【ゲーム音楽家インタビュー 】ブラッド・フラー

ビデオゲーム産業の父、アタリ。その存在感は80年代初頭まで、とてつもなく大きなものだった。日本の古参ゲームメーカーは皆、アタリのアイデアと技術力に富んだゲームデザインから学び、その背中を追いかけながら育ったといっても過言ではないだろう。

――アタリはゲームサウンドのアプローチにおいてもまた独特で先進的だった。当時アタリのサウンドスタッフは何を考え、何を目指していたのか。オーディオ部門の中心人物だったフラー氏の言葉を通して、それを探っていきたい。

※本インタビューはhallyが2003年にvorc.orgにおいて行い、長らく公開できないままだったものです。2015年、『シューティングゲームサイド』誌最終号に掲載する運びとなり、ようやく日の目を見る……はずだったのですが、最終号は諸般の事情で残念ながら未刊に終わり、インタビュー記事は再び行き場を失いました。それから数ヵ月後の2016年1月2日、ブラッド・フラー氏の訃報が発表されました。哀悼の意を表しつつ、ここにインタビュー記事を公開いたします。※その後『ゲームジーンVol.1』に掲載されることになり、生前の氏との約束が果たされました。

■少年時代~アタリに至るまで

――子供の頃はどんな音楽生活を送っていましたか?

フラー: まずインディアナポリスの生家で、10歳のときトランペットを始めました。父親がやっていた影響です。学校のジャズバンドで演奏したりしましたが、そんなに上手ではなかったですね。演奏会のとき下手なソロを吹いたのに、両親が「上手だったよ」って言ってくれたのを今でも覚えています。まあ、若い頃は何にせよ大人になってからとは勝手が違うものです。13歳のときに弟のデイル (Dale) がギターを始めました。その音に興味を惹かれて僕も一緒に習うようになります。その後、近所の友達がドラムやギターをやっているのを知り、みんなでバンドを組みました。「ワイプアウト」「パイプライン」「ウォーク・ドント・ラン」「ハウス・オブ・ライジング・サン」……など、子供のバンドがよくやる曲は一通りやってましたね。ときにはパーティで演奏することもありました。

その後、インディアナポリスのはずれにあるウォーレンという街に家族で引っ越しました。僕は引越しが悲しくて、来る日も来る日も一人で部屋に閉じこもって練習を続けていたんですよ。そんな僕を見かねて、その夏に母がふたりの少年を家に連れてきました。近所の店で音楽について話しているのを耳にしたので、お願いして来てもらったというんですね。彼らはベース弾きを探してました。ええ、母は僕が何の楽器をやっているのかよく分かってなかったわけです。でもそれがきっかけになって、僕はベースも弾くようになって、学校のダンスパーティで何度か彼らと一緒に演奏しています。

高校に入学してから、何人かのミュージシャンと知遇を得ました。いくつかのバンドで一緒に演奏したキマー・スミス [i]と出会ったのもこの頃です。高校時代には父の影響で電子工作にも興味を持つようになり、その勉強もしていましたね。在学中から卒業後にかけて、キマーと一緒にロックバンドとしてツアーに出たりしましたが、長旅を終えて「巡業暮らしは自分に向いてない」と悟り、音楽理論を学んでスタジオ・ミュージシャンになろうと決意しました。それでボストンのバークリー音楽大学へ行くことにしたんです。素晴らしい大学でしたが、ジャズだけというのは物足りなかった。あらゆる種類の音楽について勉強したかったんですよ。それでインディアナに戻り、今度はインディアナ大学でデヴィッド・ベイカー[ii]2にジャズを学び、ジョン・イートン[iii]に作曲理論を学びました。映像音楽に興味を持ったのはこの頃でした。インディアナ大学で音楽を学ぶ傍ら、幸運にも学内のオーディオ/ビジュアル研究所に録音技術者として雇ってもらえました。この仕事を通して、上司のドン・スケールズから、ライブ・レコーディングの方法を教わりました。ソロリサイタルからオーケストラ、ジャズバンドまで、ほぼあらゆる種類の西洋音楽やアンサンブルが対象でした。

大学卒業後はインディアナポリスでラジオやテレビCMのジングルを制作し、またウルフトラックスという所でレコーディング・エンジニアもやっていました。その後シカゴに移り、レコーディングのスキルに磨きをかけます。そんな折、アタリに勤める友人、グレッグ・ライカー[iv]から電話があったんです。彼は家庭用コンピューター部門(HCD)でオーディオを担当していました。

――そうして82年にアタリに入社し、HCDで働き始めるわけですね。アタリが当時オーディオの専門家を必要としていたのは何故でしょうか?

