白い家の少女

白い家の少女

「タクシードライバー」は映画館で見たが、こちらの方はなぜか見ていない。見たかったのだが・・。原作はすぐ買って何度か読んだ。その後テレビで何度かやったので、見たことは見たんだけどなぜか印象に残らず・・。少し前中古DVDを見つけたので買った。ぼやけたままの印象を、今度こそはっきりさせたくて。改めて見てみると、わりと原作に忠実に作ってあるなという感じ。見ても印象うすかったのは、描写が全編たんたんとしているからだろう。舞台は少女リンの住む家が中心で、登場人物も少ない。リン役ジョディ・フォスターは「タクシードライバー」でえらく騒がれたが、私から見ると「何で?」って感じ。役柄が特異だから?「白い家の少女」では全くの主役、出ずっぱり。13歳という設定なので化粧はしてないし、寝起きみたいなはれぼったい顔していることも多い。小柄だが顔が小さいので遠くからだと20代の女性に見える。細いがバランスの取れた体つきが美しい。ところが歩くとのっしのっしという感じで動作に色気がない。少年ぽい。男と女、未熟と成熟が入りまじり、まだ未分化の状態。そんなリンは海の近くに一人で住んでいる。父親は詩人だったが不治の病にかかり、イギリスからアメリカへ渡り、この家を借りた。リンには「生き抜くんだ」と言ったが、自分自身は浜へ下りていき、そのまま戻らなかった。父親は俗世とまじわってリンのユニークな個性が死んでしまうのを望まなかったし、リン自身もそう考えていた。だから学校へも行かない。一人で暮らしていてもさびしくない。お金は銀行に預けてあるし、家賃は三年分前払いしてある。三年たてば16歳、大人として行動できる。友達はハムスターのゴードン。音楽を聞き、ヘブライ語を勉強し、エミリー・ディキンソンの詩を読む。静かで充実した日々。私がこの映画(と言うか原作)に引かれたのは、少女が一人で暮らしているという点。孤島に流れ着いたから仕方なく・・とかでなく、自分から一人でいることを強く望んでいるということ。私も一人でいるのが好き。・・で、そんなリンの生活はしかしいろんなものに邪魔される。そういうことがないように・・と父娘は念入りに打ち合わせしたけれど、それは十分ではなかった。彼らはもっと人里離れた場所を選ぶべきだったのかもしれない。ここは人の目が多すぎる。

白い家の少女2

障害の筆頭は家主のハレット夫人だ。ずうずうしい、いけしゃあしゃあとウソをつく、詮索好き、自分のやり方を押しつける。借家住まいをしたことのある人ならハレット夫人の行動を見て、私にも覚えがある!とハッとすることだろう。家主さん共通の心理に「これは私の家だから何をやっても許される」というのがある。こっちが家賃払ってることは関係なし。私の経験から言うと、例えば合鍵使ってかってに入り込んだのを抗議しても無駄。向こうは絶対あやまらない。だってこれは「私の家」だもの!ハレット夫人はかってにブドウを取る。リンゴもかってに取る。だって「私の家」の庭になっているんだもの。ハレット夫人はリンの態度が気にくわない。子供はもっと子供らしくあるべきよ。この場合の子供とは彼女の考える子供らしく。つまり彼女の言うことを素直に聞く。口答えしない。こっちが強く出たら子供はおびえ、許しを乞うべき。リンのように冷静で、思い通りにならないような子は許しておけない。弱点をつかんでぎゃふんと言わせたい。彼女はその弱点を見つける。リンは学校へ行っていない。このことを委員会で取り上げてもらいますからね。詮索好きは彼女に限ったことではないが、あそこのうちはどうもおかしい・・と彼女は怪しむ。父親の姿を全然見かけない。留守だの寝てるだの仕事中だのって・・あんなのウソに決まってる。彼女はウソを許せない。それでいて委員会のことで自分がリンにウソをつくのは何とも思っちゃいない。普通家賃を三年分も前払いされたら、たいていのことには目をつぶる。へたにつついて解約するから返金しろなんて言われたら困る。もっともハレット夫人なら絶対返金しないだろうが。まあとにかくハレット夫人がずかずか乗り込んできて、家具をかってに動かすシーンには呆れた。これはここになきゃいけないのよという執念、押しつけ・・。だってここは「私の家」なのだから!!私にとって気持のいい配置でなきゃいけないの!!ウーム・・うまくできてる。ハレット夫人役アレクシス・スミスの憎たらしいほどの名演技。こんなことされるのもみんな、リンがまだ子供だからだ。彼女が大人なら・・男性なら・・ハレット夫人の対応も少しは違っていただろう。ハレット夫人にとっては子供は容易にコントロールできるもの。

