「自然水中における鉄の化学反応速度論に関する研究」
(以下の文章・図表は、平成22年度海外特別研究員申請書より一部抜粋・更新しています)
鉄はほとんどすべての生物にとって不可欠な微量必須金属です。例えば、藻類細胞内において鉄は様々な酵素の補因子として働き、光合成や呼吸における電子伝 達,窒素 固定,活性酸素濃度の調整など生命活動の中心的役割を担います 1)。自然水中において,鉄は酸素分圧やpH,有機リガンド濃度などに依存して 様々な化学形態として存在 します (図1) 2)。地下水や深海など酸素分圧が低い還元環境では,主に第一鉄イオンとして存在し,フルボ酸などの自然有機 リガンドが存在する環境ではそれらと好ん で錯体を形成します。一方,海水,沿岸域,河川,湖などの基礎生産が生じる有光層では,第一鉄(Fe(II))は 酸素によりすぐさま第二鉄(Fe(III))に酸化されていまいます 3)。 Fe(III)は,中性pHでは水酸化物イオンと配位し,難溶解性の酸化水酸 化鉄(FeIIIOOH)として沈殿・除去されてしまいます 4)。鉄は地殻中に4番目に多く含まれる元素であり ながら,このような化学的特性により,外 洋や遠沿岸域表層での溶解性鉄濃度は非常に低く(0.01-10 nM),一次生産を制限する微量栄養素であることが認識されています (図2) 5,6)。淡水では,陸域由来の自然有機リガンドが高濃度で存在し,かつ競合金属イ オン濃度が低いため,溶解性の鉄は有機錯体として海水よりも数オーダー高い濃 度となりますが(0.01 -10μM),淡水においても藍藻類など鉄要求性の高い一部の藻類にとっては,増殖速度や二次代謝物生産などの代謝活動を支配する因子となっています (図3) 7)。
図1.自然水中における鉄の化学形態と藻類による摂取機構
図2.海洋におけるクロロフィルa分布と鉄肥沃化実験
図3.鉄の過剰供給が原因と考えられる毒性シアノバクテリアの大量発生(豪州Deception [Moreton]湾)
鉄は微細藻類の生長に深くかか わり,多くの水域 (例えば海洋の30%)で基礎生産を支配する栄養素であることから,過去20年の間,主に海洋学の分野が中心となり,鉄の 摂取メカニズムについて多くの研 究がなされてきました。これらの研究から,1990年代半ばまでには“微細藻類に利用可能な鉄の形態は,シデロフォアが存在する特別な場合 を除き,溶解性 の無機鉄(Fe': Fe(II)'とFe(III)')に限られる”というコンセンサスが得られていました 8)。しかし,上述したように,藻類が生息する好気的な環境におい て Fe(III)'の溶解度は非常に低く(約10 pM ),Fe(III)'を摂取していると仮定したモデルは,実験培養系または環境中での比較的速やかに進行する藻類の鉄摂取を説明することがで きませんでし た。そこで仮説として,藻類はより効率的に鉄を摂取するため,直接利用不可能な形態の鉄を還元・溶解し,Fe(III)'より溶解度の高いFe(II)' の濃度を増加させる と考えられるようになりました。2000年代に入り,光や生物の還元作用により熱力学的に安定なFe(III)種からFe(II)'が 生成され,これを摂取していることが経験的に事実と認 識されるようになりました9)。
以上のような背景のもと,藻類の鉄摂取機構を解明すること を目的として,自然水の中でも海洋や沿岸域において鉄の化学的動態に関する研究に取り組んできています。 特に近年では,微細藻類による鉄摂取の際に重要で ある還元反応に着目してきました。微細藻類は還元作用により生成されたFe(II)'を摂取していると考えられるものの,鉄還 元の詳細な動力学的メカニズ ムや,還元剤として作用する物質が明らかとなっていないという問題が残っていました。鉄に対して還元作用を示す物質として,これまで真核 生物を対象に細胞 膜酸化還元酵素が候補の一つと予想されていましたが9),酸化還元酵素の分離・同定や酵素による鉄の還元動力学に関する実験的事実は乏しく,さらに,藍 藻 類のように外膜が存在し,酸化還元酵素が存在すると予想される内膜が直接外界に接していない場合,細胞外鉄摂取における酸化還元酵素の有効性は不明でし た。そこ で,還元剤が様々な環境で,かつ細胞レベルで容易に作り出せるものであれば,鉄摂取を合理的に説明できると考え、その遍在性から活性酸素の一種で あるスーパーオキシ ドアニオンラジカル(O2•−)に着目し,化学的手法によりその重要性を示しました。O2•−は,酸素の一電子還元体で,自然水中で生 物的または光化学的作用により容易に発生 し,実際に,真核および原核を問わず多くの藻類がスーパーオキシドを生成することが分かっていました 10,11)。また,O2•−/ O2系は他の活性酸素種系と比較して酸化還元 電位が高いという特徴も明らかでした。しかし,O2•−やFe(II)は反応性が高く,海洋や沿岸域表層水で はナノからピコモーラーと低い濃度でしか存在しないため,それらの測 定が困難であり,O2•−と鉄の反応性については定量的な評価がされていませんでした 12)。このような状況下で,新規の実験系を構築して,O2•−とFe(II)の低濃度測定におけ る問題を解決し,水中での鉄の動力学を詳しく調べまし た。
