっと身を固まらせ、伸びをして脚や背甲を分解させると見慣れた女の姿になった。あたしたちは互いの皮膚に爪を立てる。あなたを傷つける最後があたしであるように、あたしを傷つける最後があなたであるように。うまく、いきていけるように。破れた膜の痛みを、もう思い出さなくていいように。そうしてエナジードリンクの空き缶をなみなみの緑色で満たした。あたしたち、ふたりの血混。 煙たい。肩の上に灰が乗った。やがて雨のように降り注ぐ。哀退する三葉虫は屍になり、やがて化石になる。あたしたちの死体の上に萌えるもの、異郷。突き刺すような直線は、あたしたちが眠る隙間さえ閉ざしてしまった。人間たちは死体の上を闊歩している。 ペルムの森が遠縁になったとき、三葉虫だった女はもういなかった。  異郷を去る前に缶いっぱいの緑を飲んだ。夜行バスが発車して、車窓が後ろへ後ろへとさがっていく。一瞬、三葉虫の女を見た。背格好といい、目元といい、紛れもなく彼女だった。あまりに上手く人間に擬態していた。あたしは夜行バスの座席を緑色で汚し、何度もトイレに緑を吐いた。あたしの隙間は閉ざされる。ちらつく羽虫みたいな黒点が目の前を埋めつくした。異郷でも故郷でもない場所に帰ってくる。止まり木みたいな場所に。ほとうに戻りたいのはペルムの森だけれど。あたしたちみたいに息が下手でもいきていける場所、シダの楽園、世界がパンゲアだった頃。ここじゃない、どこか。