ザ・ウォッチャー

ザ・ウォッチャー

テレビで予告だけは何度も見て、でも劇場公開は見逃して、でも見たいなという気持ちはずっとあって、そうなるとレンタルビデオってことになるのだけれど、私はレンタルビデオ店には年に数回しか行かないのよね。その理由は後で書くけど。今回やっと見たんだけれど、これがけっこう私好みの内容。「氷の接吻」とか「ザ・クロウ」に通じるものがある。映像が凝っていて、音楽がよくて、ストーリーはメチャクチャで、主人公は苦悩していて・・。撮影監督は有名な人らしい。画面がゆれたりとか、最初見た時には神経にさわるけど、二回、三回と見るうちにあんまり気にならなくなる。評価は・・けなしている人がほとんど。これ以上ないほどの駄作、凡作、愚作・・って。そういう評価は「ザ・クロウ」と同じだな。まあ確かにひどい出来なんだろうけど。宣伝文句を見ると、キアヌ・リーブスのことばっか。DVDのカバーにはキアヌ・リーブス主演って堂々と書いてあるし。でも主演はジェームズ・スペイダーなのよん。彼の写真の小さいこと!「死にたいほどの夜」もそうだったけれど、キアヌは主演ではないのよん。今まであんまりいいとは思わなかったキアヌだけど(「リトル・ブッダ」は別ね)、今回初めていいと思ったのよん。だって「何が欲しい」と言われて「俺が欲しいのは・・おまえだ」なんて・・えらい!よく言ってくれました。と言うかこんなクサイセリフ言わせるようなアホ映画に、よくぞ出演してくれました・・だわよ、全く。「何が欲しい」と言われればそれまでの話の流れからいって「おまえだ」に答は決まっているのだけれど、男が男に言う言葉としては何だか妙な感じでしょ。絶対言うはずないよなー、言葉を濁すかそらせるか、それが普通だよなあ・・あらら言っちゃったよー。あまりにもストレートに言ってくれたので、私心の中でガッツポーズ取っちゃいましたよ。「きゃっほう」ってね。絶対言わないようなセリフをこちらの期待通りに言ってくれたキアヌ、あんたはいい人だ。こんな映画は彼のキャリアにマイナスだとか言っている人もいるけど、どんなスターにだって作品の選び間違いはあるわさ。太っているとか、セリフ棒読みとか言われても「死にたいほどの夜」にくらべりゃスリムだし、演技ヘターとも思わない。グリフィンはキアヌでなくてもよかっただろうけれど、私はけっこうはまり役だと思っている。

ザ・ウォッチャー2

最初いきなりクライマックスで、キアヌが変な踊り踊って、それから話が前に戻ってといういかにもなすべり出し。スペイダー扮するキャンベルはどう見たってFBI捜査官には見えないけど(ハンサムすぎる!)、過去の事件がトラウマに・・ってこりゃ「レッド・ドラゴン」のグレアムと同じだな。彼の通う精神分析医のマリサ・トメイのポリーがまた全然精神分析医には見えなくて・・ついでに言うとキアヌも連続殺人犯には見えませんのじゃ。さて身も心もボロボロのキャンベルは薬漬けの毎日。最初麻薬中毒?って思ったけど(自分で注射していたから)違うのね。偏頭痛の薬っておなかに打つの?おなかが黒ずんじゃっているのが彼のボロボロぶりを強烈に表わしている。薬を捜してあわてて引っ張り出した引き出しが、床に当たって壊れちゃうところもグー。ある晩食事をすませて帰ってきたら、同じアパートの住人が殺されて捜査の真っ最中。その被害者の女性の写真が、キャンベルがほったらかしにしていた郵便物の中から出てきたことから、前にロスで追っていたグリフィンが彼を追ってシカゴに来ていることを知る。グリフィンは11人も殺し、キャンベルは3年半も追っていたのだが、結局つかまえることはできなかった。キャンベルは職を辞し、シカゴへ・・。夜毎彼を悩ませる悪夢。最初は奥さんが死んだのかな?と思わせるが、グリフィンが人妻と言っていたからそうでもないらしいことがわかる。回想シーンでその女性リサの左薬指には結婚指輪が光っているが、キャンベルの左手には何もなし。二人は不倫の関係ってこと?リサの結婚式での写真も後でうつるが、花婿は別人だ。ただリサのお墓に刻まれた「最愛の娘」というのはどういうことなのかな。ダンナが刻むのなら娘とは書かないよな。親が刻んだってこと?キャンベルと仲良くなった時点でリサとダンナとはうまくいっていなかったわけ?ここらへんは何の説明もなくすっきりしない。さてグリフィンはカメラ店の店員エリーを標的に選び、写真をとってキャンベルに送りつけてくる。こうなるとキャンベルは愁いをおびた表情で孤独の海に漂っているわけにもいかなくなり、美人のポリー先生に励まされたことでもあり、捜査に(簡単に)復帰する。うつっているのが誰だか不明だから、マスコミにも働きかけ、必死に捜すのが前半のヤマ場。