フラー: (ゲームなどの)インタラクティヴ製品で好奇心をかきたてるためには、素敵なサウンドも必要なんだということに、HCDは気づいていたんです。それでちゃんとした音楽の修練を積んだ、かつ電子工作の素養がある、さらにコンピュータのプログラミングも分かる、そんな人間を探していたんです。僕がそこに合致して、アタリ同部門で最初のオーディオ・アーティストという地位に収まることができたのは、とても幸運なことでした。

■アタリ最初のオーディオ担当として

――HCD時代にはアタリ400/800[v]のゲームでサウンドデザインを担当しておられたそうですね。当時手がけた中には『ドンキーコング』などの有名作もありますが、具体的にはどういったことをしておられたのでしょうか。

フラー: 極力正確にオリジナル版の音楽と効果音を再現しようとしました。オーディオツールを使ってアーティストの立場から制作するだけでは駄目で、サウンドを活きいきとさせるためには、6502アセンブラのプログラム[vi]を調整することも必要でした。

――この頃、POKEYチップと6502 CPU[vii]でサンプリングを再生できるコード[viii]を書いておられたそうですね。

フラー アタリ800版『E.T.』で使っています。このアルゴリズムでPOKEYに「イー・ティー、フォン ホーム」と喋らせました。

【アタリが生んだサウンド・ハードウェア】

①アナログ回路 (1971~) アタリの設立者であるノーラン・ブッシュネル (Noran Bushnell) 氏とテッド・ダブニー (Ted Dabney)氏は、アタリ設立前にナッチング・アソシエイツ社で『コンピュータ・スペース』(1971)という世界初のアーケード・ビデオゲームを開発した。この時点ですでにサウンド回路があった。これはいわば簡易アナログシンセサイザであり、プレイヤーの移動音、発射音、爆発音、バックグラウンドノイズそれぞれに専用の回路を組んでいた。もちろん、まだBGMを演奏できるようなものではなかった。『ポン』(1972)以降は、映像用の信号を一部拾い出してサウンドに用いるという、簡便なサウンド回路も用いられている。

②TIA (1977~) デジタルなゲームサウンドに先鞭を付けたのもアタリである。音楽や効果音を「プログラムによって」作り出すことのできるチップは、アタリが家庭用ゲーム機Atari VCSのコアとして作り上げたTIA (Television Interface Adaptor) が世に出た最初のものである。厳密にいうとこのチップの主体はグラフィックス機能であり、サウンドはどちらかというとオマケなのだが、それでも2声の同時発音が可能であり(デジタルで複数チャンネルというだけでも当時はかなり先進的)、しかも矩形波とノイズをミキシングすることで、10種類の音色を作り出すことができた。音楽での使用はあまり想定していなかったため、かなり音痴ではあるのだが、ともあれ「チップ音楽」を奏でることのできた最初の音源チップなのである。

③POKEY (1978~) TIAからサウンド機能を独立させ、さらに機能を強化したものがPOKEY (POtentiometer and KEYboard Integrated Circuit) と呼ばれるチップである。その荒々しくも芯のある音は、長きにわたりアタリ・サウンドの象徴となった。最大発音数はTIAの倍の4音 、また発音数を減らせば音程精度が上がる(音痴でなくなる)という仕様を持つ。さらに簡易フィルタも付いている。このチップは当初アタリのパソコン (Atari 400/800) 向けに開発されたものだったが、やがてアーケードや家庭用機でも広く使われるようになった。なおPOKEYには2連装ステレオ型 “PORKEY”、4連装豪華型 “QUAD POKEY”、CMOS版 “MEG”, 映像まわりを再統合した “Keri” など、さまざまなバージョンがある。

④AMY (1983) 次世代パソコン用に開発されていたが、世に出ることなく終わった幻の逸品。加算合成音源というオルガンに似た仕組みを採用しており、最大8音を同時発声できるチップだった。同様の音源としてはタイトーやアルファ電子のアーケード基板に用いられたMSM5232チップを挙げることができるが、スペック的にはAMYのほうが一段抜きんでていたといえるだろう。扱い方によってはかなりリアルな音を出すことも可能だったらしく、試作発表された当時のレビューには「ピアノやチェロの音を本物そっくりに奏でる」との評がある。

