死ぬまでにしたい10のこと

死ぬまでにしたい10のこと

この映画は10月からやっていて、私が行ったのは1月の中旬でもう少しで終了という時期だったけれど、二回とも20人くらいはいた。ここっていつも(私が行った時はいつもという意味だが)六人とか三人とかだから、20人もいれば私にとっては満員という感じ。内容から見て女性客ばっかりだろうな・・と思っていたら、年配の男性もけっこういる。帰る時受付の人に「いい映画だった」なんて言っているおじいさんもいて。確かに地味だけどいい映画だと思う。でも絶対泣くってわかっているから、行こうかどうしようか迷ってた。病気で死ぬとかそういう内容の映画は苦手なのよ。でも行こうと決心したのは主役のサラ・ポーリーに興味があったから。少し前にWOWOWで「悪魔の呼ぶ海へ」を見たけど、彼女はホントすごい。すごいとしか言いようがない。作品そのものは半分駄作で半分秀作なんだけど。もちろん彼女の出ている部分が秀作。さて23歳のアンはガンであと二ヶ月の命と宣告される。手のかかる子供がいて、夫は失業中、父親は10年も刑務所にいる。何の罪かははっきりしないが、「父親の朝食はバーボンだった」というアンの言葉から推測するとアル中で、10年も入っているということは殺人罪なのだろう。演じているのはアルフレッド・モリーナ。私にはどうも「ダドリーの大冒険」のスナイドリーの印象が強くて、「アイデンティティー」の医者とか、この作品での父親を見てもぴんとこない。スナイドリーを見ていて思い浮かぶのが「グレートレース」でのジャック・レモン。モリーナにはああいうドジな悪役が似合うと思うな。アン一家は、母親の家の庭にトレーラーを置いて暮らしている。母親は家に一人。日本だったら同居するだろうな。庭に住むなんてちょっと考えられないな。母親役の人は、最初見ていた時は名前がわからなかったが、「この人、名前を聞けば絶対知っている人だろうな・・」と思った。エンドロールでデボラ・ハリーだとわかった。彼女にくらべ、夫の方が若すぎるような気がした。アンの夫ドンを演じているのはスコット・スピードマン。「アンダーワールド」に出ていたらしいが、この映画は見逃してしまった。この上なくやさしく、誠実な夫・・こんないい人いるわけないって?そんなことないよ、現に我が家にもいるもん。ドンみたいに背が高くもハンサムでもないし、家庭的でもないけどさ。

死ぬまでにしたい10のこと2

アンと関わりを持ついろんな人が出てくるけど、私が一番印象的だったのはアンを診察し、告知をするトンプソン医師。面と向かっての告知ができず、待合室みたいなところで、アンの隣りに座って話す。患者の顔を正面から見ることができない弱さを、彼は正直に認める。この時のアンの表情。「ワォ・・」と小さくつぶやく。泣き叫んだりするにはあまりにも思いがけなくて、すぐには実感できない。後になってジワジワ言葉の意味がしみてくる。でも今はまだ・・。トンプソンからジンジャー味のキャンデーをもらって、「おいしい・・」とくり返す。こっちの方はすぐに実感できるから。次の週も来るよう言われたけれど、心の整理がつかず行かないでしまった。その次の週は行った。トンプソンの「死ぬのは楽じゃない」という言葉がすごく心に残る。数年前母が亡くなった時に私が思ったのは、「悲しい」とかそういうことではなくて、「ああこれでもう母は苦しい思いをしなくてすむ」ということだった。人間が死を恐れる理由の一つは、死ぬまでが苦しいからだと思う。肉体的に苦しいのはもちろん、精神的にも苦しい。アンの場合、若いだけに何もかもが途中、あるいは手つかずである。子供は・・夫は・・そして私自身は・・。アンはショックから立ち直るために、手帳に死ぬまでにやっておくことを書き出してみる。そのうちの一つが、娘達が18歳になるまで、毎年誕生日にメッセージを送るということ。テープに吹き込み、トンプソンに毎年これを渡してくれるよう頼む。ドンだとなくしたり、一度に渡したりするだろう。それだと私の気持ちが伝わらない。日本だったら医者にこんなこと頼まないだろうな。小さい時からの主治医だというなら話は別だけど、トンプソンと会うのはまだこれでたった二回目だ。一度ですむことではなく、この先十数年にわたって年に二回テープを送らなければならない。ドン一家が引越ししたら・・トンプソンが病院を変わったら・・どうするのかな。しかしトンプソンは承知し、テープの入った箱を預かる。ラストではその箱を開けて、戸棚に一本一本並べ始める。この映画はアンの死の場面は出てこないが、見ている者はトンプソンのその行動によってアンが亡くなったことを知る。そして彼がテープをきちんと送り続けることも確信する。演じているジュリアン・リチングスは妙な顔つきの俳優で、ホラー映画の犠牲者みたいな感じの人。

