ジェーン・エア(1944)
これを最初に見たのは民放だろう。今はテレビで映画を放映する時は2時間枠が普通だが、昔は1時間半枠も多かった。CMの他に解説も入るから、さらに短くなる。どの映画も20分や30分カットされていて、時には映画の内容が変わってしまうこともあったかも。この映画は96分と短い方だが、それでも”ジョージの店”の部分はなかったと思う。後年ノーカットで見た時には、何でこんなシーンがあるのか理解できなかった。ジョーン・フォンティン演じるジェインは、一目見ただけで男が虜になるほど美しいということか。でも(ジェインは)美しくないというセリフもあるのだから矛盾しているが。映画では冒頭本がうつって、ナレーションが入る。でもこの本・・原作とは違うと思う。私は1820年生まれなんていう文章では始まらないから。映画用にわざわざ作ったのか。ロチェスターが結婚したのは1824年なんていうのも出てくる。ジェインが4歳の時だ。それから15年くらいたっていて、ロチェスターは30代半ばということになるが、オーソン・ウェルズはこの頃まだ30前で、フォンティンとは2歳しか違わない。後年のデブデブに太ったヒゲもじゃのウェルズの印象が強いから、細い彼はぴんとこない。額が広く、目がギョロッとしていて、唇は子供っぽい。当時の女性客は彼の美声(たぶん)と眼力にフラフラになったんですかね。アメリカ人の彼にイギリス貴族の役は似合わない、ローレンス・オリヴィエなら適役だったろうけど、それだと「レベッカ」と同じになってしまう・・という声もある。確かに若いけど後ろ盾はなく、容貌もさえないヒロイン、カゲのある金持ちの中年男、明かされる過去、灰燼に帰する豪邸・・似てますわな。まあとにかくウェルズの強烈な個性のせいでフォンティンの印象は薄いけど、それでもこの映画が長く愛されてきたとしたら、清楚で静かなたたずまいのフォンティンのジェインのおかげで・・。この映画は三人の子役の存在も見逃せない。ヘレン役エリザベス・テイラーは、美しくはあるけれど意外と印象は薄い。出番が少なく、物静かなキャラのせいもある。逆にマーガレット・オブライエンのアデルは、わざと出番を多くしているとしか思えない。芸達者には違いないが、こましゃくれていてチョロチョロとわずらわしい。
ジェーン・エア(1944)2
私が一番興味引かれるのは・・すばらしいと思うのは、ジェイン役ペギー・アン・ガーナー。いかにも薄幸そうな、泣いた後のような、それでいて意地っ張りな顔つき。チビでやせっぽちなのにファイト満々。2011年版の子供のジェインはちょっと体が大きすぎるし、顔立ちもアンジェリーナ・ジョリー風で、演技はともかくイメージが違う。ハリウッドを代表する美人女優、実力派女優となったテイラーに比べると、成長してからのオブライエンやガーナーはあまりぱっとしなかったのではないか。それとも子役時代同様活躍していたのか。私が成長したオブライエンを見たのは「コンバット!」の「墓の中」。顔だけ見たのでは絶対わからないけど、たぶん冒頭顔と名前が出たのでわかったのだろう。内容はよく覚えていないけど、暗い内容だったと思う。まあ題名からして暗いもんね。ガーナーも「コンバット!」に出ていたらしいが、覚えはない。私は同じ戦争物でも「特攻ギャリソン・ゴリラ」とか「ジェリコ」が好きで、「コンバット!」はあまり見なかった。ガーナーは「アンタッチャブル」の「エレジー」というのに出ている。これも最初に顔と名前が出るからわかった。あ~大きくなってこんな顔になったのね・・と感慨深かった。ちょっと目のあたりが腫れぼったく、やるせない感じ。内容は父親がどうとかこうとか、やっぱり暗い感じだったと思う。「ジェーン・エア」とは関係ないことずらずら書いちゃったけど、こういう時でもないと彼女達のことを書く機会がないのだ。テイラーは数年前に79歳で亡くなったけど、オブライエンはシワクチャになりながらもまだ生きてる。