ザ・ウォッチャー3

何で簡単に見つからないのさ・・と見ていて思うかもしれないが、現実はあんなものである。あっちを捜せこっちを捜せと忙しく打ち合わせをしている警官達の目の前に当の本人がいても誰も気づかない。目で見ることと見たことを認識することとは違うのだ。見ているのに見えていないし、見ていないのに見えている。エリーの方は当然のことだが自分が捜索の対象になっているなんて夢にも思わない。彼女は新しく入ったばかりのアルバイトで、何の知識もない。グリフィンが質問した時も何にも答えられないし、少しは勉強しようという意欲もない。店にお客が二人入ってきた時も、彼女はカウンターの後ろで所在なげに椅子をぶらぶら回転させていて、お客が来たことさえ気づいていないように見える。頭の中にあるのは早く時間が来て家に帰りたいということだけ。ちゃんとした店員ならお客に声をかける。声をかけることが売り上げにつながり、一方では防犯にもつながる。ここで声をかけていればあるいは彼女の運命も変わっていたかもしれない。もっともグリフィンはそういう女性を特に選んで標的としているんだけどね。殺された後、彼女の部屋がうつるが、デッサンがたくさんあることから、彼女はそっちの方を目指していたのだとわかる。カメラ店での仕事に意欲を見せず、退屈そうにしていたのは自分のやりたい仕事ではなかったからなのだ。ここらへんはストーリーとはさほど関係ないが、恋人もいない、目立たない(それにしては美人でスタイルもいいが)、大都会の片隅でひっそりと生きる孤独な女性をうまく描いていると思う。全然関係ないけど、帰ってきたエリーがテレビで見ている映画はスティーブン・セガールの「沈黙の陰謀」である。指定された午後9時が近づいてくるのに女性の身元はわからない。キャンベルがテレビに向かって「早く電話番号を出せ」とか、すぐ消えて次のニュースに移ってしまったことを怒ったり嘆いたりするところがいい。ところで電話で寄せられた情報を担当の女性と話すシーンで、パソコンの画面にうつっているのは・・エリーではなく、次の犠牲者となる刺青の少女である。何でやねん・・。きっとこのシーンは次の事件を捜査している時に使うはずだったのをここに持ってきたのだろう。それにしたって今はいくらだってパソコンの画面だけ修正できるはずだ。何でそのまま使ったのかな。

