主人公は僕だった

主人公は僕だった

出演者とだいたいのストーリーはわかっていた。みゆき座、レディス・デー、お客は50~60人。何でも数えるってのは私も覚えあるな。階段、歩数、洗濯完了のピーピー音、電話のベル(うちはいまだに黒電話)、日記を書く時の字数(「さるさる日記」は一回1000字まで。うっかり字数オーバーしたまま登録しようとして、全部内容消えちゃった苦い経験あり)などなど。主演はウィル・フェレル。「奥さまは魔女」はよくなかった。「おさるのジョージ」は見たのは日本語版だったし。でも今回はよかった。こういう抑えた控えめな演技もできるのだ。見直した。でも・・彼のキレた演技期待した人は拍子抜けしただろうけど。会計検査官のハロルド。何でも数を数え、判で押したような几帳面な毎日を送る。彼の仕事は人にいやな顔される。お菓子屋のアナ(マギー・ギレンホール)もそう。どこの国でも税務署関係の人は嫌われるのね。ストーリーはファンタジーっぽい。パンフを見てわかったけど、監督のマーク・フォースターは「ステイ」の人。一般には「チョコレート」や「ネバーランド」で知られているけど、私は見たことなし。「ステイ」は凝っていて不思議な作り。思わせぶりな展開で最後まで持たせる。登場人物が皆深刻な顔をしていて、いったいどうなるんだろうと思わせておいて・・。わざとらしさが鼻につくが、見終わった後は奇妙に物悲しい。「ステイ」にくらべるとこっちはコメディー仕立てだが、ゲラゲラ笑うようなところはないの。ありえないストーリーだけど、天変地異とかじゃなくて一人の人間のこと。スケールは小さいしチマチマした印象。ある日突然頭の中で誰かの声が聞こえる。まるで自分の人生説明するナレーターのような・・。その声に自分は死ぬって言われて・・。そりゃあわてるよな。自分はどうやら小説の主人公らしい。書き手は自分を殺そうとしている。逃れる方法はないのか。書き手のカレン(エマ・トンプソン)は最後に本を出してからもう10年たってる。要するにスランプ。いつも主人公は必ず死ぬ悲劇ばっかり書いてる。でも今回はうまく殺せない。出版社から助手としてペニー(クイーン・ラティファ)が送り込まれてくる。要するにとっとと書き上げろってこと。一方ハロルドはカウンセラーやら精神科医やらではらちが明かず、文学の専門家ジュール(ダスティン・ホフマン)を訪ねる。

主人公は僕だった2

この映画の見どころは、エマのスランプ作家ぶりなんだろう(たぶん)。ペニー役は別にラティファでなくてもいい。ホフマンはいい味出してる。大学で講義し、プールの監視をし、文学の研究をし・・それとコーヒー中毒らしい。他にリンダ・ハント、トム・ハルス(「アマデウス」に出てたそうな)。さて、ハロルドは面白味のない人間ではあるけれど、それなりにジョークも言う。仕事を終えて帰るアナにかけ寄り、小麦粉を渡す。いろんな小麦粉の袋・・変わったプレゼントだけど花の代わりだ。花と小麦粉はつづりは違うが、どちらもフラワーと発音するのだ。いかにもハロルドらしい控えめなジョークではないか。さて・・見ていて感じたのは、カレンがあんなふうにスランプなのは、もう主人公を死なせるのがいやになっているからだと思う。パンフのエマのインタビューによると、カレンには自殺願望があるのだそうな。別に飛び降りたりしなくても、彼女はひっきりなしにタバコを吸っているから間接的に自殺をはかっていると言えるけど。主人公を殺せないのは、彼女の中に生きたいという願望があるからだ。生きたいと死にたいがごちゃまぜになっているからスランプから抜け出せないのだ。主人公が死ぬ方が作品は傑作になる。でもそれで自分が苦しいのなら、主人公を生かす結末にし、その後の経過(自分の精神状態の)を見ればいい。準傑作(?)でも自分は今同様苦しいのか、それとも少しは楽になれるのか。今が自分に貼られたレッテルをはがすいいチャンスだ。しかしこれ以上ないという小説の結末(もちろん主人公は死ぬ)を書き上げ、ジュールは傑作だと言い、死にたくないハロルドもこの結末しかありえないと納得し、死を受け入れ・・おいおい、変な方向にころがっているぞこの映画。どう考えたって小説より人間の命の方が大事だろうが。ますます笑えないぜ。みんなして真面目にどよ~んと・・。あのさぁ、主人公の名前がハロルドだからハロルドが死ぬハメになってるんでしょ?主人公の名前だけ別のに変更すりゃいいじゃん。そうすりゃハロルドのことじゃなくなって万事オッケー。名前変えたって傑作に変わりはなし簡単じゃん。それと画面に数字とかいろいろ出て・・やりすぎなんだってば。もっとシンプルに行こうよ。せっかくフェレルがすばらしい演技してるんだからさ。・・てなわけで「作り手はやりすぎだった」でした。