ガーナーは1984年に52歳でガンのため亡くなったようで、これは気の毒だ。二番目の夫の名前がアルバート・サルミで、どこかで聞いたような・・。戦争物や西部劇でよく見かけた人だ。こちらは1990年に当時の奥さん殺して自分も自殺したとか、あんまりな最期。リード夫人役はアグネス・ムーアヘッドで、「奥様は魔女」のシワシワのエンドラしか知らないから、この映画でまだ若い彼女を見た時にはびっくりした。知ってる人はそれくらいかな。リード夫人の子供はジョンだけで、娘二人はカット。ジョンはいつもモグモグ口を動かしているような肥満児。ローウッドではテンプルは出てこなくて、ブロクルハーストの出番が多い。
ジェーン・エア(1944)3
原作ではヘレンにつらくあたるスキャチャード先生が、映画ではわりとまともな感じで出てくる。何もできないけど、虐待をしたりはしない。牧師のセント・ジョン・リヴァーズは出てこないが、親切なリヴァーズがローウッド担当の医師として出てくる。演じているジョン・サットンは知らない人。今回久しぶりに見て印象に残ったのは、ヘレンが死んで悲しむジェインにリヴァーズがかける言葉。義務を果たせ、将来のために教育は大切と強く諭す。考えてみると、劣悪な環境にあるとは言え、ローウッドは生きていくのに必要な知識、技術を授けてくれる場所でもある。人々の寄付、慈善のおかげで、安いお金で教育を受けられるのだ。伝染病や栄養不良のため、命を落とす者もいるが、ジェインのように自立の足がかりをつかんだ者もいる。たぶんリヴァーズのおかげでジェインは考えを改めることができたのだ。嘆いていたり逃げていたりしても何にもならない。自分の置かれた状況を受け入れ、やるべきことをやり、自立できるまでがまんするのだ。八年たって学業を終了したジェインを、ブロクルハーストはそのまま教師として雇おうとする。お礼奉公として安くこき使ってやれ。ところがジェインはきっぱり断り、自分で見つけた新しい勤務先ソーンフィールドに旅立つ。見送ってくれたのはリヴァーズ一人。原作だとこういう流れではなく、ジェインは生徒として六年、教師として二年過ごす。ここを出る気になったのは、尊敬するテンプル校長が結婚してここを去ったからだ。アデルやロチェスターとの出会い。映画はイングラム嬢達一行を登場させ、華やかさを強調する。ジェインの世界とは全く別で、なじめないし、不快な思いをさせられることも。ロチェスターの不可解な態度にとまどい、反発し、そのうち強く引かれ始める。その一方で屋敷では妙なことが・・。変な笑い声、放火。2011年版のフェアファックス夫人は、ロチェスターの妻のことは何も知らなかったとはっきり言う。原作の彼女も知らない。こちらの夫人は知ってるのかどうかよくわからない。たぶん知らないと思う。知っていれば結婚を止めるはずだから。いつもロチェスターが屋敷にいて、目を光らせているのならともかく、彼はここにいるのがいやで一年の大半を留守にしている。一年中ここにいる夫人が何も気づかないというのはありえないのだが。
ジェーン・エア(1944)4
華やかな席にジェインが現われた時には、見ている者のほとんどは、しばらく暇をくれと言い出すのだろうと思う。伯母が倒れたからと・・。でもこの映画ではそれはなく、単に新しい仕事を捜すので紹介状をとか言い出す。ジェインが伯母の家に戻るのは、ロチェスターの秘密が明らかになり、ソーンフィールドを出てのことである。最初見た時は、セント・ジョンやその妹達のことが全く省かれているのにびっくりしたものだ。乞食同様にさまようなんていうのもなし。出迎えてくれたのは女中のベッシー。原作でのベッシーは、まだ若く、きれいでせっかちで親切で登場人物の中でも好感の持てる人だ。映画でのベッシーもやさしいが、ちょっと太りすぎ。ジェインは知らなかったが、ジョンは身を持ち崩し、リード夫人の財産を使い果たしたあげく自殺。夫人はショックで病床に。