あたらしいからだ

糖質を下水に流すさらさらに あた(し)らしいからだが欲しくて 呼吸する小さな火も、三つほど集まれば夜が薄らぐ。互いの顔は微かに視認できる。六つの眼の奥で灯芯がじりじりと燃えていた。呼吸する火が吸い込んだ夜気は、熱せられた煙へと変貌し、春を蒸し上げていく。小さな火がひとつ、鯖缶の空き缶の静まった底部に押しつけられて、消えた。鯖缶の中身は昨日の酒の肴に使った。まだ水煮の、海のにおいが残っている。鯖を炙るように、海に不知火を放つように、鎮まる間際の火は底部をなぶった。「お先に」莉子が窓縁に足をかけて居間へと帰っていった。残り二人になって、順々に火を消し、順々に窓縁を踏み越えて屋内へと引き上げる。細い煙が三本立った鯖缶は、縁の下に置いていく。寂しそうな鯖缶を宥めるように言う。「漁火に捕まってしまうから、夜は駄目」屋内も暗い。明かりが無ければ当たり前に。あたしはマッチを擦って、蝋燭の灯芯に燃える頭薬を近づけた。後から居間に上がってきた悠生の脹脛が、軟体動物の表皮みたいにぬらりと灯される。布団を被っていない掘り炬燵の上でノイズ混じりに鳴っているラジオは、ライフラインの復旧を知らせない。ラジオを囲った。いかにもラジオといった風貌のラジオ。その周囲には菓子パンの山がある。包装された糖質の塊たちを、一袋ずつ開けて食す。半島の海沿いを走る四方線には三か所も土砂崩れが起き、拠点であるはずの市役所は四階部分がつぶれてしまった、らしい。二袋を食べ終えた悠生が立ち上がる。「煙草?」莉子は訊きながら、悠生の食べかけに手を伸ばし、その手は叩き落とされる。ラジオは切迫したような声で喋り、やがて悲痛さを存分に込めて死亡者の名前を連呼し始める。「お手洗い」「どっち?」「古い方」新しい方なら良かったのに、と思う。あたしたちの家には厠が二つあって、新しい方は三人での暮らしを決めたときに作った。他にも、いくつかの設備や空間を増やした。この家は元々あたしの血縁者が住んでいた。いつの間にか誰も使わなくなったのを、叔母から譲り受けた。叔母の前は大叔母の所有だった。「あたし、すぐに新しい方に行くから」莉子が得意げに言った。それならば仕方がないといった表情で、悠生が自分の食べ残しを差し出す。チョコデニッシュパンの三分の一は、一瞬で莉子のお腹に消えてしまう。「少し、育つの早くなったよね」「早くなったね」あたしたちは薄明りに顔を見合わせて笑った。先日の地震が起きる前の一週間、あたしたちの成長は目に見えて早まった。普段は週に一センチしか伸びないところが、一・五センチ伸びるくらいに。水がざああと流れる音がして、悠生が戻ってきた。「さあ、食べるぞ」と意気込んで甘ったるそうな三個入りのマフィンを開ける。ラジオは飽きもせずに、何度目かわからない東北との比較を始めた。「終わったら、見に行こうか」「あたしたちを?」「行こう」合計四袋の菓子パンとチョコデニッシュパンの三分の一を食べた莉子は、二リットルの水を手に新しい方の厠へと駆けていった。あたしの胃も支援物資の水で膨れた糖質の塊によって圧迫されていた。莉子が閉ざした障子に向かって「早めに出てきてね」と呼びかける。「座卓、外しちゃおうよ」悠生は掘り炬燵を外したくて仕方がないのだ。莉子だってあたしだって、早く見たい。あたしたちのことは常に三人の誰もが気にかけている。あたしたちのために生活しているといっても過言ではない。「後でね。お腹苦しいから」流水音を待っている。ざああと音がして、あたしも厠に行った。扉を開けて出てきた莉子とすれ違う。横髪の房の先端を汚して目を腫らした莉子を、偉い偉いと撫でてあげた。あたしたちのために、偉いから。莉子の後で入る厠は、莉子の香水と胃酸とチョコレートのにおいがした。あたしは、壁にかけられた内径十五ミリの透明チューブを掴み、先端を飲み込んだ。粘膜を傷つけないように食道に侵入させる。チューブの中央にある油性ペンのマーキングが前歯の位置に来るように飲めば、胃まで先端が到達する。透明チューブの飲みこんだ方と逆端に、備え付けの水道の蛇口を繋いだ。少しずつバルブを捻っていく。チューブの中を水が流れる。空気と水との境目が、だんだんとこちらに移動してくる。