私家版

私家版

私がこの映画のことを知ったのはいつだったか。何かを調べていて偶然・・。本がたくさん出てくる映画は大好きだ。「ナインスゲート」とか。本に囲まれて暮らしたい。もっとも最近はめっきり読書量が減った。神奈川にいる頃はどこへ行くにも・・横浜でも東京でも実家に帰る時でもある程度の時間電車に乗るから本を読んだ。今は本を開くほど電車に乗っていない。どこへ行くにもふた駅しか乗らない。その代わりいやになるほど歩くけど。本屋は近くにないけど、今はアマゾンなどで手軽に入手できる。「私家版」も取りあえず原作だけでも確保しておこう・・と取り寄せる。でも手に入れてしまうと安心して読まない。数ヶ月してビデオを見つけ、早速レンタル。見たとたんすっかりほれ込んでしまった。すぐ原作も読む。東京へ行く用事があったのでついでに秋葉原めぐり。めでたくDVDをゲット。実は今回の連休も東京へ行ってきた。太極拳の行事があったためだが、もちろん秋葉へも。意外だったのは石丸電気など大型店が8時で閉まってしまうこと。もっと遅くまでやってると思ったのに・・。話を戻して原作は原作でおもしろいと思う。でも何と言っても映画はテレンス・スタンプを起用したことで大成功。原作以上にすばらしいと私は思っている。はまり役、魅力的。何と言うか・・「サイコ」の原作ではぱっとしないノーマンが、アンソニー・パーキンスによって魅力的になったのと同じ・・みたいな。「私家版」原作のエドワードのキャラは魅力的とは言いがたい。でもスタンプのエドワードは間違いなく魅力的なのだ!出版社社長のエドワードは、友人ニコラ(ダニエル・メスギッシュ)が持ち込んだ原稿を読んで驚く。つまらないアクション物ばかり書いているニコラが文芸作品を書いたことに驚いたのではない。内容に驚いたのだ。30年前、エドワードの恋人ファリダは自殺。原因がわからず彼は悩み苦しんだ。でもやっと真相がわかった。ニコラにレイプされたのだ。ファリダの死以来エドワードはペンを折り、誰も愛することなく孤独に生きてきた。この作品は傑作だ。きっとゴンクール賞をとるだろう。ニコラの将来はバラ色だ。ちょうどその頃エドワードは友人のジョン(フランク・フィンレイ)から頼まれ事をしていた。イエメン政府から預かったロレンス・・アラビアのロレンスの方・・の草稿をそうじ婦が誤ってシュレッダーにかけてしまったというのだ。

私家版2

このままでは外交問題になりかねない。幸いコピーは取ってあった。これを元に贋作の腕を発揮してくれまいか・・。もう年だから・・と一度は断ったエドワードだが、引き受けることにする。ジョンから印刷工房のカギを受け取り、頼まれた仕事をこなす一方、自分の計画も進める。ニコラの作品とほとんど同じ内容で小説を書き、別の作家の作品ということにする。印刷工房には1930年代の用紙、活字、インク、製本材料が揃っている。ニコラが戦前の作家の作品を盗作したことにしてやる。彼の作家生命を終わらせてやる。よくある復讐物で、内容に新鮮味はないが、本が復讐の手段というのは珍しい。原作と映画ではいろいろ違っており、中には?と思う部分もあるが、全体的には映画の方がすっきり、しかも充実している。原作にはジョンもアラビアのロレンスも出て来ない。でも私が映画を見始めてすぐムフフ・・となったのはこのロレンスの草稿がどうのこうのというやり取り。ここで私のハートをがっちりつかんだわけよ。D.H.ロレンスじゃなくてT.E.ロレンスだってとこがいいのよ、ぐふふ~。フィンレイは「スペースバンパイア」に出ていた人。ジョンとエドワードの関係はよくわからない。ジョンは政府関係・・もう引退したようだが影響力はある・・みたいな。過去エドワードにいろいろ頼んだのだろう。原作だとエドワードは戦時中この技術を身につけたのだとわかる。敵のスパイにニセの情報与えるのが仕事。でも映画でははっきりしない。とにかく二人は持ちつ持たれつ。何かあっても二人だけの秘密だ。途中でジョンはエドワードが何やらやっているのに気づくが、見て見ぬフリをする。この二人の会話もおかしい。気配だけでわかっちゃう・・みたいな。背中に目がある・・みたいな。あいさつや呼びかけがなく、いきなり会話から始まる。それも馬とかタバコとかワインとかたわいのないやり取り。答の出ない会話。言葉のキャッチボール。映画の設定ではエドワードは50歳だが、演じているスタンプは60近いから老けて見える。頭のてっぺんははげてるし、裸になれば体に張りがない。余計なことはしゃべらず表情も変えない。でも黙々と行動する。原作だと疲れたり不機嫌になったりするけど、こちらは疲れを知らないという感じ。ただし無理はしない。急がない。

