ラヴェンダーの咲く庭で

ラヴェンダーの咲く庭で

この頃時々行くようになった映画館で、何とか記念ということでちょっと前のいい映画を数本かけてくれた。一本1000円で一週間ずつ。「ビヨンド the シー~夢見るように歌えば~」とか見たかったけど行けず、「ラヴェンダー」だけ。見逃したことを残念に思っていたのでやってくれてうれしかった。土・日はこむだろうと思って月曜日の午前に行った。そしたらびっくり、客席はぎっしりで前の方が少し空いてるだけ。いい映画を低料金でやればちゃんとお客さんは来るのだなーって改めて思った次第。当然のことながらお客のほとんどは女性でした。女性は「群れ」で来るから入る時は入るのよ。さてこの映画には原作があるのね。見てびっくりしたんだけど短編を一冊の本にしてあるからうすいのよ。いえ本のなかみじゃなくて本としての体裁がさ。1ページに十数行、まるで詩集か童話。5分か10分で読めちゃう。あたしゃもっとこってりした内容・量を期待していたんですが・・。まあ1916年頃の作品を今更分量がどうのこうのと言ったところでしょうがないけど。しかし宣伝文句にはまいったな。ラヴェンダー色の帯には「英国ピアノマンで話題!エリザベス女王も号泣!」ですよ。何か物欲しそうでこの映画のイメージ損なうなあ・・。そりゃ小規模公開だし、作者知られた人じゃないし、売れる時に売っとかないと・・という気持ちはわかるけどさ。それにしたって慎みがないやね。映画の方は慎みがあるのに・・。この映画、アカデミー賞をとったことのある英国の二大女優の共演というのが売りだけど、私はマギー・スミスの方に興味があったので見に行った。「ハリポタ」の予告で見るくらいで、彼女の作品は全然見たことないの。彼女を見ていてなぜかマイケル・ケインを思い出してしまった。何となく顔立ちが似ていません?スミス扮する姉のジャネットは背が高くて目がギョロッとしていて知的で冷静で、枯れた感じ。ジュディ・デンチ扮する妹のアーシュラは小柄で小太りでやや子供っぽい。仲良く暮らしていたのに美しい青年が流れ着き、看護したりしていくうちに小さなヒビが入る。原作では48歳と45歳だが、映画では70歳くらいで、姉妹の年齢の設定はだいぶ違う。だがまあ老齢にしておいてよかったかも。90年前はどうか知らないが、今の人から見ると40代はまだ熟女。20代の青年と恋仲になってもおかしくない。なまぐさすぎる。

ラヴェンダーの咲く庭で2

70歳くらいなら「ときめいてもいいけど成就はムリね」となる。見ているお客も「そうね、ムリね」となって納得できる。二人とも若いアンドレアに思いがけず接して心身が若やぐわけだが、ジャネットの方はいちおう若い頃恋愛・死別を経験しているので何事にも冷静で踏みはずすということがない。アンドレアに接する彼女を、我々は安心して見ていることができる。たいていのお客は「私だったらこういうふうに接するだろう」と思いながら見ていたと思う。アーシュラの方は・・おそらくは子供の頃から蝶よ花よとかわいがられて育ったのだと思う。娘時代も浮かれていて、そのまま中年に突入。誰かを真剣に好きになるとかそういうこともなく、老年になった今も子供っぽい。免疫がないからある日突然出会ったアンドレアに心を奪われてしまう。ウキウキドキドキポワーンとなる反面、今の自分が悔しい。恋愛や結婚の経験もなく老いてしまった自分が悔しい。人生は不公平だと思う。デンチはいかにもせつなそうに演じる。あんなふうに顔を赤らめてポーッとなったり、恥ずかしそうにしたり。思いつめたような目で見たり、夜寝室に忍び込んでアンドレアの髪をさわったり、単語を教えようといろいろやったり・・。ああ何と押しつけがましい!そりゃ気持ちはよーくわかりますよ。遅れに遅れてやっとやって来た「初恋」を応援してあげたくもあります。でも・・結果はわかってる。相手に嫌われるか若い女性に取られるかだ。成就する恋ではない。他の女性はどうだか知らないが、私は「あーやだやだ、私がアンドレアなら逃げ出すな」と思いながら見ていた。姉妹から宝を奪うべく登場するのがオルガ。若く美しく生気にあふれている。きっと才能もあるのだろう。姉妹はオルガが気に入らない。嫉妬する。演じているのはナターシャ・マケルホーン。彼女ってそのはっきりした目鼻立ちのせいか、他人の人生に土足で踏み込んでくるような、そんな印象がある。何もかも姉妹とは対照的で、アンドレアを姉妹の手から奪い去ってしまう。自分かってで合理的で相手の気持ちもルールもおかまいなし。フラッとやってきて災いをもたらし、サッといなくなってしまう。だがこれは見かけ上のことで、彼女は彼女なりにいろいろ考えてはいるのだ。若くて美しく洗練された女性が突然現われて海辺の漁村に住みつく。まわりの者は当然興味を持つ。

