3. 三月七日 ニューヨーク・シティ

ゴロゴロとスーツケースを引きながらジョン・F・ケネディ空港を出ようとする我々を待ち構えていたのは,大型バンの運転手であった。何やら英語で勧誘してくる彼に,頼もしくも五所女史が応答して下さった。今までの交流の中では,柔和な人のよさがあふれ出るかのような彼女ではあったが,たった今到着したばかりのこの不慣れな異国の地で,いかに彼女が逞しく見えたことか。程なくして彼女はこちらを振り返ると言った。

「どうしましょうみなさん,ひとり十ドルでホテルまで送ってくれると言っています。地下鉄で行くよりは少し高いのですが,荷物を自分で運ばなくて済みますし,ホテルのすぐ前に到着できます。」

そうは言われても,こちらの地下鉄がどんなものかさえまだ見当もつかず,我々は暫し顔を見合わせた。結局,航空機中で一睡もできなかったメンバーが何人かいたこともあり,バンを用いることになった。当時は地下鉄の使い方を一刻も早く覚えたいと気がせいていたが,今にして思えば一つでも多くの交通機関を経験できたことは収穫だった。運転手は太い腕で我々の十一個ものキャリー・カートを軽々と持ち上げ,トランクに詰め込んでくれた。彼の英語は,少なくとも私には断片的にしか聞き取れず,我々はひそひそと日本語で会話し,ばらばらなパズルのピースを持ち寄るようにして,彼の真意を確かめあった。はじめは彼は運賃は一人分でいい,と言っていたようだったが,どうもそれは同乗者が一,二人である場合のようだった。ではなぜ十一人の集団を前にしてそんなことを言ったのだろう,大変紛らわしい。チップはいらないとも言っていたが,本当のところこちらの習慣においてどうなのかは分からない。今回はメンバーたちや五所女史のおかげで何とか切り抜けられそうだが,今後,単独でいるときに似たような局面に遭うかもしれない。どうも,一筋縄ではいかない街のようである。

十二人を乗せた大型のバンは,四車線の道路を飛ぶようなスピードで走ってゆく。運転は荒かったが,歩行者の気性も荒い。乗用車はウィンカーを出すと同時に車線を変更し,歩行者はまるで自分が透明人間ででもあるかのように強気で車道へ飛び出してくる。そんな状況にもかかわらずシートベルトの数が不十分で,我々は身を縮めるようにして座席にしがみついていた。涼しい顔の運転手に,人懐っこい五所女史がしきりに話しかける声が聞こえる。

「あなたはニューヨーク出身ですか?」

「今日の気候は暖かいですが,いつもこんな調子ですか?」

やがて,運転手がかかってきた電話に応答したのち,勇敢で好奇心あふれる彼女は何とこうも尋ねたのには面食らってしまった。

「恐れ入りますが,運転中の通話は違法ではないのですか。」

彼曰く,電話機を自分の頭部に固定し,両手がハンドルにかかっている状態であれば法を順守していることになるのだそうだ。運転手はしばらくするとカーステレオをかけ,上機嫌に鼻歌を歌い始めた。だいぶリラックスしているようである。

「この歌手は好きだ,飛行機でも流れていた。」

王が後ろから運転手に話しかける。

「本当か? この曲は気に入っているんだ。」

「いや,この曲は好きじゃない。」

「……なんだって?」

運転手の頓狂な声に,小さく笑いが起きた。それを期に場の緊張がほぐれたようで,後部座席で曽や吉田が喋り始めたのが聞こえてきた。彼らは中国の話をしていた。曽は中華系の出自だが,中国では,茶という茶に甘味が入っており,”砂糖なし”と表示されている茶にはなんと,代わりに蜂蜜が入っているのだそうだ。そんな話を聞き流しつつ,私は窓の外の見慣れぬ景色を見つめていた。レナの友人の情報によると夜景が有名だというブルックリン橋を通り抜け,中華料理屋のある街角を通り抜け,画廊を通り抜けると,無事にチェーンホテルへと辿り着くことができた。結局チップを含め,ひとり十二ドルずつ運転手に支払うことにはなったが。

ホテルは大衆向けの有名なチェーンであり,五所女史が付近のいくつものホテルの評判を比較検討して決定し,予約して下さったものである。”エレベーターが遅い”という難点はあるようだが,付近に飲食店が多く,治安もよいとのことである。さらに彼女は,夜間の車両による喧騒を避けるため,メンバーの部屋が道路側にならないようにさえ調節して下さった。細やかな配慮は,ニューヨークをよく知った彼女ならではだろう。五所女史はチェックインのための手続きにフロントに向かい,私たちは荷物を降ろして暫し安堵した。鵜川がカメラを取り出し,そんなメンバーらの写真をいち早く撮っていった。早口な異国語の会話が広いロビーを飛び交い,私の耳朶をゆすぶった。

