悪い種子

悪い種子

「悪い種子」はウィリアム・マーチという人の書いた小説で、出版されたのは彼が亡くなった年(1954年)だそうな。だから舞台化されたことも映画化されたこともどちらもヒットした(DVDのコメンタリーではそう言ってる)ことも知らずじまい。それってちょっと残念なことだと思わない?日本ではハヤカワポケミスで出ている。私が最初にこれを読んだのはいつだったか、もう思い出せないけど何度もくり返し読んでいる。元軍人のケネス、妻のクリスティーン、8歳の娘ローダのペンマーク一家は、数ヶ月前ボルチモアから引越ししてきた。今住んでいるのはブリードラヴ夫人が大家のアパート。汽船会社に勤めているケネスは長期出張中なので、クリスティーンはさびしくてたまらない。ローダは私立の学校に通っているが、ピクニックがあった日、クロードという少年が溺死する。前日の終業式では、彼がペン習字の金メダルを獲得。メダルが欲しくて一生懸命練習していたローダは、クロードをつけ回し、おびえさせていたらしい。元々所有欲が強く執念深いところのあるローダ、クリスティーンは娘が少年の死に関与しているのでは・・と疑い始める。そしてある日ローダの部屋で隠してあったメダルを発見・・呆然とする。幼い頃から娘はまわりの子と違っていた。引越すはめになったのも前の学校でトラブル(盗み)が起きたせいだし、前に住んでいたアパートでは老婆が転落死する事故があった。・・何か事件が起きても、子供が関係している場合、大人の見方・考え方がゆがめられることがある。まず、重大なこと(死)に小さな子供が関与しているはずがないという思い込みがある。また、怖くなって本当のことが言えず子供らしいウソをついてしまったのだ・・と同情したりもする。実際は明確な殺意を持って老婆を突き飛ばしたのかもしれないし、十分状況を理解した上でウソをついたのかもしれない。これが親だとますます目がくもる。きっと何かやむにやまれぬ事情があったのだとか、今はまわりの子と違って見えるけど成長するにつれ同じになるだろうとか、後になって振り返ってみればただの取り越し苦労だったとわかって笑い話になるだろうとか。そのうちそんな希望もなくなってくると、例えどんなことがあっても自分だけはあの子を守ってあげなきゃ・・となる。クリスティーンの場合も似たような過程をたどる。

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彼女の場合、クロードの事件がきっかけとなって、忘れていた過去を思い出し始める。両親に愛されて育ち、ケネスと出会って結婚、娘が生まれて平凡だが幸せな家庭を営んでいる自分。その一方で自分がもらい子なのではないかという思いが常に頭にあった。そりゃあ誰でも一度は自分がさる高貴な一族の生まれで、事情があって捨てられて・・なんて空想するものだけど。友人で精神科医で、犯罪実話も書いているタスカーから聞いたベッシー・デンカーという名前のせいで、クリスティーンの記憶が甦り始める。希代の女殺人鬼の名前なんか自分に全く関係がないはずなのに、なぜ聞き覚えがあるのだろう。そのうち彼女は自分がたった一人生き残り、今は行方知れずになっているベッシーの末娘であることを思い出す。常にローダには愛情を注ぎ、間違った育て方などした覚えがないのに・・という疑問がようやく解ける。祖母の犯罪気質がローダに隔世遺伝したのだ。ケネスもローダも悪くない。悪い遺伝子を伝えた自分が悪いのだ。その間にもローダはアパートの守衛(と言うか雑用係)リーロイを焼き殺す。母の末路(電気椅子での処刑)を知ったクリスティーンは、娘にはそんな運命をたどらせまい・・と、睡眠薬を飲ませ、自分はピストル自殺する。ローダは助かったが、ケネスは妻がなぜこんなことをしたのかわからず、ショックと悲しみに打ちのめされる。まわりの者は「まだローダがいるじゃありませんか」と彼をはげます。・・ざっとこんなストーリーで、舞台はこれと同じ結末らしいが、映画では変更されている。クリスティーンは誰にも相談できず一人で苦しみ、その時々の心情をケネスあての手紙にしたためるが、投函はせずしまい込む。死を決意すると手紙は全部処分してしまったので、ケネスには事情が全くわからない。彼は一生悩み続けるだろうが、それもそう長いことではあるまい。そのうちローダに始末されるだろうから(おいおい)。このように原作には暗い雰囲気が漂う。大人が集まって話すのは精神分析や犯罪の話、うわさ話。かなりあけすけだったりどぎつかったり。当時(小説の設定は1952年)物事は今よりずっと単純だったろうし、戦争が終わって新しい気分に満ちあふれていたと思うが、その反面得体の知れない不安もあっただろう。放射能とか共産主義、遺伝子の研究もまだ進んでいない。自分達と違うものへの恐怖。