看護をして過ごしていると、ある日紳士が訪ねてきたとベッシーに言われ、動揺する。てっきりロチェスターが追ってきたのだと思ったら・・リヴァーズでした。彼のところへロチェスターから問い合わせが来たのか。あたしゃてっきりジェインの叔父が死んで遺産が転げ込んだのだと・・。ここらへんの描写も原作にはなし。最初の放映の時もあったかしら、このシーン。ジェインは手紙を受け取ろうとしないけど、普通の人ならそうですか、でも後で気が変わるかもしれないから、いちおう置いていきますね・・となるところだ。でもリヴァーズはそうか、じゃあいらないのね・・と、手紙を火にくべてしまうのだ!でもここで思いませんでしたか皆さん。ジェインはリヴァーズと結婚すりゃいいのに・・って。ちょっとくたびれているけどハンサムだし、ちゃんとした職業持ってるし親切で誠実。年は上だけどロチェスターだってそうだし。人生の指針示してくれた恩人だし。でも原作変えるわけにいかないからロチェスターと一緒になるんですけどさ。リード夫人が死ぬと、家は競売にかけられる。今度こそジェインは行き場所がない。ブロクルハーストに手紙を書き、頭下げて雇ってもらうより他にないのだ。ここは原作にないけど、後ろ盾のない女性の立場の弱さと言うか、そういうのをよく出している。結局盲目となったロチェスターと結婚するが、ジェインには遺産が入らなかったのだから、これからどうやって暮らしていくのかな。てなわけでウェルズにはなじめないけれど、新しい発見もあり、そつなく作られたいい映画だと思った。
ジェイン・エア(1996)
これはけなしてる人が多いな。何でかな。私はわりとよくできていると思うけど。この映画が公開された頃、「図説 ジェイン・エアと嵐が丘」という本を見つけて読んだのよ。最近ではブロンテ姉妹関係の本もあまり買わない。高いし、こっちでは売ってないし、目新しい内容もないし。映画も、ずっと後になってサミュエル・ウェストが出ていると知るまでは興味なかった。セント・ジョン役?ぴ、ぴ、ぴったりじゃ~ん!と思ってレンタルビデオ屋へ走ったわけよ。見たらこれまたびっくり。驚くほど出番少なくて何じゃこりゃ~許せん!と、糞害・・じゃない、憤慨しましたの。まあどう見たってウィリアム・ハートのしょぼくれロチェスターよりこっちの白皙セント・ジョンの方がジェインにはお似合いで。ウェストの出番多くすると、見ている人みんな何でロチェスターなのだ、何でセント・ジョンじゃないのだとなって、収拾がつかなくなるから出番削ったんだわ、そうよ、きっとそうよ!この映画わりとキャストは豪華。少女時代のジェインはアンナ・パキン。ペギー・アン・ガーナーにちょっと似ていて、薄幸そうで意志が強くて・・やっぱジェインはこういう顔立ちでなきゃ。ヘレン役の人は波打つ髪が美しく、天使のようだ。「ルイス警部」のどれかに出演しているらしい。まだ見てないのよ。見てないものが日々たまっていく。どうしたらいいんじゃろかと思うけど、時間だけが過ぎていく。さて、ジェイン・エア映画にはパターンがあって、この場面とあの場面、このセリフとあのセリフ・・ほぼ決まってる。原作ではブロクルハーストは学院の理事長だからたまにしか顔を出さないが、映画では校長だから出番が多い。スキャチャード(ジェラルディン・チャップリン)が腰巾着。いちおうテンプルも出てくるが、ほとんど無力。それでも自立には学問が必要と生徒達に伝えるシーンは(かろうじて)ある。結局ジェインは学院に10年いたが、親しくなれたのはヘレンとテンプルだけになっている。フェアファックス夫人役はジョーン・プロウライトだが、どういう役回りなのかよくわからない。ロチェスターは父親や兄にひどい仕打ちを受けたとか、一族の犠牲になったとか言うが、詳しいことは言わない。
ジェイン・エア(1996)2
