スパイダー・少年は蜘蛛にキスをする

スパイダー・少年は蜘蛛にキスをする

三週やるところもあるが、二週で終わりのところも多い。そんなにお客が入っていないのかしら・・というヤジ馬根性もちょっぴりあって、行ってみることにした。レイフ・ファインズは「レッド・ドラゴン」でいやというほど見てるから、もうおなかいっぱい、見なくてもいいかな・・なんて思っていたんだけれどね。平日で二回共70人くらいはいたから、予想と違ってけっこう入っているじゃん・・と何だかうれしかった。難解な作品というフレコミなせいか、皆しーんと画面に見入っている。一人だけ私の近くにいたあんちゃんはツバを吐いたり、椅子の背に足を乗せたり・・と呆れるほど行儀が悪い。一度など両足を天井に向かって高々と上げたのでシンクロナイズドスイミングかよ・・とびっくりした。何やっていたんだろ。始終ガタガタモゾモゾと落ち着きがなく、そのうち内容について行けないのか途中で出ていったので、やっとこれで静かに見ることができる・・とホッとした。予告編はけっこうおどろおどろしい感じだったが、見てみるとそんなことはない。蜘蛛は出てこないし、従って少年は蜘蛛にキスはしません。原作はまだ読んでないし、何の予備知識もないので、一回目はひたすら見ていた。二回目はここはこういう意味なのか、あそこは・・という謎解きのおもしろさがあり、暗くて地味な映画なのに二回共楽しめ、見にきて本当によかったという満足感があった。気分がスカッとしたとか、演技を堪能したとか、そういうことではなくて最初から最後まで集中できたというか・・。見終わった後、胸のあたりに何かつかえているものがあるんだけれど、それさえも充実感の一部のようで・・。さて主人公デニスは精神病院を出て、ウィルキンソン夫人の下宿に落ち着く。小さなノートにびっしりと何事かを書きつける(ここらへんは「レッド・ドラゴン」のダラハイドと同じだ)。最初は子供の頃の記憶を掘り起こして、思い出したことを書きとめているのだと思った。しかしそのうちに彼が書いているのは空想の産物なのだということがわかってくる。彼は父親のビルが性悪な商売女に入れ揚げて、邪魔になった母親を殺し、野菜畑に埋めたのだと思い込んでいる。母親がいなくなった後、その商売女イヴォンヌが母親として乗り込んでくるのだが、デニスは敵意をつのらせ、仕かけを作ってイヴォンヌをガス中毒死させる。少年にとって母親は聖なるものだった。

スパイダー・少年は蜘蛛にキスをする2

「きよしこの夜」の歌が流れるシーンがあるが、デニスにとっては聖母子は自分と母親のことのように思えていたことだろう。しかし実際の母親は母であると同時にビルの妻でもある。ビルとけんかして泣いてみたり、ビルのために新しい下着を買って鏡の前でウキウキしてみたり。デニスとしては母親の女の部分は見たくないが、家族である以上仲のいい夫婦としての姿はいやでも目に入ってくる。父親に憎しみをいだき(形を変えたライバル意識、嫉妬心とも言えるだろう)、母親の女の部分は商売女イヴォンヌという形をとって現われる。父親と仲直りして仲良く暮らし始めた母親が、デニスにはイヴォンヌに見えるのだ。ガス中毒で死んだのはイヴォンヌのはずなのに、死体の顔を見ると殺されて埋められたはずの母親その人である。悲しみにくれる父親と違い、デニスは黙ったままだ。おそらく彼は自分のやったことへの罪の意識から逃れるために、一連の記憶を自ら封じ込め、一種の記憶喪失になったのだと思う。だから彼は泣きもしないし、叫びもしない。事実を認めないことで自分を防衛しているのだ。長い間精神病院で暮らし、退院して故郷に戻ってくると、封印したはずの記憶が断片的に甦り始める。しかしノートに書きつけられる文章は、無意識のうちに自分にとって都合のいいように変換されたものとなる。イヴォンヌの姓は自分が下宿しているところのウィルキンソン夫人と同じウィルキンソンだし、イヴォンヌの顔は病院にいる時密かに隠し持っていたグラビアにうつっていたヌードモデルの顔である。下宿の窓からはガスタンクが見える。彼にはそれが気になって仕方がない。そのうちに自分の部屋がガスくさいように思えてくる。さらに自分自身も・・。この時のデニスが自分の体に新聞紙を巻きつける行為は意味がよくわからないが、次のように考えることはできる。ウィルキンソン夫人がデニスに「シャツを何枚着ているの?四枚!?」と言って呆れるシーンがある。すると同じ下宿人のテレンスが「なかみのない人間ほどそれを隠すためにたくさん着るものなのだ」というようなことを言う。空っぽであることを隠すために何枚も着込む・・つまりこれも自己防衛の行為である。新聞を何枚も重ねて腹に巻き、ひもでしばりつける。ガスというきっかけによって自分の本当の記憶が甦り始めている。ガス(記憶)が自分の体からもれ出している。それを止めなければ・・。

