6. 三月十日 アメリカ自然史博物館

この日の朝食は,前日のパーティから持ち帰ってきた海苔巻だった。隣り合っている,曽と谷口の相部屋と,レナと私の相部屋が,互いの部屋の鍵を内側から開けると通じ合うことが分かっていたこともあり,曽の部屋で皆で朝食をとった。鵜川や吉田も集まり,賑やかな朝となった。吉田はなぜか,棚と机の間の狭い隙間を好み,その間に収まって座ることが多かった。

地下鉄の乗り方にも慣れてきたところで,単身,博物館に向かう。映画”ナイト・ミュージアム”の舞台にもなったアメリカ自然史博物館である。地下鉄の八十一番通り駅を降りると,駅はそのまま博物館に繋がっており,直ぐに大混雑だった。親子連れ,老夫婦,学生グループや若いカップルがひしめいているが,この日の私は完全な単独行動であり,予め誰かとアポイントメントを取ったわけでもなく,場にいる誰も,私が言葉の不自由な旅行者であることを知りえない。周囲を流れるのは英語ばかりであり,髪も肌も様々な色の人がいる。改めて,眩くような,そこに立っているのが非現実的なような思いに襲われた。

緊張しながらチケットを買い,ガードマンの指示で手荷物検査を受けて博物館内へ入る。フードコートを抜けて天文学の展示へと入ると,屈強なガードマンがそこかしこに立っており,時折親子連れに,子供を静かにさせる様にとの注意を入れていた。前日コロンビア大のコーズ先生に,この博物館に行くつもりだということをお話した際も,彼女は”騒々しい子供に気を付けてね”と言ってにやりと笑った。今にして思うと,このような警備員の行動は現代日本ではあまり見られない。娯楽施設の従業員は,はしゃぐ子供に対して積極的に関わらないか,関わったにしてもとても低姿勢ではないだろうか。

さて,博物館は,研究者たちの研究成果と,研究者でない市民が直接接触する場の一つである。博物館はある種の娯楽性を持つが,この二者が接触する場としては他に,学校教育の場や報道の場もある。ところで,一般的に日本人は受動的で,米国人は積極的だと言われている。それらの国民性は,一つには教育システムによって形成されると言われている。今回は初等教育の場などを目にすることは出来なかったが,せめて,そのような国民の性質の違いが,ある種の教育の場としての博物館展示の二国間の差異として表れているのか,という点について見定めたかった。

結論から述べると,あまり大きな差は感じられなかった。それでもそこでは,大人の好奇心を満足させる理論的な解説パネルから,子供の目を引く魅力的な展示品まで,広大な敷地を活かした多彩な展示がなされていた。地震の原理を解説したパネル,星の一生を示す映像,そして,開けた建築デザインと相まった圧巻の天体模型群,キラキラと輝く希少鉱物サンプル(各鉱物の英語名は殆ど認識できなかったが,試料の横に書かれた元素記号や分子式からそれと知れた),足元から頭上まで周囲一帯に展開する,熱帯雨林や深海の世界。この国では”自然史”に,自然科学だけではなく民俗学や文化人類学も含むのだろう,地学や生物学の展示に加え,また別のフロアでは,様々な地域に住む人が築いてきた歴史や習俗が展示されていた。アフリカ人やアジア人,ネイティブ・アメリカン。アジア人でも少しずつ違う日本や中国,東南アジアが区別されていた。干し首や金の装飾品,住居模型,狩猟道具に着物,器,船などが,地図やその土地の人のライフサイクルを表す図とともに,盛りだくさんに飾られていたのである。

さらに,来訪者が参加することのできる教育企画もあった。その一つ,”サックラーの教育ラボ”に立ち寄ると,そこではマウスやアカゲザル,チンパンジー,ヒトの脳の模型や画像を比較することで,脳の進化についての理解を得るというクイズが企画されていた。マウスからサル,ヒトへと移り変わるにつれ,思考や言語をつかさどる大脳皮質が増大していくのが如実に視認できるよい教材であった。しかし,土曜日だというのに人影はまばらで,一人の女子学生がアルバイトかボランティアで,訪れた子供に何かをレクチャーしていた。話しかけてみると,彼女は神経科学を専攻している大学生で,研究者を目指しているのだという。日本の学生で博物館勤務を希望する者は少なくない。彼女はここアメリカでどのように仕事を楽しんでいるのだろうか,……けれど。

