第七の封印

第七の封印

この映画の存在はずっと以前から知っていたけど、見るのは初めて。スコット・ウォーカーの「最後の封印」はこれにインスパイアされたもので、レコードには訳詞がついていた。田舎に住んでいた私には、それを読んで映画のなかみを想像するしかない。当時読んでいた映画雑誌にも、さほど詳しい記事はなし。何たって1950年代の作品だし、アメリカやフランスの作品でもない。騎士と死神がチェスをする・・わかるのはそれくらい。それだけで映画一本持つのかいな。テレビでも放映されず、レンタルビデオ店に行っても置いてない。思いきってDVD買おうか。でも、高いしなあ。そんなこんなで今日まで来て、「ザ・シネマ」でやってくれたので早速録画。録画しちゃうと安心して見ない。でも「ブラックリスト」→「最後の封印」となって、いっちょ見てやるかとなって。ところでスコットからどれくらいたったの?45年?ひゃ~!見ている時は・・はぁ~ん、ふぅ~ん、ほぉ~んて感じ。見ても別にどうってことありませんでした。つまんなくはなかったけど、人生変わるほどの映画でもない。やっぱキリスト教の下地がないからかな。どんな人も救ってあげますよ、死ぬ時はお迎えにくるけど、怖いことなんか全然なし、安心してていいんですよ・・そういう温かくてありがたい仏像の番組とか見てるせいで、仏教の方がいいかな・・なんて思ってみたり。悪魔だの罪だのそういうのはどうもねえ。さて、映画だがつじつまは合っているのかとかそういうのは考えないで見ていた。どうせファンタジーだし。最初騎士のアントニウス(マックス・フォン・シドー)は海辺で目が覚めるけど、私が思うに彼はこの時点で生きてるかどうか怪しいものだ。彼は10年にも及ぶ十字軍の遠征から戻ってきたところだ。戦場では地獄を見、絶望し、疲れ切っている。早く自分の城に・・妻のいる城に戻りたい。昔はこうじゃなかった。結婚したばっかで世界は明るく、幸せで、妻ともよくしゃべった。今の自分は神への疑問で頭がいっぱい。死神が現われた時も、体はオッケーだったけど、心はオッケーじゃなかった。なぜ神はこんなことをするのか、それを知るまでは死にたくない。で、チェスをする間は待ってもらって・・ということになる。

第七の封印2

そりゃ海辺で目覚めたのは彼だけじゃない。従者のヨンス(グンナール・ビョルンストランド)がいるし、馬もいる。旅回りの一座にも出会う。でも私にはアントニウスはすでに死んだ人間のように思われてならないのだ。海岸ということは船が沈没したのではないか。妻が待っている城まであと少しということで死ぬに死ねず、魂がさまよっているのではないか。途中で出会う若い女性(グンネル・リンドブロム)の存在も謎だ。あの時家の中で倒れていたのは彼女の家族か。疫病で死んだのか。だとしたら彼女も感染しているのでは?と言うかもう死んでいるけどまだそれを受け入れられないとか。ラスト近くで死神が現われた時、恐れているようにも見えなかったし。城にいたのはアントニウスの妻だけ。他の者は疫病を恐れて逃げたけど、彼女は一人で待っていた。でも、彼女もすでに死んでいるのでは?アントニウス達の方はみんな死ぬけど、旅芸人の一家は生き延びる。片方は死で、片方は生。片方は死神で片方は光り輝く太陽。う~んでもこの一家に関して誰も心配はしないのか。ヨフ(ニルス・ホッペ)は酒場で聖職者くずれと一緒だったではないか。あの後すぐ聖職者くずれは疫病で死んだではないか。彼だって感染してるかも。シドーはこの頃20代半ばだが、おっそろしく馬面である。死神役のベント・エーケロートは1971年に51歳で死亡とある。死神なのに短命だったのは皮肉。ヨフの妻ミア役はビビ・アンデルセン。今はアンデーションと表記するようだが、ファウンデーションみたいでどうもねえ。「最後の封印」で印象的なのは、魔女として焼かれる乙女の叫びだが、映画は違っていたな。アントニウスは彼女が苦しまなくてすむよう毒を飲ませる。そこが印象的だった。彼は高潔で、他の者のように欲望まみれではない。それだけに悩みも欲望にまぎらすことができない。彼の神への疑問は誰も明らかにしてくれない。死神でさえもだ。結局神は自分の頭の中にいるもの。自分がわからないように、他の者も神がわからないでいる。だから答えは見つからなくて当然なのだ。人間は必ず死に、その時点で神は問題ではなくなる。だから死神は神の存在についての答えを知る必要はない。