タイムライン

タイムライン

マイケル・クライトン原作の映画は「アンドロメダ・・・」と「スフィア」を見た。原作も読んだ。「アンドロメダ・・・」は出演者も内容も地味だが、いい映画だ。「スフィア」は大スターが出てるし、内容もワクワクさせられるものだったが、途中でおもしろさがしぼんでしまい、最後は「それでいいのか?」と突っ込みたくなるようなオチだった。「タイムライン」は出演者は地味だが内容はハデそうだ。タイムトラベル、中世・・とくればさぞつじつまの合わないもの見せられるのだろうな・・と思った。どうしようかな・・と迷ったあげく(私は自分で言うのも何だが優柔不断なのだ)、メチャクチャでも楽しめればいいや・・とやっと見に行った。公開終了間際だったので、1000人以上入る館内には50人くらいしかお客がいない。こういううらさびしい風景って好きなのよねー。見に行く前に原作を半分ほど読み、映画を見た後で残りを読んだ。原作はかなり長く、読みでがある。実際に14世紀に行くまでが長いのだが、映画ではかなりの部分バッサリ省略されている。転送装置の説明も簡単だし、人物の設定もわかりやすくなっている。例えばクリスと教授は原作では師弟関係だが、映画では親子である。父親が行方不明になったら息子は捜しに行くだろう。例え行く先が14世紀という未知の世界でもね。うーん、わかりやすい。原作には登場しないフランソワ、彼はフランス語ができるから通訳として必要だ。・・彼は本当は行きたくないのだが、マレクにそう言われて勇気をふるい起こして行く決心をする。しかし向こうに着いてほどなく、彼は殺されてしまう。このテの映画にはつきものの、ストーリーを盛り上げるための犠牲者である。映画ではゴードンも殺されるが原作では死なない。原作ではドニガーが映像制作者達にこう言う。「現実なんぞどうだっていい。おれがほしいのは大向こうに受ける画だ」・・これってどの映画製作にもあてはまる考え方よね。お客が映画に求めるのは地味でしみったれた現実ではなく、わかりやすくハデな虚構。作る側もそれを承知しているからお客の望む通りのものを提供する。もちろん全部がそうだとは言わないけどさ。クリスと教授は親子となり、アルノー卿とクレアは兄妹となる。映画の初めの方でマレクは発掘途中の石棺をクリスに見せる。石棺には手を取り合った夫婦の像が刻まれていて、何ともロマンチックだ。

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お約束通り、この石棺に葬られているのはマレクとクレアなのだということが後になってわかる。1971年に生まれ、1382年に死亡、時空を超えたロマンスの成就。うーん、わかりやすい・・って言うか、やりすぎだよ。転送装置の方も、原作では多宇宙解釈とやらで、行き先は並行宇宙での14世紀。この世界(本当は宇宙と書くべきだが、他の星へ行くわけではないので世界と書くことにする。宇宙じゃ範囲が広すぎる)での14世紀に行って何かすれば、この世界の未来は変わってしまうけれど、別の世界の14世紀に行って何かしても、変わるのはそっちの世界の未来。こちらの世界の未来(つまり現代)には影響なし。だからタイムパラドックスもノープロブレム。こういうのって昔テレビでやった「幕末未来人」と設定が同じよね。パラレルワールドっていうやつ。それと、並行して存在する多世界は時代が全部同じというわけではないらしい。だから現代で転送されたのに、着いてみたら14世紀だったなんてことになる。そっちの世界ではまだ未来は確定していないのだ。14世紀が現代なのだ。確定しているのは過去だけ。我々が生きている2004年よりも先の時代の世界もあるはずだけど、我々はそこ、つまり未来へは行けるのかな。そこらへん原作には何も書いてなかったな。あっちの世界に残した教授のメガネのレンズや羊皮紙に書いたHELP MEの文字。あっちの世界でクレアと出会い、結婚し、死んで葬られたマレクの石棺。それらがこちらの世界の現代で発見されたということは、こちらの世界の14世紀でもほぼ同じことが起こったということを表わしている。こちらの世界のマレクがあちらの世界にとどまったように、どこかの世界から来てこちらの世界にとどまったマレクがいたのだ。原作のラストではクリス達がマレクとクレアの石棺を見つけて感慨にふける(ただし映画と違って場所はイギリス、同じ棺ではなく別々に葬られている。映画のように二人が一緒に葬られているってことは同時期に亡くなったということだ。二人はきっと同じ病気で亡くなったのだろう。片方が病気になり、献身的に看護しているうちに感染したのだ)が、そこに葬られているのは別の世界から来たマレクである。どの世界から来たマレクなのかはわからない。何しろ無数に枝分かれした世界が並行して存在しているという考え方なのだから、何でもアリなのだ。