⑤GUMBY (1983?) アタリの第三世代家庭用ゲーム機、アタリ7800用に開発されていた音源チップ。カートリッジ内蔵の拡張音源としても使用される予定だった。それ以上の詳細は不明で、アタリの分社化にともない開発はキャンセルされた。

⑥CAGE (1994~) “Configurable Audio Generation Engine” の略。FM音源時代以降のアタリゲームズを支えた、PCM音源ベースの音響システム。TMS32C031というDSPチップを搭載している。サラウンド時代の到来を見据えた周到な設計だった。詳しくは本文参照。

※アタリは他にも携帯ゲーム機LYNXや家庭用ゲーム機JAGUARなどでも独自のカスタム音源を用いているが、これらはアタリの分社化以降にアタリコープ側が手がけたものなので、ここでは割愛する。

――試作段階で終わった幻の8bitパソコン (アタリ1400XL/1450XL[ix])にも関わっておられたそうですね。

フラー: この機種はそれまで標準だったPOKEYチップに加え、音素方式の音声合成チップを搭載していました。クールなアルゴリズムで動く世界標準英語のインタプリタも用意していました。他の人が設計したものですが、プログラムは僕が書いたんです。これを使えばあらゆるプログラムやコマンドから音素解析し、世界標準の発音で英単語を喋らせることができました。単語をタイプすればどの国の人でも世界標準の英語を使えたわけです。

――83年にアーケードのオーディオ・グループが編成され、その責任者となっておられます。同グループには何人が所属していたのでしょうか?

フラー: 最初期で3人、最大で9~10人でした。これがその頃の写真です。

1994年、アタリゲームズ本社にて。下段右から2番目がフラー氏。

――アーケード部門で最初のお仕事は『ファイヤーフォックス』[x]のサウンドデザインでした。

フラー: 『ファイヤーフォックス』はレーザーディスクのゲームですが、当時の大半のアーケード作品同様、音源にはQUAD POKEYを使用していたので、効果音は特別なものでもありませんでしたよ。

――アーケードでお名前が最初にクレジットされたゲームは『マーブルマッドネス』[xi]だと思います。これはFM音源が搭載された世界初のゲームでもありました。

フラー: 同僚のアール・ヴィッカーズ (Earl Vickers) が、ヤマハのFM音源チップ「YM2151[xii]」について研究していたんです。そういう製品があることを彼が発見し、アタリに独占使用を許諾してもらえるよう自分で手筈を整えました。でも使ったのは『マーブルマッドネス』が最初じゃないんですよ。実際には『ペーパーボーイ』[xiii]のほうが先でした。なぜそちらが先に出なかったのかはよく分かりませんが、多分『マーブルマッドネス』のほうが早く完成したんでしょう。

――この頃アタリでは新型音源チップ「AMY」を開発していましたが、それを押しのけてまでYM2151を採用したのは何故でしょうか? 当時まだ非常に高価だったと思うのですが……。

フラー: アタリのオーディオ研究開発部門と一緒に仕事をしていた関係で、AMYのシミュレーションは聴いたことがありますが、知る限り実際に試作されたAMYはほんの数個しかないはずで、結局製品化には至りませんでした。YM2151チップは格段に先進的だったので、それを考えれば価格は相応でした。アタリがどうすれば使用許諾を受けられるのか、分かるまでは手間でしたけどね。

――ちなみにヴィッカーズさんはどんな方でしたか?

フラー: オーディオ・グループの一員で、優れたオーディオ・エンジニアでした。YM2151で音声合成させるプログラムを書いたりもしていたんですよ! 彼とは今でも交流があります。

――この頃アタリはコンピュータ部門(Atati Corp.)とアーケード部門(Atari Games)に解体され、後者はナムコの傘下に入りました。フラーさんは後者に配属されることになったわけですが、ナムコのサウンドスタッフとも交流はありましたか?

フラー: いえ。彼らと話したことはなく、ナムコの音楽についてもよく知りませんでした。ナムコの経営参加は、僕たちのオーディオ業務には何も影響していません。

■FM音源時代と同僚たち

――FM音源は扱いの難しい音源だったと思いますが、アタリでは当初からYM2151のポテンシャルを十分に引き出して音色や効果音を作り出していました。特に『ピーターパックラット』の自然なホイッスルは衝撃的でした。FM音色のエディットはどういう環境でやっておられたのでしょうか?

