レベッカ

レベッカ

原作は何度もくり返し読んだ。奥付を見ると昭和42年になっている。もうすり切れ、しみだらけで、はずれたページもある。河出書房から発行されたそれは、表紙がジョーン・フォンティン。映画の写真も何枚か載っている。映画自体を見たのはずっと後だ。監督がヒッチコックというのもだいぶ後まで知らなかった。小説の出版は1938年。映画の製作は1940年で、ずいぶん早い。ヒッチコックの渡米一作目となったこの映画は、アカデミー賞作品賞と撮影賞をとっている。私は音楽もいいと思うが。でも最初見た時は何じゃこりゃだった。原作を知らないで見るのなら、そんなものかと思うのだろうが、読んだ後で見ると、どうしても譲れない一点があるのだ。それは後で書くけど。ヒロインには名前がない。「わたし」としか表記されない。とても変わった名前で、綴りも難しいらしい。映画はそうもいかないので、マリアンという名になっているらしいが、セリフにあるのかどうかは知らない。フォンティン扮するヒロインは、ヴァン・ホッパー夫人のコンパニオンとして季節はずれのモンテカルロにいる。両親をなくし、働かなければならないが、これと言った才能も特技もない。たぶん21歳くらいで、ぱっとしない、垢抜けない女性である。あれこれ頭の中で考えすぎるタイプ。ヴァン・ホッパー夫人があれほど有名人好きで、あつかましい性格でなかったら、彼女はマキシム・デ・ウィンター(ローレンス・オリヴィエ)と知り合うこともなかっただろう。映画では崖の上に立っているマキシムを見てヒロインが自殺と勘違いするという、いかにもな出会い。彼はマンダレイという壮麗な城に住んでおり、一年ほど前愛する妻レベッカをボート事故でなくし、いまだに立ち直れずにいるという。ヴァン・ホッパー夫人が風邪で寝込んだせいもあって、ヒロインはマキシムと楽しい日々を過ごす。ダンスをしたりドライブをしたり。ダンスの時の目を閉じ、うっとりと夢見心地のヒロインがういういしい。車の助手席で浮き浮きしているのもかわいらしい。ある日ヴァン・ホッパー夫人がニューヨークへ帰ると言い出す。悲しみに沈むヒロインに、マキシムはいきなりプロポーズ。明るく、天気がよく、開放的なモンテカルロ。大金持ちの貴族のやもめに見初められた若くて貧しい女性。典型的なシンデレラストーリー。

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映画は131分と長いので、出会って結婚するまでの他に、冒頭の夢とも回想ともつかない部分もちゃんと入ってる。出てくるマンダレイは焼けた廃墟だ。いかにもミニチュアと書いてる人もいるが、ちゃんと出してきてくれたことの方を評価したい。この映画を見る時はどうしても「巌窟の野獣」と比べてしまう。イギリス時代最後と、アメリカ一作目。同じダフネ・デュ・モーリアの原作。まあこちらの方がずっとマシな出来である。あっちははっきり言って悪夢。白黒ではあるが、豪華さは十分伝わってくる。マンダレイの高い天井、大きな窓、カーテンやベッド。ホールは広く、左右に階段が伸びる。迷子になるくらい広い。ただ、窓から見える景色、部屋の向こう側等は絵だろうな。ヴァン・ホッパー夫人が退場するモンテカルロのホテルのシーンは、ドアの位置とすぐ横の窓から見える景色が合ってなくて、気になった。車のシーンも合成丸わかり。斜め前から扇風機で風を送っているのだろう。ヒロインの髪(だけ)がなびくように。マキシムの方には風が行かないようにしてあるに違いない。帽子が脱げると困るから。もちろんヒッチコックだからヒロインを美しくとる。泣いても笑ってもおびえていても。寝ている時も起きている時も。人と話す時も半分くらいは目をそらす。観客の方に顔を向ける。首を傾げる。あるいは美しい横顔強調する。ヤローをうつす時はそんな手間はかけない。夢のようなハネムーンを終え、マンダレイに着いたヒロイン。システムができ上がっているところへぽとんと落とされ、場違いな存在であることを思い知らされる。ヴァン・ホッパー夫人は、自分の知らないうちにヒロインが玉の輿に乗ったのがおもしろくない。しかしすぐショックから立ち直り、今度は保護者ヅラをしてマキシムに近づこうとするが、すげなく断られる。去り際の捨てゼリフは、ヒロインの心に重くのしかかる。「あんたにマンダレイの女主人が務まるはずがない」「結婚するのはあんたを愛してるからじゃない」原作はかなり長いが、その中からうまく拾い上げて描写してあると思う。ヴァン・ホッパー夫人がクレンジングクリームの中にタバコを突っ込むシーンもちゃんとある。全体的にあまり変な方向(「巌窟」のような)へ行かずにすんでいるのは、プロデューサーがデヴィッド・O・セルズニックという大物で、ヒッチコックも彼の意向には従わざるをえなかったからか。