私家版3

ロンドンと別荘のある田舎を往復する。パリとロンドンを往復し、チュニジアにも行く。出版社社長としての通常の仕事の他にジョンの仕事、復讐のための仕事もする。見かけは初老でも体力はあるのだ。感情にまかせて動き回るのではなく、必要なことだけを黙々とやるのだ。一つ一つ積み重ねるような描写がいい。出てくる小物がいい。がっしりした大きな傘、小さな時計、小さなラジオ、メモ帳。秘書のドリスに凝った帽子を贈ることはあっても、自分自身に関しては実用一本槍。ゆっくりと時間の流れる会員制のクラブ(「ラブ・アンド・デス」を思い出す)、紅茶、暖炉の火、そして本。本は至るところに出てくる。エドワードのオフィス、別荘、フランスの出版社社長ジョルジュのオフィス、図書館、古本屋・・。この頃古本屋めぐりもしてないなあ・・めぐるほど店ないし。ダンボールに古本を詰めて(中に自分の作ったものもまぎれ込ませて)売りに行くエドワード。古本屋の主人らしい知識、ヒマつぶしにやっているチェス、図書館の目録カード。とにかく本、本、本・・それも古本。原作だとニコラは6000冊の蔵書がある。一冊も捨てない。なくすと買い直す。彼の書斎は壁いっぱい天井まで作りつけの本棚・・はぁ~うらやましい。我が家はスチールやら木製やら。年に一回は一冊ずつきれいに拭く。棚も隅々まできれいにする。何日もかかるし重労働だ。作りつけの棚ならどんなにか楽だろう。床がへこむ心配もない(その代わり壁が落ちるかも)。何であんなふうにごたごた並べるのだろう。私なら分類して整然と並べるのに・・(雇って!)。原作では思い立って本を整理しているうちにエドワードがまぎれ込ませた本を見つけて絶望して自殺するのだ。ジョルジュが床に本を積み上げ、自分も床に座って読んでいるシーンも好き。持ち込みの原稿とか読むんだろうな。ニコラ役メスギッシュは知らない人だが、スタンプとは対照的なタイプ。何でもすぐ顔に出る。口に出す。自分が一番でまわりは自分のためにあると思っている。うぬぼれやで気分屋で恥知らず。他人を傷つけても何とも思わない・・と言うか、傷つけたことさえ気づかない。ニコラはフランス人なので、イギリスで出版するためにエドワードが翻訳する。翻訳する際手直しをする。そのおかげで少しはマシな作品になる。しかしニコラが感謝することはない。よくなったことを含め全部自分の功績なのだ。

私家版4

エドワードの口利きで新作のフランス語版はジョルジュのところから出すことに決まる。それを知らせるニコラの電話。用件だけ言ってサッと切れる。切れた後エドワードが無表情で言う「”ありがとう”は?」。ニコラはまわりへの感謝も気遣いもない。今までエドワードを始めまわりをどれだけ不快にさせてきたことか。しかしそれももう終わりだ。とは言え復讐の過程でエドワードの心がゆらぐこともある。後で出てくるがファリダ(恋人ファリダの姪)の登場によって、ニコラを試してみる気になる。恋人を死に追いやったのは彼に違いないが、もし彼が真剣にファリダを愛していたのなら話は変わってくる。ニコラは自分とファリダの関係は知らないし、彼なりに愛したが結果は悲劇になってしまったのかもしれない。もしそうなら復讐の仕方だって少しは違ってくる。途中でやめることだって・・。でもだめだった。ニコラは自分のしたことを全く後悔していない。酒に酔った勢いでのゆきずりの出来事にすぎない。あのことがあったおかげでこの小説が書けた。自分は才能があるのだ・・そっちの方へ行ってしまう。これで見ている全員ニコラの敵、エドワードの味方になる。エド、手加減は無用だぜッ!うまい持っていき方。それにしてもこんな憎まれ役・・メスギッシュはうまいなあ。顔なんてちっともハンサムじゃない。あつかましさ、ずるがしこさがモロ顔に出ている。でもそれが危険な魅力、男の色気として女の目にはうつり、ころりと参ってしまうのだ。一方エドワードはカサカサ乾いている。目も笑っていない。でも声は暖かい。彼の言うことは皆が信用する。ニコラの新作は傑作・・とはっきり言う。あのニコラにそんなの書けるわけない・・とまわりは思うが、でもエドワードが言っているのだから間違いない・・となる。エドワードはいつも事実を述べる。傑作だから傑作と断言するのだし、彼が書いたとは思えないと言うのも本音。だって今までのニコラは内容のないどぎついだけのアクション小説しか出していないのだから。まわりだってそう思っている。エドワードは何を言っても疑われる心配はない。逆にニコラは真実を言っても信用されない。それは彼が自分でそういうイメージを作り上げてしまったからだ。彼は自分から進んで敵を作る。本がベストセラーになり、賞をとり、喜んでいたジョルジュもそのうちニコラを持てあますようになる。

