北海道大学国語国文学会五十周年記念事業
(全336頁、定価2,500円)
第1号から第110号までに掲載された全論文に含まれる書名・人名を網羅。
総件数20,000件のデータベースで、論文タイトルからは分からない各論文のサブテーマも分かります。
また、データベースの傾向を計量的に分析する企画も用意。
『国語国文研究』の歴史はもとより、各分野・各年代の研究動向を知るうえでも格好の一冊です。
はしがき … 1
この索引のねらい … 2
凡例 … 6
『国語国文研究』論文一覧 … 9
『国語国文研究』書名索引 … 41
『国語国文研究』人名索引 … 167
分析事例 … 327
左記の事務局まで
この索引は、『国語国文研究』という媒体を通して公開された研究論文の総体に基づき、「書名」「人名」をフィルターにして、その成果を抽出したものである。
そもそも索引は、対象本文の精密な解読結果を的確に配列した索引本体と、簡潔な凡例とによって、おのずからその真価が現れてくるものである。長広舌をふるってその特色を述べる必要はないかもしれない。しかし、この索引は、北海道大学国語国文学会の五十周年を記念して企画された事業であり、どのような内容を意図し、どこまでそれを達成したかを必要最小限の範囲で報告することは索引の編纂担当者の責務と考えられる。
また、この索引の刊行に至るについては、用例採取の段階において、研究時間を割いて協力してくれた大学院学生諸君の協力が大きかった。用例採取の方針を説明し、実際に作業を行い、疑問点を持ち寄って解決するための会合をしばしばもった。その過程を通して、この索引のあり方に関して認識を深めた点が少なくなかった。そうしたことの一端を記しておくことは、北海道大学国語国文学会の関係者はもちろん、一般の読者にとっても参考になる点が少なくないと考える。
以下、この索引のねらいを、(1)論文タイトルから分からないサブタイトルの探索、 (2)書名・人名の持つ客観性、(3)研究動向の把握の三点から述べようと思う。
学術的な研究成果を論文という形式をとって公表する際に、最も肝要な点は、プライオリティに対する慎重な配慮であろう。読者にとっても、プライオリティをめぐって、時として激烈な発言を目にする機会が皆無だったとは言えないだろう。それがいかに非生産的な行為であるかは、改めて言うまでもない。それだけに、当該の研究にとって、方法的に、あるいは資料的に密接な関係のある先行研究を見落とすような事態は、絶対に避けなければならない。
しかし、一方では日々生産される研究論文の数は厖大であり、過去から現在に至るまでの関連論文のすべてを逐一チェックするには、多大の時間と手間を要する。この索引は、関連する先行研究にアクセスしやすくするための、実用的なツールとして機能することを目指している。
特に、この索引は、論文タイトルだけからは分からない各論文のサブテーマを探索するのに役に立つ。サブテーマとして重要な指摘があっても、従来の研究史はそこまで 追跡できないでいた。とりわけ、対象とする分野や年代に、隔たりが大きければ、それだけ該当論文にまでたどりつくことの難しさは強まる。
この索引は、こうした研究上の困難を改善し、『国語国文研究』掲載の諸論文のプライオリティを確保すると同時に、新しいテーマの発見への道を拓いていくものである。
ところで、この索引は、当初の計画では、書名・人名・事項の三部構成を目指していた。いろいろな事情で「事項索引」の編纂は断念し、「書名索引」と「人名索引」とで構成することとなった。
「書名」「人名」は、ある程度客観的な基準を設けて用例を採取することが可能である。これに対して「事項」は論文のキーワードを採取する作業に等しい。第三者がそれをなしうるだけの客観的な基準を設けることは困難である。なによりも、論文の執筆者の意図にそぐわないキーワードを採取するようなことは望ましくないと判断し、「事項索引」は見送ることとした。索引が完成した今の段階で振り返ってみて、この判断は正しかったと思う。
実はそればかりではなく、「書名」「人名」と、「事項」との間には、越えられない一線が画されていることを痛感する結果になった。現代の社会は、多様化、多層化の様相を呈しているが、学術研究の世界もそうした社会状況が色濃く反映して来ている。何らかの形で「事項索引」の編纂が可能だとすれば、それは共通のパラダイムのもとで研究を推進している場合、あるいは、ある一つのパラダイムのもとで対象を切り取った場合ということになるだろう。