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脚本に関わることができなかったのも幸いした?ネットで調べてみたら裏ではいろいろあったようで。オリヴィエはヒロインをヴィヴィアン・リーにやらせたかったが、あまり知られていないフォンティンに決まってしまった。それが不満で撮影時彼女に冷たく接したとか。ヒッチコックはそれを知ると、他の者にも彼女に冷たくするよう働きかけたとか。フォンティンが疎外感、孤独を感じるほど演技に反映されるから・・ということらしいが、ヒッチコックはサドかね。オリヴィエも公私混同してるみたいで、嫌なやつだよなあ。映画にはレベッカは出てこないが、リーはレベッカを思い起こさせる。黒髪の美女で、野望の塊。断じてヒロインのキャラではない。当時オリヴィエは32歳で、マキシムより10歳ほど若い。メイクのせいか、髪のせいか、いちおう老けて見える。私が原作で一番好きなキャラは、マンダレイの財産管理をしているフランクである。内気で誠実な独身男。はにかみやのヒロインも、フランクとは心おきなく話せる。似た者どうしだからだ。映画でのフランクはちょっと太めで、私のイメージとは違う。彼はもっとやせているはずだ!デンヴァース夫人役はジュディス・アンダーソン。彼女のキャラもユニークである。能面のように無表情で、取っつきにくい。マンダレイのいっさいを取り仕切っている有能な家政婦。レベッカの娘時代からの女中・・と言うか、友人で、彼女が亡くなった今も崇拝し続けている。レベッカの死はショックだったろうが、相手が海となればあきらめもつく。むしろ海と戦って敗れて死んだなんていかにもレベッカ様らしい。今でも彼女の居室は生前のままに保たれていて、他の誰にも触れさせない。マキシムは旅行がちだし、彼女は好きなだけ自分の世界に浸っていられる。今でもレベッカが生きていると思い込むことができる。ところが、新しいデ・ウィンター夫人が乗り込んでくるとなると話は別だ。彼女は耐えがたい苦しみ・屈辱を味わうこととなる。表向きは彼女の意地悪でヒロインが苦しむのを見せられるが、デンヴァース夫人も苦しんでいることを忘れてはいけない。彼女のことはあまり説明されない。夫人と言うからには結婚したこともあるはずだが。レベッカを甘やかし、何でも肩を持つ。

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後でレベッカが悪魔のような性悪女だったことが明らかになるが、夫人から見ればレベッカは何をしても許される特別な存在。男遊びだってそうだ。男がすることを女がやって何が悪い。夫人の男性への憎しみ・蔑視は、作者デュ・モーリアの心理も反映してるかも。女だからと押さえつけられるのはもうたくさん。女だって男と肩を並べ、自由にふるまう権利があるはずだ。夫人がなぜそこまでレベッカに入れ込むのかわからないという意見もあるが、自分の夫や子供よりも仕える相手に身も心も捧げ尽くすという人はいるでしょ。春日局とか。ラストは夫人がマンダレイに火をかけ、自分も焼け死ぬ。ここらへんは「ジェイン・エア」のバーサ思い出す。まあ「レベッカ」自体「ジェイン・エア」によく似ているんだけどさ。原作でもマンダレイは焼失するが、夫人は死んだりしない。行方をくらます。自分が死んだのでは負けになってしまうからね。レベッカのいとこで、愛人でもあるファヴェル役はジョージ・サンダース。油気の抜けたようなオリヴィエと違い、こちらはいかにも酒と博打でできている感じ。体が大きく、しゃべり方も声も独特だ。他にレベッカの秘密を解き明かすこととなる医師ベイカー役でレオ・G・キャロル。前にも書いたが、レベッカ本人は出てこない。彼女の痕跡を示す代表は、特徴のあるとがったRという文字である。住所録の表紙、コートに突っ込んであったハンカチ。枕カバー、ナプキン。ヒロインのナプキンにレベッカの頭文字入りのが使われるというのは、ちょっとありそうにないことだ。まあデンヴァース夫人の差し金だろうが。マキシムは服装や髪形には無頓着で、たぶんナプキンにもハンカチにも気づかない。マキシムに気に入ってもらおうと、ヒロインが妙なドレスを着て出てくるシーンもある。レベッカに対抗したいというヒロインの気持ちは痛いほどわかるが、それにしたってひどいデザインだ。後の仮装用ドレスもそうだが、たぶんこういうシーンを入れて、女性の観客の気を引こうって魂胆だろう。話を戻して、ラストシーンは炎に包まれる枕カバーのRの刺繍である。何だか悲鳴でも聞こえてきそうな、恐ろしくも美しいシーンだ。