私家版5

ひっきりなしに金を要求してくるのだ。金を出せ、もっと出せ、これからももっとしぼり取ってやるぞ。もう脅迫だ。何でこんな態度を取るのだろう。「紹介してくれた君を恨みたいくらいだ」とこぼすジョルジュ。今では困惑を通り越し、ニコラを憎んでさえいる。しかしニコラには全然通じない。見ていてジョルジュが気の毒になってくる。彼の妻はパーティで客の面前でニコラに罵倒され大恥をかいたし・・。今回のことはエドワードの個人的な復讐だが、関係もないのに巻き込まれてしまう者も出てくる。ただ、ニコラを葬った後、この作品が正式にブラウンのものとして発売されれば、スキャンダルが宣伝となってまたまた売れるだろうけど。エドワードはすでに密かにブラウンの妹と話をつけてあるから、版権については問題ない。最終的にはジョルジュはさほど損はしないのでは?もちろんいくら儲かってもこんなトラブルは二度とごめんだろうけど。でも賞はどうなるのかな。取り消されちゃうのかしら。前にも書いたが、映画にはエドワードが愛したファリダにそっくりな若いファリダが出てくる。ファリダの妹ヤスミナの娘で、母からエドワードの話を聞き、彼が残した小説、手紙などを読んだせいで興味を持ってる。30年前の写真もある。スタンプ自身の若い頃の写真・・「コレクター」の頃はこういう感じで・・。ファリダを見たエドワードも当然心がゆれる。しかしここで彼がよろめいたりしたら映画はおもしろくなくなる。映画はそっちの方へは行かなくてホッ。デ・ニーロやハリソン・フォードなら絶対恋仲になる・・と書いてる人もいてホントそう思う。若いファリダは良心の声の役目も負っている。30年も前のことよ忘れなさい、ニコラを滅ぼせばあなた自身も終わりよ、それより私と新しい人生を・・。でもこっちのファリダは現代的で現実的。恥じらいも奥ゆかしさもない。積極的で自分に自信持ってる。外見はそっくりでもなかみは違う。エドワードは彼女には父親みたいな感情しかわかない。後で彼女はエドワードの別荘にまで押しかけてくる。「私を愛させるわ」と強気。あっさり受け流されるのが気に入らない。原作には若いファリダは登場しない。その代わり女性(あるいは男性)とあれこれある。30年間純愛を貫くわけじゃない。でも映画では全部カットし、若いファリダだけにしぼっている。

私家版6

・・と言うか、私にはファリダさえ余計に思えるけど(彼女のキャラには好感持てない)、そこまで行くと映画にうるおいがなくなる。やはりちょっとは若く美しい女性登場させないと、地味で平坦な展開なのでお客眠っちゃう。私はこういうの大好きだけどね。「譜めくりの女」男性版。原作では復讐が成功した後ブラウンの妹と仲良くなり、わりとハッピーエンドムード。アーウィン・ブラウンは短編を一つしか発表しておらず、若くして戦死してしまったほとんど無名の作家。でも国立図書館の目録にはあるから存在したのは確か。エドワードがニコラの新作の真の作者とでっちあげるには最適の存在。原作のラストでは妹が兄のトランク出してくる。あけてみると中には未発表の小説原稿が・・。兄が小説を書いたはずはないと疑っていた妹もやっと納得する。専門家から見るとこの小説には手直しが必要だ。エドワードは喜びにつつまれる。孤独な人生はもう終わり。気立てがよく、話していて楽しい女性と出会えた。相手も自分に好意を持ってくれている。ブラウンの小説を世に送り出すというやりがいのある仕事もある。手直しし、出版すればベストセラー間違いなし。30年前、エドワード達は同人雑誌を作っていた。その頃からニコラは平気で盗作するような恥知らずだった。エドワードは気づいても言い出せず、自分で手直しした。彼はいつもニコラに支配されていた。お金があり、魅力があり・・それにくらべ自分は。屈辱的な思いを味わい続けた。その一方で、彼が書いたものより自分の書き直したものの方がすぐれているという自負もあった。支配されているように見えるけど実際に支配しているのは自分だ。でも手直ししてよくなったことさえ、ニコラは自分の手柄にしてしまうのだ。やっぱり自分の方が支配されているのか。こういうドロドロしたものは映画からはさほど伝わってこない。青春時代のあれこれはカットされ、ファリダの件一本にしぼっている。原作でのエドワードはなまぐさく、いじけているが、それは「わたし」という視点で書かれているせいもある。自分には魅力がない、誰の目にもとまらないという思い込みや卑下。でも他人の目から見ればそうじゃないかも。そう、映画でのエドワードはステキだ。彼が自分のことをどう思っているのか不明だが、我々から見たエドワードは本当にステキなのだ。