ザ・ウォッチャー4

エリーにしろ、次のジェシカにしろ、ピアノ線で絞殺されたのならもっとひどい形相をしていると思う。またあばれるだろうから、現場にグリフィンの毛髪くらい落ちていそうなものだ。彼は長髪だし髪のお手入れしていなさそうだし。不思議なのは彼はどうやって生活しているのかということ。仕事はしていないんでしょ、当然。女性をつけ回して行動パターンを詳しく調べる。ロスではどうだったのか不明だが、シカゴでは最初の女性(キャンベルは郵便物をほったらかしにしていたので、この女性のことは気づかなかった)の後、キャンベルと同じアパートに住む女性、エリーと次々に犠牲者が出ている。だからグリフィンは複数の女性を同時期に観察していたことになる。そして一番の目的であるキャンベルのことも見ている。これで仕事なんかできるはずがない。同じアパートの女性を標的に選んだのは、その女性とキャンベルと二人一緒に観察するのに都合がよかったせいか。あるいは最初の女性の写真を送りつけたのにキャンベルが反応しないので、いやでも事件に巻き込んでやれ・・と近くの住人を選んだのか。キャンベルが郵便物を二週間もほったらかしにしておくほど投げやりな生活を送っていることまでは、グリフィンは予想していなかったと思う。あるいは彼は鑑識や捜査に詳しく、住居侵入は大得意ということで、キャンベルの留守中にアパートに忍び込み、室内の荒れ具合を知っていたのか。キャンベルはグリフィンがシカゴに来ていることは知らないし、自分の安全(住居も含めて)についてさほど気をつかっていないだろうし・・で、グリフィンはもしその気になればやすやすと忍び込めただろう。ベッドの脇に立って、眠っているキャンベルを見下ろすことだってできた。まあキャンベルは2時間半しか眠れないほど不眠に悩んでいるから、夜中に忍び込むのは無理かな。映画が公開された頃、原作はないのかな・・と捜してみたのだが出ていないようだ。ノベライズ版じゃだめだけど、もしちゃんとした原作があれば、主人公二人のことがもっとよくわかったのでは・・と思う。映画だけだと二人の背景がはっきりしない。キャンベルとリサの関係、グリフィンの起こした事件、グリフィンがキャンベルに執着するようになったきっかけ・・そういうのはこの映画では全く説明されていない。だからこっちでかってに妄想・・いや想像するしかない。

ザ・ウォッチャー5

グリフィンはどこに住んでいるのだろう。普段は最後の方に出てくる倉庫みたいなところにいるんだろうか。でもクリスマスでしょ、寒いだろうなあ。キャンベルに電話で「ここは寒いな」と言うシーン、気楽そうに言っているけど本音だったりして・・。食べ物は?時々は誰かの留守宅に入り込むんだろうか。ネコのエサは?ネコは湯たんぽの代わりになるな。車は適当に盗むんだろうな。自分の車のはずはない。ナンバーを照会されたらおしまいだ。レンタカーは借りるのに証明書がいるし、お金もかかる。お金と言えばポリー先生への支払いはどうしたんだろ。何だかいろいろ出てくるなあ、疑問が。キャンベルの暮らしぶりはそれなりに描写されるけど、グリフィンの方は全然・・。幽霊みたいに痕跡を残さず、エレベーターで一緒になっても気づかれず、仕事をしなくても食べていけるようだ。だからラストで死体が見つからなくても・・いや、これはまた後で書くけど。さてそんな彼でもカメラにはちゃんとうつる。彼が客を装ってエリーに近づくシーンでは、話をする二人の姿がテレビにうつる。電器店やカメラ店に行くと、そばのテレビに自分がうつっていることに気づくことがある。今の二人の場合、エリーが退屈しのぎにいじくっていたカメラを通して画面にうつっているのだ。うつっているだけで録画はされていないからグリフィンは気にする必要はない。でも例えば出入口には人(体温とか)に反応して録画を始める監視カメラがあると思うんだけどな。金融機関などにはいくつか監視カメラがついている。ずっとうつしっぱなしのもの、人がいる時だけうつすものいろいろある。よくあるのがオバチャン二人がCDやATMのコーナーでべちゃくちゃ長いことくっちゃべっていること。カウンター内の職員からは見えてないだろうと思い込んでいるらしいが、実はテープが回りっぱなし。全部録画されているんだぜ、ベイビー、テープのムダだ。まあそれはともかく、まともな店なら監視カメラがあって、店内の様子は録画されているはずだということ。高価なカメラだってあるだろうし、万引きされやすい小さなものもある。現にグリフィンはエリーに背を向けてカウンターの前に立ち、かってにカメラにフィルムを入れていたし。まともな店員なら客にこんなことはさせないし、そういう時(店員がぼんくら)のために売り手側から客をうつすカメラがついているはずなのだ。