白い家の少女3

そしてリンにとっては、自分がまだ子供だということを痛感させられるのは一番いやなこと。早く大人になりたい!ハレット夫人の息子フランクがまた困った存在。彼は少女が好きという変質者。警察から目をつけられている。ハレット夫人は世間体をつくろうため、フランクを子連れの女性と結婚させる。フランクがなぜこんな人間になってしまったのかは容易に想像がつく。ハレット夫人は息子をコントロールし、息子はそれから逃れるため、母親とは逆の存在・・自分がコントロールできる少女へと興味が向かったのだ。もっともそのことで子育てを間違ったなんてハレット夫人は死んでも認めないだろうけど。今またフランクはリンに目をつけ、つきまとい始める。さて映画と原作とで一番違っているのはハレット夫人の死に方である。原作ではリンの制止も聞かず地下室に下りていった夫人を、そのまま閉じ込めてしまう。なぜなら地下室には「先客」がいるから。父親がいなくなった後、この家のことをどこで嗅ぎつけたのかリンの母親が乗り込んでくる。幼い頃虐待され、父親が追い出してからは何年も会っていない母親になんか、憎しみ以外の何も感じない。この家で好きかってにふるまわれてたまるものか。リンは青酸カリ入りの紅茶で毒殺し、死体を地下室に隠す。その存在を知ったハレット夫人も生かしてはおけない。閉じ込めただけでは当分死なないから、ガスを送り込むことにする。つまり明確な殺意がある。映画は違う。死体を発見して仰天したハレット夫人はあわてて地下から上がってこようとする。はねぶたがはずみではずれ、ハレット夫人の頭を直撃する。そのまま地下へ落下し、死んでしまう。つまり全くの事故死である。リンが殺すと印象が悪くなり、観客の同情・共感を呼ばないので、内容を変更したのだろうか。「レベッカ」と同じじゃん・・と思いながら見ていた。ハレット夫人が突然姿を消したって、リンにはうまく言い逃れるくらいの頭はある。誰が13歳の少女を疑う?フランクの方がよっぽど疑われるだろう。でも困ったことに夫人の車が家の前にある。何とか移動させないと・・。しかしさすがのリンも運転は知らない!困っている時知り合いになったのが、リンより少し年上のマリオという少年。

白い家の少女4

小児マヒのせいで足が少し不自由だけど、マジックが得意な明るい少年。彼はリンを風変わりな女の子だと思う。リンのでっちあげた言い訳は信じなかったけど(ハレット夫人がどういう女性か知ってるから)、うまく車を別の場所に移動してくれた。マリオとの出会いはリンを変えた。今までは自分一人で何でもできると思っていた。でも本当に困った時、自分には助けてくれる人が誰もいないのだと気づく。彼女は父親がいなくなった時もさして動じなかった。でも今は孤独を感じている。だからそこに現われたマリオに深い愛着を感じてしまったとしても無理はない。そうなると今度は、マリオを失いたくないと思い始める。とは言え、表向きはさりげないふうを装う。いかにも物事に手慣れたという感じに大人っぽく。どうすればマリオが彼女にころりと参るか計算している。マリオはリンの秘密を知る。二つの死体を家のそばに埋める。雨が降り出し、びしょぬれになったマリオは風邪を引く。他にもいろんな危機はある。警官のミグリオリティはマリオの叔父で、親切な男。リンを心配して度々訪れる。フランクがまたよからぬことを企んでいるようだ。リンは父親がいるふうを装っているが、あれはウソに決まってる。何でウソをつくんだろう。フランクもやってくる。母親の失踪はかえって都合がいいくらいだ。リンは何か知ってるに違いない。弱みを握ってやれ。フランクはゴードンを殺してしまう。マリオも脅すが、逆ギレされるとこそこそ逃げ出す。ねちねちしていて態度がでかいが、それでいて臆病。そんな憎たらしくもあわれなフランクを演じているのはマーティン・シーン。マリオ役はスコット・ジャコビー。前見た時は全く印象に残らなかったが、改めて見るとマシュー・モディンそっくりなのに驚く。そう感じたのは私だけじゃないらしい。ネットで調べたらモディンの名前あげてる人がちゃんといた。モディンよりは顔も体も細く、あごがとがっている。でもホントそっくり。なかなか魅力的な少年だが、ジョディと違って俳優業は・・やめたのかな?さて、静かでたんたんとした感じでずっと来るが、映画は一ヶ所だけムードが変わる。ミグリオリティはリンの父親に会って驚くが、これは実はマリオの変装。