まず,O2•−濃度をnMレベルで検出するため,高感度フローインジェクションケミルミネッセンス法を採用しまし た。また,O2•−とFe(III)の反応性を調べるためには, O2•−を試験管内にて定常濃度で生成させなければならなかったが,キサンチン/キサンチン酸化酵素系を用いることでこれを可能としました。還元反応によ り生成される低濃 度のFe(II)とその生成速度は,Fe(II)キレーターであるフェロジンによりトラップし,高感度1 m長光路フローセルを用いた分光光度システムにより測定しました (検出限界は 0.3 nM)。以上のような新規的でかつ厳密な実験系を組み,O2•−を介して,藻類が鉄を摂取する過程を試験管内で再現することが可能となり,鉄化学種のなか でも主形態であ る水酸化鉄について,O2•−との反応動力学を調べました。その結果,水酸化鉄の形成時間(酸化程度)が比較的短い場には,有機鉄錯体と同 程度の還元速度を示すことを明らか にしました。水酸化鉄は有機鉄錯体とは異なり化学的反応性が低く,藻類には使用されない形態と認識されてきましたが 13),この研究から沿岸域のように,有機鉄錯体から 鉄が解離し,形成時間の短い水酸化鉄が豊富に存在する水域では,生物利用において水酸化鉄は無視でき ないことが示されました。
海洋・沿岸域での鉄とスーパーオキシドの反応性を総括的に評価するには,水酸化鉄に加えて,もう一つの主要 形態である有機鉄錯体に対して還元動力学を調べる必要が ありました。しかし,有機鉄錯体の還元経路は複合反応から成り,還元動力学を調べるに先立ち,各素 反応の詳細な記述が不可欠でした14)。そこでまず,海洋・沿岸域での 第二鉄錯体の解離・形成反応をイオン交換法と分光分析法を組み合わせて調べました。 そして,有機鉄の解離・形成に加えて,還元についても詳細に調べることで,自然水 中で起こりうる複合反応を反応速度論により記述することに成功しました(表1)。 以上より,有機鉄の還元反応に関与する素反応について,その反応速度定数が明らかと なり,水酸化鉄について行った実験と同様のシステムを用いて有機鉄錯体 の還元動力学を調べました。その結果,近沿岸において鉄はフルボ酸の弱いリガンドクラスと結合 しているため解離・還元経路が重要であり,遠沿岸や海洋では それらの弱いリガンドクラスから解離し,強いリガンドクラスのみが残存するため,Fe(II)は還元・解離経路に より生じるということが分かりました(図1)。こ れは,還元メカニズムの複雑さを示す一方で,鉄の還元が2つの異なる経路から生成されることを意味し,それが時空間的 に変化していくことを示す結果でし た。また,フルボ酸を豪州Deception湾流域の様々な土壌及び水サンプルから抽出し,その還元速度を観察した結果,起源により異なり, 酸性官能基を 多く含むフミン鉄ほど還元速度が小さいことが分かりました。これは,植生等の陸域環境の違いが,沿岸域での鉄の生物利用性に大きな影響を与えることを示 唆 する結果です。
表1.自然水中における鉄の化学反応速度論モデル
以上のように,自然水中に存在する程度のスーパーオキシド濃度で,鉄が還元され,生物利用可能なFe(II)'が生成されるこ とが明らかとなりました。また,以上の成果に加 え,これまでに沿岸域での鉄種の時空間的分布を把握するための調査や,鉄と有機リガンドの錯平衡についての 理論構築も行ってきています。
参考文献: 1) Sunda and Huntsman (1997) Nature 390:389, 2) Turner and Hunter (2002) The Biogeochemistry of Iron in seawater, Wiley, 3) Rose and Waite (2002) Environ. Sci. Technol. 36:433, 4) Liu and Millero (1999) Geochim. Cosmochim. Acta 63:3487, 5) Rue and Bruland (1995) Mar. Chem. 50:117, 6) Boyd et al. (2007) Science 315:612, 7) Utkilen and Gjølme (1995) Appl. Environ. Microbiol. 61:797, 8) Hudson and Morel (1990) Limnol. Oceanogr. 35:1002, 9) Maldonado and Price (2001) J. Phycol. 37:298, 10) Rose et al. (2005) Environ. Sci. Technol. 39:3708, 11) Marshall et al. (2005) Mar. Biol. 147:533, 12) Voelker and Sedlak (1995) Mar. Chem. 50:93, 13) Rich and Morel (1990) Limnol Oceanogr. 35:652, 14) Hudson et al. (1992) Mar. Chem. 38:209.