ザ・ウォッチャー6

エリーが殺された後で警察がテープを調べた形跡もなし、ここらへんはエピソードとしては緻密さに欠ける。他の女性は隠しどりだが、エリーだけは堂々と店内に入って直接写真をとっている。こんな危険をおかすなんて、きっとグリフィンは監視カメラも細工ずみなんでしょうよ。こんなことにこだわるのは私だけかな。他の人はこういうことより、なぜグリフィンがキャンベルに執着するのかそっちの方が気になるみたいだ。「互いに必要」とか「陰と陽の関係」とか、グリフィンがいくらキャンベルとのきずなを強調しても、見ている者にはぴんとこないが、それはロスでの出来事が映画の中で何も描写されていないからである。出てくるのは自分のせいで愛するリサが焼け死んでしまうというキャンベルの悪夢だけ。それにしてもキャンベルは大ポカをしたものだ。いくら手の届きそうなところに犯人がいたからって、愛する人を椅子にしばりつけられたままにしておきます?まず彼女の縄を解くと思うよ、普通は。火のついたローソクがいっぱいあって、一歩間違えれば火事になるって一目瞭然じゃん。でも結果としてグリフィンはつかまえられず、リサは目の前で焼け死ぬというダブルパンチ。キャンベルが罪悪感でよれよれになったとしても無理はない。グリフィンに向かって罪悪感を感じてはいないようなことを言うシーンがあるが、これはもちろんグリフィンを刺激するためのウソである。グリフィンの考えている通り、キャンベルはリサのお墓があるからシカゴへ来たのであり、自分のミスを悔やんでお墓の前でリサにくり返し許しを乞うていたはずなのだ。そうか、そんなに死んだ女が忘れられないのか、じゃ事件を起こしてまた彼を忙しくさせてあげよう。そうすれば彼女のことを思っているヒマもなくなるし、そのことを彼は俺に感謝するはずだ、生きがいを与えてくれてありがとう・・ってね。そうグリフィンは考えた。はたから見ればムチャクチャな論理だがグリフィンの中ではちゃんと筋は通っている。ムチャクチャと言えば彼がキャンベルに執着心を持つようになったきっかけもそうなんだろうな。最初にグリフィンがキャンベルに目をつけて、彼の気を引くために事件を起こしたとは考えにくい。何らかの理由(女性への憎しみとか、あるいは単なる物盗り)で殺人を犯し、何らかの理由(連続だった、あるいはいくつかの州にまたがっていた)でFBIが捜査することになった。

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そしてたまたま(運悪くとも言う)キャンベルが担当することになった。表面的にはありふれた事件だ。キャンベルはその外見や行動を見てもわかるが、あまりFBI捜査官らしくない。バリバリの行動派でもなく、どこか悩みをかかえているような弱さを感じさせる。グリフィンは絶対安全という立場からキャンベルを観察し(自分を追っている者には興味を持つだろう。有能なのかぼんくらなのか。つかまらないためにはどうすればいいか)、自分との共通点を見出したのではないだろうか。陰と陽とか兄弟同然とかそんな表現を使ってはいるものの、要するに一目ボレしたのである。まわりくどい表現は後から体裁をつくろうためにくっつけられたのであって、彼はキャンベルが自分の運命の人だと確信したのである。そうなるとキャンベルの目や関心は常に自分の方に向いていなければならず(独占欲)、それを邪魔する者は許せない(嫉妬心)のである。「おまえの目もずっと俺を見ていた、でもリサが・・」「ポリーとかいう女とも会いすぎだ」・・っていいですよねえ。これって普通男が男に言う言葉じゃないけど、グリフィンのホンネが出ている。恋愛映画なんだな、これって。それとも変愛映画?偏愛映画?リサは死んだけれど、次にまたポリーとかいう女が現われた。リサとポリーはタイプが似ているから、グリフィンにはキャンベルがポリーに引かれているってことはすぐにわかっちゃう。キャンベル自身はポリーへの気持ちにはまだ気づいていないが、それも時間の問題。実際キャンベルが仕事に復帰する気になったのはグリフィンのせいではなくて、ポリーちゃんの信頼の言葉のおかげだし。ところで「自分の娘が・・」ってキャンベルに言われた時、ポリーはよく怒らなかったわね。だって今狙われているのは24歳とか、それくらいの女性なわけでしょ?小さな子供が狙われているってなら別だけど、一歩間違えればポリーにそんな大きな子供がいるって仮定して話しているみたいに聞こえる。自分が危機に陥ってもきっとキャンベル捜査官が助けに来てくれるわ・・って思うことができるかどうか聞くのが普通でしょ。それはともかくかわいそうなのはグリフィン君。あんたの気持ちはキャンベルには通じてないぜ。「やつ流の儀式か何かで、私はその一部なのだ」なんて、グリフィンが聞いたら怒りまっせ。儀式の一部なんかじゃなくてあんたは全愛情の対象なんですってば。

