てのひらの巣

真っ白な食器に、一粒だけレンズ豆が乗っていた。針金のような指は、銀色のフォークを重たげに持ち上げる。フォークの幾つかある先端のうち、たった二点が辛うじて豆の表面に着地し、浅い毛穴程度の陥没を作った。右手のナイフは食事用のものなのに、姉が握ると彼女自身を傷つける凶器に見えた。刃先はレンズ豆のフォークにほど近い点を押さえる。刻まれる、というより潰されるような形で、一粒は二つに別たれた。先程より数ミリ深く断片を刺したフォークが、ゆるゆると姉の口許に運ばれる。血色の悪い唇は確かにレンズ豆を捕らえた。私はそこで、ずっと息を詰めていたことに気づく。静謐な儀式めいた姉の食事に見入ってしまっていた。「私が食べるとき、少しも動いちゃだめよ。呼吸も瞬きもできるだけ」かつて姉は、そう言った。食べる時、姉は檻の中に居るらしい。一方は鉄格子、三方は白とも灰色ともつかない壁。檻の中は、あのにおいがして食欲は削がれていくけれど、閉鎖された空間には緊張感があって集中できるのだという。動かないことは姉の要請だった。でも、あんな食事風景を前に言葉など発せない。息は、その震えで姉の居場所を壊してしまう。私は決して揺るがない傍観者でなければならない。ただ姉の贖罪を見守るだけ。この先、彼女がどこへ行こうと阻んではいけないし、そんなことをするつもりもない。私は、姉にとっての巣でありたい。 村役場の農林課で働きはじめて二年になる。高校と大学は寮で生活し、役場への就職を機に実家へ戻った。私の主な仕事は、猟友会との会合、ヤマメ養殖場の定期訪問、茸農家と商工会との連絡係など。生業はどれを取っても奥深く、従事する人々は芯が通っているから、彼らを支える仕事は魅力的に思えた。役場での仕事に慣れた頃には、猟友会に顔を出すようになった。狩猟免許も取得した。野生の鹿や猪は、山に食糧が無くなると農地を荒らす。人の生業を壊せば害獣となってしまう。彼らが害獣と呼ばれぬためには、猟銃を向けて撃たねばならない。この日は先輩猟師が雌鹿を仕留めた。その場で血抜きをして、解体作業は山を下りてから。軽トラックの荷台に鹿を乗せ、私は運転席でハンドルを握る。林道をほんの数百メートル進んだところで携帯電話が鳴った。画面をちらっと見れば、母からの着信だった。「男ね」橙色の帽子を被った中年の猟師が、ぬっと口角を上げる。「だけん、そぎゃん人おらんって言いよるでしょ」「つまらんねぇ。さ、はよ出らんば」猟師はひらひらと手を動かして急かす。道の端に車を寄せて、母の電話に応答した。「もしもし、お母さん?」母の声は落ち着いているようにも、ひどく震えているようにも聞こえた。予期せぬ訃報だった。すぐに帰ると返事をして電話を切る。「大丈夫ね?」察しの良い猟師は口角をいつもの位置に戻していた。「甥が、姉の子が亡くなったそうです」「いくつかい?」姉が出産したのは、山に薄く雪がかかる季節。私がまだ大学にいた頃だった。里帰りでのお産を義実家が快く思わなかったとかで、姉は東京で息子を産んだ。「たぶん、ニ歳に満たないくらいです」お盆に会ったときは、素早く動くようになった甥にかかりきりだった。裸足で縁側から飛び出して行くものだから、私も肝を冷やした。「髪置もできんでから。逆縁な辛かろう」ハンドルに頭を置けば、間抜けなクラクションが鳴った。三拍分の息を吐く。その間も音を鳴らし続けた後、気合いを入れて前を向いた。誰かが亡くなれば大雨で山が崩れるように、何もかも駄目になってしまうことがある。そういう話は、人と人の結びつきが強い土地で生きていれば嫌でも耳に入った。でも、土砂を止めるのが深く根を張った木々であるように、誰かが揺らがず立っていれば何もかも駄目にはならない。法定速度ぎりぎりで山道を飛ばし、猟友会の事務所前で半ば軽トラックを乗り捨てるようにして自分の車に移った。エンジンをかけた途端に流れ始める民謡の音源。一旦は音量を下げてみたものの、数分後にはミュートにしていた。県北にある空港までは高速道路を使っても時間がかかるし、もう東京行きの便は取れないかもしれない。明朝から動いた方が賢明だ。帰宅すれば両親が何やら鋭い口調で言い合って、祖父母はそれぞれどこかに電話をかけているところだった。