綴り字のシーズン

綴り字のシーズン

こういうのを小品と言うのだろう。規模が小さく(公開規模も含めてね)、内容は地味(日本だったら漢字検定かソロバン日本一か)。原作があって音楽は感じがよく、出演者はけっこう大物。それに対して無名の新人。何となく「小説家を見つけたら」を思い出した。私は本がいっぱい出てくる映画が好きだ。本に囲まれて暮らしたい。・・と言うか我が家はすでに本でいっぱい。本の重みで戸やフスマはよく閉まらないし、床は沈んだりしているんだけどさ。関東の家は作りがやわだ。柱の太さからして雪国とは違うぜ!・・宗教学者ソールの部屋は本でいっぱい。妻のミリアムは科学者。ソールは息子のアーロンに期待していて、ヘブライ語を自ら教え、楽器を一緒に練習する。娘のイライザは大人しくて平凡な少女。父親の関心が兄にばかり向いているのがさびしい。もちろん両親は彼女を愛し、彼女もそれはわかっているのだが。愛情と知性にあふれ、一見完璧に見えるナウマン象・・じゃない、ナウマン家(まぎらわしい名前だぜ)。だが完璧な家族なんてあるわけがない。イライザがスペリングに特殊な才能を持っていることがわかると、ソールの関心はアーロンからイライザに移る。予選を難なく勝ち進んで行くイライザ。ソールは自分が到達できないでいるユダヤ教神秘主義カバラに、イライザなら到達できるのでは・・と期待する。その通り、イライザは秘儀を会得するのだが・・。単純にスペリング・コンテストを描いたものかと思っていたら、ユダヤ教やらカバラやらが出てきて「あら?」・・となる。我々にはなじみのない世界なのでとまどう。アーロンは父親の関心が妹に向けられてさびしくなり、チャーリという美しい女性と親しくなる。ガールフレンドができて、関心が家族以外のものに向かうのは、成長の一段階で喜ばしいことだが、チャーリはハレ・クリシュナの信徒だった。一方ミリアムはなぜか様子がおかしくなり・・。この映画、見る者の予測を超えてストーリーが展開していくので、ホント「あら?」なのよ。こっちも地に足を着けてしっかり考えないと感想が書けない。まずソールから行くわね。演じているのはリチャード・ギアで、こういうお父さん役が似合う年代になったのね・・とちょっぴり感慨。私の場合セクシーな乱暴者(「ミスター・グッドバーを探して」)の次は初老のオッサン(「プロフェシー」)で、間がかなり抜け落ちているんだけどさ。

綴り字のシーズン2

このオッサンが誠実でいい人だったから、「シャル~」とか続けて見る気になったのよ。ソールは完璧主義者で何でも自分の思い通りにしようとするタイプ。亭主関白・暴君・仕切り屋・・まあどこにでもいますわな。最初はまわりも大人しくしたがうけど、そのうちに造反する。「もうがまんできない・・」とか言って。でもって「おまえ達のために私は・・」なんていうお決まりのやり取りがあって、ラストはたいていがらんとした広い家に主人が一人取り残される。「ダイアモンド・ヘッド」とかさ、よくある設定よ。ソールも似たり寄ったりなんだけど、何しろギアでしょ。チャールトン・ヘストンとかと違って鼻持ちならない暴君・自己陶酔のナルシストとは思えないのよ。かわいそうになっちゃうの(泣くシーンあり)。ソールは魅力的な男性で、大学で教えているから女子大生と何かあっても不思議じゃない。熱心に情熱的に講義をするソールに、ステキ・・とときめく女性がいても不思議じゃないの。あのー何でときめかないの?言っときますがギアですぜ。天下の二枚目ですぜ。でもソールはミリアム一筋、浮気もせずミリアムにラブラブ。でもそのミリアムはなぜか不安定。ソールは家族を愛し、世話をしてくれる。料理もしてくれるいい夫。そりゃイライザがさびしい思いをしていることに気づかない。無神経かもしれない。でもたいていの親はそうでしょ?この映画のミスはソール役にギアを持ってきたこと。何もかもソールが悪いんだって言われても「そうかぁ?」と思ってしまう。暴君ソールのせいで家庭が崩壊しかけたけど、イライザのおかげで復活の希望が見えた・・ってのがストーリーの骨子なんだろうけど、私はそうは思わない。みんなのためによかれと思ってやったことが全部裏目に出てしまったソールはかわいそうな被害者なの。でも特殊能力に目覚めたイライザは恩知らずのミリアムやアーロンも含め、そんなソールを救ってやりましたとさ・・こう思えちゃうの。それもこれもギアの「ボクって誠実でしょ光線」に私が惑わされているせいですが・・(いいんだもん、それで)。とにかくギアのおかげで内容がドロドロにならずにすんでいる。何たってミリアム役がジュリエット・ビノシュですから。彼女が出てくると、こりゃただではすまないぞ・・と思わされてしまう。幸せな家庭の貞淑な妻に見えますよ、そりゃあね。