フラー: 最初はヤマハ製のPCとそのソフトを使っていましたが、後にはSmalltalk[xiv]で音色や効果音を制作できるPC用のツールを自分で開発しました。これはGUIで使用できるものでした。

――アタリのサウンドとその完成度を日本に知らしめたのは、やはり『マーブルマッドネス』だったと思います。映画音楽の手法を採り入れた最初のゲーム音楽ですね。画面の展開に応じてモチーフも展開するなど、インタラクションの面でも先進的でした。

フラー: 『マーブルマッドネス』ではオリジナルのサウンド用マクロ言語、通称RPM (Rusty's POKEY Music)を用いました。これはアタリのオリジナルで、既存の音楽言語から影響は受けていません。名前が示すようにラスティ・ドウ[xv]がもともと開発したもので、81年以降、アタリの大半のゲームで使用されました。RPMはのちに多くの人々の手で改良されましたが、根本のところで創意工夫を凝らしたのは、ラスティです。僕もあらゆる種類の音楽と効果音をRPMで書きました。

RPMの文法は、たとえば第三オクターブのドを四分音符で演奏するなら ”.NOTE C3Q” といったように表記します。またそういった形の音楽シーケンスだけでなく、論理プログラミング命令でサウンドを作ることもできました。インタプリタ方式だったので、制作中の音はリアルタイムで再生できます。これによって作曲者は、ゲームの展開やプレイヤーのアクションに対し、それに相応しい音楽をきっちり書くことができたんです。

ちなみにRPMは音源チップに依存しません。音源チップに対応させるためのインターフェイス・プログラムを別途書かなければなりませんでしたが、それさえあればPOKEYでもFM音源でも音を作ることができました。

――『マーブルマッドネス』の印象的なコイン投入音は、その後アタリのFM音源使用ゲーム全般に使われ続けました。アタリのシンボルともいうべき音ですね。

フラー: あれはハル・キャノン[xvi]が作ったはずです。

――キャノン氏とは『マーブルマッドネス』から『ツービン』[xvii]『ビンディケーターズ』[xviii]くらいまで、多くの作品を一緒に手がけておられますね。

フラー: ハルは才能に恵まれた、卓越したピアニストにして作曲家です。本来の自分はブルースのピアノ奏者だと考えていましたね。本当にユーモラスな人だったので、一緒に働くのはとても楽しかったですよ。実験的なことをするのが非常に好きで、自分が作る一番いい作品は実験と「事故」(彼自身そう呼んでいました)の成果だと思っていました。僕はオーディオ・グループの責任者だったので、一緒に仕事をする時の作業分担は、僕が決めていました。

――キャノン氏退社以降は、ドン・ディークナイテ[xix]氏と組んだお仕事が増えます。『サイバーボール』[xx]以降は大半がそうですね。インディアナ大学で作曲の博士号を取得しただけあって、非常に多彩なスタイルで作曲される方です。

フラー: ドンはどんなメディアであろうとも高い力量を発揮することができる作曲家です。ゲーム音楽や電子音楽だけでなく、オーケストラ、室内楽、合唱曲、ソロ演奏曲など、アコースティックな音楽も幅広くしっかり作ることができます。僕たちは「このゲームにはこんな音楽スタイルが適している」とか「この作曲スタイルには誰が相応しい」とか、そういう基準で物事を決めることはなかったんですよ。クライアントの求める最良の音楽を作ると同時に、作曲家として自分たち自身も成長もする。それを目標にしていました。何かのプロジェクトが立ち上がったとき、もしオーディオ部門の誰かが「こういう風な作曲に挑戦すれば面白いんじゃないか」と思ったら、その人がその仕事をやるという感じだったんです。

■日本のゲーム音楽について

――91年にはそれまでの集大成として、アタリのゲーム音楽が日本でCD化されました。

フラー: アールのお陰で実現したものです。彼のもうひとつの大きな功績といえるでしょうね。アタリの音楽が日本で受け容れられたというのは、きわめて喜ばしく、また光栄なことでした。我々の音楽がCDになるということを、大変誇らしく感じましたよ。

【ブラッド・フラー氏の音楽作品を収録したCD】

――当時日本のゲーム音楽については気にしておられましたか?

