シモーヌ

シモーヌ

もう公開が終了して見逃してしまったとあきらめていたんだけれど、一館だけやっていたので見に行った。一回目は五、六人、二回目は七、八人かな。私以外は全部男性。二回目は隣りからいびきが聞こえてきた。主役はアル・パチーノだけど、延々と長ゼリフを聞かされたら困るな・・と思っていた。「ディアボロス」はひどかったもの。いや、演技が・・ではなくて構成がね。まあこの映画では演説も短めで・・(ホッ)。この映画が成功するかどうかは「シモーヌ」にかかっていると思う。お客が私以外は全部男性だったことでもわかるけど、お客の関心は彼女にあると思う。彼女って美人?男性から見て魅力的?私は正直に言うと彼女からはアフリカあたりのお土産によくある木彫りの人形を連想した。大きくて分厚い唇のせいかな。レーチェル・ロバーツはスーパーモデルだそうだから、お化粧にしろスタイルにしろ都会的で洗練されている。でも受ける印象は大地の香り、土着民の生命力なのよ。ヴィクターが「パーフェクト!」と言う度に「そうかぁ?」と思ってしまう私。ヴィクターの名前もなあ・・タランスキーなんて。タランティーノとタルコフスキー?私はてっきりタランティーノとポランスキーだと・・。それとヴィクターが元妻のエレインに「とてもきれいな人だと(シモーヌが言っていた)」と言うところもなあ。ヴィクターは別れたとはいえまだ彼女が好きなので、シモーヌの言葉を装ってそう言うのはおかしくはないけれど、映画の観客として見ていると「そうかぁ?」と思ってしまうのだ。キャサリン・キーナーは「リアル・ブロンド」でも精神科医から「とても美しい」とたたえられていて、この時も「?」という感じがした。そりゃ内面からにじみ出る美しさのことを言っているのはわかるけど、ストレスのかたまりみたいなカリカリした女性をそうやってほめたたえてもこちとら納得いかんぜよ。さていくらCGが発達したと言っても、画面に大うつしになれば生身の人間じゃないってことくらいわかる。だからヴィクターが試写会の後トイレの鏡に向かって「陪審員の皆さん・・」と弁解するシーンはおかしかった。ここは「ディアボロス」を思い出す。彼はシモーヌがCGであることを観客が見抜くと思ったのだ。でも見抜けなかった。口々にシモーヌを絶賛するが、ヴィクターが映画の感想を聞いても誰も答えない。

シモーヌ2

7時の12チャンネルの番組の冒頭で「サンダーバード」のCMをやったのでびっくりした。正確には保険会社のCMかな。あっという間なので何が何だかよくわからん!来週はビデオのスイッチを入れて待機するぞ!・・で「シモーヌ」の続き。お客はシモーヌを見ていて映画は見ていないのだ。だがこの時点ではヴィクターはそれについて深く考えなかった。ところで彼は主演女優のニコルが降板したことでクビになって債権者に追われていたのに、映画を作り直すまでの9ヶ月をどうやって暮らしていたのかね。この映画は表現したいことに十分時間を割く代わりに、普通なら表現することを思いっきり省略している。つまり前者は文句の多いスターに振り回される監督の恨みつらみであり、後者は普通の人間を使っての映画の撮影シーンである。出てくるのはシモーヌを合成する作業だけであり、通常の撮影シーンは出てこない。CGの俳優は文句も言わないし、監督の指示通り動くだろうが、実際問題としてファンはつくのだろうか。日本でもヴァーチャルアイドルとかって一時話題になったけれど、今はどうなの?それにしてもアルコール、タバコ、ストレス・・体にいいことなんて何にもしていないのに、向こうの人はタフだなあといつも思う。エレインの住んでいる豪邸にもびっくりだ。モーレツに働くからあんなすごい家に住めるのだろう。ヴィクターと結婚していた時にはきっといさかいが絶えなかっただろう。離婚したのは疲れ果てたからだし、ケントと一緒になったのは安らぎが欲しかったからだ。若くてハンサムだし、大人しくてやさしくて包容力がある。しかしいつの間にかエレインはシモーヌに嫉妬し、ヴィクターのことを心配し始める。するとケントは「君の心はもう僕に向いていない」と別れ話を切り出すのだ。ひゃーそんなに簡単に別れられるものなの?24時間心が向いていないと夫婦とは言えないの?娘のレイニーはたいていの離婚家庭の子供がそうであるように、両親の復縁を望んでいる。でも「バイバイ・ラブ」のエマみたいに反抗的になったり泣きついたりはしない。少し離れたところから冷静に注意深く様子を見ている。ケントに対しても礼儀正しくふるまう。エレインとの仲が怪しくなるのを忍耐強く待ち、ケントがついに別れ話を持ち出すと、物かげで聞いていて満足そうに微笑む。結局両親のことを一番よく知っているのは娘のレイニーなのだ。

シモーヌ3

父親と母親がお互いに未練たっぷりなのは彼女にはよくわかっている。いつもパソコンに向かっていて友達がいるようにも、学校に行っているようにも見えないレイニーだが、ここも描写を省略したのだろう。「学校の成績は・・」とか一言セリフを加えればすむことなのにそういうのはなし。私には映画には登場しないけれど彼女に知恵をつけてくれる年上の(人生経験豊かな)異性のメル友がいるように思えてならない。シモーヌ殺しの犯人にされそうになったヴィクターを救うのもレイニー。しかしウイルスってあんなにあっさり除去できるものなの?それと最後にシモーヌが女優をやめて政治家になると宣言したり、ヴィクターとの間に赤ん坊ができたように見せかけたのはどういう意味なの?ヴィクターとエレインがよりを戻して一緒に暮らしているのに、まわりに何でそう思わせるの?ただ赤ん坊の名前がチップというのは笑えるけど。それとヴィクターが取調べでだんだん神経がまいって自分が犯人だと叫ぶところも笑えた。「真実を言えば楽になるぞ」と刑事に言われて、「真実を言ってるが、ちっとも楽にならない」と言うところは心にぐさっとくるけど。エンドロールが始まるとたいていのお客さんは出ていってしまうけど、この映画にはおまけのシーンがあるのよね。そう大したシーンじゃないんだけれどやっぱりどんな映画も最後まで見た方がいいよ・・って気に改めてなったりして・・。脇役ではシモーヌの正体をあばこうとする記者のマックスとミルトンのコンビがよかった。特にミルトンはシモーヌが死んだと聞いて気絶したり、泣き伏したりして、マニア度から言えばマックスの方がそういうことをしそうなのに・・とそこがまた笑えた。それにしても結局はタランスキーの映画はほとんど誰にも理解されず、評価もされなかったということよね。この先シモーヌ抜きで映画を作ればまた前みたいにこけるだろうし、そうなりゃ製作者のエレインとはまたいさかいのくり返しだろうな。とても楽しい映画で、コンサートのシーンなんかはやっぱり映画館で見ると迫力があるし・・見てよかったなあと思った。まあ見終わって心に残る深いものはないんだけれどね。「ゴッド」のカーター・バーウェルが音楽を担当している。何か冒頭から印象に残る音楽だな・・とは思っていたのだけどやっぱりね。聞いていると共通点があるのよ。