ラヴェンダーの咲く庭で3

中でも医師のミードはちょっと自分に自信があるし(漁師にくらべればインテリだし、音楽をやったこともあるんだから芸術家だ!)、妻を亡くし独身だ。だいぶ年は違うがひょっとしたら・・。でもオルガはそっけない。彼女の興味はアンドレアにある。正確に言うとアンドレアの才能に・・。彼女の兄ボリスは有名な音楽家。アンドレアには才能がある。こんなところに埋もれさせておくのは惜しい。何とか兄に紹介したい。だが二人の老嬢が立ちふさがっている。あの二人見るからに手ごわそうで・・。でもありがたいことに二人は村の者とは距離を置いている。そこらへんをウロウロ歩き回ったりしない。身分と言うか格式と言うか、要するに村の者とは階級が違うのである。だから姉妹に知られずアンドレアと外で自由に会うことができる。美しいオルガにアンドレアは当然引かれるし、アンドレアを兄に引き合わせたいという手紙を握りつぶしたらしい姉妹には反感を持つ。ここで二人が恋に落ちてもいっこうにかまわないのだが、オルガはなぜか態度を崩さない。あくまでもアンドレアの才能をのばすことだけに専心する。映画には何も出てこないが、つまり彼女が海辺にやってきた理由は明らかにされないが、私が想像するに、彼女には恋人がいるのだと思う。ふられたけどあきらめきれないでいるのか、結婚を申し込まれたけどふんぎりがつかないでいるのか、まあそこらへんは不明だけど、とにかく気持ちの整理をつけるために都会を離れたのだと思う。アンドレアに心が動いたのは確かだし、アンドレアもその気になってる。でも踏みとどまったのは、彼の才能をのばしたいということ以外に、自分にはやっぱり忘れられない人がいると悟ったせいだと思う。ラスト近く、デビューを飾った華やかな席にオルガがいないのは不自然である。彼女こそアンドレアの才能を見出した功労者なのだからいて当然だし、アンドレアと結婚しようが何しようがかまわない立場にいる。それでも姿を見せないということは・・彼女は恋人を追って去ったのか、あるいはあまりロマンチックではないが一からやり直そうとパリへ絵の修行に旅立ったのか。彼女は一つの才能の開花に手を貸し、それは成功した。あとはアンドレアが自分で自分の将来を切り開いていかなければならない。オルガにはオルガで、また別の切り開くべき道がある。そう考えればオルガが全く姿を見せないことも納得がいく。

ラヴェンダーの咲く庭で4

・・で、話を戻して医師のミードは、アンドレアとオルガの仲を邪推し嫉妬し、あの二人は怪しい・・と警官に吹き込む。このままスパイに仕立て上げられて悲劇に突入かといやな予感がしたが、そうならなくてホッ・・。映画は1936年の設定になっている。戦争の気配がして来始めた頃である。英国の海辺の村でよそ者がドイツ語で話していれば疑られても仕方のないことだ。ところでこの映画で一番不思議なのはアンドレアの素性がはっきりしないことである。普通ならお定まりの記憶喪失となるところだが、彼は違う。ポーランド人で、船でアメリカへ行く途中だった。ケガをし、言葉も通じず、姉妹の家にそのままとどまることになったのはいいとして、船の遭難のことなど全く出てこないのはなぜ?それとも彼だけ落っこちたの?地元の警察に届を出さないのはなぜ?いくら世間と離れて暮らしていると言ってもあの二人の性格からしてこういうことはきちんとするはずだが。さてアンドレアを演じているのはダニエル・ブリュール。彼、誰かさんと違って出演作が順調に公開されているわ、うらやましい・・。見ていて誰かに似ているなあ・・とずーっと思っていて、家に帰ってから思い出したわ。ユアン・マクレガーに似ている。若くてかわいくて憎めない。ハンサムだけどきりっとしてなくてどこかゆるい。口とかアゴとか・・。体もそう。別にたるんでいるとかそういうのじゃなくてどこかゆるい。どこか普通。まあ自堕落な生活しているのに筋肉ムキムキとかそういう不自然な映画って多いから、彼とかユアン見るとホッとしたりして。ダニエル君、これからも活躍するんだろうな・・。ヴァイオリンの演奏は突き刺さるようで、心をゆさぶられるけど、私はどちらかと言うとジャネットの日常に目が行った。アーシュラの日常もほとんど同じなんだけど、彼女の方はあんまりね・・。描かれる日常は単調である。しばしば食卓が出てくる。おなじみの英国料理。英国のお茶。朝の海辺の散歩。庭仕事。ベッドメイキング。編物や読書。外からの情報を伝えてくれるのはラジオ。近所づき合いもなく遺産でつつましく暮らす。つつましいと言っても車はあるし家政婦も雇える。この家政婦ドーカスが何とも言えずいい味を出している。彼女はジャガイモみたいだ。コロコロと太っている。姉妹はアンドレアを大切に扱うが、彼女はジャガイモの皮むきをさせたりする。

