いつかポプラに囲まれて

黄金に色づいた村に帰るのは、一年ぶりのことだった。昨年のこの時期は息子が生まれたばかりでウイリックの町を離れることができなかったが、今年は妻と子どもたちだけでも年を越せるだろうと思い、ふるさとの村に帰ることにした。僕が生まれ育ったパシャール村は、遠景に六千メートル級の峰々を、中景にポプラや杏の樹々を望む渓谷の村だ。春祭りの頃は薄桃色の花で溢れるが、十月中旬の今はポプラの黄金色が美しい。鮮やかな緑が弱まって黄色が燃えゆく様は、山岳の斜面にも、一本の木にも、一枚の葉にも見る事ができる。村の入り口で四輪駆動を降りれば、ヤクの群れが夏の放牧地から戻ってきたところだった。大人のヤクたちは背に荷物や人を乗せている。まだら模様の毛並みが濡れているのは、川を渡ってきたからだ。群れの中に兄のスルタンを見つけて手を振ると、彼は真っ黒な去勢されたヤクに乗って、僕の脇に寄ってきた。久々の再会に抱擁を交わす。「早かったじゃないか。俺たちより遅いと踏んでたんだ」「ずいぶん道が良くなったからね。義姉さんはまだ後ろ?」吊り橋の方に目を凝らしてみる。女たちと羊やヤギの集団は見えない。ちょうど今は仔ヤクたちが渡ってきているところだ。「明日になるだろうよ。羊追い立てて今日中は無理だ」少し残念だが、一家が揃うのは明日以降になる。スルタンは群れに戻っていくと別の若者に声をかけた。まだ村に中等学校が無かった頃、離れた町の寄宿舎で同室だった友人のナザルだ。彼も立派なヤク乗りになっている。「なんだカリム、お前ひとりか」「息子がまだ小さいからな、妻と子どもたちは留守番なんだ。腕白なやつで手を焼いているよ」「さては親父に似たな」スルタンは茶色のヤクを連れて戻ってきた。年老いた雄で、この模様には覚えがあった。まだ僕が村にいた頃、父や兄と一緒に夏の放牧地で去勢したヤクだ。「長旅は疲れただろう。こいつ乗って先に帰ってな」「助かるよ」二人は群れに合流し、ヤクたちを家々に届けに行った。残された僕は茶色のヤクに乗って村の西端にある実家へと向かう。途中、緑色のセーターを着た少女たちに出会った。中にはスルタンの娘パリサや又従妹にあたる子どもたちがいて、こちらに気づくと口々に「カリムおじさん、おかえりなさい!」と言った。僕はヤクを降りて、彼女たちに挨拶をした。「おじさん、お土産はなあに?」僕が背負ったリュックを年少のパリサがぺしぺしと叩いた。「干し葡萄だよ」ビニール包装の干し葡萄を取り出す。パリサが欲しい欲しいと言うものだから、ひとり三粒ずつ小さな掌に乗せてあげた。家の子たちだけにビーズ刺繍のポシェットを買ってきていたがけれど、他の家の子もいたので、それは黙っていた。家の敷地に入ると、少女たちは三棟の建物に散らばっていった。一昨年は二棟しか無かったけれど、家族が増えたから新しい住居を建てたのだろう。どれも石と芝で造られた簡素な家屋だ。ヤクを囲いの中に入れて家の戸を潜れば、絨毯の上にシャピックとチャイが並んでいた。隣家に嫁いだ姉が僕の帰郷に合わせて訪問していて、彼女をもてなすために準備されたものだ。酵母のいいにおいがするシャピックはウイリックで食べるナーンよりも薄くて、こちらのチャイにはヤギの乳と塩が入っている。祖母と両親、そして姉に迎えられ、僕もお茶の時間を共にする。母に言って皿を出してもらい、土産の干し葡萄を乗せた。赤と緑の二種類あって、どちらが甘いかを言い合ったが、父と姉の意見が割れて結論は出なかった、。他にも村の近況を聞いたり、ウイリックでの暮らしについて話したりした。「おいで、パリサ」姪を呼んで首にポシェットをかけてやる。紫の布地に金糸とビーズで装飾されたもので、色違いで又従妹たちの分もある。「これ、いいの?」「小銭とかお菓子なんかを入れて使いなさい」試しにウイリックで使われている硬貨を渡すと、パリサは珍しそうに眺めてポシェットにしまっていた。