フラー: 日本のゲーム音楽はユニークです。ハーモニー進行の選び方も、リズムも、楽器編成も、とにかく独特で、当時の日本人が作るゲームそのものと、分かちがたく結びついていました。あそこに純粋な西洋音楽をそのまま乗せても、きっとうまく噛み合わなかったに違いません。そんなところが、とても不思議で興味をそそりましたね。

――こう言っては失礼かもしれませんが、アタリのFM音色は、日本のアーケードのそれと比べて工夫に欠けるところがあったように思います。例えば日本では、ふたつ以上のチャンネルで同じ音を奏でて、エコー効果を出すといったようなことを頻繁にしました。あるいはポルタメントを用いて重みのあるドラムの音を作ったりもしました。こういったテクニックは80年代後半、日本のゲームメーカーでは珍しくなくなっていました。アタリがそういった方向に行かなかったのは、シーケンスの技術よりも音響設計を優先したからでしょうか? フラーさんはスピーカーの設計もずっと手がけておられました。

フラー: 筐体がどのような音響を生み出し、それがゲームセンターでどのように響くかということを、僕はとても深く考えていました。スピーカー、エンクロージャー、アーケード筐体などに数多く触れ、その音響特性を研究したり、リアルタイム検査をしたりしていました。その結果僕らはアーケード筐体内で、専用のエンクロージャーにスピーカーを密閉するという方式を取るようになり、アーケードという環境で最良の音響を作り出せるよう、筐体デザインを大きく進歩させたんです。

ですが音楽的な方法論は、それには関係していません。ポルタメントは使っていましたが、そう頻度ではなかったでしょうね。エコーも一部の効果音では使っていました。しかしそのために2チャンネル消費するのは、いささか無駄であるように思われました。チャンネルが余っているなら、楽器の音をひとつ足せば、音楽をよりよく聴かせることができますから。考慮すべきトレードオフはいろんなところにあります。そして僕たちはエフェクトに焦点を当てることよりも、楽器の幅を最大限に活かすことを選んだんです。

■アタリゲームズ後期

――オーディオ・グループは当初、ゲームプログラマが使っていたVax-11/780を共有し、そこでサウンドプログラムを作っていましたが、87年にはフラーさんとパット・マッカーシー[xxi]氏が独自に設計したサウンド専用機に移行しました。これは68000 CPU[xxii]とCP/M[xxiii]で動作するコンピュータで、S.A. (Stand-Alone Audio) [xxiv]と呼ばれるアーケードのサウンド専用サブ基板を直接コントロールするものだったようですね。やはりRPMが使えたそうですが。

フラー: 68000 CP/Mの開発システムはS.A.と直結していたわけではなく、実際同システムを用いながらS.A.の別バージョンをいくつか設計していました。68000 CP/Mの後、開発環境はIBM-PCに移行し、僕はSmalltalkとC言語で多くのツールを作成しました。効果音デザイン用、音声合成のフレーズ操作用、作曲用などです。PCではYM2151を4個搭載したサウンドカードを使っていました。

――アタリのアーケードには未発表作品も多数ありました。その中にはサウンドだけできていたたものもあったりするのでしょうか?

フラー: ほとんどありません。もしあったとしても、テスト目的で作ったものだけですね。

――テンゲンの家庭用ゲームでもサウンドを担当しておられました。

フラー: ファミコンやスーパーファミコンの音は、最初アタリのオーディオ・グループが制作していましたが、後にテンゲンにも独自のサウンド部署ができました。僕たちがテンゲン向けにやっていたのはアーケードゲームの移植が中心でしたね。

――アタリでの最後のお仕事はCAGEという次世代サラウンド・オーディオシステムの開発と、これを初採用したアーケードゲーム『T-MEK』[xxv]の作曲でした。

フラー: CAGEはいろいろと画期的なことができるもので、シンセサイザ部分とそのハードウェアはチャック・ペプリンスキ[xxvi]が設計・実装しました。オーディオはQUAD社の純正品です。CAGEは3D空間における音の移動を簡単に作り出すことができたんです。たとえば、効果音の音量値を動的に設定するだけで、音の空間移動をリアルタイムに表現できたり、車やミサイルの移動音をその場で3D化して4スピーカーそれぞれのドップラー効果を計算できたり、といった具合です。RPMもCAGE向けに拡張し、スピーチ生成機能や各種ツールを追加しました。本当によくできたシステムでしたよ。CAGEは『ラッシュ』シリーズ[xxvii]でも使っていましたね。

――この頃アタリゲームズはナムコ資本から離れ、タイムワーナー・インタラクティヴに社名変更した後、WMSインダストリーズに売却されました。フラーさんはこの時期に退社しておられますが、アタリにおける仕事は、どういうところがよかったですか?