綴り字のシーズン3

でも何かありそう、このままでいくはずがない、だってビノシュだもの。でもってその通り、そのうちに何やら不審な行動取り始める。見ていて100人中100人が(原作読んでる人は別よ)「彼女は浮気しているのだ!」って思ったはず。「いや彼女は○○をしているのだ!」なんて看破した人います?私もてっきり浮気だと・・。でも浮気にしてはミリアムの格好はちょっとおかしい。精神が不安定になるにしたがって服装とかだらしなくなる。ビノシュのいいところはちょっと体の線が崩れているところ。カトリーヌ・ドヌーブもそうなんだけど、ちょっとゆるい体型。中年だからそれが当然なんだけど、女優さんの中には崩れた役なのに体の線はばっちりという人いるでしょ。男優だともっと顕著で、酒びたりなのに筋肉モリモリとかさ、不自然なことこの上なし。話を戻してビノシュはきれいなんだけど年相応のやつれ、体型のゆるみがあって、それがとっても自然に見えてよかった。胸が大きいのもいい。何となくはみ出しているような胸。彼女の精神もどこかはみ出している。おさまりきれなくなっている。次にアーロン。この映画のいいところは、アーロンとイライザの仲が終始純粋なこと。校内大会で優勝し、次の段階に進むことをソールに言えないでいるイライザ。アーロンはイライザを会場に連れて行ってやる。はげましてやる。そのうちソールの関心がイライザに移ってもアーロンは妹をいじめたりしない。元々大人しい性格で反抗することもなく素直に育ってきたのだ。ある日突然出会った美しいチャーリ。彼女はとても明るく気さくにアーロンに近づいてくる。見ているこっちはそのあまりにもストレートな接近ぶりに、かえって不審の念をいだく。初対面で電話番号渡してるよ、オイ。ちっと積極的すぎないか?アーロンは当然びっくりする。エッ、なぜボクに?少しは疑う気持ちもあるけれど、何しろウブだし相手は美人だし。訪ねてみるとハレ・クリシュナなわけよ。この映画別にハレ・クリシュナを変な宗教として扱っているわけではないのよ。アーロンが寺院にいるのを知り、ソールがどなり込んで連れ戻そうとするシーンが後で出てくるけど、その時も信徒はおだやかに対応する。アーロンがハレ・クリシュナにのめり込む下地はあった。父への反抗心が芽生えると、ユダヤ教への興味もうすれる。カトリック教会へ行ってみたけど、どうもぴんとこない。