慌てふためく母を父が咎めでもしたのだろうし、祖父母は親戚筋に知らせて回っているのだろう。「蓉ちゃん、お姉ちゃんから連絡は無か?」ベストを脱いだり猟銃を仕舞いながら「無かよ」と答える。それを聞いた母は、半ば取り乱したように喋り続けた。「家の電話に向こうのおじいちゃんがね、かけてこらしたと。お通夜を明日するんですって。明日の晩。それでね、お姉ちゃんに何度も電話しとるんだけど取ってくれんとよ、あの子。東京行かなんけん、蓉ちゃん準備ば急いで。はよ行ってやらんば可哀そか」急げと言いながら、母は荷作りも何もしていない様子だった。農作業用の腕カバーも付けたままだった。「まあ、落ち着いて。座って話そ」自室に上がって山着を脱いだ。服からは、硝煙と獣と森のにおいがした。麻のだぼっとしたワンピースに着替えて居間に戻れば、祖父母はあちこちでの電話がひと段落ついたらしく、父はビニールハウスを閉めに行っていた。母だけは携帯電話を握って、流し台の前をうろうろしている。「ねえ、蓉ちゃん。お姉ちゃんから電話は」「無い」母が言い終わる前に返事をする。「蓉ちゃんから電話してみらんね。通信会社の違うけん繋がらんとかもしれんたい」そんな馬鹿なことは断じて無い。目障りに動く母が鉢底のナメクジみたいに思えて、塩をかけてやりたくなった。「お母さんが何度もかけるけん、携帯切ったんかもしれんね」母が声を殺すように泣き始めたのを私は放っておいた。どうして自分の事しか考えられないのだろう。思春期にも満たない娘のような人だから仕方ないのかもしれないけれど、こんな時まで母の相手を求められるなんて、姉が気の毒だった。夜になって、近くに住む大叔母が晩御飯を作って訪ねてきた。台所が動いていないことを察したらしい。沼底のように澱み沈んだ食卓で、明日の段取りを父と話した。その場で飛行機も押さえて、姉の旦那にメッセージを送ってみた。一時間経つか経たないかくらいで向こうから電話があり、姉がとても人と話せる状態にないことが分かった。「だけん言ったど」また父が余計なことを言った。母は反駁しかけたものの、鬱血しそうなくらいに唇を噛んで堪えたようだった。大叔母を見送ると、家の中の濁ったものが深まった。祖父母は息をひそめるように床に就き、私も出発の時間だけ確認して自室から出なかった。翌朝のまだ暗い時分、祖母に留守を頼み、四人で東京に向かった。父の運転で空港まで行き、成田に飛ぶ。程よく乾燥した秋晴れで、ところどころ染まった山地も、点と線の集合した都市も、ほんの短い海峡も明瞭に見えた。姉夫婦の住むアパートは都心から外れたところにあって、付近のセレモニーホールで通夜が営まれた。親戚だけが集まった小規模の家族葬だった。向こう方の親族に会うのは結婚式以来だ。控室の姉は、今にも消えてしまいそうな佇まいで、喪服の黒に呑まれるのではないかと疑うほどの危うさがあった。甥が亡くなった理由は義兄から聞いた。転落死だった。姉が閉め忘れた窓ガラスの隙間からベランダに出て柵と柱との間を抜け、アパートの四階から駐車場まで落下してしまったらしい。遺体の損傷は激しく、棺はずっと閉ざされたままだった。甥を悼むよりも姉を心配する気持ちの方が大きいまま、その日はホテルで夜を迎えた。指先に残った焼香のにおいは、昨日着ていた山着のにおいと似ていて、よく沈むベッドに腐葉土を思いながら眠りについた。翌日は昼過ぎから葬式があった。どんなものだろうと思っていた都会の火葬場は、想像よりもずっと閑散とした場所にあった。ひっそりと、所有者のいない廃墟のように建っている。うちの村の火葬場には、こんな気味の悪さなんか無い。小さな白い棺桶は鉄扉の向こうで焼かれ、小石のような骨たちを箸で集めた。姉の顔は薄墨を塗ったかのように色が無かった。もし喪服が墨染だった時代なら、既に首の皮膚と襟との境目が消えていたかもしれない。昨日よりも体を動かせるようになったように見えたけれど、声をかけてくる人々に向ける無理矢理の微笑が痛々しかった。葬式の後は母だけが数日間、東京に残った。田畑を世話しなければならない父と祖父、仕事のある私は先に村に帰ることにした。母だけを姉のところに置いておくくらいなら、全員一緒に帰った方が良かったかもしれない。そう、分厚い雲の上で思った。 