この家の水は、井戸水だから煮沸せずに飲むのは褒められたことではない。やがて、胃が水で満たされる。蛇口からチューブを外すと、攪拌された胃の内容物が逆流していく。チューブの先端を便器に向ける。液状の糖質が褐色の吐瀉物となり、白磁のなだらかな曲面を流れていく。溶け切っていない塊が斑点状に浮き上がる。奥の澄んだ水溜まりが、靄がかっていく。あたしのところに黒いうねりは来なかった。来なかったことを良かったと、震源が内陸部で良かったと、言えなかった。澄んだ町や村を、褐色の嘔吐が飲み込んでいく。あたしのところには来なかった、黒いうねりの代わりに。胃の濯ぎを何度か繰り返せば、排出される水は澱みのないものに変わった。レバーを押して水を流す。跳ねるような悠生の足音がする。扉を開ければ偉い偉いと撫でられた。あたしたちのために、偉いから。悠生が新しい方の厠から出てきた頃には、三人とも食べ疲れ吐き疲れてしまった。雨の漏らない仏間に布団を三つ並べて、眠れないなりに目を閉じた。大叔母が蝋燭に火を灯している。線香が糸のような煙を吐いている。ラジオは静まらない。もしも、黒いうねりが今晩来たなら、三人でもやいを結ぶように抱き合っても腕は解かれて、飲み込まれ離れ離れになるのだろう。あの日、テレビの画面に映った町は膨らんでいくうねりに食い潰されていった。有り余る力を振りかざした水平線からは逃げ仰せない。うねりは画面の下端から侵入してきて、思春期のあたしを真っ黒な海水で濡らした。 うねりは来なかった。揺れも、来なかった。あたしは小さな地揺れに目を覚まさなかった。朝とも昼ともつかない時間帯に起きる。目覚めたばかりの莉子も悠生も末端が冷え、あたしも手足を震わせていた。ゆっくりと布団から這い出て、今日の仕事を確認する。公民館から菓子パンを調達してくること、洗濯をすること、明るいうちに本を読むこと、あたしたちに会うこと。あたしと莉子が洗濯をしている間に、悠生が菓子パン調達に行く。青い自転車があたしたちの住処を滑り出た。家の表に莉子が金盥を出してきて、あたしそこに三人分の洗濯物と洗剤と水を放り込む。ギョサンを脱いで、裸足で洗濯物を踏みしだいていく。莉子も加わって、腕や肩を掴み合いながらの洗濯。盥の中で踊るようにすればいい。洗剤の泡が飛ぶ。汚れた水を流して、新しい水を入れる。踏む。踵から爪先まで体重を移動させ、膝をすっと上げる。逆の足でも同じように踏む。濯げばまっさらになるようでいて、あたしの足元からは雑巾を絞ったみたいな黒い海水がにじみ出ている。だから洗濯物が元より少し綺麗になったくらいで濯ぎをやめた。家の裏にあるビニールハウスには、天井から物干し竿が下がっている。雨や風を防ぎながら天日干しにできる。青い自転車が裏道から帰ってきた。悠生はサドルから腰を浮かせて、前カゴではビニール袋が鳴っている。あたしたちの材料は大漁のようだ。ビニールハウス駐輪された自転車には、さらに両ハンドルに一袋ずつ菓子パンが下がっていた。「年寄りは食わんから好きなだけ持ってけって」「ふうん」「あたが一人で食うとかって聞かれた」「何て答えたの?」「食べ盛りが二人おるとですって言っといた」三人で三日食べて少し足りないくらいの糖質の塊たち。一人一袋ずつ持って、縁側へ。叔母が冷たい板張りの上に蹲っている。縁の下に入れておいた鯖缶を出したとき青と黄色の鮮やかなパッケージに、SABAの文字と鯖が泳いでいる。居間の隅に菓子パンを置いて、一服。黄色い鯖は空の缶詰を飛び出して、石巻の海へ帰ろうとする。「東は、あっち」莉子が太陽の昇る方角に、煙草の火を向ける。「鴈回山は越えられないから、回っていくんだよ」黄色の鯖たちは三人の煙の間でひとしきり準備運動をした後、SABAを先頭に一直線になって火が示す方向へ泳いで行った。彼らが無事に帰郷することを願った。居間に積んである本を読んでいく。読むこともあたしたちのためだ。知識や韻律を同じくして、あたしたちはひとつになる。三人で持ち寄った本たち。古本屋で買い足したものもある。あたしは莉子が前に付箋を貼った本を手に取った。はじめから読むのではなく、薄橙に示された箇所を開く。傍線部の「流々草花」と「未生憶海」を自分にも聞こえるか聞こえないかくらいの声で音読する。