「父さん、電話を借りてもいいですか?」こちらに着いたら無事を伝えるように妻に言いつけられていたのを思い出し、ぷかぷかと煙草を吸っている父に申し出る。「国際電話は高いからね、手短にしてくれよ」「ええ、もちろん。わかってますよ」壁際に設置された固定電話には祖母の手刺繍入りの布がかかっていて、そのウール一枚をのけてダイヤルを回す。受話器に耳を当てて数コール待てば、妻の声が聞こえた。「もしもし、どちら様?」「僕だよ、村に着いたから知らせようと思って」「あら、早かったのね。皆さんによろしく伝えて」「伝えるよ。君も新年くらいは実家に挨拶に行くんだよ」「気が向いたらね。知ってるでしょ、私が跳ねっ返り娘だって」妻の言葉にひとしきり笑ったあと、背後でちょこまかとパリサが動いているのを感じた。振り返ると、受話器を渡せとせがまれた。「私、おばさんとお話したいわ」「こっちの言葉はどれも通じないぞ。英語は話せるかい?」英語はまだ上手く話せないらしく、パリサは頬を膨らませて首を横に振った。「よしよし、何を言いたいんだい?」「えっとね、また村に来てくださいって言って」僕はパリサの言葉を、妻がわかる言葉に変えた。「姪が、また村に来いってさ」「スルタンさんのお嬢ちゃんね」「そう、パリサが」また二週間後の同じ時間に連絡すると約束して受話器を置くと、ちょうどスルタンが帰ってきた。夕餉の前に、礼拝の指導師をしているジウェールに付き従って、礼拝に行くことになった。金曜の夜には皆で礼拝堂に赴くのだ。夕餉は一番大きな新しい家に集まって食べた。壁掛けの布や絨毯なんかも新調されていて、食器も新しくなっている。地の赤茶色が鮮やかで、菱形の並んだジャルダー模様が美しい。食卓は豪華で、二枚のシャピックの間にミントや乳酪を刻んだブルシャピックや、茹でた羊肉なんかが並んでいた。この村で使う油は杏子油だから、妻の作る料理よりもさっぱりしている。僕の大叔父にあたるハリヤーン爺が、髭をもさもさと動かしながら言祝いだ。どうやらジウェールの息子が夏の放牧地に残り、大人のヤクたちを世話しているらしい。僕は早くに村を出たから、一度も冬の六人衆に選ばれたことはない。「そういえばカリム、狩猟禁止の話は聞いたか?」ジウェールが僕にそう訊ねた。「いや、知りません。何ですか狩猟禁止って」「夏の放牧地は国立公園だから野生動物の狩猟は禁止だ、とさ」僕たちは放牧地に行くと、ブルーシープなんかを仕留める。それは数百年も前から続けてきたことだった。「お役人さんの決めたことだよ」村の小学校で教師をしているブラベックが困った顔で付け足した。「それは、冬の六人衆たちには厳しいんじゃないですか」四年前、六人衆に選ばれた友人のナザルが言うには、野生動物たちは貴重な日々の糧だそうだ。「なあに。これからの季節、あんな高地に役人たちは踏み込まないさ」悪そうな表情を作ったジウェールが、にたりと笑った。狩猟をしても役人に見つからなければいい、と暗に言っていた。聞けば、夏の放牧地が国立公園に指定されたのは今年の春だそうで、一時は狩猟だけでなく移牧さえも禁止されそうになったらしい。ジウェールが筆頭になって、それだけは守ったのだという。村はゆるやかに、生活の形を変えなければならない時期へと差し掛かっているようだった。 夫のいない家というのは、半分の気楽さと半分の寂しさで満たされている。仕事終わりに意気揚々とナーンや果物を買って帰り、お手伝いのアリイェと一緒に楽しくチャイを淹れたりポロを作ったりしても、家族がひとり欠けた食事は味気なく思えてしまう。「なんだか気分が塞いじゃうわ」夫がいない寝室は空の巣のように思えて、柄にもなくそんな事を零した。「奥様、それなら」と、アリイェがひそめた声で言う。子どもたちはもう寝息を立てているのだ。