第15回九州人類学研究会オータム・セミナー(2016)

【2016年10月29日(土)】

【会場】

西南学院大学大学院棟内1階大ホール(西南学院大学東キャンパス内)

〒814-8511 福岡市早良区西新6-2-92

最寄駅:地下鉄西新駅

会場までのアクセスは、( http://www.seinan-gu.ac.jp/img/campusmap/campusmap_201606_1.pdf )をご参照ください。

【時間割】

10月29日(土)

14:00 現地集合、受付開始

15:00~18:00 セッション:「日本語」および「日本文化」を教育すること―日本語教育は「文化」をどのように扱っているのか

18:30~ 懇親会(会場付近にて予定しています。事前の申し込みは必要ございません)

※本年度のオータムセミナーは、一日のみの開催となっております。

宿泊先については、事務局にて斡旋することができませんので、必要な場合は各自でご予約いただきますようお願い申し上げます。

セッション:「日本語」および「日本文化」を教育すること―日本語教育は「文化」をどのように扱っているのか

【趣旨】

日本語教師養成講座などで、現在テキストとしても広く使用されている『日本語教師能力検定試験完全攻略ガイド(第2版)』を開くと、袖の部分に「日本語教師とは、日本語を母語としない人々に、日本語や日本文化を教えている人」と書かれている。日本語教師には、「日本語」だけでなく「日本文化」を教えられることが、能力として求められているのだ。これは、言語の背景にある「日本文化」についての知識を有していることが、日本語でのコミュニケーションには不可欠だと考えられてきたためである。ここにおいて、習得される日本語の使用は、非日本語母語話者同士ではなく、主に日本語を母語とした「日本人」とのコミュニケーションを前提としており、特に日本国内における日本語教育で は、日本社会で生活していくための文化的な適応能力を学習者に身に着けさせることが、「日本文化を教える」ことの目標の一つとなっている。

こうした「文化の教育」は、日本語教育においては具体的に次の2つの経路を通して行われてきた。一つは、日本語を学習するために教室で使用される教材を通してである。特に中上級の教科書では、日本の社会文化的事象を様々な角度からトピックとして取り上げ、それらを通して日本語を学習させるものが少なからず見られる。そうしたトピックに沿った内容の文章を読解したり、自らの経験と照らし合わせて語り合ったり、一連の質問群に答えたり作文を書いたりすることによって、学習者は日本語と日本文化を同時に「学習」することができると想定されてい る。

今一つは、「日本文化」の教育により力点を置くとされる、「日本事情」という独立した科目を通してである。この「日本事情」の教育内容は曖昧で、まとまった定義が存在しないのだが、1980年代から90年代の後半までは、「教えるべき内容」として均質化され固定化された「日本文化」が、「習得すべき知識」として、教師側から一方的に学習者へ教授されていた。これらはいわゆる「日本人論」の焼き直しをそのまま知識として教えていたようなものであった。しかし、90年代後半から2000年代に入ったところで、こうした本質主義的な文化観が問題化され、「個の文化」(細川2000)や「ラング・パロール往還文化」(三代2003)といった、流動的でダイナミックな相互構築的文化観を理論的基盤として、教 師と学習者、そして学習者同士を結ぶ相互コミュニケーションを中心とした教室活動が提唱されるようになっていった。

一方、文化人類学では1980年代以降、ポストコロニアル理論の台頭に伴って大きな理論的転回を迫られることになり、その本質主義的文化観や実在論などへの内省とともに「他者」の「文化」を語ることへの多角的批判がなされていった。そうした関係性から、現在の日本語教育においては、社会学や人類学との学際的連携を積極的に行っていこうとする動きも出始めている(たとえば、昨年は「人類学・社会学からみたことばの教育―言語教育における言語イデオロギーを考える―」と題された研究集会が「言語文化教育研究学会」において行われている)。また、学習者や日本語教師を対象 に、エスノグラフィやライフストーリー・インタビューなどの方法を用いた、社会やコミュニティとの関わりを重視する研究が行われるようにもなってきている。

そこで本セッションでは、現在実際に日本語教育に携わっている日本語教師を発表者として、それぞれが日々の教育の中でどのように「言語と文化の教育」を実践しているのかを開示し、人類学的知見との交流を図りたいと考えている。多少乱暴な比較ではあるが、「他者」の「文化(場合によっては言語も)」を解釈・表象しホームの人々に伝えるのが人類学的実践であったとしたなら、日本語教育の実践とは、日本/日本語社会において社会文化化された日本語母語話者が行うことに限定すれば、「自己」の「言語と文化」を解釈・表象し、「他者 」に伝えることにあったと言える。こうした対照的な共通性に注目しつつ、本セッションによって、両学問領域のどちらにとっても意義のある知見が得られることを期待したい。

文献

細川英雄(2000)「崩壊する「日本事情」-言葉と文化の統合をめざして」『21世紀の「日本事情」-日本語教育から文化リテラシーへ』2, pp.16-22. くろしお出版

三代順平(2003)「ラング・パロール往還文化論序説-新しい「日本事情」教育の可能性―」『WEBリテラシーズ』1, (1) pp.1-11. くろしお出版

【趣旨説明+発表】

岩切朋彦(西南学院大学博士研究員)