お経か、お経に似たものか。大叔母が仏前で唱えていたものより、ずっと此岸の側にある。付箋のページを閉じて最初から読みはじめた。陽が傾き、文字が夕闇に紛れはじめる。なんとか最後まで読みきって閉じる。山積みの中に本を戻した。あっちを持って、本と雑誌の山をよけて、細々したものを片づけて。掘り炬燵の座卓を部屋の端によけ、底板につけた持ち手に向かい合った二人が手をかける。掛け声と共に底板が持ち上がり、階段が現れる。莉子が懐中電灯で先を照らしながら降りていく。あたしと悠生も続く。あたしたちのための地下室へ続く階段。だんだんと暗く涼しくなり、吸い込む空気に黴や堆肥のにおいが混じってくる。「真帆より大きくなってたらどうする?」「バルブを絞らなきゃ」「二メートルくらいになったら、きっと生活しづらいから」階段を下ると、細長い廊下がある。冷たく湿気たところを歩いていけば、地下室は壁、天井、床の全てがコンクリートで固まっている。天井には大きなタンクが取りつけられている。このタンクは新しい方の厠の真下にある。便器に流した吐瀉物は、全てここに送られる。タンクにはバルブつきの排出口があって、そこから下へとチューブが垂れ下がり、空間のほとんどを占める立方体の水槽へと入っていく。臍の緒のように腹部にチューブが繋がったあたしたちは、いつものように水槽の中に浮かび、細い髪は末梢神経のように漂っている。身長はもう一六〇センチくらいまで育っていた。これまでとは比較にならないペースで伸びている。皮下脂肪は全身を薄っすらと覆い、筋肉質なわけでも骨張っているわけでもない。乳房の膨らみもなく、性器はつるりとしている。皮膚には、もはや肌理など無い。均質な液体のような肌。あたしたちの、あたしたちらしい、あたらしいからだ。次に大きな揺れが来たら、三人であたしたちになると決めている。あたしらしくないからだには、さようならを告げる。この家や三人の身体はきっと駄目になるから、あたしたちにはあたらしい住処を用意してある。今度こそあたしたちはあたしたちのからだを大切にするし、あたしたちのからだはあたしたちだけのものにする。地揺れと共に生まれたあたしたちは、黒いうねりが来ても離散することなく、あたしたちのままで海の微塵になる。かつて、大叔母に身ごもった双子を押し流し、叔母の胃に大量の錠剤を流し込んだのと同じくらい大きく黒々としたうねりが来ても。細かく震えながら、四方の山々が膨らんでいく。食べ物でぶくぶくと膨らんでいくみたいに。そして、膨らみの内に詰まったものが吐き出される。ずんっと足元が落ちた。頭上ではラジオが人々の不安を煽るように五つの音を同時に発し、すぐに半音違いの和音が来た。あたしたちが、あたらしいからだで歩き始める瞬間が迫っている。あたしたちには、あたらしい名前をつけよう。記号の姓と意味を込めた名前を。夜が深まった頃には西港から船が出る。海を渡った先で、あたしたちは生きていく。あたしたちに繋がったチューブを外した。チューブの先から誰のものかわからない吐瀉物が、ほやほやと泳ぎ始める。あたしたちを水槽から出して、腹部の穴には脱脂綿を詰めた。あたしたちの体をガーゼタオルで拭って、三人が着ていた服をひとつずつ着せた。悠生が渡した上着には、財布や船の切符が入っている。あたしたちなら、海を渡ってどこへだって行ける。「目を開いて」あたしたちは青白く澄んだ眼球を露わにした。まだ重力に慣れていないあたしたちは足を震わせながら立ち上がった。地面もゆらゆらと波打っている。「出口はあっちだよ、メル」あたしたちはこくりと頷き、駆けだした。示した方向に道なりに進めば、地上に出ることができる。海は繋がっている。どこへだって行ける。あたしたちを見送った後、あたしも莉子も悠生も普段の生活空間に戻った。陽の沈んだ崩れゆく世界に不知火を放った。枠の潰れかけた障子や、土壁の破片が落ちた畳を火はなぶっていく。積んである本のうち一冊を手に取った。流々草花、未生憶海。あたしはやっと、あたしのからだに、さよならできた。 姓も名も下水に流すさらさらに あた(し)らしい名前がほしくて

※タイトルは笹川真生「あたらしいからだ」より