ラヴェンダーの咲く庭で5

いい若いモンが仕事もせず、何をフラフラしているんじゃい・・というわけである。アンドレアは言葉が通じないのをいいことにドーカスを「ポテトの詰まったズダ袋」などとからかう。ドーカスの「何を言ってるのやら」というセリフがおかしい。じゅうたんを力まかせにひっぱたくドーカスをからかうアンドレア。「あれでも40年前はすごい美人だった」と村の老人が言うドーカス。原作によれば彼女は息子を二人、海で失っている。彼女は姉妹みたいに浮き世離れした生活を送っているわけではない。お上品な姉妹はベッドから起き上がれないアンドレアの排泄の世話なんかできない。そういうのはドーカスの仕事である。40年前の彼女は美しくてスタイルもよく、何事もきれいごとですませられただろう。だが世間の荒波にもまれているうちにがさつで口の悪い、歩くよりころがった方が速いようなオデブさんができ上がった。働き者で知性も想像力もないが(アーシュラの心理なんか彼女には理解不能だろう)、ラスト近く、アンドレアのコンサートの模様をラジオで聞く彼女は・・。自分の息子のことのように晴れがましく思っている。得意になっている。演奏を聞いて涙を流す。滑稽だが愛すべき婦人である。同じく数十年前はさぞ美しくかわいかったであろうアーシュラは・・。世間の荒波を防いでくれる父や姉の存在があった。彼女は無菌状態のままここまで来てしまった。夢の中にまで妄想が忍び込む。ああ、もっと若い時にアンドレアに出会っていたら・・。いや彼女も出会っていたはずなのだ。彼女が気づかなかっただけだ。彼女の目は他に向いていたのだ。何かぼやけた美しいものに・・。話を戻して・・住まいもいかにも英国っぽい。がっしりとした木の家具。家の中はやたら音がする。床がきしむ。階段がきしむ。ドアがきしむ。家の中でも靴をはいているから足音が響く。冬は、夜は・・冷えることだろう。映画では描写されないが、あの家はきっとすきま風が入るはずだ。英国の家にすきま風はつきものだ。ゆったりしていて毎日お決まりで、何も新しいことを生み出さない単調な生活。でもやらなければならないことがいっぱいあり、手間がかかり、そうやって一日が過ぎていく。日々を重ねることで一つの歴史となっていく。新しいものに出会い、新しいものを生み出すだけが人生じゃない。海辺に住む老姉妹を主人公にした映画にはなぜかいいものが多い気がする。

ラヴェンダーの咲く庭で6

「八月の鯨」とか「バベットの晩餐会」とか・・。老兄弟の映画って・・私はあんまり見たことないな。・・てなわけで決して優雅なティータイムと庭園だけではない英国の暮らしぶりは、見ていて興味深くあきなかった。不自由なんだけど、見ているぶんにはいくら不自由でもこちとらには関係ないしね。一つだけ抜け落ちているなあと思ったのは教会の存在。教会、牧師、日曜日の礼拝。いくら引きこもって暮らしていても日曜日くらい教会に行くはずだが・・。さてラスト、アンドレアのデビューは大成功。コンサート後のパーティでめでたく姉妹と再会。アンドレアには話したいことがいっぱいあったはず。姉妹のおかげで今の自分がある。感謝したい。恩人なのに黙っていなくなってしまったことをわびたい。しかし今やスターの彼はひっぱりだこ。ろくに話もできない。華やかなパーティ会場には場違いな老姉妹。「行きましょう」・・その一言が潔い。わざわざロンドンまで来たけど演奏は聞いたし一目会ったし、もう用はすんだからさっさと帰ろう。ここは我々のいるべき場所ではないし、アンドレアに自分達は必要ない。未練がましく居残ったりしない。廊下を歩く二人の後ろ姿が非常に印象的。・・そこで終わってくれればいいのに・・海辺で散歩する姉妹をうつす。冒頭のシーンにつながる。一波乱あったけど全体を通して見れば老姉妹の人生は何もなかったようで・・ってことなのかな。私はこのシーンが蛇足に思えて興がそがれた。薄暗い廊下、後ろ姿、もうそう長くはないであろう二人の人生・・。でも後ろは振り向かない。背筋をのばし、しっかりと迷いなく歩む。そこで終わりでいいじゃんよ。何でくっつけるかなあ。原作だとアンドレアがいなくなったことを二人が悲しみ、それを乗り越えようとするところで終わり。どちらかと言うと一歩を踏み出すアーシュラ(これからは私が姉を支えよう・・と決意する)に力点がある。アンドレアは恩知らずのままである。映画はちゃんと始末をつける。でもつけすぎる。・・とまあいくらか不満は残るが、いい映画だった。泣ける映画ではなかった。アーシュラには共感できないし、思いつめたようなデンチの演技には嫌悪感を覚えた。私って「こうなりたい」とか「こうなりたくない」とかいう見方をする傾向があるのよ。でもってジャネットの方には何かを与えられたような気がしたわけ。生きていく上での指針のようなものが・・。