死ぬまでにしたい10のこと3

医者はたいていの場合、患者よりも優位に立っているものだが、トンプソンにはそういうムードはない。彼は気が弱いけれども、誠実で心がやさしく忍耐強い。二度目にアンと会った時には正面から彼女と向かい合い、ポケットからキャンデーのいっぱい入った袋を出して、アンを喜ばせる。そう、彼は言ったことはちゃんと実行する人なのだ。出番は少ないけれど、トンプソン医師の存在はこの映画を見る者の心をホッとさせてくれる。アンはまわりの者にはただの貧血だと言って病気を隠す。治療も拒む。秘密にされた夫や母はどう思うのかな。アンの気持ちは理解できても、隠したことは許せない・・と思うだろうな。もっとも隠しておけるのも一ヶ月かそこらだろうけど。アンは隣りに越してきた、同じ名前のアンに子供達の新しい母親になって欲しいな・・と思う。隣りのアンは看護学校の時の経験から、子供を持つことを恐れている。シャム双生児が生まれたが、生きのびる可能性はなかった。死を早めるために保育器から出されたが、彼女は赤ん坊が放置されるのを見ておれず、30時間抱き続けた。知っている限りの歌を歌ってあげた。このシーンと、アンが車の中で娘達へのメッセージをテープに吹き込むシーンには、ホント泣かされた。まわりからもグスグスとハナをすする音が聞こえてきて・・。二回目も同じシーンでまた泣いちゃった。悲しいシーンには慣れることができないや。逆にアンが恋人のリーと別れるところでは全く涙が出なかった。二人がいくら別れを辛がって涙にくれようとね。アンはファーストキスの相手ドンと結婚した。だから夫以外の男性を知らない。死ぬまでに他の男性ともつき合ってみたい。他の男性が自分を恋するよう仕向けてみたい。・・そんな彼女の計画に引っかかったのが、失恋から立ち直れないでいるリー。リーは一目見た時からアンに引かれているのだが、彼女が積極的なのにはいささかとまどっている。こんなこと言ったら絶対シタゴコロがあるって断られるだろうな・・って思いつつ「僕の車で音楽を聞こう」と誘ったら、アンは簡単に承知してさっさと車に向かう。え?・・という感じで信じられないでいるリーがいい。前の恋人が家財道具を持って出ていってしまったので、リーの家はガランとしている。おしゃべりをしようにも座る椅子もなく、二人はそこらへんの本を重ねて椅子代わりにする。そういうシーンも絵になっていていい。