どう見てもバーサのことを知っているように思える。ジェインとロチェスターの結婚にも身分がどうのとか水を差すようなことを言う。何も知らないにしては言いすぎだし、何か知ってるならはっきり止めないのはおかしい。回りくどい言い方や、意味ありげに何度もうつすくらいなら、原作とは違うけどこのままじゃまずいとメイソンに式のことを知らせたのはフェアファックスだったとか、そういうふうにすればよかったのに。シャルロット・ゲンズブールのことはよく知らない。彼女の映画は見たことがないので、ジェイン役が合ってるのかとか気になったりしない。たぶんいつもよりかなりおさえめの演技しているのだろうなとは思う。173センチあるらしく、とても小柄とは言えないが、顔が小さく、締めつけられたような胴をしていて細い。化粧っ気がなく、色の白さが目立つ。正面からうつすと鼻が柱のようで、唇が薄い。首は長いが太い。全体的に顔も体つきもバランスが取れていないが、優美で芯の強さが感じられる。反対にブランチは堂々としていて美しさや活力を発散させている。それでいて髪型とかドレスに違和感がある。19世紀前半の貴族の令嬢はこういうふうだったのだろうが、今の我々から見ると美の基準が違っているのだとしか思えない。ハートのロチェスターがイメージ違うと感じている人が多いようだが、オーソン・ウェルズを基準にすると、どうしても物足りなく思えるだろう。もっと粗野で精力的でセクシーなはずなのに、何でこう暗くて無気力なのかと。セクシーと言えばティモシー・ダルトンのロチェスターあげてる人が多い。私はこの1983年版もテレビで見ているはずなのだが・・。11回シリーズらしいが、やったのは短縮版か。どうも印象に残っていない。ジェイン役の人があまりにも小柄で・・小柄すぎて・・。ダルトンが長身だから余計目立つのだが、気になって気になって。それしか印象に残らなくて。ハートのロチェスターは、どう見たって「ダークシティ」のバムステッド。何とか普通に生きてるように装っているけど、過去のある時点でぽっかり何かが抜け落ちちゃって。それを埋めようと外国を放浪したり女性にうつつを抜かしてみたけれど効果なし。それに落ちるところまで落ちるには持って生まれた正常さ、責任感や義務感がありすぎた。適当に貴族連中と付き合い、自分の子供ではないけれど、アデルを引き取る。
ジェイン・エア(1996)3
そんな時に出会ったのがジェイン。今まで彼のまわりにいた人間とは明らかに違い、本音で話せる。1944年版ではなぜジェインがロチェスターに引かれるのかわからなくても、こちらのはわかる。ジェインとロチェスターは似た者どうしなのだ。足りないところを補い合う。式が中止になった後は駆け足で、ラストも物足りない。バーサが死んだことも知らないうちにジェインがロチェスターを受け入れるのは変だ。バーサ役はマリア・シュナイダー。数年前まだ若いのに亡くなった。私はなぜか映画館で「ヨーロッパ特急」を見ている。シュナイダーの出番は少なく、ミレーヌ・ドモンジョの劣化ぶりが印象に残っただけ。「危険なめぐり逢い」も有楽町だったかで見たな。平凡な画学生役だけどとてもよくて、テレビで放映してくれないかなあ。DVDも出てないし。バーサはもうちょっと髪がバサバサで獣じみてるとか・・ロチェスターの不幸の元になった狂女らしくして欲しかった。あれだと普通すぎて、ロチェスターの苦悩が伝わってこない。火事の時付き添いのプール(ビリー・ホワイトロー)が死ぬのはオマケかね。原作では死なない。リード夫人役はフィオナ・ショウ。彼女はブランウェルの描いたブロンテ姉妹達の伯母エリザベスの肖像画にそっくりだ。さて、ウェストですけど・・セント・ジョンがジェインの親戚というのはこの映画ではなし。リード邸のある教区の牧師で、妹はメアリだけでダイアナはカット。牧師というより遺産の整理や管理任された弁護士風。ジェインに遺産が転がり込み、金持ちになるってのは原作通りだけど、セント・ジョン兄妹にはかすりもしないでジェインが一人じめってのはどうもねえ。おかげで屋敷が焼け落ち、片目が潰れたロチェスターの老後も心配なしですけど。あ、私が他の「ジェイン・エア」映画と違うなと思ったシーンがあって、ブランチや母親が家庭教師の悪口を言ってるところ。ジェインの耳にも聞こえていていたたまれない思いをするんだけど、パーティに浮かれていたアデルの表情も曇る。こういうアデルを描いたシーンは初めてで、ただの頭空っぽ娘じゃないんだ、正常な感覚の持ち主なのだと、そこがよかった。