スパイダー・少年は蜘蛛にキスをする3

そのうちにウィルキンソン夫人の顔が母親に見えたり、イヴォンヌに見えたりしてくる。このシーンにはデニスだけでなく、見ているこちらも混乱させられる。デニスはいろいろ書き込んでいたノートを引きちぎり、夫人から鍵束を盗み、夜夫人の部屋に忍び込み、金槌で殺そうとする。ここも彼の心理はわかりにくいが、こういうことだろうと思う。一人の人間が二人に見えるということは、二人に見えた人間が実は同一人物だったということでもある。自分はイヴォンヌに殺意をいだき、殺すことに成功したが、イヴォンヌは同時に自分の母でもある。自分の母親を殺したという記憶が甦るのは困る。だからそれを連想させるウィルキンソン夫人を殺そうとした。夫人が死ねば二つの顔を持った女はもう現われなくなる。ノートを破ったのは、でっちあげの文章を書くことではもう自分をだましきれなくなったからだ。もっと直接的な行動を取るより他に自分を守る方法はない。しかし夫人を殺そうとする行為は、かえって自分がやった実際の母親殺しの行為を完全に思い出させてしまう結果となった。戸惑っているうちに夫人は目を覚まし(この時はちゃんと元の夫人の顔になっている)、彼は精神病院へ逆戻り。車にゆられる彼は、母親を殺した後精神病院へ向かう時の少年デニスでもある。今の彼は本当の記憶を有しているのだろうか。それとも少年デニスと同じく記憶を封じ込めることで自分を防衛し、それによって平静を保っているのだろうか。・・内容はこのように人間の深部追究みたいな感じで、奇をてらったところもないし、趣味の悪さもない(「ザ・フライ」はひどかったもの)。詳しい説明が省かれているためわかりにくいところもあるが、いろいろ書いてきたように自分なりの解釈を考える楽しみもあった。ただやはりいくつか引っかかるところはある。例えば少年デニスは学校はどうしていたのかな。見かけからすると学校へ行って当然の年頃なのに、そういう部分が全くない。それと彼の心のゆがみが、いつからどのようなきっかけで芽生えていったのかということがある。友達もなく、孤独で、お母さんを独占したいと思っている・・というだけでは根拠がうすい。自分だけのお母さんでいて欲しい、女の部分は見たくない・・というのはたいていの子供が一度は考えることで、それがあそこまでエスカレートするには遺伝的な欠陥とか、それなりの理由や原因があるはずだ。

スパイダー・少年は蜘蛛にキスをする4

ウィルキンソン夫人が母親の顔になったり、イヴォンヌの顔になったりするところは、老け顔のメイクが不自然である。実は私は母親とイヴォンヌを同じ人が演じているのだということを、エンドロールを見るまで全然気がつかなかった。それくらい巧妙にメイクができるのだから、老け顔のメイクだってもっとちゃんとできるはずなのに・・。でも後になって気がついた。母親のクレッグ夫人にしろ、イヴォンヌにしろ、彼女達の老年になってからの顔はデニスには想像できない。なぜって彼が殺した時、母親はまだ若かったし、イヴォンヌの方はグラビアから拝借してきたモデルの顔なのだから。だからデニスの目にうつる老年の彼女達はああいう顔をしていて当然なのだ。それにしてもデニスはとても退院して普通の生活を送れるような状態ではないのに、どうして退院できたのかな。あそこに下宿するとして、どうやって食べていくのかな。イギリスだからそういう保障は整っているのかな。デニスの行動のいくつかは、精神に障害のある人が実際に取る行動である。例えば寒いわけでもないのに何枚も着込んで、ボタンをきっちりとめて汗をかいているとか。寝タバコはだめよ・・とかいろいろウィルキンソン夫人に注意されても全然聞かないくせに、病院の院長の言うことは素直に聞くとか。まわりのことに関心を持たないくせに、こと自分の身に関することは安全であるように、あるいは有利に運ぶように心を砕くとか・・。この映画でいうと「ガスがもれている」とあわてるところなんかそうだ。雨にぬれたものは着替えなさい・・と夫人に言われても、お風呂から出るとまた同じぬれたものを着て平気でいる。清潔という観念の欠如も彼らの特徴だ。まあ全員がそうとは限らないけどね。ファインズはこういうダラハイドに似ているようでいてまた違う、精神を病んだ男を見事に演じていた。夫人を演じたリン・レッドグレーブはこういう役が実によく合う。彼女を見るのは「ゴッド」に続いてまだ二作目である。でも一番すごいのは二役を演じ分けたミランダ・リチャードソンだろうな・・やっぱ。次は原作を読んでどれだけ自分の考えが合っているか確認してみようっと。さて「レッド・ドラゴン」、とうとう10回見たぞ。でもどういうわけか前回も今回も眠くて眠くて・・。疲れているのか、春なのか、情けないなあ。でもまあこれだけ見ればDVDの発売まで持つだろう。