母が姉を連れ帰ってきたのは、初七日を終えてすぐだった。空港まで二人を迎えに行けば、ゆらゆら歩く姉と怒りを放つ母がいた。母はずっと姉に向かって何か言っていた。「お姉ちゃん、おかえり」俯いた顔を覗けば、ひどい疲れが見て取れた。「うん、ただいま」姉は葬儀のときのような痛々しい微笑を浮かべた。妹の私に、そんな顔しなくたっていいのに。だけれど、笑わないでとは言えなかった。姉はもう東京には戻らないことになった。離婚に近い状態だった。母の話によれば、姉は義両親と旦那にかなり責め立てられたらしい。ただ、母の誇張が入っている可能性があるし、姉は説明しようとしないから本当のところは分からない。空港から村に帰る途中、三人で食堂に寄った。姉は小盛の高菜丼を頼んだものの、半分も食べずに残してしまったから、母と私で分けて食べた。姉が東京から持ち帰ったのは、キャリーバッグひとつと宅配便で届いた段ボールひとつ。たったそれだけ。衣類と本と最低限の日用雑貨以外には、蝶番のついた二つ折りの写真立てくらいしか入っていなかった。姉は帰って真っ先に、写真立てを自室の机に飾った。「蓉ちゃん、白かアイボリーのはぎれある?」「あるけど、大きさは?」「ハンカチくらい」「なら、綿のレースハンカチでよかね。あんまり使っとらんのがあるとよ」久々に長い会話を交わして、私は姉にハンカチを渡した。ハンカチを敷いた上に、写真立てが置かれる。並んだ二枚を見たとき、背中に冷たい風が吹いた。左側には甥の写真があった。ベビーベッドの上で寝息を立てている写真だ。右側は骨張った細い手と、その上に横たわる白い鳥のポストカード。その姿からハト科の鳥だと分かったし、この鳥が生きていないことも分かった。「これは、鳥が寝とらすと?」「ううん、白鳩の亡骸。写真じゃなくて油彩画なの。本物みたいでしょう」なぜ、自分の亡くなった息子の隣に、死んだ鳩の絵を飾るのだろう。死んだ人間と死んだ鳩は、姉の中で何かしらの調和を見せているかもしれないけれど、例えそうだとしても不気味に感じられた。「それ、母さんには見せん方がいいと思う」「どうして?」理由を聞かれて困った。説明の仕様がなかった。ただ、母はまた騒ぎ立てると思うし、姉を叱ると思う。「やっぱり、気にせんとって」姉の部屋を出た。靄がかった気分を晴らしたかったから、装備を出してきて山に入ることにする。動くものを見つけるために感覚を澄ましている間は、余計なことなんて考えられない。獲物を探して歩いていれば無心になれる。そう思って半日ほど没頭して歩いた割には何も捕れず、猪用のくくり罠だけ仕掛けて帰った。 姉の食が異常に細くなったことに気づくまでに、時間はかからなかった。「もっと食べなさい」と母が言うほど、姉の胃は縮んでいった。やがて食事時に姿を見せなくなり、私たちは盆に乗せた食事を持っていくようになった。時間を置いて食器を回収しに行くと、当たり前に食べ残しがあった。母に回収させると毎度ひどく気落ちするので、途中から私がその役を代わった。数日続けているうちに、姉は何かの基準に従って食べるか食べないかを決めているように思えてきた。いつも主菜は手をつけられておらず、ご飯は三分の二ほど減って、汁物はまちまち。主菜が完食された日、やっと私はその基準に気付いた。その日の主菜は揚げだし豆腐だった。肉も魚も使われていない。姉は動物性の食品を避けていたのだ。「お姉ちゃん、お肉とか魚とか卵とかより、今日みたいな野菜とか豆腐とかの方が好きなんじゃないかな」餡と刻み葱が少しだけ残った器を見て、母も納得したようだった。母は、お寺で習ってきたという精進料理を、姉のためだけに毎日作った。しかし、その料理さえ姉は食べなくなった。理由を訊けば、「出汁から魚のにおいがするの」と言った。煮干しや鰹節の出汁さえも摂取したくないようだった。母は出汁にまで気を配っていなかったようで、その日限りで手のかかる精進料理をやめた。やがて姉は、自分の食事を作るようになった。塩、温野菜、茹でた豆。それだけを皿に乗せて、毎食一時間半かけて食べた。徐々に姉の食べる野菜や豆の量は減っていき、茹でたブロッコリーと人参とレンズ豆を一口分ずつ並べたような食事になった。どれだけ量が少なくなっても、一時間半の食事時間は変わらなかった。