「もうこんなことにはうんざりよ。」

と,私と恐らく同年代の女子学生はそう言った。

日々訪れる子供たちにその都度同じ内容を語り続けるのは,たしかに倦んでしまうような仕事かもしれない。とりわけ,新しいことに常に挑み続けることを好む若い学生にとっては。では,教育者と教育を受けるものの双方が,常に新しい刺激を受けられるような教育とはどのようなものだろう。それはルーチンであってはならず,初めからゴールまで全てが予め決められているような作業であってはならない。教育は一方向的な知識の伝達ではなく,人と人との双方向的な交流であるべきだ。オーストラリアでは,博士号を持つ高校教員が自由に担当クラスのカリキュラムを決めるという。勿論,独自性のある教育は,均一な教育に比べ,教え手や生徒の負担,緊張を増やすだろう。しかし,教師や生徒の特性によって学ぶ過程や生まれる成果の変わる有機的なカリキュラムを,現場の教師が自在に設けることができたとしたら,公教育の場でも,博物館の場でも,わくわくするような人間交流としての教育が実現されるのではないか,そんなことをぼんやりと考えた。

少し休憩して,水を飲みつつバナナとフルーツカップを食べた。ずっしりとした料理の多いディナー・パーティの反動か,滞在中の日中はまるで修行僧かベジタリアンのように,水と果物しか口にしないことがしばしばあった。ところで,この博物館でもそうだったが,アメリカの手洗い場の便座はどこでも嫌になってしまうほど高いので,子供のように足をぶらつかせながら座るほかなかった。

その後,ミュージアム・ショップでお土産を見繕う。そもそも,このプログラムの派遣メンバーを決める際の面接の練習を指導して下さった講座の先輩,葉月さんに。そして渡米を祝福,サポートしてくれた家族,親族に。友人に。銀のスプーン,絵葉書,菓子類。蝶を象った,毒々しいまでに鮮やかなグミ。日本のように小奇麗に包装してはくれるわけではないが,個性的な土産物を買いこむと,ミュージアムを後にした。人に会う約束をしていたためだ。

ホテルに戻り,土産物をスーツケースに詰め直すうちに,十六時が近づいた。借り物の海外用携帯電話が鳴る。ボタンを押すと,電話機の向こうで親しげに話しかけてくる懐かしい声が聞こえた。中学からの友人であり,いまはニューヨーク州のコーネル大学で物理化学を専攻しているカオリと,ここで落ち合うことになっていたのだ。彼女は片道五時間の道のりをバスでやってきてくれ,今まさに私の泊まっているホテルにチェックインしているはずだった。

「五〇四号室ね。……ええと,私たちの部屋が三〇四だから,この丁度上だね。」

私は電話を切ると,カオリから頼まれていた”日本のお菓子”が詰まった袋を手に,上階へと向かった。五〇四号室のドアを叩くが,返事はない。電話をかけ直したところ,

「あっ,五一四だ。」

との返事を受け,冷や汗を流しながら部屋を移動した。勘弁してほしい。五〇四室に宿泊中の赤の他人に出くわさなかったのが不幸中の幸いである。

久しぶりに会ったカオリは,硬い黒髪を束ね,”コーネル大学”とプリントされた赤い服にジーンズを履いていた。すっかりアメリカ人風の服装である。再会を喜び合うと,私は土産物の袋を彼女に手渡した。カオリはベッドの上で袋を開くと,次々に中身を出してゆく。カレー味のカップラーメン,麩菓子,棒ゼリー,小さなタイルのような形の餅菓子,煙草を模したラムネ菓子,”にんじん”と呼ばれる,ニンジン型の袋に入った米菓子など,昔ながらの日本の駄菓子である。

行儀の悪い,クリスマスの朝の子供のように,私たちはベッドいっぱいにお菓子を広げてはしゃいだ。

「アメリカのハンバーガー,もう食べた? こっちの肉料理を食べてほしい! ほんとにおいしいから。」

カオリが強く勧めるので,その日の夕食は,”シェイク・シャーク”なるハンバーガーショップでとることとなり,五十七番街通りから四十四番街通りへと歩いて行った。昔馴染みとのカオリと肩を並べて異国の大都会を歩くのは,不思議な感覚だった。気性の荒い乗用車や,コンビニエンスストアのように至る所にあるファーマシイ。溢れる人波。ニューヨーク州内でものんびりとした田舎町のイサカからやってきたカオリは,賑やかな都市の様子に目を丸くしていた

中途,誰かがカオリに電話をかけてきた。彼女は立ち止まり,話し始める。

“…With my friend. …To see my friend from Japan. I’m in New York City to see my friend from Japan(日本からの友人に会うために,ニューヨーク・シティに来ているの).”

