2001年宇宙の旅
私は一時期ゲイリー・ロックウッドのファンだったので、映画は見てないけどスチール写真だけ通信販売で買って、モノクロの写真を見ながらどんな内容なのだろう・・とまだ見ぬ映画に思いをはせていた。見ることができたのは民放でのテレビ放映の時で、もちろん吹き替え。内容はさっぱり理解できなかったが、穏やかなHALの声がとても印象に残った。その後BSだと思うが字幕でやったが、HALの元の声もやっぱりとてもよかった。一枚あってもいいな・・とDVDを買ったが、残念ながら吹き替えはなしだった。何度見ても意味がわからないので、小説の方も読んでみた。映画の製作と並行して書かれたから、原作ということにはならないようだ。さらにHALのその後が(ボーマンよりも)気になったので、「2010年宇宙の旅」も読んだ。民放で放映された映画の「2010年」もだいぶ前に見たことがある。こちらは「2001年宇宙の旅」と違ってパニックアクション風だった。もっともあんまりよくは覚えていないのだが。「2001年」を見る時はたいてい猿人の部分を飛ばす。一度見ればたくさんだ。当時映画館で見た人は、セリフがなくキャッキャッとわめくだけの猿人達を見て、さぞとまどったのだろうな・・と思う。SF映画の大傑作ということでじっと画面に見入り、理解しようと心では思いながらも浮かんでくるのは「何じゃこりゃ・・」という当惑感。宇宙船が出てきた時にはさぞホッとしたことだろう。HALの記憶板を次々にはずしていくと突然フロイド博士がうつり、ボーマンは木星探査の真の目的を知らされる。博士の説明が途中までなのは、月でのモノリス発見のいきさつがすでに観客には紹介ずみだからだ。それはいいとしてその後は省略の多いわけのわからないシーンが続く。ラストシーンまでいっさいセリフも説明もなく、見ている者は欲求不満のままほうり出される。この映画の評価が分かれるのは主にこれらのシーンのせいだ。二つの小説を読めばボーマンの身に起こったこともHALが反乱を起こした理由もわかる。わかっても納得できるかどうかは別だが。人類の進化にはある地球外生命の手が加わっていて、我々は実験材料なのだ・・という考えや、宇宙的規模の時間や距離を考慮すると、旅する者は肉体の伴わない意志や頭脳であることが好ましい・・という考えは、この映画(小説)が初めてではない。
2001年宇宙の旅2
例えば小説の「エディプスの恋人」とか映画の「ダークシティ」とか。いくら詳細に説明されても今いちすんなりと受け入れられないのは、ボーマンの場合も珠子の場合も同様で、手っ取り早く表現しようとすれば「ダークシティ」の異星人みたいになってしまう。「2001年」のラスト近くのいろんなシーンはそれらを表現するための一つの方法だと思うが、万人向けの説明でないことは確かだ。モノリスが宇宙空間を飛んでいるところは、私には神秘的でも何でもないヘンテコシーンに見えるし、クライマックスのチカチカは安っぽい作り物で、しかも長すぎる。ラストシーンの胎児は象徴的で、見た人の心に長く残るだろうがそれも「何じゃこりゃ・・」的とまどいとセットで・・である。それまでのディスカバリー号でのシーンがリアルでよかっただけに抽象的なシーンへの切り替えがどうもね。室内のシーンはいいのだけれどそこへ行くまでの万華鏡的シーンは・・。何を言いたいのかと探りながら見たこともあったが、トシのせいか追究するのも面倒で、今では「わからないものはわからないままでいいです・・」と白旗片手に見ている。深遠な真理の追究なんて考えず普通に見る。そしてその方が楽しめる。だからおもしろくない猿人の部分は飛ばし、目が痛くなる長たらしいチカチカシーンではそこらへんの用をかたづける。宇宙ステーションへ向かう機の女性乗務員は頭を帽子ですっぽりおおっている。無重力だと髪がフワフワ浮いてしまうのか、逆さまになって歩いたりするせいか。それにしてのあの歩き方、体に悪い。発見されたモノリスの前で記念写真をとる調査隊。まるで観光客だ。ここでのセットは一見こうやってモノリスを掘り出し、調査のためにまわりを整えた・・というふうに見せているが、私には月のセットはこういうふうに作ってあるのだということを暴露してしまっているように見える。本物にしか見えない月面も、一皮むけばこういうふうに組み立てられているのだ・・と見たくもない舞台裏を見せられた気分にさせられる。舞台裏と言えばボーマンがHALの記憶板を次々に抜いていくシーンが好きだ。巨大で精巧なコンピューターの裏側がどうなっているのかを知ることができる。HALの膨大な知識の源はびっしり並んだ記憶板にあったのか。それをだんだん抜かれてHALは自分を失っていく。感情がないはずなのに「怖い」と言う。
2001年宇宙の旅3
