しゃべれども しゃべれども

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最近日本映画も見るようになってきたぞ。まあ洋画にくらべりゃ本数はずっと少ないけど。見に行く気になったのは主演の国分太一氏が気になったから。TOKIOのメンバーと言われても、私そういうのよくわからないんですけど。「サンダーバード」の吹き替えやってました?ああ、あれはV6ですか。くそッ全然区別つかん。何で気になったかと言うと国分氏、トニー・ジャーにちょっと似てるんですよ。えッ、どこが?って思うかもしれないけど、「マッハ!」のDVDの特典で若い頃のジャー君見ることができるんですの。「マッハ!」が作られるずっとずっと前からジャー君はあの凄まじいアクションシーンくり返しくり返し練習していたんですの。その積み重ねがあのシーンになっているのか・・とカゲの努力にボーゼンとしちゃったんだけど、若い頃のジャー君はまだ体も細くて髪も長くてかわいいんですの。かわいいのに顔をきりっと引き締めるから余計胸キュン。そこが国分氏に似ているんですの。それで映画見る気になったんですの・・ってどういうつながりじゃ!最初ダンナを誘ったんですけどすげなく断られましたの。落語のテープ持ってるくらいだから興味あると思ったんだけどなあ。一年に一回くらいは二人で映画見たいんですけどねえ・・まあいいや。平日午前のシネコン、お客は20人足らずってとこですかね。思ったよりは多かった。実は一ヶ月半くらいたってからまた行ったんですよ。シネコンでは終了していたからわざわざシネパトスまで行って。その時は13人くらい。二回見たかったけど用事があったので一回でがまん。原作も読んだ。それくらいこの映画には心を引きつけられたんですよ。「憑神」とはえらい違い。ストーリーは・・伸び悩んでいる二つ目の三つ葉(国分氏)が、ひょんなことから落語を使った話し方教室をやるはめになり・・というもの。集まってきたのはまわりとうまくコミュニケーションが取れない三人。美人だが恐ろしく無愛想な五月(香里奈嬢)、大阪弁をクラスでバカにされてる勝(森永悠希君)、解説がうまくできない元野球選手湯河原(松重豊氏)。三つ葉自身行き詰まっていて、いろいろ悩みやあせりがある。古典一筋で行こうと決めているが新作の方がお客には受ける。原作ではもう一人三つ葉のいとこ、良が出てくるが省略されている。他にもいろいろ省略されていて、映画はかなりすっきりしている。

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すっきりしすぎて描写不足という感じもする。具体的に三つ葉が何かをコーチするというのがほとんどない。いつの間にか五月と勝は発表会をすることになってる。どう教え、どう覚えたのか。湯河原に至っては何をしてるのか全くわからない。ただ来てるだけ。三つ葉にしても二つ目ってあんなにヒマなのか・・って思ってしまう。こういう連中がいて、こうしたいと思っていて、最後には十分には程遠いけどある程度の答は出す。ここらへんはわりとすっきり筋が通っているので不満はない。でも何かを克服するという、何かを覚えるという火の出るような努力・・教える側も習う側も真剣勝負・・なんてのは全然ないので、ある意味期待はずれでもあった。まあ三つ葉はそれなりにせっせと勉強し、練習し、それは見ていても気持ちがよかったけどね。勝はまわりが心配するほどいじめられているという自覚はない。時間がたてばクラスに溶け込むのでは?いじめっ子宮田は、勝の落語を聞きにきたものの途中で帰ってしまう。「聞きにきてくれてありがとう」という勝の言葉はとてもすばらしい。本人が心から言っているだけになおさら。演じている森永君は大らかでのびのびしていてとてもいい。色が白くてぽちゃっとしていてつきたてのおモチみたい。セリフもうまい。ただ落語は・・小学生にしては達者だけど・・どの批評でも絶賛されているけど・・私はどうもねえ。早口でばーっとしゃべってるだけで、そりゃ今の漫才とかコントとか何しゃべってるか全然わからなくてもお客笑ってるけど・・私はそういうの嫌いなの。プロならしゃべる以上は相手にわかるようしゃべるのがスジってもんでしょ。勝はプロじゃないけど・・あれは・・あの落語は・・早口言葉、丸暗記できるばつぐんの記憶力、度胸のよさ・・それだけ。次の五月も・・記憶力のよさ。何でこんなこと書くかっていうと、コミュニケーションがうまく取れないっていう問題がある一方で、記憶力のよさっていう能力があって、それで何となく解決されたような気にさせられている。記憶力をうまく表に出せない湯河原は置いてけぼり。彼だって野球に関しては記憶力ばつぐんのはず。でも落語の暗記には結びつかない。五月が「火焔太鼓」の途中で羽織を脱ぐシーンもスローモーションになんかしちゃって、いやだったな。同じしぐさでも女性にやらせる時は違う意味漂わせる。

