静岡県磐田市。二十歳前後の若者たちが集まって、ひとつのバンドをつくりました。名前は「磐田フレッシュメン・ジャズバンド」。その中心にいたのが飯田英憲です。
はじめから今のような音を出していたわけではありません。ジャズもポピュラーもラテンも演奏する、地元のバンドでした。市の行事に呼ばれ、勤労青少年の全国大会に出て、1972年には労働大臣賞を、翌年には磐田市民賞を受けています。
結成から4〜5年後、バンドは名前を「フレッシュメン・ジャズ・オーケストラ」に改めます。ちょうどそのころ、演奏する曲にカウント・ベイシーが入りはじめました。
1975年2月、磐田市とフィリピンのダグパン市は姉妹都市協定を結びました。翌年には、磐田市から80名の市民が「ダグパン市親善訪問団」として現地を訪れています。
フレッシュメンもこの訪問団に加わり、現地でライブを行いました。音楽を通じてダグパンの市民と交流し、海を越えて演奏を届ける貴重な経験となりました。
1979年には御殿場・国立青年の家の記念行事で、皇太子御夫妻を迎えて演奏しています。1981年には神戸ポートピア・インターナショナル・ジャズ・フェスティバルの舞台にも立ちました。
この日、来日したカウント・ベイシー・オーケストラが浜松を訪れました。フレッシュメンは駅前で歓迎の演奏をしています。車の中のベイシーと握手を交わしているのが、飯田英憲です。
このころから、バンドが演奏する曲はベイシーナンバーに絞られていきました。同じ月の3月28日には、磐田原台地の麓に自分たちで建てた専用の練習場が落成しています。追いかける対象が、はっきりと定まった時期でした。
1983年3月15日、飯田英憲が世を去ります。37歳でした。その年6月の「Jazz in IWATA」は、追悼コンサートとして開かれました。
生前、飯田は「みんなのバンドだから」と、自分の名前を楽団名に入れることを望みませんでした。その死後、メンバーは「創立者の名前を永遠に残そう」と話し合い、「飯田英憲とフレッシュメン・ジャズ・オーケストラ」という現在の名前が生まれました。
1985年、フレッシュメンはカウント・ベイシー・オーケストラの磐田公演を企画し、招聘しました。当初、磐田は日本ツアーの日程に入っていませんでしたが、フレッシュメンの働きかけによって公演が実現。当日は前座として、同じ舞台に立ちました。
3年前、浜松駅前で飯田とベイシーが握手を交わしましたが、その二人が再び会うことはありませんでした。フレッシュメンとベイシー・オーケストラが共演したとき、飯田も、ベイシーも、すでに亡くなっていたのです。
練習は毎週火曜と金曜。60年、変わっていません。
そして2026年、このバンドのベースに飯田 圭二が加わりました。創設者・飯田英憲の息子です。父が世を去ってから43年。創設者の名を掲げたバンドで、その息子がベースを弾いています。
練習は、来週も火曜と金曜にあります。