ザ・ウォッチャー8

とにかくグリフィンは「またかよー、せっかく忙しくさせてやったのにあんな女と会ってばかりいてー(買い物に行って迷子になるくらいよれよれなのに、週二回の治療は忘れないってどういうことだよーの意味)」と嫉妬の炎(ほむら)を燃やし、ポリーちゃんを誘拐してしまうのだ。倉庫の貨物用らしいエレベーターで上がっていく間、キャンベルをじっと満足そうに見つめるシーンがいい。その前の車の中で、キャンベルを見て「老けたな」としみじみ言うシーンがいい。ゆがんだグリフィンの思考回路だが、キャンベルを見ていると暖かい気持ちがあふれてくるのだ。特に誰も邪魔する者がいなくて二人きりの時には。精神的な愛情でも肉体的な愛情でもない本能的な感情。「人間」というのは元々は人と人との間柄を意味する言葉である。人は一人で存在していたのでは人間とは言えない。人と人との間で生きることで、あるいは人とかかわりを持つことで人間になるのだ。今は「人」も「人間」も同じ意味で使ってしまっているけどね。グリフィンはキャンベルと関わることで自分を人間だとみなすことができた。あるいは間違った方法だけれど、人を殺すことで自分の存在を認識することができた。グリフィンにとってキャンベルや女性達は、自分の存在をうつし出す鏡のようなものなのかもしれない。ただこういったことは抽象的なことであるから、言葉で明確に説明することは難しい。「何が欲しい」と言われて「おまえが欲しい」と言うことはできても、具体的にどうして欲しいのかはグリフィンにもよくわからない。ずっと自分だけを見ていて欲しい・・よろしい、ではそうしよう。ところでずっとというのは具体的にいつまで?仕事は?寝ている時は?・・「俺が欲しいのはおまえだ」というセリフは確かに陳腐だ。でも私達が普段しゃべっている言葉、書いている文章のうち、まともなものがどれだけあるか・・。ちょっと追究されればすぐにボロが出てしまう。グリフィンもキャンベルにちょっと何か言われただけでもうボロが出て、怒ったり話をそらしたり。ところでキャンベルの方はどう考えているのだろう。「こいつはいかれてる!」とか「老けたのは誰のせいだよ!」とか、心の中では怒り狂っているのだろうが、そういうのは表に出さない。全くのポーカーフェイスなのがいい。彼はグリフィンと通じるものが自分にあるなんて考えてもいない。

ザ・ウォッチャー9

グリフィンはただの異常者であり、これ以上犠牲者を出すわけにはいかない。何らかの形(逮捕、あるいは・・)で事件を終わりにしなければならないと考えている。たいていの犯罪者は、自分の素性や犯行を隠そうとする一方で、誰かに知ってもらいたいという欲求を持っている。グリフィンもその一人で、そのために選ばれたのが自分なのだ。だからキャンベルは「連続殺人犯なんて掃いて捨てるほどいる」とか、「貴様は仕事の一部にすぎない」などとグリフィンの自尊心を傷つけるようなことを言って彼を怒らせる。でもこれってキャンベルのホンネだろうか。たいていの映画だと、追う者と追われる者との間には次第に共感のようなものが生まれてくるように描かれる。やったことは許せないが、自分とあいつとの間にどれだけの違いがあるというのか・・とか何とか。でもキャンベルにはそれがない。グリフィンの方は強いきずなを感じているのに、彼の方はさめている。話を聞いているうちにポリーでさえ「彼はさびしいのね」と、グリフィンの執着心がどこから来ているのかある程度はわかってくるのに、キャンベルの方は全然わかっていない。「あなたは?」と聞かれると「どういう意味だ?」と不思議そうな顔をする。グリフィンと同じであなたもさびしいんでしょ?あなただってどうしようもないくらいさびしさを感じているはずよ。あなた達二人には共通点があるのよ。引かれ合うのはそのせいなのよ。・・ってポリーちゃんは言っているんですよ、キャンベル君。何ぼけっとしているんですか。いやこれは一種の防禦ですな。気づかないふうを装う。グリフィンに愛されるなんてまっぴらだという拒否の姿勢がまずあって、その上に職業的な見地から述べた先の見解が出てくるわけです。でも拒否するのは本当にグリフィンが嫌いだからなのか、それとも彼に心引かれるのが怖いからなのか、キャンベル君、どっちなんですか?でも答えられる質問ではないよね。事件が解決すればキャンベルはまたすぐに次の連続殺人犯を追いかけることになるのだろう。グリフィンの存在はファイルの中に記録として残るだけ。記憶の方は年月とともに朽ちていく。グリフィンだってある日突然執着の対象が別のものに移るかもしれない。ヒョイと理由もなく気分が変わるのは人の常だ。「何であんなのに夢中になっていたんだろう」って思うこと、私にもよくありますよ。