私家版7

こういう人をよく「ステキなオジサマ」などと言ったりするが、そういう言い方は安っぽい感じがするので私は好きじゃない。とにかく落ち着いていて品がよく知的。相手に対する思いやりがある。辛らつなように見えてとても暖かみがあり、ユーモアがある。だから彼には本心を打ちあけても大丈夫だし、彼の言うことは信用できる。敏腕文芸記者のナンシーは容赦のない批評で知られる。何か特ダネはないかと常に目を光らせている。彼女は11年前ニコラと同棲していた。交通事故を起こした彼を看護したが、ニコラが人間らしかったのはその時だけ。傷が治るとまた元のいやなやつに戻ってしまった。今ではニコラを憎み、同じ間違いはするまいと思っている。エドワードは匿名の手紙を彼女に出す。ニコラの盗作疑惑にナンシーは大喜び。記事は裁判沙汰に発展するが、その一方で彼女は彼の無実を証明する証人ともなる。頭を負傷したニコラに記憶障害が残ったこと。原作だとニコラはパイロットとして従軍中事故に会ったことになっている。見舞いに行ったエドワードは彼の診断書を盗む。そして保管する。結局裁判はナンシーの証言で思わぬ方向へ行ってしまう。ニコラはブラウンの小説を読んだが、そのことを忘れてしまったのだ。でも内容は無意識下で記憶していて、今回それを思い出し、自分の考えたことだと思い込んで小説にしてしまったのだ。医学的にもありうることなので、皆この説明に納得する。病気だからニコラは罪には問われない。今後はブラウンの遺族との交渉に問題点が移る。もう誰もニコラには見向きもしなくなる。もちろん彼は納得しない。ブラウンの小説なんか読んだ覚えはないし、第一あれは自分の経験を書いたものだ。自分の小説では主人公は女性を愛したことになってるが、ブラウンのではレイプしたことになってる。そっちの方が事実なのだ。自分しか知らないことなのになぜブラウンに書けるのか。調べたくても30年も前のことだし、ゆきずりの相手だし、手がかりはゼロ。これでニコラがファリダ見かけたりして何か思い出したりすれば、もっとおもしろくなっただろうが、そういう発展はしない。私もその方がいいし(若いファリダにはうろうろして欲しくない)。

私家版8

ブラウンの本も何冊か出てきて(先にエドワードが古本屋に売ったもの)、本物と鑑定された。正式な出版記録はないが、戦争のせいでそういうのも珍しくはない。この復讐でエドワードが一番うれしかったのは、本が本物と鑑定されたことではないか。何しろ専門家も含めて全員をだますことに成功したのだから。自分の仕事に対する誇り、自負、満足感。さてニコラは自宅へ戻ると書斎をかき回し始める。本当に読んだのならここにあるはずだ。何しろ自分は一冊も捨てない主義なのだから。そしてとうとう発見する。エドワードも巧妙だ。一冊だけわざとらしく置いたりしない。同じような装丁の本を三冊ほどまぎれ込ませる。そのうち二冊は古本屋で仕入れた古本、一冊は自分が作ったもの。表紙の色は違うが、明らかに同じ年代、同じ出版社の本。自分は読んだのだ。読んだのを忘れていたのだ。みんなの言うことが正しいのだ。でもあの経験は自分のもののはず。ブラウンが何十年も前に書けるはずがない。それともあの経験も自分のものではないのか。もうこうなると何が何やらわからなくなる。これから書くことだって自分の考えなのか誰かの考えなのか自信が持てない。こうなりゃもうおしまいですな。書くことしか能がないのだから。もう誰も自分に注目しない。ほめてもくれない。もう少し普段から気をつかい、謙虚に接していればまわりの目も違っていたはず。でも今までの自分は好き放題にやっていた。誰も信じてくれなくたって平気。自分が自分を信じられればそれで十分。でも今はその自分さえ信用できない。とうとうニコラは自殺するけど、それを知ってもエドワードには満足感も達成感もないだろう。復讐は何も生み出さない。原作と違いこれからの希望もない。ファリダは去ったし、前と同じように仕事をこなし、馬を飼い(馬が道楽らしいが原作にはなし)、ジョンとたわいのない会話をかわし、ドリス(秘書)を適当におだてて仕事をさせて・・。元々空虚な目つきのエドワード・・今回のことで何かを得、何かを失っただろうけど、表情には何も現われない。ニコラの死の知らせを聞く表情も画面にはうつらない。でも無表情のはず。これからも一人で生きていくのだろう。でも本がそばにあればひとりぼっちでもさびしくないさッ!!