「沿岸域における腐植物質と鉄の動態とその数理モデルの構築」
(以下の文章・図表は、平成19年度日本学術振興会特別研究員(PD)の申請書より一部抜粋・更新しています)
沿岸域は,海洋生物が河川から供給される栄養塩や有機物,微量必須金属と出会うことで,豊かな生態系を形成しており,世界各国においても海洋有用生物の生産場として 利用されてきた。微量金属の中でも鉄は,食物連鎖の根底を担う一次生産者が窒素固定や光合成を行う際に不可欠な金属として認識されている。しかし,熱力学的に安定な第 二鉄イオンの溶解度は非常に低く,鉄は地殻中に4番目に多く含まれる元素でありながら,陸域からの鉄供給が少ない海洋や沿岸域では溶存鉄は低濃度で存在する(pMオー ダー)。このような水域において,鉄は海洋性藻類の生長制限栄養素となっている(Hutchins and Bruland, 1998, Nature 393, 561)。近年では,流域開発による森林伐採等に 伴い沿岸域への鉄の供給量が減少し,それに伴い生物生産性が低下した事例も報告されている(Lewitus et al., 2004, J. Exp. Mar. Biol. Ecol. 298, 233)。
陸域から供給される鉄の中で,生物に利用されやすい形態は,化学反応性に富むフミン鉄(森林土壌由来のフミン物質と錯体を形成して存在する溶存鉄)であると考えられ てきた。しかし,河川から沿岸域へかけての塩濃度増加に伴い,フミン鉄は錯平衡変化や凝集などの形態変化を生じ,それにより鉄の生物利用性も大きく変化してくると考え られる。従って,陸域環境改変等の人為的インパクトが沿岸域生態系へ与える影響を的確に評価していくためには,流域でのフミン鉄の挙動や生物利用性の変化を正確に理解 する必要がある。さらに,それらを予見的に評価するモデルを構築し,沿岸域生態系の保全を目的とした持続可能な流域開発を行っていくことが望まれる。
以上のような背景から,本研究課題では,現地観測と室内実験を通して沿岸域でのフミン鉄の挙動及び鉄摂取過程を解明し,その数理モデルを構築することを目的とした。
研究成果①: 沿岸域におけるフミン物質と鉄の挙動解明
現地調査及び室内実験を通して,沿岸域条件における鉄の形態及びフミン鉄の錯平衡,フミン物質の凝集挙動を解明することを目的とした。松島湾における年間調査結果か ら,沿岸域で存在する鉄は,主にフミン第二鉄及びそれから解離し生成された水酸化鉄の二つの形態で存在することが示唆された。標準フミン物質と鉄の錯平衡実験から,河 川から沿岸域へ流入することでFe(III)の80%程度はフミン物質から解離し,それはMg2+とCa2+との競合によるものであることが明らかとなった。解離による影響は大きいも のの,沿岸域ではフミン物質が比較的高濃度で存在するため,溶存鉄濃度(0.1~1.0mM)が外洋(数nM)よりも数オーダー高いことが示された。また,ゲルクロマトグラフィー分 析結果から,分子量及び疎水性物質含有量が低いフミン物質ほど凝集特性は低く,沿岸域への溶存鉄輸送に大きく貢献するものと考えられた。以上,室内実験,現地調査とも に一致する結果を得た。
研究成果②: 沿岸域でのフミン鉄の挙動モデル構築
この研究では,フミン鉄の錯平衡や凝集といった物理化学的挙動に加え,潮流拡散現象を考慮した上でモデルを構築し,沿岸域レベルでフミン鉄の拡散挙動を予測評価するこ とを目的とした。沿岸域におけるフミン鉄の錯平衡モデルは,フミン物質官能基種の量,分子量,溶液イオン強度,pH等の物理化学的なパラメータを考慮することが可能な Debye-Huckel理論に基づき,電気化学的視点から構築された (図2)。 凝集モデルは,粒子間の分子間力と電気的斥力を考慮した従来のDLVO理論に新たに凝集に影響する重要 因子である疎水性相互作用を組み込むことで構築された (図3)。以上の理論式は,塩濃度増加に伴うフミン物質と鉄の錯平衡変化及び凝集現象を再現することができ,標準フ ルボ酸・フミン酸を用いた実験結果と非常によく適合した。上述の錯平衡モデル及び凝集モデルと潮流拡散モデルを融合させることで,沿岸域におけるフミン鉄濃度の空間的 及び時間的分布を評価することが可能となった (図4)。 河口・沿岸域では,水平方向の空間スケールが水深方向に比べて大きいため,物質拡散 の現象は,水深方向に積分を 行った平面2次元の連続式,Navier-Stokes式,拡散方程式を用いて表現した。このモデルと先述のフミン鉄の錯平衡 モデルと凝集モデルを融合させることで,沿岸域における フミン鉄濃度の空間的及び時間的分布を評価することが可能となった 。拡散シミュレーションは,水深及び流量データ等が十分に揃っている宮城県松島湾を対象に行われ た。
研究成果③: 藻類による鉄摂取機構の把握及びモデル化
キサンチンの酸化によりスーパーオキシドを生成し,還元反応により生じた第一鉄をフェロジンによりトラップすることで,藻類が鉄を摂取する過程を室内実験で再現した (図1,青矢印)。鉄の形態は,沿岸域で卓越する水酸化鉄及びフミン鉄を用いた。フミン物質は豪州Deception湾流域の様々な土壌及び水サンプルから抽出した。スーパーオキ シドによるフミン鉄の還元速度(生物利用性)はその起源により異なるが,酸性官能基を多く含むフミン物質に結合した鉄ほど還元速度が低いことが明らかとなった(図5(a))。こ の結果は,フミン物質の起源,すなわち土地利用や植生等の流域環境の違いが,沿岸域での鉄の生物利用性に大きな影響を与えることを示す。また,図1 (青矢印)における各 反応速度を測定した結果,還元後,リガンドが解離する反応が優位であることが分かった。水酸化鉄はフミン鉄とは異なり化学的反応性が低く,藻類には使用されない形態と 認識されてきた。しかし,本研究結果から,形成時間(酸化程度)が比較的短い場合(6時間以内)には,フミン鉄と同程度の還元速度を示すことが明らかとなった(図5(b))。沿岸 域のように,フミン物質から鉄が解離し,形成時間の短い水酸化鉄が豊富に存在する水域では,生物利用において水酸化鉄は無視できないと考えられる。