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しかも!こっちの世界で分解された物体(人間)、例えばケイトは、向こうで復元された時には別のケイトになっているのだ。何だ、そりゃ。ドニガーの起こした会社ITCは、元々は物体の空間移動の実用化を研究していた。片方で分解し、片方で復元する。二つの転送装置の間で物体が移動できればトラックも飛行機もいらなくなる。ところが実験してみると、送り出した物体は復元装置の方には現われない。どこかへ行ってしまって戻ってこないのである。・・で、いろいろ調査した結果、物体は並行世界(しかも14世紀のフランス)へ行ってしまっていることがわかる。さらに技術を高めた結果、送り出した物体を自動的にこちらへ戻すことができるようになった。戻したものを復元しているのはこちらのITCの装置だが、送り出したものをあちらの世界で復元しているのはITCの装置ではない。あちらの世界は装置がなくても自動的に物体を復元してくれるのである。こちらのITCの装置からケイトを送り出し、あちらの世界でITCの装置で復元されたのなら同じケイトだが、あちらの世界でかってに(装置もなしで)復元されたのなら、それは「また別の世界から来たケイト」だ。じゃあこちらから送り出されたケイトはどこへ行ったのだろう。こちらの世界へ戻ってきてITCの装置で復元されたケイトは「また別の世界から来たケイト」なのだろうか。ウヒョホ!しかも送り出されたのはケイトだけではないからね。頭がこんがらかってきたぞ!映画ではもちろんこんな設定にしたら話がややこしくなるから、普通のタイムトラベル、つまり多世界ではなく同一世界内での時間移動ということにしてある。・・と言うか、そうなんでしょ?言葉の問題も心配しなくたって向こう(フランス人)が英語をしゃべってくれる。フランソワが行く必要など何もない。映画は難しいこと(科学的なことや歴史的背景)は抜きにして、ロマンスとアクションを前面に押し出している。だから感動したりドキドキしてりゃいいんだけれど、どうしても心に引っかかるものが一つだけある。それは教授の行動である。歴史学者として、自分が今発掘している遺跡の当時の姿を見ることができるのなら、その手段が存在するのなら、そりゃ魂売り渡してでも見に行きたいと思うでしょうよ。彼が14世紀に行くまでにどういういきさつがあったのかは、原作でも映画でもあんまりはっきりとはしない。

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ハイテク企業のITCが、なぜフランスの遺跡発掘に資金を提供してくれるのか疑問に思ったジョンストンは、社長のドニガーに会うためにアメリカへ渡り、そのまま行方不明になってしまう。会社側の説明だけだから、自分達に都合のいいように言っているのかもしれない。でも彼は会社側が止めるのを振り切って、強引に自分から14世紀に行ったんだと思うな。会社が素人を一人で行かせることなんてありえない。ジョンストンは会社側を脅迫したのだ。多世界へ移動できるなんてマスコミにばらされたら・・。好奇心のかたまりである学者が14世紀へ行ってじっとしているはずもなく、ジョンストンは行方不明になってしまう。さて現代の人間が過去へ行って言うお決まりのセリフ「オレが歴史を変えてやる!」・・クレアに恋してしまったマレクは彼女が殺されるのを黙って見ていることができない。彼女の命の方が歴史よりも大切だ。それが人情ってものだ。でもそれがあるから人間は過去へ行ってはいけないのだ。考えてみれば実際に人間が行かなくたって、時間が来たらなかみが飛び出すカプセルを送り込むだけでいいのよね。なかみが強力な病原菌だったら歴史を変えることもできちゃう。逆に過去へ行った人間が、現代ではもう絶滅している病原体をくっつけて戻ってくるかもしれない。物体(人間)の往来に汚染はつきものだ。クライトンは「アンドロメダ病原体」ではあんなに汚染にこだわっていたのに、こちらの原作では全く気にしていない。ペスト菌が運ばれてきたらどうすんのさ。まあ書かれていたとしても映画化の時点で省略されるだろうけど。教授救出のために送り込まれるクリス達は、頭もよく若くて健康で、現代を生きるのなら何の不都合もない。だが14世紀を生きるとなると・・。原作にはこう書いてある。「ほんの小さな動きにも危険が潜んでいる。ほとんど聞きとれないほど小さな音にも危険が潜んでいる」・・これって弱い小動物が生きのびるための心得みたいなものよね。四六時中まわりに気を配っていないと、たちまち他の動物のエサになってしまう。中世のフランスとイングランドが戦争しているところへポコッと現われて、ワイワイペチャクチャ、注意力警戒心ゼロ。興奮するのはわかるけどここはテーマパークじゃない。自分達の置かれた状況がわかっていない。騎士の一団が近づいてきた時に、護衛役が隠れるどころかノコノコ前に出てきたのはなぜ?