「痩せたかと?」「あんまり興味ないかな、痩せるとか太るとか」食事中に訊けば、姉は心底不快そうな顔をして答え、食べかけのブロッコリーをフォークから外して部屋に籠ってしまった。姉の消えた食卓を前に、私は茫然とした。白い皿の上に散ったブロッコリーの蕾たち、ほんのり橙がかった人参のあと、表皮を剥かれたレンズ豆。それは獲物が撃たれた瞬間と同じくらいに、生々しく凄惨な光景に思えた。私の知っている食べる事と、姉が実行している食べる事の間には、底から腐臭の漂ってくるような深淵がある。食べる事は、こんなにも薄暗く陰湿なものだったか。植物たちが細胞を横たえた所から、姉の声にならない呻きが聞こえてくるような気がした。 初めて雉を仕留めた。鳥猟は難しく、ベテランでも易々と撃ち落とせるものではない。ほとんど偶然に弾が当たったようなものだったけれど、頸に弾受けたずっしりと重い雉を自分が仕留めたことが嬉しかった。農作業小屋で捌いて、部位ごとに保存袋に入れて冷凍した。もも肉の一部だけ、七輪を出してきてきて炭火で焼いてみた。紙皿に焼けた分から盛っていき、塩をさらさら振る。あまりに美味しかったものだから、祖父母や両親、大叔母にも食べさせに行った。日が落ちて晩御飯の時間になると、炭火は父によって大きなグリルに移された。祖母は炊飯器いっぱいにご飯を炊き、母は南瓜やら玉葱やらを刻んで持ってきた。冷凍庫に入れるつもりだった肉たちを次々に焼いていく。柚子胡椒で食べても、醤油ダレで食べても頬が落ちるほど。部位によって脂の乗り方が違うし、噛み応えも違う。お酒も進んで、皆ほろ酔い気分になる。勝手口が開いた。「お肉が焼けるにおい……」祖母の草履に爪先を引っ掛けた姉が立っていた。その立ち姿は、祖母や大叔母なんかよりずっと衰えた老婆のようで、私は思わず箸を止める。「……お姉ちゃん、野菜もあるよ」姉の分を紙皿によそおうと、網焼きの野菜を集めた。「いらんって!」臓腑を殴るような声だった。「肉のにおいなんか、させんとって。蓉ちゃんが殺して、ばらばらにした肉の、血のにおいがするとよ。遠くにおっても、部屋におっても分かるとよ」姉が肉食を嫌ったのは、我が子の死を思い出すからだった。においは、分かる。人を含め生きているものは全てにおいがある。有機物のにおい、とでも言おうか。種ごと個体ごとに、あるいは季節によっても変わるけれど、根底にある有機物のにおいはどんな生き物にでもある。そして、そのにおいは生まれるとき殖えるとき死ぬときに、怖いくらい強く感じられるものだ。「あの子のにおいがするの。音がして、下を見たら、落ちてたの。近寄ったら血のにおいでいっぱいになって、あんな……私が見とらんだったけん、あの子は死んだと。火葬のあとのにおいも、蛋白質と脂肪の焼けるにおい。ここのにおいと同じたい」私が撃った雉のにおいは、私の身に纏わりついている。食べることは、その生き物のにおいを受けることだ。有機物のにおいを溢れさせて、そして奪わなければ食べられない。だから姉は食べることが出来ないのだ。あまりにも強烈な有機物のにおいが、自分の体から離れないから。食べるわけでもないのに、奪ってしまったと思っているから。「お姉ちゃんが何ば食べても、それはあの子を食べるのとは違うよ」薄くなった姉の上半身を抱きしめた。雉を食べた私のにおいは嫌かもしれないけれど、そうしてあげたかった。「知っとるとよ、蓉ちゃん。わかっとるんよ」姉は泣いていた。 姉の部屋に竹笊いっぱいの枝豆を持って行った。真冬のように厚着した姉と一緒に筋を取った。小さい頃、祖母を手伝って二人で手を動かした記憶がある。姉は作業が丁寧で、長く筋取りなんかしていないはずなのに、今でも指先が繊細にひらひら動く。「この絵を描いた人ね」枝豆の莢が握られた左手の指で示されたのは、甥の隣に飾られた鳩の遺骸だった。「何回も同じ構図で描いてるの。飼っていた鳩が死んでしまって、その亡骸を自分の手に乗せた絵を、何枚も何枚も。そうやって、もういないことを受け入れるのね。きっと」生きていたときの姿でなく、死後の姿を描くのは弔いの一種かもしれない。遺された自分のための弔い。「食べたかな、この人。