「明日はお買い物に行きませんか」「いいわね、バザールもきっと賑わっているから」ふふふ、と二人で笑う。こうやって寝転がって喋るのは久しぶりだった。いつもアリイェは小部屋で寝起きしているけれど、夫が留守のときは心細くて寝室に来てもらう。「そうだ、あの人の得意先にご挨拶に行かなきゃ」「お昼時に行かれますか?」「そうね、その方が失礼が無いわね」バザールで手土産を買って挨拶に行って、市街でアリイェの上着を誂えて、それから廟にお参りするのもいい。私たちは明日は何をしよう、どこに行こうと話をしながら眠った。翌朝起きるとアリイェは部屋の掃き掃除も、子どもたちの着替えも、朝食の準備も済ませてしまっていた。四歳になる娘のレイハンは、黄色いワンピースを着せてもらって上機嫌だ。まだ一歳の息子は頭に花帽子を乗せている。「レイハンちゃんは眉が綺麗ね」とアリイェが褒めれば、娘はいつになく上機嫌になった。私たちは簡単に朝食を済ませ、ヒジャプを被り町に出た。日曜のバザールは賑わっていて、金属の茶器や軒から吊られた羊の肉を客たちが買い求めている。店頭にうず高く積まれた円形のナーンはアメッキといって、職人たちがひとつずつ模様を型押ししたものだ。隣の店ではギルダと呼ばれるころっとした形のナーンが、ピラミッド状に積まれている。手土産はどちらにしようかと悩んだ挙句、ナーンにするのはやめにした。青果の並ぶ通りに出て、無花果を十個ほど買った。旬を少し過ぎてじゅくじゅくに熟した無花果は、饅頭のような形に潰して売られている。とても柔らかい種類だから、皮を剥かずに食べるのが美味しいのだ。私が を腕に抱き、アリイェが右手に無花果を提げ左手はレイハンと繋いで、バザールの中心にある夫の得意先に向かった。その店は近隣の国々から集まる絨毯やタペストリーを扱う、バザールで一番大きな布屋だった。夫が仲買人をして故郷周辺の村々から集めた織物を、この店が買ってくれていた。私たちを出迎えてくれたのは、そこの奥さんだった。幸なことに食事中で、わざわざ食事を用意してもらう必要がなかった。アリイェが手土産の無花果を渡すと「主人が好んで食べるのよ」と喜んでもらえた。食事用の敷物には贅沢ナーンが置いてあった。ギュシナーンといって、普通のアメッキの生地に羊肉を散らして焼いたものだ。我が家ではあまり口にしないものだから、レイハンはかぶりつくように食べていた。もてなしを受けた後、「またいらっしゃいよ」と見送られて絨毯店をあとにした。バザールの喧騒を抜けて市街の方に行く。バザールほどに騒がしくなく、休日だからか師範大学の学生たちの姿も少ない。赤茶けた煉瓦造りの店が並び、軒先には通りごとに統一された赤地の布がかかっている。布の下は程よく影になっていて、店内の工芸品たちに直射日光は当たらない。アリイェの上着を買いに、行きつけの服屋に行く。その店が取りそろえる布は経糸の本数が多いから誂えた服が長持ちする。アリイェはグレーに染色されたヤクウールを選んで、膨らんだ襟の付いた形のロングコートを注文した。もっと明るい色も似合うと思ったけれど、彼女は落ち着いた色柄を好むから、布選びに口を出しはしなかった。完成は三週間後だそうで、冬支度には間に合うと安堵する。私たちは服屋を後にして、小さな廟に向かった。そこは賢婦として崇められる昔の王族の廟で、ウイリックに移り住んで以来、年に一度は訪れる場所だった。これまでは一人でしか訪れたことがなく、初めてアリイェや子供たちを連れてきたことになる。「小さいけれど綺麗な廟でしょう」「ええとても。緑のタイルがつやつやして見えます」外観も美しいけれど内装はもっと素晴らしく、緻密な絵が梁にも天井にも柱にも描かれている。絵画の中には蓮華の絵なんかもあって、廟ができた時代にはふたつの宗教が混在していたことを表している。中に入ろうと廟の入口に近づくと、そこには鎖が張られていて、簡素な木製が看板も置いてあった。