フラー: アタリではイノベーション魂と、個性的な人々とが、常に一緒にあってくれました。腕のいいエンジニアやイノベーティブなアーティストの中には、誰かにものを教えるのが好きな人も多かったので、よく「アタリ大学」なんて言われていたんですよ。

僕がいた頃のアタリは途方もなく楽しく、やりがいがあると同時に、悩ましい場所でもありました。自分たちで作り出したオーディオ技術に則って、音楽、サウンドデザイン、ボイスが新たに生まれる。そこに関しては、何もかも楽しかったです。でも新しいことをしようとすると経営陣が立ちふさがるので、何度も何度もその壁を乗り越えなければいけない。そこにはイライラさせられました。なかなか皮肉めいていると思いませんか?

■アタリ以降

――退社後はパット・マッカーシー氏とマター・トゥ・マジック社を設立しておられます。この会社ではアタリゲームズの元同僚がいる会社、たとえばLBEテクノロジーズやエクスプローラ・テクノロジーズといった会社から主に仕事を受注していました。たとえば『ナスカー・シリコン・モーター・スピードウェイ』[xxviii]や『オデッセイ・グローブ』[xxix]といった製品のオーディオや音楽などを手がけておられますね。

リーフパッド (Lead Pad) リープフロッグ社を代表する学習玩具の第1号(1999)。

インタラクティブ絵本であり、フラー氏はこの絵本のソフトに多数サウンドを提供している。

日本でもセガトイズから『ココパッド』として発売された。

フラー: 『オデッセイ・グローブ』では僕の開発したスピーチ連結法を活用しています。声優のディレクションまで担当して、スピーチのフレーズをリアルタイムで再利用できるようにすることで、ROM容量を劇的に節約しました。同社の技術はその後リープフロッグ・エンタープライズ[xxx]が取得したので、『リープパッド』『リープスター』をはじめとする同社製品にも、同じ技術が多く採用されているわけです。『シリコン・モーター・スピードウェイ』は、マイルズ・オーディオ・システム[xxxi]と5台のPCを使用しています。NASCARレースやその実車から、実際に録音しています。

――02年にはソノーラル・オーディオ・スタジオ (Sonaural Audio Studio) を設立し、以後はリープフロッグ社製品、ゲームボーイアドバンス、携帯電話ゲーム、PCゲームなど多岐にわたるサウンドを展開しておられます。これに対応するサウンド制作環境はどのようなものですか?

フラー: オーディオツールとしては、プロ用の市販のものと、自社開発した専用のものを組み合わせて使っています。市販のツールにも素晴らしいものが多数出てきていますが、特殊な用途や新規プラットフォームのためには、自分たちで新しいツールを作らなければいけないことがまだあります。ソノーラルでは最新のITツールを駆使し、クライアントのコスト削減をする努力もずっと欠かしていません。ソノーラルは常に進化を続けています。最新情報はぜひ当社のホームページでご確認ください。

――最後に……。もっとも好きな音源は何でしたか?

フラー: FM音源に尽きますね。FM音源は最小限のオーバーヘッドで多彩なサウンドを作り出すことができるので、現在も高く評価していますよ。

――ありがとうございました。

フラー: どういたしまして! 今回インタビューしていただけたことは大変嬉しく、そして光栄でした!

(終)

【ブラッド・フラー氏 アタリ時代の担当作品リスト】

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【脚注】

[i] キマー・スミス Kimmer Smith ギタリスト。現在もフラー氏と交流がある。

[ii] デヴィッド・ベイカー David Baker シンフォニック・ジャズの作曲家にしてジャズ教育家。ブレッカー・ブラザーズ、ピーター・アースキン、ジム・ビアード、クリス・ボッティといった著名なアーティストたちを指導したことで知られる。

[iii] ジョン・イートン John Eaton アメリカの微分音音楽を代表する作曲家の一人。多くのオペラ作品を手がける一方で早くから電子音楽にも取り組んでおり、60年代にはシンケット(最初期のシンセサイザー)を用いたオーケストラ作品を発表している。またロバート・モーグ氏とシンセサイザを共同開発もしていた。

[iv] グレッグ・ライカー Greg Riker 81年入社。HCDにてプログラマーを務めた後退社。その後エレクトロニック・アーツやマイクロソフトなどで活躍している。