白い家の少女5

前にも書いたがマリオは雨にぬれたため具合が悪くなる。彼への感謝からリンはマリオと一緒に寝る。その後のことは映画を見ていてもはっきりしないが、マリオはいったん家に帰る。うまくいかなかったからだが(何が?)、そこらへんの気まずさは映画からは感じ取れない。マリオが戻ったのはミグリオリティがリンを訪ねてくるのを知らせるため。今日こそ叔父はリンの父親にじかに会うまで納得しないだろう。つまりマリオはリンのためなら何でもする気なのだ。彼女を愛しているのだ。ミグリオリティが来た時二人は・・。彼をうまくだまして帰すことができたので、二人は大喜び。中断されたけど続きを・・となる。そこで服を脱ぎ捨てるリンがうつるが、後ろ姿なので顔は見えない。ムードが変わる・・と書いたのは、どう見てもその後ろ姿がリンには見えないからだ。体つきから見て明らかにもっと年上の女性。どうもこのヌードシーンは(「タクシードライバー」同様)、ジョディの姉が代わりを務めているらしい。ここでリンのヌードを見せる必要なんか全くないのに、何でわざわざ入れたのかしら。しかもビキニの水着のあとみたいなのがお尻にくっきり残っていて、リンらしくない。映画のムードが一瞬だが安っぽくなる。こんなシーンは入れるべきではなかった。ラストシーンもよくない。エンドクレジットの間ずーっとリンの顔のアップ。数分間のアップに耐えられます、さすがジョディ!とでも言いたいんですかね。むしろ動かなくなったフランクの手と紅茶茶碗見せた方がずっと効果的なんじゃないの?そして一番最後に手が(リンに引きずられたことによって)動く。そうすりゃお客さんみんな飛び上がって、中には心臓マヒ起こすのもいて・・なんてことになるかもよ。映画を見た人が考えるのは、この先リンはどうするのか・・ということだろう。リンを助けてくれたマリオは肺炎を起こして入院中。フランクの死体はとりあえず地下室に隠しておけばいいが、いくらマリオでもそう何度も死体の始末を手伝ってくれるとは思えない。エンドクレジットでうつるリンは、そんなことを思いめぐらしているのか。・・この映画は、あの!天才少女子役ジョディ・フォスターが冷血な殺人を犯すサイコサスペンス・・ということになってるが、私はそうは思わない。

白い家の少女6

少なくとも原作のテーマは、少女が連続殺人!ということではない。子どもと言ってもみんな同じわけではなく、文字通り子供らしい子もいれば大人顔負けの思慮深い子もいる。たいていの子供は(子供に限ったことではないが)他と同じなのを好む。群れていたい、つながっていたい、一人だけ目立ちたくない。いじめられたくないから。でも中には人と同じなのはまっぴらごめんと心底思っているのもいるはずで。リンはそういう子だ。元々そうなのかもしれないし、父親がそう教え込んだのかもしれないが。とにかくリンはユニークな存在。でもそういう状態であり続けることは難しい。「子供って窮屈だね」とマリオは言う。ノーテンキに見える彼だが、ある面ではリンよりよっぽど大人である。大家族の中で暮らしているし、肉体的なハンディはあるし、イタリア系移民だし。・・つまり大勢の中でうまく立ち回らなければならないし、足のことをくよくよせずジョークにして笑い飛ばすくらい楽天的でなければならない。ハレット家のような地元の金持ちともうまくやっていかなければならない。何年たってもイタ公などとさげすまれるだろうが、気にしていたら切りがない。ちょっと考えてみりゃこの国では先住民以外は誰だって移民の末裔なのだが、ハレット夫人も息子もそうは思うまい。リンとマリオは仲良くなり、心が通じ、肉体的にも結ばれた(たぶん)。リンはマリオの住む世界が気に入ったわけじゃないけど(例えばマリオの家族になんて全く興味は持てない)、二人は一緒にいてとても幸せだった。この幸せを失うのは辛い。ひとりぼっちでいた時には孤独は共存できるものだったけど、マリオがいなくて感じる孤独は耐えがたいものだ。人間である以上、人間の中で暮らしている以上、他と全くかかわりを持たずにいることは不可能なのだ。人を思う気持ちなしでいることは不可能なのだ。今までは自分の邪魔をするものは排除してきたが、これからは・・。てなわけで、少女が連続殺人!なんていうのではなく、異端者の悲しみというか、そういうものを強く感じさせる原作・映画でしたな。それにしてもリンの父親って罪な人だと思う。しっかりした後見人見つけてあげればよかったのに。友人も誰もいない、他人を信じられない人だったのか・・などと思ってみたり。