周囲の騒音がやかましいせいで言葉が伝わりづらいらしく,カオリは何度も言い直していた。雑踏の中,途切れ途切れに聞こえる彼女の英語は,けれど少女時代に聞き続けていたものと同じ,柔らかな抑揚の澄んだ声だった。

程なくして電話を切ったカオリの説明によると,以下のような事情とのことだ。彼女は今,中国人のリーダーが率いる研究チームで物理化学の研究をしている。触媒,即ち化学反応を促進する物質がはたらく時の構造や機能を,一分子スケールで解明しようとしているのだ。電話をかけてきたのはカオリの中華系の同期で,研究室長の異動について相談をしてきたそうだ。カオリらの研究室のリーダー,即ち指導教官は秋から始まる次年度,他大学からの引き抜きを受けようか迷っているところであり,異動先は大学のランクは少し下がるものの,准教授から正規の教授職に昇進できるとのことなのである。しかし,学生にとって,学位を取得する大学のランクが落ちてしまうのはキャリアに関わる死活問題である。既に研究実績を積んでいる上級生たちは,指導教官に伴って異動しても,以前に所属していたコーネル大学の博士号を手にすることができるそうだ。だが,カオリら一年生は,これから異動すると異動先の大学の学位を得ることになる。そういうわけで,若い学生には移動のメリットがなく,指導教官に伴うか,或いはコーネル大の中の他の研究室に編入するか,カオリらには悩ましいのである。

ともあれ,ネオン瞬く大通りを歩き続け,目当てのハンバーガーショップのある四十四番街につくと,路上には,どこかの店からあふれた客の長蛇の列ができていた。まさかと思いつつ列が入っていく店の名を見ると,”シェイク・シャーク”と書かれていた。大人気のようだ。

チーズバーガーにハンバーガー,フライドポテト,バニラとチョコレートのシェイクを注文したものの,店内も大混雑で,席をとるのさえ困難であった。カオリが速やかに座席をとってくれるのではないかと期待したが,どうも私と同程度にまごついているように見える。

「……ねえ,もしかして,混んだお店に慣れてないの?」

私は恐る恐る聞いた。

「うん。」

カオリは屈託なく頷いた。仕方がないので,ちらりとテーブルを見やり,食べ物が残り少ない人に目をつける。いまにも食べ終わり,席を立って帰りそうな人の横に張り付いて席が開くのを待ち構えた。これは,日本の混雑した電車内での行動にも通じるところがある。折よく二人づれの若い女性が立ち去り,窓際の席に座ることが出来た。ハンバーガーやポテト,シェイクは濃厚な味付けで,肉の味も素晴らしかった。

「さっきの二人は韓国系かな。」

カオリの言葉に,同様の確信を持って私は頷いた。ここアメリカに来る前からもおぼろげに感じてはいたが,アジア人であれば互いに,目鼻立ちや雰囲気,話し方,化粧や服装から,日系や韓国系,中国系,そしてタイやベトナムの出身者を感覚的に見分けることが出来るように思う。ヨーロッパやアフリカの出身者も,私にはその出自の詳細を推し量ることは出来なかったが,彼ら同士相互いに見分け合っているのだろう。

ホテルに戻り,夜中に突然コーラが飲みたくなったと言って部屋を出たカオリが戻った後,私たちは延々と話し続けた。落ち着いて話をするのは二,三年振りだろうか,その前に会ったのはまた数年前だっただろう。長い間,何を話していただろう。たわいもないことばかりだったように思う。彼女のちょっとした冗談に笑いながら,数年おきに会うだけですぐに心から笑いあうことのできる彼女は,私にとって姉妹のような存在なのかもしれないとさえ感じた。