二種類の文字で書かれた言葉に落胆する。「ごめんなさい。立ち入り禁止ですって」「どこかが崩れているとか、そういう理由でしょうか」「そうかもしれないわね」帰り際、廟の屋根から三日月と星の飾りが消えていることに気づいた。立ち入り禁止の理由が建物の状態とは関係がないことを私は察した。そのまま帰宅してしまうのも寂しかったので、茶館に寄ることにした。麗老茶館という店で、学生だった頃に働いていた所だ。師範学院からも下宿からも近くて、給金もよかった。元々は外国からの観光客のために開かれた店だから、他の茶館のように地元の男性たちの溜まり場にはなっておらず、女たちだけでも立ち寄りやすい。齢五十ほどになる女店主のラビアに挨拶すると、彼女は子どもたちをもみくちゃにする勢いで二人の丸い頬を撫でていた。私とアリィエは薔薇の香りがする紅茶を注文して、レイハンには砂糖のたくさん入ったチャイを作ってもらった。そして特別にピスタチオとアーモンド、それから砂糖菓子をご馳走になった。お茶を飲みながら廟の話をしていると、ラビアが口を挟んだ。「もっと都市の方では、イスラム的なものは取り締まられてしまうそうだよ。ここに来る外国人も親戚たちも言っているから、確かな話さ」聞けばヒジャプを被ることや、礼拝や断食なんかも規制されているらしい。「そういえば、廟から三日月と星の飾りが外されていたんですよ」「イスラムの印だからね。国は過激派を排除したいんだ」他に客がいなかったのでラビアは自分の分も紅茶を淹れてきて、近くのスツールに腰かけた。「あんたも気をつけなさいね。変な噂もあるから」「噂って?」耳打ちするようにラビアが囁く。「どうも偉い学者さんや物書きの中には、拘束されている人もいるみたいでね。学のある人ほど危ないんだってさ」大真面目に言われたことが可笑しくて、思わず吹き出してしまった。「私、ただの教師ですよ。お国も私のことなんて眼中にないわ」「でも勤め先は民族学校じゃない」「じゃあ、もし捕まることがあったら皆を監獄に招待しようかしら」「忘れてた、あんたは重度の跳ねっ返りだったね」ラビアはわざとらしく、呆れ果てたような顔をした。「気をつけようもないでしょう。だって私たち、普通に暮らしているだけなんですから」日が傾きはじめる前に麗老茶館を出た。ずっと静かにしていた息子がむずがりはじめたので、アリイェが童謡を歌ってあやした。羨ましくなったのか、レイハンに抱っこをせがまれて、私は黄色いワンピースの娘を抱き上げた。日の落ちる方角を仰ぐ。見慣れない三重塔が遠くに見えて、胸がざわついた。 パシャール村に来て一か月が経ち、だんだんと畑仕事や放牧の感覚が戻ってきた頃、又従弟の結婚式が行われた。収穫の終わった時期は食べ物が豊かだから婚礼には相応しい季節だ。会場のひとつになったのは僕たちが普段暮らしている家で、新郎は別の建物で準備をする。新郎を着飾らせるのは女たちの仕事だから、僕も親父や兄のスルタンやハリヤーン爺たちと一緒に会場で話をしていた。これまでの花嫁の人柄や家同士の関係を話したり、ここ数年の結婚式を振り返ったりする。その流れで、僕と妻との式の話になった。「カリムのときは質素だったな。たった三日しかできなかっただろう。本当は、このくらい豪華にやってやりたかったんだ」囲炉裏で手を炙りながら、親父が言った。「いえいえ、妻の衣装までこっちで準備してもらったんですから。十分ですよ」「借り物だったからな、丈も身幅も余っただろう」「彼女、小柄ですからね」妻のことを話していると、その姿がまざまざと浮かぶ。僕の肩までしかない小さな体も、とても穏和とは言い難い性格も、ひどく魅力的に思える。つつがなく過ごせているだろうかと心配になって、今日は電話をすると決めていた金曜日だと思い出す。やがて他の家の村人たちが訪れるようになり、僕たちは彼らを出迎えては握手をした。