もしも食べなきゃ飢えてしまうとして、この人は鳩を食べたかな」受け入れて弔うために心も体力も割かねばならぬ対象を、人は食べることができるだろうか。自分の分身、あるは半身のようにも思える対象を、人は食べるだろうか。この問いかけの本当の正解も、この場での正解も私には導き出せなかった。何を言っても間違いだと思ったし、何を言っても姉は痩せこけて死んでしまうように思われた。「……私には、わからない」甥の写真と鳩の亡骸とは、違和感なく並んでいる。死んでいることでなく、悼むことで二枚は繋がっていた。「ごめんね、蓉ちゃん。私まだ食べられない」今の姉には、少食も菜食も儀式のような食事も、不可欠なものだった。「母さんの料理も、蓉ちゃんのとってきた鳥も、食べられない」たくさん食べてほしいとは言えない。偏らずに食べてほしいとも言えない。姉が、我が子の死んだにおいを自分の一部にするためには、あの食事が必要だから。「うん、よかとよ」枝豆の和毛を撫でる姉の手指は、鳩を掬う絵画の手とよく似ていた。筋取りをした翌日、姉専用の白い皿には茹でた枝豆一粒だけが乗っていた。姉はそれをフォークとナイフを使って食べた。豆を眺めるのと咀嚼するのに多くの時間を費やし、相変わらず一時間半も食卓についていた。それから、食事の様子はできるだけ見ているようにした。私たち家族が食べ終えて、母と祖母の後片付けが終わってから、姉は自分の食事を準備しはじめる。豆の種類は食事ごとに変わり、ひよこ豆のときもあれば花豆のときもあった。姉は食事中に話しかけられるのを嫌った。だから父も母も、姉の食べているときは居間に近寄らない。物音ひとつしない中で、かちかちと食器が鳴る。ときに静けさは姉の内臓や筋が動く音まで、私に聞かせようとした。重い緊張感を作りながら、姉は食べる。この豆たちが、もっと重かったらいいのに。姉の身体を維持できるくらいに、重かったらいいのに。姉は、私のてのひらに収まってしまうのではないかというほど、小さく軽くなってしまったではないか。真っ白な食器に一粒だけ豆が乗っている光景は、一週間ほど繰り返された。姉に頼まれて、レンズ豆や季節外れの空豆を買った。私が手に入れた豆が、姉の白い皿に乗ると少しだけ安心できた。ナイフは豆の繊維を潰し、フォークは表面の薄皮を破いた。豆からだって有機物のにおいがする。いつだって私たちは、他の生き物からにおいを貰ったり奪ったりしながら生きている。分け与えながら関わって殖えて、手放しながら死んでいくのだ。姉は一粒の豆と向き合いながら、有機物のにおいに慣れようとしていた。 年末、黒豆を作った。祖母のものと並べると、つやが足りなくて見劣りするけれど、今まで一番の出来だった。重箱に他のお節料理と一緒に黒豆を詰めた。姉が黒豆を箸で摘み上げ、口に運ぶ様子を思い描いた。頼んだら食べてくれるのではないかと淡い期待を持つ。仰々しく「あけましておめでとうございます」と膝を折って挨拶すれば、姉も同じようにして「今年も、よろしくお願いします」と言った。うぐいす色の着物を桐箪笥から出してきて、姉に着せた。春を予感させる色は、肌を明るく見せる。血色が良くなった気がした。私の分は姉に選んでもらって、自分で着付けた。姉の手を引いて居間に連れて行けば、祖母が「あら、綺麗かね」と零し、横においでと座布団を叩いた。祖父が新年の挨拶を手短に述べて、重箱を開けた。めいめいに手を合わせてから、お節に箸を伸ばす。姉はぼうっと重箱を眺めていた。海老や数の子が詰まった箱。たくさんのにおいが詰まった箱は、姉にはどう見えているのだろう。「黒豆食べる? 私が仕込んだと」何でもないように訊いてみた。「いる?」「……蓉ちゃんの黒豆、食べたか」縁起の良い色柄の皿に、五粒の黒豆を乗せた。少しでもたくさん食べて欲しかった。白木の箸が、黒豆を掴んだ。てらりとした汁を纏った一粒を、姉の唇が捕まえた。十数回の咀嚼。嚥下。そして、もう一粒。姉は五粒の黒豆を、残さず食べた。 それから豆一粒だけの食事を見かけることは、だんだんと減っていく。年一番に冷え込んだ日曜日にレンズ豆一粒の朝食を眺めて以降は、あの静謐な食事を見かけなくなった。やがて、私のてのひらは巣のかたちを作らなくなって、棚田を蓮華草が埋め尽くす頃、姉は東京に帰っていった。