「国語国文学」という世界には共有すべき確固たるパラダイムがあるというの は幻想に過ぎない。考えてみれば、当たり前のことに気付いたということである。程度の差はあれ、むしろそうした幻想をうち破るべく、研究活動を行っていたはずだからである。新解釈、新資料というかたちで、既存の研究を乗り越え発展させていく。そうした方向性と、特定の枠組みで対象を切り取ってしまう「事項索引」とが、なじみにくいものであることを再確認したのである。
結局、『国語国文研究』という名の学会誌を媒体として公開された研究論文から、誰もが共有できるレベルで抽出可能だったのは「書名」と「人名」ということになる。 この索引は『国語国文研究』の各執筆者が論の対象として取り上げた、すべての「書名」と「人名」を網羅している。採取の対象となったのは、676本の論文であり、抽出した「書名」は8,565件、「人名」は13,277件である。したがって、この索引に掲載の「書名」と「人名」は、「国語国文学」という学術的な世界が対象とした「書名」と「人名」のかなりの部分をカバーしていると言えるのである。
さらに、ここに取り上げられた「書名」「人名」は「国語国文学」という枠にとどまらず、広く日本文化や日本語を研究する人文学の領域にとって重要な「書名」であり 「人名」であろう。索引のかたちではあるが、『国語国文研究』が論の対象とした「書名」「人名」を広く人文学の世界へ提供していくことの意味は決して少なくない。
どのような学問分野においても、その範囲とする期間は数年から十数年までまちまちであるが、当該研究分野の研究水準や到達点を総括する作業が行われている。「国語国文学」の世界について言えば、『国語学の五十年』というふうに、長期的に、大きな分野を括るやり方がある。また、短期的、分野別には、ここ十年間における万葉集の研究史とか、ここ五年間における夏目漱石の研究史というまとめ方もある。
こうした「研究史」では、関連するすべての論考を網羅し言及することはできないから、極めて水準の高い、突出した論文を軸にして、いかに研究の流れが形成されてきたかをまとめていくという記述の方法が採られる。この方法は研究史の記述方法としてまっとうな行き方であることに異論を夾む余地はない。特に優れた研究を厳正に評価するという視点からするならば、突出した成果をあげた論考に讃辞を呈することは必要不可欠である。
しかし、一方では、「研究史」というかたちで括ることが困難な対象も存する。研究者数の少ない文芸ジャンルは確かにあるだろうし、極めてマイナーな作家、作品、言語資料は、研究史が成り立たない。つまり、「研究史」が成り立つのは、一定数の研究者が日常的にその対象に向き合っており、論文の生産力も比較的高いというジャンルに限られてくるのだ。研究者数が少ない分野においては、すべてが突出した論考であった、という研究史の総括にならざるを得ない。むろん、大切なのは、個々の論考の研究水準の達成度であって、研究者数の多寡は本来別問題であるはずである。しかし、現実には、研究者数の多寡が研究の評価に密接に絡み合っている。
さて、この索引では、「書名」「人名」を客観的な基準のもとに採取している。したがって、取り上げられた「書名」「人名」は数量化が容易である。よく取り上げられる「書名」「人名」はそれだけ関心の深い対象であることの客観的な証明になる。また、一回しか取り上げられない「書名」「人名」であっても、『国語国文研究』第一号から第百十号までの全体として見たときには、研究対象の広さとして評価することが可能となる。
『国語国文研究』第一号から第百十号までの全体を、研究のジャンルによって、例えば、古典、近代、国語に三分する。その上で、取り上げられている「書名」「人名」の深さと広さとを観察していく。あるいは、『国語国文研究』第一号から第百十号までを、例えば十号ごとに区切って、「書名」「人名」の深さと広さとの変化を見ていく。こうしたやり方で、「国語国文学」の研究史を記述していくことは充分に可能であろう。それによって、研究者数の多寡や研究の潮流とは無縁に、研究論文に対する評価を行う道を拓くことにもつながるであろう。
そして、今後、とりわけ大事になってくるのは、「国語国文学」を取り巻く、社会、経済的な状況、隣接する学問分野、芸術や思想などとの関連である。そうした他領域に対する関心の有り様は、『国語国文研究』の「書名」「人名」の出現状況に忠実に反映しているであろう。「書名」「人名」を集約したこの索引は、戦後五十年以上に及ぶ「国語国文学」の研究史を再構成する基礎データを提供するものとなるのである。