フロントから帰ってきた五所女史が,我々にカードキーを下さった。突然深刻な表情になり声を潜めた彼女によると,どうもこのホテルの従業員,態度が”おかしい”らしい。女性は一人でフロントに行かないほうがいい,とさえ,五所女史は言い含めた。そんなこともあるのだろうか。日本の,概して礼儀正しい従業員に慣れた身としては,その理由が今ひとつピンとこなかった。東洋系であるからだろうか,旅行者だからか。やはり,この国には目に見えない階層のようなものが存在するのだろうか。

「荷物を運びましょう。」

従業員が複数,我々の方に近づいてきたが,

「必要ありません。彼らは学生ですから。」

と,彼らを警戒した五所女史がにべもなく言い,我々は順にエレベーターで三階へと上ることになった。ところが,このエレベーター,評判通り老朽化しているらしく,表示部分が壊れていて”上”を指しているかに見えるボタンが実は”下”であったり,言うことを聞いてくれないことがあったりもした。

ホテルの部屋割りは以下のようになっていた。

・レナ(生物情報四年),齊藤(生物四年)

・曽(物理四年),谷口(生物科学三年)

・田屋(物理四年),王(物理三年)

・吉田(物理三年),鵜川(化学三年)

・小松(生物情報四年),荒川(物理三年)

女子学生は二人だったので,私は必然的にレナとの相部屋である。五所女史の意向では,異なる学科の学生同士を相部屋にして学生同士の交流を広げる方針だったのだが,本年度は物理学科の学生が多く,ひと組が物理同士になってしまったとのことである。それでも五所女史は,相部屋になる物理の学生の学年をずらすこだわりを見せた。物理や化学,生物化学,生物,生物情報のほかに,理学部には数学,情報科学,天文学,地球惑星物理科学,地球惑星環境科学という,多岐にわたる十の学科があり,このプログラムでも毎年様々な学科の学生が愛外に渡航している。

部屋はカーペットの敷かれたツインルームだった。バスルームと窓に挟まれてベッドが二つ並んでおり,その正面にはデスクとテレビがある。窓側のベッドをレナがドア側のものを渡しが使うことにし,ようやっと荷物を降ろした。私のベッドの下には,前の利用者のものか,黒いアイマスクが落ちていた。テレビの横には白い扉があり,隣にある曽と谷口の相部屋と繋がっていた。両側から鍵を開けないと行き来は出来ないのだが,曽やレナはこの隠れ家のような構造をいたく気に入り,時折,二部屋,あるいはそれ以上のメンバーで曽の部屋で朝食を共にするようになった。

夕刻,学生全員でホテルの周囲を散歩することになった。長時間のフライトで浮腫んだ足をさすりつつ,出かける準備をしようと何気なく鞄を覗くと,なぜかどうも湿っているような気がする。貴重品用のポーチ,ノート,カメラ,ファイル,……。慌てて中身を取り出してみると,何というか,航空機の中で配られたまま温存しておいたオレンジジュースの容器が敗れ,中身が飛び散っていたようだった。ジュースは紙パックでなく,アルミのゼリー容器のようなものに入っていたため,脆弱だったのかもしれない。嬉しくないことに,カメラもノートも,芳醇なオレンジの香りで満ちている。青くなったが,対処は後で考えることにし,差し当たってはカメラケースを洗って干すと,最低限のものを持って外に出た。

先ほど大型バンの上から眺めた広い道路を歩く。ホテルの横には,移民の手によるものか,ブラジル風教会があり,古本のバザーが行われていた。少し先を歩くと公共掲示板があり,新興宗教や水泳教室のビラが無造作に貼られている。掲示板一帯には,ビラの貼り痕が,爛れたように残っていた。通行人は早足で勝手きままに歩き,乗用車はその間を縫って運転している。道の真ん中では手押し車を押した老婆二人が話しこみ,観光のためか,馬車が頻繁に通っていた。歩行者用信号はオレンジ色の”手”のマークが”止まれ”,白い歩行者のマークが”進め”を表すらしい。信号機の歩行者のマークはすぐに消えると,十幾つの数字からのカウントダウンが始まり,それだけの秒数が経過したのち,手のマークに切り替わるので,急きたてられるように歩かねばならない。

学生一行は時折立ち止まってシャッターを切りつつ,十数分かけて,広大な公共公園であるセントラルパークへと歩いた。平日の夕方だというのに,短い草で覆われた公園は大勢の若者でにぎわっていた。若者たちは大柄で,子供が描く絵のような赤や青のトレーナーにジーンズを履いていた。また,ハーフパンツ姿でジョギングを楽しむ人もちらほら見受けられた。彼らはサングラスをかけ,イヤホンで何かを聞きながら,ピンク色やオレンジ色の,”ビタミン・ウォーター”と書かれたボトルを片手に掴んで走っていた。我々は小高い丘に登り,ニューヨークの街並みを見渡した。東京のものより一回り幅広く,高く,堂々としたたたずまいのビル群であり,空が切り取られたように小さく見える。緑豊かな公園内では,行く手のそこここに野生のリスがいた。吉田や曽はリスを気に入り,写真を撮ろうと追い回していた。リスは茶色がかったグレーで,小刻みにすばしっこく動き,なかなか可愛らしい。