ザ・ウォッチャー10

最初と最後にキャンベルのセリフが入る。ポリーの治療を受ける彼の境遇を表わしていて、何の気なしに見れば、これは事件に巻き込まれる直前のことだ。でもラストでまた同じセリフがくり返されると、これって事件が終わってからのことのようにも思えてくる。つまりグリフィンが死んで事件が解決し、キャンベルは傷も癒えて、今ここに落ち着いて座っているという・・そんな雰囲気。でも心の中はまだ全くの平安というわけでもなくて、自主的に話はするけれど、ちょっと何か心の奥にあることを言わされそうになると心にロックがかかってしまって、「時間だ・・」と話をそらしてしまう。治療はまだまだこの先も必要だ・・みたいな。え?考えすぎ?でも何度も映画を見ているとそういうふうに思えてくるのよ。スペイダーは今まであんまりちゃんと見たっていうのがなくて、「マネキン」くらいかな。「スターゲイト」は吹き替えでカットされていたし、「スーパーノヴァ」はWOWOWでやったけど途中から見たし。「マネキン」での軽い役より、今回のようなカゲのある役の方が私は好きだな。ところで「ザ・ウォッチャー」を見て、もっとよく彼のことを知りたいと思って「ウルフ」とか「スーパーノヴァ」とか「スターゲイト」を借りてきたんだけれど、「スターゲイト」は別のやつだった。「スターゲイトSG-1」?何じゃこれ。まぎらわしいもの置くな、こら。間違って借りてきちゃったじゃないのよ。あせってDVD買わなくてよかった。安値に釣られて危うく買うところだったぜ、ベイビー。・・てなわけでまだ「スターゲイト」のノーカット版は見てないのよん。「SG-1」はそのまま返却するのも何だから、ついでに見たけどこれってテレビシリーズのパイロット版か何か?でも何であんなシーン入れるのかな。あれじゃテレビで放送できないでしょ。あそこであんなシーン入れる必要ないと思うんですけど。まあどうでもいいんですけど。さて話を戻して、画面にスペイダーがうつる度に「うわっ、何てきれいな人なんだろう!」ってのが私の反応。最近作の「アライバル ファイナル・コンタクト」でもその美しさは変わらない。これも危うく別のを借りるところだったのよ。「アライバル」「アライバル2」いろいろあるんだもん。でも確かチャーリー・シーンは出ていないはずだよなーって借りるのを思いとどまって、結果的にはそれで正解だったのよん。