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さて映画だが、私から見るとかなり物足りない印象。ずっと前NHKBSだかで見て、今回DVDをレンタルして久しぶりに再見。舞台を見ているようだ・・と強く感じた。顔の向きや表情の作り方、手の動きなどすごく大げさでわざとらしい。特典(コメンタリーやインタビュー)でわかったけど、主なキャストは舞台と同じ。舞台と映画は別物・・とわかっていても、ついつい舞台用の大きな演技になってしまうのか。コメンタリーでは当のパティ・マコーマック自身「あれ見てよ、大げさね」・・って感じで何度も笑っていて。「ゴッドアンドモンスター」の一シーン思い出した。ベティ達がテレビで「フランケンシュタインの花嫁」を見て、「古くさい」だの「怖いというより滑稽」などと笑うシーン。でも当時の観客は「花嫁」にしろこの作品にしろ真剣に見入っていたんだろうなあ・・。クリスティーン役ナンシー・ケリーは知らない人。大熱演だが、私のイメージとはだいぶ違う。原作だとクリスティーンはブロンドでもう少しやせていて、しっかりしているところとボーッとしているところがある。気立てがよくて誰にでも好かれるが、うぶで危なっかしいところもある。ケリーは30代なかばだがちょっと老けて見える。ブルネットでやや太っていてどっしりした感じの美人。ローダ役マコーマックは金髪がやけに目立つ。目立ちすぎるくらいだ。原作だと髪は茶色である。少年が溺死したことでクリスティーンがローダを疑い始め、やがて自分の過去を知り・・という大筋は同じだが、映画ではケネスが出発するところから描かれ(原作とは違い、ケネスは現役の軍人)、夫婦の甘ったるい関係が強調される。ケネス役ウィリアム・ホッパーも知らない人だが、金髪でピーター・オトゥールによく似ている。ケリー、マコーマック、クロードの母親デイグル夫人役アイリーン・ヘッカートの三人は、アカデミー賞にノミネートされている(受賞はしていない)。原作ではクリスティーンの父(実は養父)ブラーヴォウは亡くなっているが、映画では出てくる。演じているポール・フィックスは「ライフルマン」に出ていたらしい。なぜ父親が登場するかと言うと、クリスティーンの過去を明らかにするためである。実は本当の親子じゃないのだよ~隠していてごめんね~。事実が明らかになっても何も問題は解決しない。クリスティーンの悲嘆が大きくなるだけである。