綴り字のシーズン4

黄色い装束をつけて無心に踊ったり瞑想したりすることに何だか安らぎを覚える。もうちょっと深く経験してみようかな・・と思ったとしても不思議じゃない。しかし・・チャーリがアーロンに近づいたのは勧誘のためだ。彼女には目的があった。彼女の美貌はさぞ役に立つことだろう。チャーリがただのオバさんだったら・・アーロンはのこのこ訪ねて行っただろうか。見知らぬ美女が輝くばかりの笑顔で親しげに近づいてきたら・・男性諸君鼻の下をのばす前に考えましょうね・・何か裏があるぞ・・ってね。そりゃ心の安らぎを得る事ができるのなら、まわりがとやかく言うことじゃない。でもアーロンの瞑想は、チャーリの姿がちらついてあんまり集中できないと思うよ。私はむしろカトリック教会でのシーンが印象に残った。おずおずと中へ入るアーロン(何しろ彼はユダヤ教ですから)。中年の婦人が彼に気がついてにっこりする。今入ってきたこの少年は慣れないふうでおずおずしているけれど、教会に入ってきた以上は大事な友人。にっこり笑って迎え入れてあげる。この幸せをあなたもどうぞ。神父がパンを与える列にそっと引き入れてあげる。さああなたも祝福を受けなさい。言葉はなし。そっとさりげなくがいい。軽い微笑がいい。美女がにっこり笑って近づいてくるのより(裏がないだけ)マシ。アーロンが結局どうなったのかは映画では不明。ハレ・クリシュナの信徒になったのかならなかったのか。どちらにせよチャーリは熱心な信徒として勧誘を続けたはずで・・。アーロンのガールフレンドゲットの夢は消えたんだろう。それでもいい、ボクは同じ信徒でいられるだけでいい・・と達観するんでしょうか。映画でのアーロンとイライザの仲は、両親の仲が怪しくなり始めても変わりなく続く。二人が仲良くベッドで寝ているシーンがいい。イライザにとってアーロンはいつだって頼りになる妹思いのお兄ちゃんなのだ。さてそのイライザは・・ぱっとしない女の子。容貌も成績も性格も・・。でも口数は少ないがまわりをよく観察し、頭の中で考えている。こういう子って映画にはあんまり出てこない。感情の起伏の激しいペラペラしゃべる子はいやになるくらい出てくるけどね。それにしても昨今のテレビ番組は、いかに集中力をそぐか、いかに気を散らし、ものを考えないよう工夫をこらしているか感心するほどだ。ここぞという時にCMが入る。

綴り字のシーズン5

やっと終わったと思うとCM前の画面のくり返し。CM前のことを忘れているとでも?視聴者ってそんなにバカ?何かについて話していてもさえぎったりヤジを飛ばしたり。とにかく話をそらし、結論にたどり着くのを引きのばす。結論が出ないまま終わってしまってもいっこうにかまわない。何かを真剣に考えるなんてムダ。筋道立てて考えを追うなんてムダ。笑いさえ取れればいい。そういうのが何時間も続く。そういうのに慣れてしまうと本を読むにしても登場人物の心の動きをつかむとか、内容を把握するとかという時に頭が働かなくなる。だから考えなくてすむもの、答をさっさと教えてくれるもの、秘訣を教えてくれるもの・・がもてはやされる。軽い番組、軽い読み物・・。でもいつの世にも考えるタイプの子はやっぱりいるのよ。イライザみたいにね。彼女にはソールが熱っぽく語るカバラのことが理解できるのか。彼女は乾いたスポンジのように知識を吸収する。彼女の純真さは知識の吸収を妨げない。しかも・・彼女のスポンジはとびきり上等だ。彼女はやすやすと秘儀を会得する(んなアホな・・なんて言いっこなし)。だが彼女は子供だから、秘儀を会得したからと言って、神と対話できる能力があるからと言って、別に世界を引っくり返すことにはならないのよ。もっと身近なこと・・壊れてしまった家庭の再建というありきたりなことの、さらにそのまた第一歩を踏み出すだけ。ほんの小さな変化なのよ。でもどんなことだってその一歩から始まるんだけどね。家族関係の修復なんて結局は一人一人がそう心がけなければムリ。全能の誰か一人が一声かけたからってすべて解決するってものでもないのよ。そもそも完璧な家族なんてありえないって自覚することが大事。いろいろ欠けたところのある者が集まり、助け合って暮らすのが家庭であり、社会なのだぜい。イライザ役のフローラ・クロスはうまいです。アーロン役のマックス・ミンゲラは美形です。チャーリ役ケイト・ボスワースは「スーパーマン」のロイス・レーンやるらしい。さて・・文字や言葉には不思議な力があり、聖なるものであるというのは、私も常々思っている。ただ、今の時代その使われ方はぞんざいで、大切にされていない。人をおとしめるために言語が使われている場合、その使っている人自身も自分で自分をおとしめている。