人が多くなってきたので、僕やスルタンのような若者は外で立ち話をすることになる。それはそれで楽しく、ナザルや他の友人たちの訪問を受けて昔話を花を咲かせた。村中から多くの男たちが集った頃、正装をした新郎が登場して会場に入っていった。「はじまったぞ」「あの泣き虫だったやつが立派じゃないか」新郎と支度を手伝った姉妹、母親や父親のブラペックが一列に並んで人々に挨拶しているのが見える。それから部屋の隅に置かれたコンポから音楽が流れだし、人々は踊り始めた。しばらく経って新郎が家の外に出ると、ひとかけらの乳酪が振舞われた。僕たち親族は新郎を伴って花嫁の実家に向かう。川沿いの道、ポプラの葉が落ちはじめた道を列になって進む。村の東端の少し標高の高い場所に花嫁の家はあった。あちらの家の女性たちに迎えられた僕たちは、手の甲に歓迎のキスを落とされ、花嫁の父をはじめとする親戚たちとの挨拶に臨んだ。それから新郎と花嫁を囲んで、宴会がはじまる。手の甲をヘナで彩られた花嫁は、まだ二十歳に満たないくらいだろうか。今日のために捌かれた二頭の羊や大釜で作られた料理に舌鼓を打ち、何人かの村人で構成された楽団の音で踊りながら、僕たちは二人を祝った。めでたい音楽が流れる中で気分が上がったのか、花嫁の父が語り始めた。「俺たちはな、彼らのような若い世代に、できるだけ多くのものを残してやりたいんだ」声を張る彼に向かって、いいぞいいぞと幾人かが野次を飛ばす。僕はあまり威勢の良いのが得意ではないから、少し辟易してしまう。「国が大きな力でもって、俺たちの生活をがらっと変えてしまうのはいかがなもんかね。夏の放牧地は山を越えてこの地にやってきた祖先たちが、苦心の末に手に入れたんだ。それを奪うとは何事かね。役人たちを懲らしめてやりたいよ」花嫁が窘めるように何事か囁いたが、功を成さなかった。そこにハリヤーン爺が皺だらけの両手をひょいひょいと振りながら口を挟む。「とはいえ、昔から遊牧民たちは争い、力のある者が牧草地を得てきただろう。力がなければ土地を失うのは、当然のことではないかい」わざと挑発するように発言する老人には茶目っ気があって、たまに自分よりも若い人間をこうして弄ぶことがあった。「老人たちには、若者を慈しむ心がないのか!」花嫁の父が声を荒げた。大男だけあって凄みがある。「なあに、本当のことしか言っとらんだろう。夏の放牧地の地名には、他民族の言葉が残っとる。彼らは紛れもなくわしらが追い出した人々だろう。自分たちよりも強い者が現れたなら土地を失うしかないのさ。なあ、カリム」突然に話を振られると困ってしまう。チャイを飲み干しながら、上手い返答を考えてみるも、思い浮かぶ気配もないので率直に答えた。「訴えによって暮らしを守ることができるなら、それは力だと思います。現に移牧だって、そうして守ったんでしょう」この後、花嫁が僕の発言を擁護するようにして雰囲気を和ませてくれて、この場は丸く収まった。夜が深まる前に、僕はハリヤーン爺を連れて帰宅した。帰り道、彼はこんなことを言った。「土地を失うことを、若い者たちは損失だと思っておるようだがね、本当の損失は国境に隔てられたことだよ。ずっと前に本来の営みは失われているのさ」確かに、この山地は三つの国に分かれてしまっている。同じ民族であっても国境をまたいだあちらとこちらに住んでいる、なんて事は当たり前にある。僕たちの祖先がかつて住んでいた土地には今でも同じ血を持つ人々がいて、彼らとの交流は国境の出現と共に途絶えてしまった。昼間の彼の言葉を思い出す。ハリヤーン爺の言う力とは、武力のことではなかった。僕たちはずっと昔に戦う道具も術も置いてきている。その上で力がないというのは、僕たちが少数派の集団に他ならないことを示していた。国の体制や指導者が変われば、それまでの訴えなど簡単に無効になってしまう。