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セルズニックは火事の煙がRの字になるようにしたかったとか。でも技術的に無理ということでボツ。よかったねえやらなくて。今ならCGでやるだろうけど。原作だとヒロインは「レベッカよりマックスへ」と書かれた詩集の表紙を切り取り、燃やしてしまう。マキシムがヴァン・ホッパー夫人にことの次第を告げている時だ。火をつけてもRの字はしぶとく最後まで残り、炎の中でぐいとそり返る。たぶんこのシーンが映画のラストに転用されたのだろう。仮装舞踏会のシーンはなぜカットされたのだろう。ヒロインはデンヴァース夫人にだまされ、レベッカと同じ仮装をしてしまう。激怒するマキシム、呆然とするヒロイン。原作ではその後ヒロインは悲しみを懸命に押し隠し、女主人の役目を一晩中務める。デンヴァース夫人に自殺をそそのかされるのはその後だ。しかし映画は、始まりかけた舞踏会は結局何も描写されない。どうもここらへんからはしょり感が漂い始める。それまでわりとゆったりペースで来ていたのが、せわしなくなる。サスペンスムードを一気に盛り上げたいという作り手の意向はわかるが、見る方はゴージャスな舞踏会期待して身構えている。肩透かしを食らったような気がするのは私だけではあるまい。まあカットしたせいでお金はだいぶ節約できただろうな。ヒロインがぼうっとして自殺しかけたその時、のろしと言うか花火が上がる。入り江で船が座礁したのだ。ヒロインもデンヴァース夫人もはっと我に返る。・・と言うか、夫人はなぜあの時ヒロインを突き落とさなかったのかね。絶好のチャンスなのに(おいおい)。浜辺はあわただしくなる。マキシムを捜し回るヒロイン。彼はボート小屋にいた。座礁した船の下にはボートが沈んでいた。レベッカのボートだ。船室には死体があった。彼女が行方不明になってから二ヶ月後、女性の遺体が流れ着く。確認に行ったマキシムはレベッカだと断定。死体は一族の墓に埋葬される。でもマキシムにはそれがレベッカでないことがわかっていた。なぜならレベッカの死体をボートに運び、沖で沈めたのは彼自身だったから。さあいよいよ告白タイムですよ!マキシムはヒロインに打ちあける。この日が来るのを恐れていた。レベッカの勝ちだ。

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はいはい、それで?えッ、何?レベッカはけつまずいて転んで死んだ?何それ!オヨヨこれじゃ単なる事故死じゃん。サスペンスムード一挙に崩壊。違うでしょボク、ボクがピストルで撃ち殺したんでしょ。心臓狙ってためらいもなく。血がいっぱい流れて、掃除するのが大変だったんでしょ。それが何でけつまずいて死んだになっちゃうのよ。それに転んだ場所・・縄くらいしか見当たらないわ。どこに当たって死んだのよ。殴ったに違いないというセリフも変だ。そんなことも覚えてないのかよ、しっかりしてよ。そりゃもちろん作り手としては、殺人犯が罰も受けずにすむというのは、ヒロインが殺人犯と末長く幸せに暮らすというのはまずいんでしょうよ。何か大目に見てもらえる言い訳くっつけなくちゃならない。だったら殴られて倒れたレベッカが偶然何か固いものの角に頭ぶつけて死んでしまったとかさ、そういうふうにもできたはず。とにかくマキシムが何もしないのに、レベッカが勝手にけつまずいて即死した以外なら何でもいいから。これじゃあパニくって死体をわざわざ隠すマキシムがとんだあわて者にしか見えないじゃん。余計なことしてその後の年月びくびくして暮らしてるなんて・・コメディーじゃん。せっかく盛り上がったムードはここで一気に盛り下がる。一方ヒロインはマキシムの告白なんてろくすっぽ聞いちゃいない。レベッカは性悪女だった、マキシムは彼女を全く愛していなかった、憎んでいた!!その部分だけで十分。それまでの呪縛から解放され、精神的に一気に成長する。原作でのヒロインは、マキシムが殺人犯であることを全く気にしていない。彼のためならウソもつく、偽証もする、何でもする。審問が始まると、船底に細工がしてあったことが明らかにされ、事故ではないのか・・と騒然となる。マキシム大ピンチ。しかし都合よくヒロインが卒倒して、審問は休憩に入る。事故でないのなら自殺かもという意見も出るが、レベッカはそんな性格ではない。特にファヴェルは成りゆきに不満で、事件の前日にレベッカが書いた手紙をネタにマキシムをゆすろうとする。怒ったマキシムは、フランクやヒロインが止めるのも聞かず、警察署長のジュリアン(原作では行政長官)に事情を話す。