ジェーン・エア(2011)
「ジェイン・エア」はたいていの女のコが読んでいるだろう。女のコはこれを読んで何に憧れるのか。貧しい孤児が自立し、会ったこともない親戚から遺産が入り、一躍金持ちになるというシンデレラストーリーに憧れるのか。自分の二倍の年齢で、醜い、しかも盲目の気難しい男と結婚することをロマンチックだわ~と憧れるのか。私の場合は、ジェインとロチェスターのロマンスよりもまわりの人達に目が行く。厳格な生活を自分に課すイライザ、薄幸なヘレン、派手な姉ブランシェとは違う妹メアリ、どこか妙なところがあるメイソン。話を戻して今回のロチェスターは醜くもないし、オッサンでもない。考えてみりゃオーソン・ウェルズだってまだ若かったのだ。でも印象はオッサン。ジョージ・C・スコットはもっとオッサン。話を戻してこちらのマイケル・ファスベンダーのロチェスターは意外なキャスティング。傷つきやすく繊細な感じ。ミア・ワシコウスカのジェインははまり役。あ、ジェーンとかジェインとか映画によって表記が違うけど、ここでは勝手にジェインで統一します。原作ではロチェスターに出会った時のジェインは18歳。伯母の家とローウッド学院しか知らず、異性との接触もほぼゼロ。もっと世界を見たい、男性と対等でいたいと願っても、女性には門が開かれてないし、まずは食べていかなくちゃならない。ローウッドの校長テンプルは出てこないし、セント・ジョンが心引かれる令嬢ロザモンドも出てこない。原作は一行、一言ですむところを何行にもわたって書いてある。会話など言葉遊びのようで長たらしい。映画はそういうところをあっちでもこっちでもバッサリカット。それはいいのだが、カットしすぎてわかりにくくなっているところも。原作読んでない人にはちょっと不親切。この一言、この1シーンがあったら・・と、何度も思った。アデルは誰の子なのか。確か原作では母親は死んでいない。ロチェスターは自分の子供でもないのにアデルを引き取る。メイソンはなぜケガをしたのか。妹の様子を見に行った時、つい油断したのだ。ロチェスターはブランシュのことをどう思っていたのか。自分の財産がそれほどでもないとほのめかすと、とたんに向こうは態度を変えた。彼とバーサの結婚は・・。
ジェーン・エア(2011)2
彼の父親は貪欲で、財産は分割したくない。長男ローランドに全部相続させ、次男のロチェスター・・エドワードは金持ちの娘と結婚させればいい。未熟なロチェスターは、西インドの裕福な商人の娘で美しいバーサと結婚。ところがすぐに彼女が下品で身持ちが悪く、しかも母親や弟に精神的疾患があり、バーサ自身にもその傾向が現われたことに気づく。そのため、彼の結婚そのものが秘密にされる。そのうち父も兄も死に、財産は結局ロチェスターのものに。彼はバーサをイギリスへ連れ帰り、ソーンフィールドの屋敷の一角に閉じ込め、プールという女を見張りにつける。ところが彼女は口は堅くて信用できるものの、酒好きで時々酔って寝込んでしまう。そのスキにバーサが抜け出し、うろつき回ったり放火したりするわけだ。そこらへんの事情は映画ではほとんど説明されず、バーサの存在が明らかになると、ロチェスターは父のせいで・・と弁解。そこらへんはちょっと情けない。「杉の柩」でも精神異常の妻と離婚できなかった男性が出てきたが、ロチェスターもバーサと離婚できず、苦悩の日々を送る。そんな時に妻とは正反対の清純でしかも知的なジェインが現われたのだ。ロチェスターが重婚の罪を犯そうとしたのも無理はない・・と言うか、正直に言えばよかったのに・・と言うか、それじゃ小説にも映画にもなりませんてば。