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この作品はレンタルビデオ店にはなかったので直接DVDを買ってしまった。こっちはちゃんとカバーにスペイダーがうつっているから間違いなしってね。若い頃はきれいだけれど、あっと言う間に老けてしまう人の多い中で、彼は美しさが長持ちしているなあ・・って思う。背が低くてちょっとネコ背に見えるけど「スーパーノヴァ」を見ると筋肉モリモリだし。でもそれを見せびらかすようなところがあんまりないのが好もしい。映画を見ていて明らかにここは見せびらかしているな・・とか、ここは監督がサービスのために入れてるな・・とわかるシーンがあるけど、そういうのは好きじゃないのよ。本当は筋肉モリモリだけど、たくさん着ていて(クリスマスの頃だからね)ちょっと太っているように見える・・てのが奥ゆかしくていいわあ。マリサ・トメイはシワだらけで、どうしてもっときれいにとってあげないの?と気の毒になった。前にも書いたけど精神分析医には見えない。自分でも「数少ない患者」なんて言っていて、確かにさほど有能ってわけでもないんだろうな。グリフィンにはなめられてムッとしているし。それにしてはりっぱなビルで開業しているけど。まああんまり頼りにならないように見えるところがいいのかも。彼女が有能な精神分析医で、キャンベルを引っ張っていくような猛女だったら、グリフィンをぎゃふんと言わせるような世慣れた熟女だったら、この映画の持つ「人生に疲れましたムード」がだいなしになる。そう、このお疲れムードがいいのよ。せっかく来てくれたのにグリフィンに殴られてあえなく昏倒するキャンベル。ポリーはテープで口をふさがれているから声は出せないけれど、心の中では「あちゃー」と言ったはずよ。もちろん私も「ダメだ、こりゃ」・・そんな情けないヤツが主人公なのよ。美しいはずのキアヌは妙な踊り始めるし、見ている者は「何じゃ、これ」と理解に苦しむ。クライマックスのはずなのに思いっきりムードが盛り下がったぞ。ところで私があのシーンを見て連想したのは・・肩まで伸びた黒髪、黒っぽい服装、大都会の夜、たくさんのローソク・・これで両手を肩の高さまで上げてごらんなさいな。たいていの人は思いますがな。「ラジオ体操第一、ヨーイ」・・って違う、違う。「あっ、エリックだ!」って。しかもアーニー・ハドソンも出演しているし。監督さん、絶対意識してますぜ(考えすぎ)。

ザ・ウォッチャー12

確かにあの踊りは興ざめだけれど、エリックぽいのに免じて許してつかわす。でもそんな情け深い私もラストだけは許してあげない。焼けただれたグリフィンの顔を見せて終わり。あのねえ、もっとムードを大切にして欲しいわけよ。虫の息のグリフィンがキャンベルに一言言い残す・・名前を呼ぶとか愛してると言うとかさ。死を前にすれば何だって言えるでしょうが。あるいは絶対ありえないことだけど、湖に飛び込んだはずの彼がどこにも見当たらないとかさ。犠牲者が出たのは現実の出来事だけれど、元々幽霊みたいな存在のグリフィンでしょ。キャンベルの精神的片割れみたいな。だからそういう不条理な結末を提示されたとしても、こっちにはそれを受け入れる余地があるわけよ。それをグリフィンは完全に死にました。これこの通り、したがってもう悪さはしません・・って変にリアリズムに走っちゃって、ムードも余韻もありゃしないじゃないのよ。何か心に引っかかるものを一つくらいは残しておかなきゃ。それともラストで聞こえてくるキャンベルの言葉はやっぱり事件解決後の彼が言っていて、グリフィンは肉体は滅びたけれど、精神的なものはあの(死体を引っくり返した)瞬間キャンベルに乗り移っていて、彼の心のどこかに生き長らえているのだ・・とか。これじゃホラー映画だな、「グリフィンは生きていた!」・・別にふざけてこんなことを書いているわけじゃなくて、事件解決後も明るい未来は想像できないってこと。キャンベルが完全に立ち直ってバリバリ仕事をこなしていくとは思えないし、ポリーちゃんと結ばれてめでたしめでたし・・とも思えない。相変わらず夜は眠れず、週二回の治療に通い、ちょっと突っ込まれると「時間だ・・」と現実から逃げる。グリフィンは確かに彼の心に生きている・・。はーそれにしてもレンタルビデオを借りて、はまってDVDを買いあさるといういつものパターンだわ。本もそうで、図書館である本を見つけると、借りて読むだけでなくいつも手元に置いておきたくなる。で、新規購入することになるわけ。なるべく図書館やレンタルビデオ店に行かないようにしているのはそのためなのよん。でも「スーパーノヴァ」も買っちゃったし、物欲のかたまりです、私。さてずいぶん長くなっちゃったけど「ザ・ウォッチャー」、100人のうち99人が愚作、駄作、バカ、アホ、デブ・・などとけなそうが、私は好きです、はい。