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一番訓練されているはずの元海兵隊員が真っ先に殺されてしまうのだ。おまけに彼らのうちの一人は現代の武器を持ち込んでいた。自衛のために14世紀には存在しないものを持ち込む。心情としてはわかるが絶対にやってはならないことだ。手榴弾のピンを抜いたまま転送されたため、こちらの世界で爆発し、転送装置が壊れてしまう。クリス達は戻ろうにも戻れなくなってしまったのだ。かくして中世ではクリス達が奮闘し、現代ではスターン達が何とか装置を直そうと奮闘するわけである。映画の中盤あたりは正直言って退屈だった。兵士が出てきてもイングランド側なのかフランス側なのかわからない。みんながかってな行動を取るのですぐ離ればなれになってしまう。つかまったり逃げたりのくり返しで、見ていてあきてくるのだ。しかし二回目は赤っぽいのがイングランド側で青っぽいのがフランス側だとわかったし、同じことのくり返しも慣れたせいか気にならなくなった。しかしまあホントによくしゃべるし、感情の起伏も激しい。黙って考えたり耳をすまして聞いたりというのがない。じっとしてるくらいなら死んだ方がマシとか、人の言うこと聞かないとかとにかくばらばら。リーダーのゴードンも戻れないのはなぜだ・・と冷静さを失ってしまうしね。・・で、話を元に戻すと、これらのことが起こったそもそもの原因は教授にあるわけ。フランソワ、ゴメス、バレット、ゴードン、そして最後にはドニガーも死んでしまうけど、一人を救うためにこれだけの犠牲が出たわけよ。そりゃ教授がああいう行動取らなきゃ映画は成り立たないんだけどさ。それと生き残ったクリス、ケイト、マレクの三人はいずれも向こうで人を傷つけたり殺したりするはめになった。生き残るためには仕方がなかったとは言え、現代にいればそんなことはせずにすんだ。向こうに残ったマレクは別として、クリスもケイトも忌わしい記憶に一生悩まされるだろう。そんな重荷を背負わせといて、教授は「すまん」の一言もないでしょ。少しは反省しろっての。さてと・・今までは批判めいたことばかり書いてきたけど、そういうのに目をつぶればなかなかいい作品なのよ。特にクライマックスの城攻めのシーンはすばらしい。機関銃、ミサイル、カーチェイス、宇宙船、エイリアン・・そういうものに慣れきっていたでしょ、最近では。でもこの映画に出てくるのは矢、大砲、投石機、剣、馬・・。

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で、こちらの方が見せ方によってはずっと迫力があるわけ。なぜって本物だから。雨あられと降ってくる大量の矢の凄まじさ。「乱」もそうだったけど本当に大量に射るのよ。「タイムライン」では夜だから火矢のシーンは凄まじいとともに美しくもあった。両方で射かけるから、途中で火矢が交錯する。そして夜矢なんてのも出てくる。きっと真っ黒に塗ってあるのだろう。火矢と違って見えないからよけにくい。射るタイミングもある。普通に射ると盾で防がれてしまうから、矢を射ようとしているところを狙って射る。矢を射るのと盾で防ぐのとは同時にはできないからね。そこらへんに微妙な駆け引きがある。そして何と言ってもすごいのが投石機。燃える火の玉が飛んできて城壁にぶち当たる。CGでは出せない本物の迫力を十分に堪能できる。こういった凄まじい描写の他に人物の描写がある。攻撃されて兵達が騒いでもオリヴァー卿は絶対に動じない。この映画ではイングランド側のオリヴァー卿が悪役になっているが、一方的に悪役として描かれているわけではない。武将としてはなかなかの人物なのだということがわかる。フランス側のアルノー卿を演じているのはランベール・ウィルソン。この映画で名の知られた人っていうと彼とポール・ウォーカーとフランシス・オコナーくらいだよな。オリヴァー卿とアルノー卿の一騎討ちは迫力があった。最近はワイヤーアクションとかスタントマンによるアクションばっかり見せられているから、何だか感動すらしてしまったよーん。人間対人間の戦いって重くて苦しくて鈍いものだと思う。重い甲冑、重い剣、もう気力だけで戦っている。その必死な姿には真実味がある。パンフレットにはリチャード・ドナー監督の「視覚効果やCGというやり方もあるけれど、僕のやり方ではないんだ」という言葉が載っている。そう、ちゃんと作ったものはちゃんとしたものとして画面にうつっていて、見ている者の心を打つのだ。せっかくのいい映画がCGになったとたんうそっぽくなる・・なんていう経験ばかりさせられているので、ちゃんとやってくれてありがとう、ちゃんとしたものを見せてくれてありがとう・・とお礼を言いたくなってしまった。音楽もよかったし、いいもの見たな・・という満足感が得られた。ランベール・ウィルソンよかったよ。彼とオリヴァー卿役のマイケル・シーンのおかげで映画が引き締まった。