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小三文がやると「さあこれから中盤、くつろいで聞いてくださいよ、こっちもそのつもりでじっくり腰を据えて話しますからね」みたいな気にさせられちゃうんだけど。五月の場合はね「私女です。しかも美女。意識してやってるつもりはないけど三つ葉さんの目は私に釘づけ。三つ葉さんをくらくらさせる気なんて全然ないけど、目の前にいるの小学生のガキだし私の魅力なんてわかるわけないの。てなわけでやっぱり三つ葉さんの目意識しているのかもねウフ」なんてぐちゃぐちゃ計算しているように見えるんですよ。これって私だけ?いつもふてくされていて何かあるとすぐ「そっちはどうなのよ」なんてつんけんした物言いするし、普通なら何この女、性格悪~となるところ。でも今回はならなかった。自分ではこうしたいと思っているのになかなかできないもどかしさ、苦しさ、悲しさ。ニコッと笑って愛想よくできないのに、とげとげしい言葉浴びせるのはできちゃう。でも私が言いたいのはこんな言葉じゃないのに・・。ラスト、三つ葉が五月に「うちにこないか、ばあさんがいるけどな」と言って、これはまるでプロポーズのようだが、プロポーズなんでしょうなあ。映画だと涼しげな水上ボートの上での出来事だが、原作では三月の夜・・まだ寒い。はっきりプロポーズではなく、寒いから家に行くことにしただけだ。とは言えハッピーエンドはいいものだ。出会ってからここまで来る間のあれこれはわりとさらっとしている。三つ葉は祖母のところへお茶を習いにくる郁子に片思いしている。郁子は勝の叔母でもある。でも思いを口にする前に失恋する。郁子は結婚するらしい。一方なぜか教室に通ってくる五月。一緒にほおずき市へ行ったりしてちょっといいムードになっても、またすぐ険悪ムード。そば屋で何も言わずぽろぽろ涙をこぼす五月にはこっちもじーんとさせられた。あの涙の一粒一粒が言葉なんですよ、叫びなんですよ、はあ~(ため息)。ラスト、ボートの上で彼女はほとんど初めて白い歯を見せる。美人だけどいつもぶすっとしていた五月。ほんのちょっとの笑顔で印象はぐっと変わる。笑顔ってやっぱり大事だなあ。一方しゃべることはできてもなかなかお客の心をつかむことができなかった三つ葉。それまでは聞いてもらいたくてしゃべっていた。こっちが一生懸命しゃべっているのだからお客は聞いてくれるはず、聞いてくれるのがスジだ。

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途中で出て行ってしまうのはなぜなのか気になる。最後まで聞くのが礼儀じゃないのか?まあ根が真面目だからあれこれ考える。熱心さ一途さでは誰にも負けない。日常生活を着物で通し、古典一本で行くと頑固に決めている。師匠はめったにほめてくれない。そんなんでどうするんだと言われてもどうにもできないでいる三つ葉。でも三人の生徒とかかわったことで彼にも変化が出てくる。お酒が絡んでの変化は酔拳みたいで安易な感じも受けるが、まあいいか。お客の方で思わず聞きたくなってしまうような落語、こっちから「お願い、聞いてくれ」って追っかけるのではなく、向こうから「聞かせてくれ~」と寄ってくるような落語。そういうのが理想の話し方なんだろうな。一門会での「火焔太鼓」で初めてお客の心をつかんだような気がした三つ葉。師匠もびっくりしていたし。でもこれで終わりじゃない。一人前になれたわけでもない。こんな状況でお嫁さんもらえるの?お給料だって・・。だからラストのプロポーズは早すぎるような蛇足のような。実はお互い何となく好意持ってましたの。今それがわかりましたの状態。それが一足飛びにうちへこないか→嫁にこないか→お金ないしばあさんつきだしまだ半人前で将来苦労するってわかってるけど、美人でスタイルよくてこれで性格変わればいくらでもいい結婚相手見つかるはずだけど、でもオレを選べ!・・これが洋画ならどうなると思います?皆さん。川を走る船の上、夕日、二人きり、プロポーズ、目と目をじっと見つめ合い、しっかり抱き合ってキスをして・・となりますわな。それがお約束。ヘタすりゃ邦画だってやりますぜ、洋画のマネしてキスシーン。時代劇だってやりますぜ、「憑神」みたいにぎこちないのを・・。でも!この映画は違うんです。そりゃ五月はいきなり三つ葉に抱きつくんだけど、二人にはそれでも遠慮があってぎこちない。抱きつくにしても五月のはネコが飛びかかるみたいだし。ネコ飼ってる人わかると思うけどいきなりくるからね。今行くからね~がない。ネコは助走つけないし・・って何のこっちゃ。でもって「ばあさんがいるけどな」「うん」とか言って、あとは二人並んで・・いいですか、「並んで」です。「向き合って」じゃなくてね。並んで(しつこい)景色見てるんですよ。そこがよかった。