帰宅後、ハリヤーン爺はすぐに床について、僕は妻に電話をかけた。四コール、五コール、六コールと待っても妻は電話に出なかった。二週間前に通話したときに時間を指定したのに、忘れてしまったのだろうか。それとも実家に帰ったのだろうか。翌日の晩になって、また電話をかけるも繋がらない。回線が悪くなった可能性も考えて、知り合いの家にもかけてみた。「はい、金の羊絨毯店です。営業時間は終わりましたがね」電話に出たのは、店の主人だった。「夜分すみません。あの、カリムです」「驚いた、あんた故郷に帰ってるんだろう」「それがですね、妻が電話に出なくてですね。心配になりまして」ハリヤーン爺と国境の話なんかをした直後だから、別の国にいる妻と連絡が取れないのは辛いものがあった。「奥さん……そう、リズワンさんだろう。二週間か三週間くらい前にいらいしたよ。黄色く熟れた無花果をどっさり持って。子どもたちも大きくなったもんだね。心配なら、うちの妻に行かせようかい」「いいんですか」「明日の晩にまた知らせるさ。番号だけ教えとくれよ」次の日はどうにも気分が晴れないまま、羊たちの見回りをした。食事のときもぼうっとしてシャピックを踏んずけてしまい、パリサに「おじさん、食べ物を粗末にしちゃだめ。ノシュクルギーグだよ」と怒られてしまった。また夜になって、部屋の隅にある電話がじりりと鳴った。僕は刺繍入りの布をはねのけて、受話器を取った。「もしもし、カリムさんかい」「ええ、カリムです。妻は、妻はどうしていましたか」「落ち着いて聞いてほしいんだが、これは収容所送りだろう」「え……」収容所、という単語に頭が真っ白になる。「隣の人に聞いたんだがな。警察官が三人、家の中に入っていって、奥さんも子どもたちも連行されたんだとさ」「それは、どういうことでしょうか。妻が何か悪いことをしたと?」「自分で警察に確かめた方がいい。俺はもう、あんたに連絡しないからな、かけても来るんじゃないぞ。できることなら関わりたくないんだ」ぷつりと電話は切れた。僕はふらふらと電話の前に座り込んだ。目の前で受話器が宙ぶらりんになっている。「どうした。嫁さんの話だろう」スルタンが強い力で、僕の肩を握った。収容所、収容所、と何度も頭の中で反芻する。収容所のことは何度か耳にしたことがあった。砂漠にほど近い場所にあって、危険思想の人間を収容するという施設のことだ。「兄さん、大変なんだ、リズワンが収容所送りになった」「それなら早くウイリックに帰るんだ」僕は年明けを待たずして、パシャールを去ることになった。朝には村の入り口にジープが手配されていて、僕はそれに乗って四十分離れた村に向かった。その村でハイウェイを走る高速バスに乗り換えた。舗装の十分ではない道は、がたがたと不安を掻き立てた。国境付近にてコバルトブルーのダム湖が見えて、言いようのない悲しさに襲われた。雪解けの湖水はあまりに青く澄み過ぎていた。 その日から一週間は、アリイェが実家で過ごすことになっていた。だから家の中には私と子どもたちしかいない。葡萄棚を作るほどの広さのない殺風景な中庭は眺めるにも物足りなく、ただ子たちの世話に追われた。レイハンがまた黄色いワンピースを着たいとせがんだので、よそ行き用だから嫌だなと思いつつ着せてやった。すると洗濯物を片付けているうちに、二人の子どもたちは中庭で泥だらけになっている。黄色いワンピースのひらひらした生地は裾が泥水色に染まっていて、だから嫌だったのだと心の中で舌打ちした。腕をたくし上げて二人の子どもたちを水浴びさせる。冬にかかりはじめた時分の水は冷たくて、苛立ちが募った。「アリイェのことも、こうやって困らせるのかしら」彼女はよく面倒をみてくれている。私はあまり女のする仕事が得意でないから、もしかしたら母親としての役割も果たせていないかもしれない。