要するにロチェスターは完璧な人間ではなく欠点もいっぱいあるってこと。ジェインだってロチェスターが思うような妖精ではなく、生身の人間。死が間近のリード伯母に「私はあなたを許します」なんて、ちょっと傲慢。いくら子供だったとは言え、10歳の頃のジェインは意地っ張りでかわいげのない、扱いにくい子供。リード夫人から見れば家の中の平和を乱す厄介者。年を取ってから読み返すと、リード夫人の立場もわかる。乱暴者の長男ジョンには情状酌量の余地はないけどね。映画でのジョン役クレイグ・ロバーツは乱暴なだけでなく異常さも感じられ、なかなかよかった。求婚を受け入れ、幸せの絶頂だったジェインだが、バーサの存在を知り、絶望の淵に。ソーンフィールドを飛び出し、荒野をさまよう。やがて牧師のセント・ジョンとその妹達に助けられ、農民の娘達を教えるという仕事につく。
ジェーン・エア(2011)3
映画ではソーンフィールドとセント・ジョン達のいるモートンとの距離が近く思える。原作では馬車に乗せてもらい、持っているお金で行けるところまで行く。下りる時にわずかな荷物も忘れてしまい、文字通り身一つになる。その後乞食同様にさまようのだ。映画では馬車はなく、荒野をさまようだけなので、それほど遠くまで行けたようにも思えない。ソーンフィールドの火事のうわさなど届いてもおかしくない。ワシコウスカを見るのは初めて。グウィネス・パルトロウとシシー・スペイセクをミックスしたような感じ。この映画の成功は大部分彼女の起用にある。色が白く細い。首が長く、優雅。口数は少なく、ずっと耐えているが、心の中ではいろんなことを考えている。それが時々奔流となって外へ流れ出す。ロチェスターに髪に差してもらった小さな花を手に取って見るシーンのいじらしさ。あふれ出る喜びのういういしさ。まだ若いけどどんな役のどんな感情でも表現できるようななかみの濃さ、豊富さを感じる。ジェインに年齢が近いのもいい。他の映画だとジェインはたいていオバサン。ブランシュは25歳で、たぶんこの後は一気に劣化が始まるのだろう。彼女やリード夫人のヘアスタイルや衣装、化粧は我々から見るとちょっとヘン。ところで最近一つ利口になった。原作を読むとブランシュ・イングラムのことをイングラム嬢と呼んでいる。他にもイライザ・リードのことをリードお嬢様とか。「ジェイン・オースティンの手紙」を読んで、その理由がわかった。例えばジェイン・オースティンの場合は次女だから、ミス・ジェイン・オースティンと呼ばれる。長女のカサンドラはミス・オースティンと呼ばれる。場合によっては、あの人は長女なので、上の名前がなかなか確かめられないなんてことも。男性も同様で、長男ならミスタープラス苗字。二番目からはミスタープラス名前プラス苗字。話を戻して、ロチェスターがラストで盲目なのは原作通りだが、ヤケドも何もなしなのはちょっとおかしい。片腕も失っていない。家政婦頭のフェアファックス夫人役はジュディ・デンチ。原作だと夫人は火事の後暇を出されるが、デンチだとそうはいかない。監督やプロデューサーの方が暇を出されちゃう。だからラストもノコノコ出てくる。助けてあげられたのに・・とくどくど言うけど、ジェインはロチェスターのことで頭がいっぱいで、うわのそらなのが笑える。
ジェーン・エア(2011)4