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相手の目には自分しかうつっているのでなきゃだめ!いつも目を覗き込んでなきゃ相手はたちまち目移りして他の人のところへ逃げちゃう!なんて思ってる連中のマネをする必要はないんです。そりゃそういうことやってる連中は日本にもいるけどさ。たいていはみっともない。小三文とそのおかみさんとの間は、別に言葉もないし視線もぶつからない。でもそれぞれのことやってても通い合うものがある。三つ葉の「火焔太鼓」を聞いて顔を上げる小三文とおかみさん。タイミングと言い顔つきと言い、心の中で思っていることは全く同じ。それが見ていてわかる。まあ何が言いたいかっていうと、お互いに見つめ合うのではなく、別のものを見ていても(この場合景色)、三つ葉と五月は心が通い合っているのだと・・。そういう「はずし」が日本にはある、日本の夫婦にはあると・・まあ、そう言いたいわけ。小三文を演じているのは伊東四朗氏、ばあさんが八千草薫さん。映画を見ながら「来年の日本アカデミー賞は、この二人が助演賞とって、国分氏が主演男優賞に決まり!」・・なんて思っていましたぜ。それくらいすばらしいんだもん。伊東氏は表情、しゃべり方、声、しぐさ・・のらりくらりとしていて・・弟子に稽古つけるの嫌いで・・それはめんどくさがりだからなんだけど。夏なのに火鉢置いてあったな。まさかあたるんじゃないだろうけど。「火焔太鼓」には聞きほれてしまった。あのスピード、あの間、人物の描き分け・・ホントの落語家にしか見えん。国分氏のもよかった。歯切れがよく、勢いがある。やっぱり聞きほれた。全部聞きたかった。あれだけで終わらせちゃうのもったいない。感想の最初の方で、ダンナが落語のテープ持ってるって書いたけど、「火焔太鼓」もあったので早速聞いてみた。古今亭志ん生のやつ。タンスのくだりでは6年売れ残ってることになってたな。小三文は8年だし、それを三つ葉は16年にふくらませていた。古典と言えども演者によってところどころいじくられるんだなあ、落語も生き物なんだなあ・・と、そんな気がした。八千草さんはとにかく生活を楽しんでいる、かわいくてしっかり者のいきいきおばあちゃんを演じていた。口に出して誰かに聞かせる自慢ではなく、誰もいないところで落語ちょっとしゃべって、「私の方がうまいね」とほくそえむような・・。みんなといても楽しいけど、一人でいても楽しい・・みたいな。

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やることいっぱいあって、梅干作ったり、家のまわり掃いたり、氷だってちゃんと昔ながらの道具でかいてシロップかけて出す。コンビニで買ったりしない!発表会当日いつまでたっても姿を見せない五月を案じてウロウロする三つ葉と湯河原。同じ案ずるにしてもおばあさんは家のまわりせっせと掃く。ただウロウロ歩き回って待ったりしない。こういうおばあさんいいなあ。師匠のおかみさんもいい。黙ってくるくる働いている。踊りの師匠もよかった。メガネかけた普通のおばさんだけど、その目線がねえ。手足の動きのムダのなさ、しなやかさ、体の芯の通り方もそうだけど、私はやっぱり目に視線が行っちゃうな。見ているようでいて見つめない、見ていないようでいて全部をちゃんと見ている。そういうのって難しいんですよ。そばで踊っている三つ葉と兄弟子は集中していない。体に芯が通っていないのが見てわかる。どうってことないシーンだけど、私にはけっこう興味深かったな。おっとりしていていかにも育ちのよさそうな郁子(占部房子さん)もよかった。彼女は料理が苦手。変な味がするけど、彼女の作った弁当だから・・とせっせと食べて具合が悪くなった三つ葉。笑えるし物悲しいし共感できるし・・。具合が悪いのにガマンして師匠の高座勉強のために聞いてるシーンもよかった。三つ葉はすぐカッとなる性格ってことになってるけど、演じているのが国分氏だからそうは見えなかったな。さっぱりした髪型とくっきりした顔立ち。体つきも中肉中背でほどよい。着物が合ってる。見ていてとっても気持ちがいい。大都会東京が舞台だけど、うつるのは下町。のんびりした都電、涼しげな水上ボート(私には水上ボートと言うより水上バスっていう印象)、にぎやかなほおずき市、浅草、寄席、かき氷、ヤキトリ、コップ酒、テレビのナイター中継、そば、梅干、浴衣・・なんかホッとするなあ。彼らは落語をどう習得したのかとか、苦手なものを克服できたのかとかはあいまいなままだったけど・・解決しきれてないけど・・でも、それはそれでいいんじゃないの?今すぐ答を出さなくたって・・そんな感じの映画だった。とにかくいい気持ちになれる映画。日本人でよかった。えッ、もうすぐDVD出るんですか?伊東氏と国分氏の「火焔太鼓」入ってるんですか?きゃッ楽しみ!森永君の「まんじゅうこわい」も?いや、そっちは別にいいです。