「おかあさん」「なによ」前髪をぺったりとおでこに張り付けたリズワンが、私の背後を指さした。振り返ると淡泊な顔立ちの男が三人、家の敷地内に入ってくるところだった。「連れていくぞ」ある男が彼らの言葉で、そう言った。誰かが私の襟元を掴んだ。私は彼らの言葉で「この、犬野郎!」と罵った。触るなとも、子どもたちを離せとも言った。思わず口をついて出た神の名に、男たちは「危険分子め」と唾を吐いた。私たちは警察車両に詰め込まれた。濡れたままの子どもたちを、ずっと両手で抱いていた。泣きじゃくることもなく二人はおとなしくしていた。怖くはないのか不思議だった。私たちは、どこか色のない土地に連れてこられた。ウイルックよりも砂埃がひどくて、視界の悪いところだった。鉄筋コンクリート製の嫌に大きな建物に入れられると、男たちの前で上下で同じ色をした作業着のようなものに着替えさせられた。そして女性の警官がやってきて、子どもたちを抱え上げた。「何をするの」「この子たちは、私たちが保護します」「何から保護するって言うの?」「あなたのような危険分子からですよ。偏った思想ほど教育に悪いものはありませんから」ひっつめ髪の警官は丁寧な言葉を使いながらも、端々に侮蔑の感情を含ませた。「偏った思想って、自分のこと?」「なんですって!」「子どもたちを返しなさいよ!」女性警官に掴みかかろうとしたところで、男たちに取り押さえられる。腰のあたりにぐっと男の体重がかかり、骨がみしみし音を立てた。「おい、鎮静剤だ! このうるさい女を黙らせろ!」視界の端に、細く長い銀色の針が見えた。必死に手足を動かしても、それは無駄な抵抗だった。耳の奥でレイハンが金切り声を上げていた。 ウイリックに到着したのは昼間で、僕は真っ先に警察署に向かった。僕自身が拘束される可能性はあったが、その時は国籍が助けてくれると踏んでいた。受付にて捜索願を出したいと申し出た。渡された用紙に彼女の名前や住所を書いて提出し、待合に座っていると書類が返却された。「このリズワン・ディルムラットさんは、職業訓練センターにいますよ。お子さんも施設が預かっています」「職業訓練センターって、僕の妻は中学教師ですよ」「そういう問題ではないんですよ。頻繁に外国と、それも過激派の多い国と通信している事実があるんです。事件を起こされる前に再教育が必要なんです」まさか妻が連れ去られた要因に、僕との連絡が関係しているなど考えてもいなかった。こうなると知っていたら、電話をかけはしなかった。「外国ったって、僕の故郷ですよ。きちんと調べてください。僕の故郷で信仰しているのはイスマイール派で、過激派の組織とは無縁ですから」「とにかく、いつか必ず帰ってきます」「いつかって、いつですか」「近い先です」僕と話していた警察官は、それきり奥に引っ込んでしまった。一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、妻や子どもたちは帰ってこなかった。僕だけが寂しく暮らす家に戻ってきたアリイェは、私が実家に帰らなければと泣いていた。僕も彼女と同じ気持ちだった。警察署や役所に何度足を運んでも無駄だった。妻がいなくなって一か月後、母の「嫁さんならこっちで貰えばいい」という言葉に腹が立って、電話越しに怒鳴ってしまった。この日、アリイェには退職金を渡した。僕は薄暗い寝室で横になった。もしも一緒に、今までのように暮らせる日が来たら、どれだけ幸せだろうかと考えた。ウイリックが、この国が僕たちの営みを妨げるならパシャールに移ったっていい。妻も子どもたちも言葉に不自由するかもしれないし、華やかさの欠片もない村だから退屈かもしれないけれど、穏やかな暮らしを送りたい。いつかポプラに囲まれて、ヤギや羊を追いかけて、放牧地への吊り橋を渡れたなら、どんなに良いだろう。妻の夜具で眠っている間だけ、僕たちは平凡な営みの中にいた。