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ブラーヴォウはまた、悪い面が遺伝するのではないかという恐怖を、そんなことはありえない・・と打ち消す役目もおびている。ラスト近くではわざわざ医者にまで意見を求め、遺伝しないと断言させている。ベッシーの悪事も映画では詳しく描写されない。ただ、ローダの行動は祖母からの遺伝であることは明らかなので、これらの小細工の効果はゼロである。とにかくクリスティーンの悲嘆はますます大きくなり、母親としての悲しみをこれでもかとばかりに見せる。子供を手にかけようとしたのも無理はない・・と観客に思わせる。しかし彼女のもくろみは失敗する。映画でのその部分の流れは筋が通らない。ローダに薬を飲ませ、寝入るとすぐ自殺をはかる。当然銃声が聞こえるからまわりが気づく。本当に死を決意したのならローダが寝入って手遅れになるまで待つ。それから自殺する。もっとも作り手はクリスティーンの混乱ぶりを見せつけ、筋の通らない行動を取るのも、(手元が狂って)自殺に失敗するのも無理はない・・というふうに持っていきたいのかも。さて、コメンタリーを聞いていて興味深かったのは、マコーマックも聞き手のチャールズ・ブッシュも原作を読んでいないこと。マコーマックは当時まだ子供だから読んでいなくて当然だけど、その後の50年の間に読んでみようという気には一度もならなかったのかな。代表作でしょ?彼女は日本ではこの作品でしか知られていないと思うけど、1970年頃に「ヤング・アニマル」というのが公開されている。「スクリーン」誌で見ただけだが、「アフリカ大牧場」のトム・ナーディニ主演というので記憶に残っている。マコーマックはローダ役のせいで、その後も似たような役演じることを期待されただろうが、コメンタリーによればマックス・アラン・コリンズが監督した「Mommy」シリーズに出演したのだそうな。成長後のローダみたいな役らしい。コリンズと言えば「The Mummy」・・即ち「ハムナプトラ」シリーズのノベライズ手がけた人。最近では「X-ファイル:真実を求めて」もそう。MommyとMummy・・何だかおもしろいと思いません?さてこの映画、テレビムービーとしてリメイクされたらしい。「死の天使レイチェル」というのだが、見たことないので詳しいことはわからない。ただリーロイ役はデヴィッド・キャラダイン・・これだけでかなりそそられますなあ・・どこかに置いてないかしらビデオ。

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ブリードラヴ夫人役エヴェリン・ヴァーデンは「狩人の夜」に出ていたらしい。また学校の生徒役で、プレスリーの映画や「ジョニー・エンジェル」というヒット曲で知られるシェリー・フェブレーが出ていたらしい。他にマコーマック自身の話としてピーター・フォンダと推理劇で共演したことがあるとか(レスリー・ニールセン主演のテレビシリーズ「ニュー・ブリード」か。若いピーター見てみたい!)。ブランドンという名前も出てきたが、これは「シェーン」の子役ブランドン・デ・ワイルドのことだろう。二人は共演したことがあるのだろう。子役の大成は難しいが、ブランドンも同様で、あまりぱっとしないまま30歳ほどで自動車事故で死んでしまった。残念なことだと思う。他にデニス・ホッパーの名前も出てきて、コメンタリーは聞いていて楽しかった。何だか映画のことはあんまり書いてないけど、「舞台みたい」とか「大げさ」とかそんなふうにしか感じないんだよなあ。大熱演なのはわかるけど、冒険してない。舞台はペンマーク家の居間ですべての出来事が起こるが、映画ではアパートの外とかピクニックの場面とか少し広がってる。でも、それでもまだ足りない。行動で見せるところを、セリフですませている・・という気がどうしてもする。あてどなく車を走らせるとか、もう行くまいと思いつつ図書館でベッシーのことを調べるとか、映画ならではの広がりを見せて欲しかった。でないと映画化した意味ないじゃん。さて、最後にローダについて書く。彼女は「映画史上最も偉大な悪役トップ100」の54位に選ばれたのだそうな(1位ダース・ベイダー、2位ハンニバル・レクター、3位ノーマン・ベイツ)。ずいぶん低いが名前が挙がるだけでもすごいのかも。まだ8歳で活動期間(←?)も短いし。原作でタスカーはクリスティーンに「欠けているものによって犯罪者は生まれるのであって、後天的に獲たものによってではない」と説く。つまり環境ではなく遺伝が関係するという考え方だ。何かが欠けているせいで色盲などの病気になる。それと同じで感情や道徳心が生まれつき欠けているせいで犯罪を起こす。ローダに欠けているものがあることはクリスティーンも気づいている。他人をまねることでローダは自分が人と違っていることを隠そうとする。多くの場合それは成功するが、母親から見れば芝居をしているのだとわかる。