綴り字のシーズン6

また、神と一体化したいとか神の言葉を聞きたいとかいうのは人間の見果てぬ夢だが、そもそも神は人間が作り出した(考え出した)ものなんだから、現実にはそういうことはありえないと思う。人間は人間が頭の中で作り出した神と一体化する。あるいは人間の考え出した神の言葉を聞くのだ。人間は神と一体化したと、神の言葉を聞いたと信じることができる。錯覚することができる。それはその人の自由である。他人にそれを押しつけない限りは、迷惑をかけない限りは・・。私には神秘主義に熱くなっているソールはいささか滑稽に見えた。てなわけで内容はスペリング・コンテストから大きくそれ、ホント「あら?」っていう感じだったけど、別に失望もしなかった。大きな力を持つことが大きな変革にすぐにはつながらず、少女の一歩くらいの前進しかないっていうのがよかった。その一歩が全国大会のどたん場でのイライザのある行動なのだが・・ここはまあ意見が分かれるかも。説得力があると感じるか、あざとい、わざとらしいと感じるか・・。映画の間中、後ろでしゃべっている夫婦がいて、ホント××してやりたくなりました。普通その場の空気を読めないダンナがべチャクチャしゃべったら奥さんたるもの「静かにしてくださいッ!」とたしなめるのが筋だと思うけど、一緒になってしゃべってどーすんだこら。こらバカ亭主、スペリング・コンテストだからって自分まで一緒になってつづり言うなこら。テレビのクイズ番組見ているのとはわけが違うんだぞこら。場所をわきまえろ。言葉を大事にしろ。大事にするってことは、しゃべるべきではない時にはしゃべらないことも含まれるんだぞこら。黙っているべき時に垂れ流されて・・言葉がかわいそうだ!まー夫婦50割引もいいけど迷惑な夫婦もホント多いのよ。特に亭主はよくしゃべる!いけない・・人をおとしめるようなこと書いてしまったわオホホすみません。映画が終わってから・・オバさん達の会話が耳に入った。やっぱ女性が圧倒的に多かったんですの。ギアだしビノシュだしシャンテだし・・。このシャンテシネは「見出された時」に続き二度目。あの時は着物姿の女性が何人かいてびっくりしたのよ。普通映画館で和服の人っていないでしょ。お正月でもない限り。その時はお客さんぎっしりで、やっぱドヌーブだから?・・と一人で納得していたわけよ。

綴り字のシーズン7

でも映画終了後のエレベーターの中で「こんなに長くなくてもいいのにねえ」なんて文句言っていて、おかしくなったのよ。わかりにくい上に長たらしい映画だったからきっとうんざりしたのでしょう。今回もいびきとまではいかないけど寝息が聞こえたわ。きっと男性客ね。女性はそれでもギア見てるはず。ギアはミスキャストのようにも思えるけど(自分かってなやなヤツに見えなくてはいけないのに同情したくなるんだもの)、彼が出てなきゃこの映画お客さん来ないと思う。出ていてさえこれくらいだし・・。でもってオバさん達の会話・・「ウチのダンナに見せたいわ」・・自分かってでまわりの迷惑に気づいていない亭主は多いんでしょうなあ。私が思うにそういうダンナはこういう映画見ても何も感じないと思うけど・・。奥さんがガマンしているから家庭は何とか存続しているけど、ガマンすることをやめたら・・。「奥さんがああでもならなきゃ映画にならないわ」・・そうなんです。スペリング・コンテストだけじゃ盛り上がらないんです。ユダヤ教だのハレ・クリシュナだのカバラだのではお客さんはついてこないんです。ミリアムの苦悩、ソールの後悔・・そういうのがないと。いちおう使ってみたくて仕方がないらしく、CGで文字がゴニョゴニョ動いたり、イライザから芽が出たり(?)、オリガミの鳥が飛んだりいろいろいらんこと小細工しております。そんなのより冒頭のヘリコプターがAという文字を運ぶシーンの方がよっぽどよかったです。他の文字の間にはさまると、それが言葉になる。それが意味を持つ。それを読む人がいる。文字はありがたいものだと思う。文字がなければ、言葉がなければ、人間は考えをまとめることもできず、書き記すこともできず・・私もこんな日記など書くこともできず・・。原作は今読んでいるところ。当然のことながら映画とはだいぶ違っている。例えばチャーリは男性である。でもただでさえ地味な映画がますます地味になってしまうから美しい女性に変更。ソールはミリアムとラブラブではなく、かなり疎遠(何が?)。アーロンがいじめられっ子だとか、兄妹の仲も複雑とか、まあいろいろあるんだけど、感想には反映させません。ここで書いたのはあくまでも映画を一回見ての感想です。エンドロールで流れる歌が気に入ってサントラを買った。静かでちょっとけだるい、聞いていてうっとりするいい曲です。