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たぶん彼は、家名を傷つけることやゴシップを恐れてレベッカの言いなりになり、苦渋の年月を過ごすはめになった・・その轍を踏むまいと思っているのではないか。そうやってわやわややっているうちに、ベイカーという医師の存在が浮かび上がり、事態は思わぬ方向へ。ここらへんもけっこう駆け足気味。原作ではヒロインもベイカー宅へ同行するが、映画では留守番。だってみんなと一緒に行動していたのではピンチになりようがないもんね。半分おかしくなったデンヴァース夫人と一緒にマンダレイにいなくてはならない。・・レベッカは不治の病・・ガンにかかっていた。あと数ヶ月の命・・あの日ベイカー医師から告知を受けたのだ。でもただ死ぬのはおもしろくない。マキシムを道連れにし、一生悩ませてやる。つまり、妊娠を臭わせ、誰の子かわからない子がマンダレイを継ぐのだと言ってマキシムを怒らせ、わざと自分を殺させる。そしてそれは成功したのだ。今回事実が判明したせいで、レベッカ自殺説はすんなり受け入れられるだろう。フランクにしろ署長にしろ、うすうす真相には気づいているだろうが、誰かに漏らす心配はない。だからマキシム、フランクにわざわざ「私は殺してない」なんて言い訳がましく言わないの!どうせ言うなら「レベッカは自分でけつまずいて死んだのだ」とちゃんと言え!深夜マンダレイに向かって車を飛ばすマキシム。何だかしきりに胸騒ぎがする。夜明けでもないのに空が明るい。あれはいったい何だ!?一方ヒロインは待ちくたびれて居眠り。そばをローソクを手にうろつくデンヴァース夫人。危うし!ヒロインの運命やいかに!でもここでも思いっきり盛り下がります。デンヴァース夫人ならコーヒーに睡眠薬くらい入れるでしょ。ヒロインがやっと目を覚ますとあたりは火の海!とかさ。ところがマキシムが駆けつけると、ヒロインはあさっての方向から何事もなく姿を現わすの。はい、ピンチもへったくれもありません。しかもヒロインとデンヴァース夫人との間には会話があったらしいんだな。二人が幸せになるのを見たくないとか何とか。だったらヒロインをやすやすと逃すはずないと思うんですけど。マンダレイを焼いて、それで終わりにするはずがない。マキシムを一生苦しめないでおくものか。

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夫人はレベッカを殺したのはマキシムと確信している。そりゃけつまずいて死んだとは思いつかんわな。とにかくあるべきシーンが入ってないので、見ていてもドキドキしようがない。何で何で殺人を事故死に変えちゃったのよ・・と、これが私の譲れない一点。さてと・・ずっと気づかなくて、今頃になって気になる部分というのがあって。マキシムがヒロインに一目で引かれたのは「あどけなさ」のせいである。レベッカのような演技し続ける、まわりをだまし続ける女を見ていた彼は、ヒロインのうぶで垢抜けない様子が新鮮で、とても貴重なものに思えた。「今のままでいてくれ」「ありのままでいい」・・これが彼の本音だ。しかしヒロイン自身はそう思っていない。顔を赤らめたり手がふるえたり、ハンカチを落としたりそういうことのない、落ち着いた大人の女性になりたい。いつまでも子供でなんかいたくない。マキシムと肩を並べたい。数々の試練は・・特にマキシムの告白は彼女を一気に成長させる。正体がわかってみればレベッカはただの薄汚い性悪女だった。しかももう死んでいる。恐れることはない。彼女は何もできない。自信を持った彼女は、マンダレイの女主人としてりっぱにやっていけるだろう。あいにくマンダレイはなくなってしまったが。ところがマキシムはそんな彼女の成長を悲しむのである。あの、私の好きだったあどけなさは消えてしまった。もう二度と元へは戻らない。君は老けてしまった。余計なお世話じゃい!成長して何が悪い!まあ一見ハッピーエンド、恋愛の成就と見えて、実は両者の思いは微妙に食い違っているのですよ。ここがいかにもデュ・モーリアらしい。ヒロインとフランクの会話もけっこう微妙。ヒロインは女性に必要なものは美しさ、知性、教養だと思っている。レベッカにはあるが自分にはないものだ。それに対しフランクは、夫が妻に求めるものは心のやさしさや誠実さ、謙虚さだと諭す。ヒロインにはあるがレベッカにはそれらはなかった。でもヒロインはフランクからレベッカが美人だったと聞いて、どよ~んと落ち込むのである。ほらごらんなさい、心のきれいさが一番と言いつつ、男性がまず目を奪われるのは美しさなのよ!!さて、フォンティンは94歳でまだ存命。姉のオリヴィア・デ・ハヴィランドも95歳で存命。仲が悪いことで有名な二人だが、仲良く長寿を保っている。