レナのガイドブックによると,この公園内に城や湖があるそうで,それらを一目見てやろうと意気揚々と歩きだした一行は,しかし広い広い園内を,西日に焼かれながら歩くうちに次第に疲れ,時計を睨み付けるようになっていった。

「湖を見つけたら帰ろう。」

と言い出した鵜川がやがて湖らしきものを発見し,彼方を指差すのにつられ,一行は皆それを遠目に見やりつつ,そうかと納得して踵を返したのであったが,後になって地図を見たところによると,湖かと思ったのは実は小さな池であり,我々は当初の予定の三分の一にも達せずに引き返したということが分かった。さすが巨大な国,アメリカである。

淡い紫色の空に,オレンジ色の日が沈む。ニューヨーク・シティの夕景を背に,我々は一旦ホテルへ戻った。五所女史と合流して夕食をとるために。

饒舌な彼女の説明に耳を傾けつつ,街を歩き回る。曰く,ニューヨークのビルが大きく,時にガラス張りなのは,地震が起きないから可能な建築なのだそうだ。五所女史は幾つかのレストラン,”スシ・バー”,カフェテリアを案内して下さったが,我々は困憊して判断力が落ちており,どこで夕食をとるかを歯切れよく決断することが出来ず,ただただ彼女について街を歩き続けた。結局,真っ赤な文字で”フレイム・レストラン(炎のレストラン)”と書かれた店に入ることになった。このレストランではよもや火の出るほど辛い料理しか振る舞われないのだろうかと思いながら歩を進める。明るい店の入り口には,巨大なパイやケーキが飾られていた。辛いものばかりではなさそうだ。が,これはきっと砂糖爆弾だ,と曽が肩をすくめた。

ようやっとテーブルにつく。メニューには写真がないのだが,日本で聞いた風評と値段,そして入口に飾られていたケーキの様子からすると,かなりの分量があるであろう。案の定,現れた”アボカド・ロール”は,両手でないと持てないほどの大きさで,しかも二つもやってきた。白い堅いパンの中に細かく切ったアボカド,トマト,ゆでた鳥のムネ肉などが入っている。今ひとつ味がない上に,一口食べるごとに中身がこぼれ落ちる。大柄な田屋や,アメリカ暮らしの長い鵜川も,それぞれの肉やポテトが盛られた皿に苦戦しているようだった。ただでさえ細身の曽はなかなか料理が口に合わないらしい。レナは大きなハンバーグを頼んでいたが,食べおおせるのだろうか。ニュージャージーに長年住んでいた鵜川は,当時は日本の食べ物を子供用かと見まがったほどに胃袋が鍛えられていたが,”訓練”をしていない今はもう,これほど大量の食事は食べきれないのだそうだ。彼の弟は米国滞在中は太っていたが,日本に帰ったらみるみる痩せたのだという。鵜川はさすがに店での応対も慣れており,とりわけ”Water is fine(水で結構です).”という滑らかな英語には感銘さえ覚えた。

どうにか食事を終え,みながはち切れそうな胃袋を抱えていると,ウェイターがやってきて,デザートにパイやケーキはいらないかとにこやかに勧めてくれた。私のテーブルを見た彼らは,一つ食べ残したアボカド・ロールを持ち帰り用にと紙で包んでくれた。親切で柔軟な対応だと感じた。

ホテルの部屋へと戻り,シャワーを浴びようとしたところで,またしても難関が訪れる。シャワーが厄介だったのだ。シャワー・ルームのノブをひねると,足元から滝のような勢いで冷水が噴き出し,バスタブの中で飛沫を上げながらあっという間に水位が上がっていった。洗濯をするつもりで準備した粉洗剤が濡れ,洗剤はみるみるうちに溶け出し,バスタブに流れ込むとちりちりと肌を刺す。いくら温暖な気候とはいえ,何も身に纏わない状態でただただ冷水に足を浸らせていると,さすがに身体が震えてきた。こんなところで風邪をひくわけにはいかない。事前に入れ知恵をされたところによると,アメリカの医療費は極めて高額であるらしい。私はバスタブから洗濯物を退避させ,水栓を抜いた。ノブを回し,コックをひねると,やはり容赦ない勢いで,今度は頭上から水が降り注ぐ。だがそれはじきに温水へと変わってくれた。

固定されたシャワーの下で髪を洗い,十数時間のフライトで強張った身体をようやっと温める。備え付けのボディソープは乳白色で,南国を思わせる甘ったるい芳香である。だが,手にとって水で薄め,身体を洗おうとしても泡が立たない。石鹸を足しても,水を足しても,泡が立たないのである。不審に思ってよくよくボトルを見ると,それは石鹸ではなく,ボディクリームであった。東京に比べて乾いたニューヨークでは,こんなにも濃厚なクリームを肌に塗りこむものなのであろうか。ともあれ気を取り直して固形石鹸を泡立て,叩きつける温水のもとで一日半ぶりに身体を洗うことができた。

幸いにして空気が乾燥していたので,洗濯物も,オレンジジュースづけの鞄も,一晩干せば乾いてくれそうだった。