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しかし成長するにつれて芝居はうまくなり、そのうち見分けがつかなくなるだろう。ローダは音楽を聞いても本を読んでも感動することはない。ピアノを真面目に練習するけど、一定レベルより上には行かない。テクニックはあっても心がないからだ。本だって内容を丸暗記してテストでいい点取るための道具でしかない。ローダに一番顕著なのは所有欲である。欲しいのは「よくできました」のシールのこともあれば、金メダルのこともある。もう一つは自己防衛である。物欲にしろ自己防衛本能にしろ、誰だって持っているが、ローダの場合は手段を選ばず、決断も早い。リーロイにさんざんいじめられても、ローダは気にしない。しかし自分にとってまずいことになる・・と判断すると、もう誰も彼女を止められない。いくらリーロイが出まかせを言った本心じゃないと弁解してもローダには通用しない。観察し、計画を練り、迷わず殺人を決行。8歳の少女による殺人となるとセンセーショナルで、そっちの方に目が行ってしまうが、もっと考えるべきなのは異端者の存在だと思う。ローダには欠けているものがあるが、それは彼女の責任ではない。彼女はなりたくてこうなったわけではないし、自分が異端者であることも気づいていない。自分が他の人と違っていることや、それを隠さなきゃならないことはわかっているが、どうしてそうしなければならないのかはわかっていない。だって彼女の世界では正しいのは自分。自分が普通でおかしいのはまわりの人。ベッシーとローダをつないだのはクリスティーンだが、彼女にも責任はない。自分の遺伝子をどうこうできないし、幼時の記憶も失っていた。もし自分の素姓を知っていたらケネスとは結婚しなかったし、結婚しても子供は作らなかっただろう。それと遺伝ということになればベッシーにだって・・。まあとにかく誰が特に悪いということもなくベッシーやローダのような者が生まれ、まわりに不幸をまき散らす。思い通りに生きて後悔とは無縁。その一方でクリスティーンやクロードのように、何も悪いことはしていないのに踏みつけにされる犠牲者も存在する。さらに何が起きても本質が見抜けない暗愚な、あるいは善意の存在もいる。原作はいろいろ考えさせるが、映画はそこまでいかない。ローダの特異なキャラ(しつこさ、頑固さ、媚、計算高さなど)は画面より文章の方がより強く伝わってくる。

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映画はマーヴィン・ルロイの監督で、原作を知らず、これだけを見るのならサスペンスの要素ちょっぴりの上質なメロドラマ・・ということになるのだろう。コメンタリーで言っているように、母親の精神が崩壊していく悲劇がこの映画のメインである。それで観客の心をさんざんゆさぶった後は、口直しとしてわずかだが救いのあるシーンを見せる。重傷を負いながらもクリスティーンは助かり、ローダは結局物欲のせいで命を落とす。文字通り天罰が下る。でもその後出演者が一人ずつ出てきてにっこり笑い、とどめはケリーがマコーマックのお尻をぺんぺんという微笑ましいシーン。どよ~んとした空気もこれできれいさっぱりぬぐわれ、お客は安心して家に帰れるというわけ。このカーテンコールは評判いいみたいだけど、私は・・。暗くて不愉快なことだけど、こういうことも現実にはある・・と作者マーチは言いたかったのだと思う。世の中にはまわりと違っている人がいて、時には病人だったり犯罪者だったりするけど、だからと言って全部がその人のせいとは限らない。犯罪を犯しているという自覚がない人もいれば、深く思い悩んでいる人もいる。一方で反対の立場にいる人(健常者とか)が、彼らをわけもなく恐れたり嫌ったりいじめたり変に同情したりすることもある。だからどうなのだ、どうすれば解決するのかと言われても私には何も思いつかないが、変わった人もそうでない人もとにかくこの世には存在している・・と。変に涙や悲嘆を強調するこの映画にはちょっとがっかりしたな・・と。だからと言ってローダの残酷さ、異常さを強調するホラー仕立ての作品も見たくないけどね。とまあまとまりのない文章ではありますが・・これだけは言える。ローダは反道徳的ではあるけれど、その一方でとても興味深い存在でもある。普通の人にはなかなかできないこと(きちんとした生活ぶり、身じまいから果ては殺人に至るまで)を苦もなくやってのける。冷静さ、根気強さ、独立心、決断力、行動力・・そのいずれも欠けている怠け者の我々から見れば爽快感すら感じる。我々のできないことを代わってやってくれるキャラは、例え犯罪者でも魅力的なのだ。つけ足し・・作品中ローダがピアノで練習するのは「月の光」という曲。私は子供の頃オルガンを習っていて、曲は覚えていたけど題名を忘れていて。映画について調べている時題名がわかり、長年の疑問が解けてすっきりした。