「文化を「教育」するとはどういうことか―文化人類学経験者が日本語教師になって」

【発表】

嶋ちはる(国際教養大学)

「EPAにより来日したインドネシア人・フィリピン人看護師候補者の職場学習プロセス」

近年、少子高齢化に伴う人材不足や経済連携協定(EPA)による外国人人材の受け入れの開始などにより、看護・介護分野における専門日本語教育への注目が高まっている。本発表では、自らが知識・技能を有さない医療や介護などの専門分野における

日本語教師の役割について考察することを目的とする。

発表者は2009年6月から2010年5月までの一年間、関西地方でEPAによりインドネシアとフィリピンから看護師候補生を受け入れている病院と、同じくインドネシアとフィリピンから介護福祉士候補生を受け入れている介護老人保健施設(老健)でフィールドワークを行い、職場での日本人同僚や患者・施設利用者とのやりとりの観察、録画/録音やフォローアップインタビューなどのデータの収集を行った。現在も当時の候補者の帰国後の追跡調査や秋田県の施設における外国人介護人材の日本語教育支援に携わっている。発表では、当時のフィールドワークから得られたデータや追跡調査におけるインタビューをもとに、外国人候補者がどのように職場でのやり方や考え方を含めた文化及びそこで使用されている言語を学んでいったのか、そのプロセスや日本人側、外国人側が経験した異文化摩擦についてのケースなどを紹介し、職場学習に日本語教育(者)がどのように関われるのかについて参加者と意見交換を行いたい。

中島祥子(鹿児島大学)

「映像素材を利用した学部留学生に対する「日本事情」教育」

1980年代後半以降、4年制大学の学部留学生を対象とする「日本事情科目」について、その目的や授業内容に関する活発な議論や様々な実践報告が行われてきた。「日本事情科目」については、「だれが」、「だれに」、「どのような内容を」、「どのように」教えるのかという観点から見ても、各教育機関で行われている授業は一様ではない。

発表者の所属機関でも学部留学生に対する必修科目として「日本語・日本事情科目」を開講しており、平成27年度までの留学生に対する日本語・日本事情科目は、日本語4科目(Ⅰ~Ⅳ、各1単位)、日本事情3科目(A~C、各2単位)が開講されている。

日本語科目については、2000年代以降、アカデミック・スキルを重視した留学生向けのテキストが開発されたこともあり、所属機関においても日本語科目はアカデミック・スキルの習得を目標とした授業を展開している。過去には、日本語科目のテキストとして「日本事情」的な内容を含んだテキストを利用していた時期もあったが、現在では、そのようなテキストは「日本事情科目」においてもほとんど使用していない。

このような所属機関における日本語・日本事情科目の内容の変遷とともに、発表者が担当している映像素材を利用した日本事情科目について、その目標や内容を紹介し、受講生の振り返りや終了後アンケートなどから受講生の学びを報告する。

保坂敏子(日本大学)

「映像作品に対する多様な文化認識を活かすための授業デザイン」

1.背景と目的

日本語教育において、文化の重要性、ことばと文化の統合が唱えられるようになって久しい。それは、大学の科目「日本語」と同時並行で設置されていた「日本事情」における文化の扱い、すなわち、日本文化を静的で固定的なものとみなし、知識注入型の授業を展開していたことへの批判から始まった。一方、多様な文化背景の留学生が集う「日本語」科目の現場でも、ラングとしての言語形式を教えることの限界を感じた者は、状況に埋め込まれたことばと文化を融合する学びの実現に取り組んできた。発表者も映像作品に対する文化認識の多様性を重視する立場から、それを活かすための授業デザインを実践してきた。本発表では、そこで扱われている「文化」を振り返り、実践結果について報告する。

2.映像作品に対する日本語学習者の文化的認識

大学の日本語研修プログラムで学ぶ留学生は、出身国・地域や母語、背景文化等が多様で、教室はまさに多言語・多文化コミュニティである。個々の学生は、複数の国や文化圏の移動し、複言語・複文化能力を備えた者も少なくない。そのような「日本語」のクラスで、日本の映画やドラマを学習リソースにすると、学生たちの解釈の多様性を目の当たりにすることとなる。例えば、コリアンジャパニーズを主人公とする映画『GO』で、警察に捕まった息子を警官の前で元ボクサーの父親が殴るシーンがある。 このシーンを見て、カナダの学生は「警察はどうして捕まえないのか」と疑問を投げかけ、中国系の学生が「これは躾です」と応じる。そこから、自然発生的に学生同士の文化認識の対話が始まり、教室はダイナミックな文化認識の相互構築の場となっていった。

3.文化認識の多様性を活かした授業デザイン

ドラマ『半沢直樹』や映画『素敵な金縛り』を対象に行った調査によると、文化認識や解釈の違いは国や文化圏の違いだけに起因するのではなく、非常に個別的なものであった。発表者はこの多様で個別的な文化認識こそが言語教育で扱うべき「文化」であり、それを学習者がことばで表現し合い、「対話」を紡いでけるような仕掛けをデザインすることを重視している。この観点から、「学びの三位一体論」を枠組みに、BBSと対面授業を組み合わせたブレンド型学習を実践し、学習者の新たな文化認識の構築を確認した。