セント・ジョン役はジェイミー・ベル。他の作品だと彼は全く出てこないか、チョイ役。まあ私が見てないだけで、出番の多い作品もあるのかもしれないが。彼や二人の妹ダイアナ、メアリは実はジェインのいとこ。ずいぶん都合のいい設定だが、それが小説というものだ。それと、「ジェイン・オースティンの手紙」を読んで感じたが、独身のまま一生を終える者もいるが、うじゃうじゃ子孫を残す者もいる。あっちこっちに親戚がいるのだ。どこかに血の繋がった誰かがいてもおかしくない。全く別の階級・・片方貴族で片方農民というのなら接点もないが、同じ階級の中なら・・意外と世間は狭いかも。セント・ジョンは美男子で、金持ちの令嬢ロザモンドは彼を恋している。彼も引かれているのだが、決して態度には出さないよう努めている。彼にとっては信仰が一番で、インドへ伝道に行くのが自分の使命だと思っている。ロザモンドにはそんなのは無理で、したがって彼女に愛想よくして希望を持たせたのではかえって酷なのだ。結局彼女は自分と釣り合った相手と結婚することになる。ロザモンドに比べるとジェインはしっかりしているし、困難にも耐える強い精神力がある。彼の妻としてインドへ行くのにこれほど最適な女性はいない。しかしジェインには彼のことは兄としか思えない。妹として、牧師補として、助手としてならついて行ってもいいが、結婚はできない。セント・ジョンはお互い独身のままじゃまわりの目もある、誤解されると反対。ダイアナは兄がジェインと結婚してくれればこんなにうれしいことはないと喜ぶが、セント・ジョンの考えを知ると、すぐにジェインの味方をする。愛のない結婚なんて、過酷なインドへ行くなんてとんでもない!ジェインとロチェスターは反発し合いながらも強く引かれ合った。ジェインは彼を愛していたけど、重婚や愛人という立場は問題外。セント・ジョンとジェインの場合はどこまで行っても妥協点は見い出せず平行線。ロチェスターとの関係と同じくらい興味深いが、映画化されるとこちらはバッサリカットされてしまう。ロチェスターとの愛だけが強調されるのだ。作り手がそうしたくなるのは十分わかる。ただ、この映画ではセント・ジョンの描写は多い方だ。
ジェーン・エア(2011)5
ベルは背が高くもないし、整った顔立ちでもない。地味で平凡で全然シャーロット・ブロンテの関心も引かなかったけど、結局は結婚することになった牧師補アーサー・ベル・ニコルズの方にむしろ似ている。ジェインがもっと世界を見たい、自由になりたいと願ったように、セント・ジョンもここを離れ、インドへ行くことを熱望している。二人には似たところがあるのだ。でも決定的に違うところもある。セント・ジョンはジェインの方を見ていない。彼が見ているのは神の世界だ。映画はジェインがロチェスターと再会するところであっさり終わるが、原作ではその後も書く。バーサが死んで障害もなくなり、ジェインはロチェスターと結婚する。子供も生まれる。少したつと彼の片方の目が少し見えるようになる。アデルを引き取る。結婚したダイアナやメアリと行き来する。セント・ジョンは10年後にはインドで死の床にあるが、自分の念願がかなったのであるから満足している。要するにジェインは行かなくて正解だったってこと。そういうセント・ジョンの身も心も神に捧げて悔いることはないという崇高さは、映画からはあまり伝わってこない。映画だと愛のない結婚を迫る狭量な男に見えてしまうのが、ちと残念。アデルに一曲歌わせる代わりに、ロザモンド出してきてセント・ジョンの心の揺れを描いてもよかったような。まあ、いいや、ベルを見ることができただけでよしとしよう。行き倒れたジェインを抱いて運ぶなど、意外と力あるのね。メイソン役はハリー・ロイド。「ルイス警部」で見たばかり。バーサに襲われた時、何もセリフなしなのがちと残念。原作だとバーサはロチェスターより5歳年上。ロチェスターは40歳くらいだから、バーサの兄となるとメイソンは40代後半のはず。ロイドじゃ若すぎるね。さて、私がこの小説を読んだのはたぶん小学校か中学の図書館で借りてだろう。その後河出書房から出ているのを買って、くり返し読んだ。ジョーン・フォンティン主演の映画の写真がついている版である。それでいてその前に読んだ方の挿絵とかよく覚えている。ジェインがロチェスターとブランシュの仲を誤解して悲しんでいるところ、雨に濡れ荒野を這っているところ。ヘレンが本を見せてくれる時の言葉は確か「ごらんになってもいいわ」。河出版は「見てもいいですわよ」。私は前者の方がいいな。