[v] アタリ400/800 79年に発売されたアタリ初のパソコン。アタリ400とアタリ800という2機種が用意され、前者が廉価型、後者が通常型となる。ゲーム用途に秀でた製品としてある程度の成功を収めた。

[vi] 6502アセンブラのプログラム この頃アタリではVAX-11/780という当時人気のミニコンピュータを用い、これに「ブルーボックス」や「ホワイトボックス」と呼ばれる6502搭載の自社製ハードウェア・エミュレータを接続していた。このエミュレータにVAXからプログラムを転送することで、実際の基板と同様の動作を確認することができたわけである。後述するRPMも含め、プログラムはVAX標準の「EDT」と呼ばれるテキストエディタで書かれた。85年まではプログラム担当もオーディオ担当もグラフィックス担当も全員機材を共用していたため、順番待ちに費やされる時間が長かったという。また「ブルーボックス」は不安定なところもあったため、開発環境そのものは決して快適ではなかったそうだ (参照:IA-SIG Newsletter Vol. 1 No. 3, November 1, 1999)

[vii] 6502 CPU MOSテクノロジーが開発した8-bit CPU、MOS6502のこと。アタリのゲーム開発では、業務用・家庭用を問わずこの系統のCPUが非常によく用いられた。

[viii] サンプリングを再生できるコード POKEYの1チャンネルを、適応デルタ変調により4-bit DACとして使用できるようにしていた。

[ix] アタリ1400XL/1450XL アタリ400/800シリーズの最上位機種として83年頃に試作されたが、マーケティング戦略の都合で製品化は後回しにされ続け、終にはお蔵入りとなった。

[x] 『ファイヤーフォックス』(Fire Fox) 84年稼動。アタリ最初で最後のレーザーディスクゲーム。アタリの親会社だったワーナー・ブラザーズの同名映画を元にしており、映像も映画のものを用いている。

[xi] 『マーブルマッドネス』 (Marble Madness) 84年稼動。擬似3Dの迷路脱出ゲーム。当時の常識を超えた美しいグラフィックスとサウンド、トラックボールによる自然な操作、そして物理法則を巧みに演出した前例のないゲームデザインで話題を集めた。いまや高名なゲームデザイナーであるマーク・サーニーが手がけた二作目のゲームで、ほとんど独力で作り上げたことで知られる。今日なおアタリゲームズの最高傑作として推す声は大きい。

[xii] YM2151 ヤマハが自社の特許技術であるFM音源をひとつのチップに収めた、いわば初のワンチップ型FM音源。「OPM」の略称でも知られる。初期のワンチップ型FM音源の中ではもっとも高性能であり、当初はヤマハ製品以外で使われることを想定していなかった。しかし『マーブルマッドネス』以降はアーケード基板向けの外販にも道が開かれる(シンセサイザやパソコン向けの外販開始はもっと後から)。アタリでは92年頃まで主力音源だった。

[xiii] ペーパーボーイ』 (Paper Boy) 85年稼動。自転車に乗った少年を操作して新聞配達していくという、一風変わったクォーター・ビューのゲーム。製品化は『マーブルマッドネス』に3ヶ月ほど遅れた。ハル・キャノン氏がサウンドを担当している。

[xiv] Smalltalk 1980年に公開された比較的若いプログラミング言語。商用ゲームの開発に使用された例は、当時としてはかなり珍しい。

[xv] ラスティ・ドウ Rusty Dawe 82年~96年にかけてアタリに在籍。『マーブルマッドネス』では開発初期のプロジェクトリーダーでもあった。他に『クローク&ダガー』『I, Robot』『ペーパーボーイ』『ランパート』など多くの作品に関わっている。RPMに関しては「もし当時MIDIがあれば、RPMを作ることもなく、MIDIを使っていただろうね」とも語っている。

[xvi] ハル・キャノン Hal Canon アタリのライバルだったマテル社で、83年まで家庭用ゲーム機インテリヴィジョンのサウンドを担当した後、アタリに移籍。『ガントレット』『ペーパーボーイ』『スーパースプリント』などをはじめ、多くの作品に印象的な楽曲の残した。89年頃退社したと思われるが、その後の消息は不明。

[xvii] 『ツービン』(Toobin’) 88年稼動。川くだりを題材にしたコミカルな見下ろし型レースゲーム。レバーなし5ボタンのみという操作体系が特徴的。ドライで軽快な音楽も魅力だが、音源化はされていない。