死ぬまでにしたい10のこと4

隣りのアンに子供達の新しい母親になって欲しいとか、自分に恋するようリーを仕向けたいとか思うのは、相手が人間であるだけに簡単なことではない。はっきり言ってアンのかってな希望、ワガママである。隣りのアンは本来は子供好きな女性である。気さくな性格で子供達はすぐになつき、ドンとも気が合うようだ。私がいなくなった後も彼女がいれば・・とアンは想像する。リーは当然のことだが、アンを本気で愛し始めてしまう。やさしい性格だから、君の家族のことも何とかしたい・・なんて言い出す。でもアンには未来はないのだ。リーは再び失恋・・おいおいそんなのアリかよ。トンプソンがテープを押しつけられたように、隣りのアンもリーもアンから大きな荷物を押しつけられた。そういうところは見ていてあんまりいい気はしない。いくら子供好きでもいきなり二人の子供の母親になれるだろうか。ドンだって隣りのアンがいくら好ましい女性でも、すぐにはアンのことは忘れられないし。もちろん隣りのアンには選択の自由はあるし、意図的に押しつけられたことだなんて彼女もドンも娘達も知らないから、どういう選択をしようとそれは自分の判断に基いてのことだと思い込む。隣りのアンは新しい家族と生きる道を選ぶだろうし、賢い彼女はドンを励まし、アンに代わって家族の柱となることだろう。リーもいつまでもこんな状態ではまずいと気がつき、家には新しい家具を入れ、未来に向かって足を踏み出すだろう。アンには未来がなかったけれど、自分にはある。それだけでもマシってものではないかい?人は必ず死ぬけれど、その準備は一人一人違う。自分では生まれる準備はできないけれど、死ぬ準備はできる。映画の題名はまるで本の題名のようだ。老い支度、死に支度。準備はできていますか?できてないならこの本を読んで準備しましょう。もう準備してあるというあなた、この本を読んで十分かどうかチェックしましょう。いずれにしてもこの本はあなたにとって有益です。「老い」や「死」とは関係なくても、雑誌をめくると「ここだけは押さえておきたい」とか「ここは要チェック」とかいろいろ指図される。世の中にはおせっかい・・いや親切があふれている。この映画を見にくる人達の多くは、死の宣告を受けたとして自分だったらどうするだろう・・何か参考になることはあるかな・・と心のどこかで思っているはずだ。

死ぬまでにしたい10のこと5

アンは手帳に十ヶ条を書き出して、それを実行してみようとしたが、全部できたわけではない。ただ書き出すことで目標はできた。この映画の原題は「my life without me」である。ラスト、アンはトレーラーの中で横たわる。隣りのアンが来ていて食事を作ってくれている。「私がいなくなった後の家族」とアンは思う。ビーズののれんをへだてているだけだが、アンにとってはもうそれは別世界の出来事だ。「私はもう死ぬのだから」とさめた目で見ている。映画はそこで終わるけど、彼女にはまだ本当の終わりは来ていない。やれるだけのことはした・・と精神的には楽になっただろうけど、これからは病気による肉体的な痛みが待っている。確かに「死ぬのは楽じゃない」のだ。この映画はドキュメンタリーを見ているようで、悲しい出来事も変にドラマチックにせず、さらっと描いている。国の違いを感じるところもあるし、同じだなあと感じるところもある。出てくる人は皆ほどほどにいい人達である。ヒロインのアンには100%共感できるわけではない。首を傾げたくなる行動もある。私だったら死の準備は「立つ鳥跡を濁さず」だな。身辺整理をし、「いつまでも私のことを忘れないでね」の反対で、自分がこの世に存在した痕跡をできるだけ消したいと思うだろうな。整理→浄化と考える私から見るとアンの行動は生ぐさすぎる。リーとの悲しい別れを見ても「こうなるとわかっててやったんでしょうが」と非難の眼(まなこ)で見てしまうから泣けないの。私だったらこんな(他人を巻き込んだ)新しい思い出は作らないな。残された時間は夫のために尽くすと思うな。恋も知らずに死にたくないという気持ちはわかるけど、そういう人生もいいじゃんよ。・・私も決して若くはないけれど、太極拳なんかやってるとまわりはお年寄りばっか。こっちも年を取るけどあっちも取るから差は縮まらない。「あなたは若くていいわねえ」なんて言われる。でもお年寄りが若い人をうらやましがるのはある意味正しくないと思うよ。いくら戦争で青春がつぶれたとか今は病院通いの毎日だとしても、70年とか80年生きてきたという事実はあるわけでしょ?でも若い人が70歳80歳まで生きられるという保障はどこにもない。現にアンみたいに23歳で命を区切られてしまう人だっているし。でもそう言われて「全くだ、私は幸せ者だ」なんて納得する人はいないだろうけどさ。