[xviii] 『ビンディケーターズ』(Vindicators) 88年稼動。未来を舞台にした縦スクロールの戦車戦ゲームで、操縦桿型コントローラーで自機を操作する。画面もサウンドも地味だが侮れない渋さを持っている。こちらも未音源化。

[xix] ドン・ディークナイテ Don Diekneite 88年頃入社。アタリ時代の主な作品に『バッドランズ』『ハードドライビン』『S.T.U.N.ランナー』『ランパート』などがある。優れたトランペット奏者でもあるという。後年フラー氏とともにソノーラルを立ち上げている。

[xx] 『サイバーボール』(Cyberball) 88年稼動。ロボットたちが戦う未来のアメリカンフットボール。この時期のアタリゲームズ作品は日本でほとんど稼動しておらず、家庭用の移植作も少ないのだが、本作はメガドライブ移植版が日本でも発売されたので、隠れた佳作であることをご存知の方も多いだろう。

[xxi] パット・マッカーシー Pat McCarthy 78年入社。アタリ・アイルランドでの現地サービスマネージャーを経て、81年~96年にかけハードウェア担当として活躍。『クラックス』『ランパート』などに関わっている。

[xxii] 68000 CPU モトローラ製の16ビットCPU、MC68000のこと。80年代半ばからビデオゲームの開発に数多く用いられている。

[xxiii] CP/M フロッピーディスクの操作を前提としたコマンドライン方式のOS。後のMS-DOS (Windows時代以前の標準的OS)に大きな影響を与えたことで知られる。

[xxiv]S.A. (Stand-Alone Audio) アーケード基板において、オーディオ部分をメイン基板から切り離し、オーディオ部分だけを独立して開発できるようにするべく作り出されたシステム。68000 CP/Mマシンを主体とし、そこにPOKEYであれFM音源であれ、どんなサウンドハードでも接続することができた。彼らがS.A.を立案した段階では、社内での印象は良くなかったそうだが、結果的には作業の絶大な効率化を実現し(前掲ニュースレターによると「100倍早くなった」)、さらにハードの開発コストも劇的に下げることができたという。システム基板「システムI」「システムII」の導入後から開発スタートし、『XYBOTS』(1987)で初採用に至っている。その翌年にはフラー氏自らRPMコンパイラ/インタプリタを開発している。91年には後継のS.A.IIが開発され、その後も改良を経ながら92年まで使用された。

[xxv] 『T-MEK』 94年稼動。3D一人称視点の戦車戦ゲーム。最大6人までの通信対戦が可能となっている。日本ではほとんど稼動していなかったと思われるので、32X移植版のほうが有名。音響効果を重視したCAGEの設計ゆえに、ゲーム内にBGMは存在していない。

[xxvi] チャック・ペプリンスキ Chuck Peplinski ハイブリッド・アーツ社でのソフト開発を経て、92年~96年にかけてアタリに在籍。オーディオエンジニアとして活躍した。その後フィリップスの半導体部門に所属。

[xxvii] 『ラッシュ』シリーズ 『ラッシュ』の名を関したアタリ/ミッドウェイ製ドライブゲームの総称。『サンフランシスコ・ラッシュ・エクストリーム・レーシング』(San Francisco Rush: Extreme Racing, 1996)を皮切りに、アーケードでは4作品がリリースされた。

[xxviii] 『ナスカー・シリコン・モーター・スピードウェイ』(Nascar Silicon Motor Speedway) 1996年稼動。LBEテクノロジーズが開発したロケーション向けのレーシングゲームで、北米で人気を誇るNASCARレースを3/4サイズでシミュレートしている。車体の前半分を模した大型筐体も用意されていた。最盛期には全米15ヶ所でプレイ可能だったが、同社による運営は2001年に終了している。

[xxix] 『オデッセイ・グローブ』 (The Oddysey Globe) 1997年発売。サウンド機能を持つ地球儀型の知育玩具。フラー氏はこの製品でMIDIファイルを演奏するためのアーキテクチャも設計している。

[xxx] リープフロッグ・エンタープライズ 94年に設立されたアメリカの知育玩具メーカー。『リープパッド』や『リープスター』といった商品の大ヒットで急成長を遂げた。

[xxxi] マイルズ・オーディオ・システム Miles Audio System 欧米で幅広く使われているゲームオーディオ用のミドルウェア。