四人の乗組員を死に至らしめた時も、宇宙船に戻ろうとするボーマンを拒んだ時も、HALには相手のことを「かわいそうだ」と思う感情はなかったはずだ。「開けてくれ」と言うボーマンに「申し訳ないができません」と言ったとしてもそれはただの音声であり、感情から発せられたものではない。開けないと決定したHALの決断に変更の余地はない。この時の大きなディスカバリー号と小さなスペースポッドがにらみ合っている(ように見える)シーンはすごい。「怖い」という言葉だってただの音声だろうが、聞く方には真の恐怖心から発せられたもののように聞こえる。自分のこととなると話は別で、やっぱり自分がかわいいのか・・と親近感さえいだいてしまう。だんだん初期の状態に戻り、感情めいたものがなくなり、機械的な声になり、最後には歌を歌っている途中で止まってしまう。そうなると今度は彼がかわいそうに思えてきてしまう。我々が普段目にしたり、使ったりするコンピューターはすでに完成したものだが、最初はカラッポであることは言うまでもない。気の遠くなるような長い道のりを経てプログラミングがなされるのだ。このシーンを見てHALだって最初は白紙だったのだ。彼をこういうふうにしたのは結局は人間なのだ・・と考えさせられた。コンピューターの反乱というと最近では「バイオハザード」のレッドクイーンを思い出す。「2001年」から30年以上たって、映像技術も進んだのだから、自由に動く手足があって、回線を通しての暴力だけでないもっと直接的な暴力の描写も可能だろう。自分では動けないHALとは違う動き回る機能とか、スイッチを切ってどうこうするというのじゃない相手への攻撃方法とかね。まあすでにそういう映画が作られているのかもしれないけど、どんなコンピューターが登場してもHALの魅力にはかなわないだろうな。レッドクイーンも粗暴なだけで魅力はなかったし。ディスカバリー号、イカリングみたいな宇宙ステーション、スペースポッド、HAL・・この映画の魅力はこれらの機械や、月や木星などの自然にあると思う。主役は人間以外のものだ。映像は重厚で迫力があり、音楽が耳について離れないが、それでいて無音の恐ろしさも伝わってくる。その中でたった一人生き残って、地球に戻って行くのならまだしも反対に遠ざかって行くというボーマンの孤独感、絶望感。まああんまり想像したくない状況ではある。
2010年
先日の「サンダーバード」と言い、今回の「2010年」と言い、NHKにはホント感謝している。でもなぜ「2001年宇宙の旅」の前に「2010年」?やっぱり真打ちは最後にってことかな。まあいいけど。民放では吹き替えだったし、カットされてたし、大昔に見たしで、前にも書いたけどパニックアクション風だと思っていた。ロイ・シャイダーが一人ではりきっていたような・・。今回ノーカットで見てそうでもないってことがわかったけど。BSで見た後、DVDを買った。ところどころBSと字幕が違っていて興味深い。短いけれどメイキングもついている。文庫の訳者あとがきに、原作者のアーサー・C・クラークが撮影の終わり頃に渡米し、ゲスト出演を果たした・・と書いてある。映画の最初の方でフロイドとミルソンがホワイトハウスの前で話すシーンがある。この時のフロイド達とは少し離れたベンチで鳥にエサをやっている老人がクラークさんなのかな。ボーマンの妻(と言ってもボーマンは死亡したとみなされているので、すでに再婚している)が見ているテレビのCMは「2001年」の1シーンだ。この映画ではアメリカとソ連が戦争状態になるという設定だが、1984年当時はソ連が崩壊するなんて誰も思っていなかった。ボーマンの老いた母が入院している病院で、看護婦が「タイム」を読んでいる。表紙には「戦争か?」とある。そこに描かれている二人はだから最初はアメリカの大統領とソ連の首相だと思っていた。ところがよく見てみると一方はスタンリー・クーブリックだし、もう一方はアーサー・C・クラークである。「2001年」の時にはクラークはクーブリックに振り回されて大変な思いをしたらしいから、これを見たお客は思わずニヤリとしてしまうだろう。「2001年」の続編という重圧を感じさせないこの余裕。「2001年」はSF映画の最高傑作というお墨付きで、単なる映画ではなく芸術作品である。「2010年」は他の多くの作品同様単なる娯楽のための映画で、消耗品である。でも作った人の意地は強く感じられる。多くの人が「2010年」に求めるものは「2001年」という映画の謎解きである。HALはなぜあんなことをしたのか、モノリスに吸い込まれる前ボーマンはポッドに乗って何をしていたのか。たいていのことは小説を読めばわかるのだが、それでも映像による謎の解明に期待してしまう。
2010年2
その点ではこの映画は親切である。ボーマンが全知全能とまではいかないけれど、ある種の力を持った存在に生まれ変わったこともわかる。しかしモノリスの意味は相変わらずはっきりしない。何となくわかるけど言葉では表現しにくい存在だ。映像から見てディスカバリー号を忠実に再現してくれているのはうれしい。クーブリックは他のSF映画に流用されないようディスカバリー号の模型も設計図も全部処分してしまったそうだ。あれだけのものをもったいない。でもクーブリックの中ではあれはもう完結してしまっているのだろう。ディスカバリー号は汚れていてもとんぼ返りを打っていてもその姿は優美である。ソ連のレオノフ号は不格好であんまり魅力がない。ちょっとイメージとは違う赤い木星が出てくるが、それはまあいいことにしよう。クライマックスでは黒い点がだんだん木星の表面に広がっていく(その正体は増殖したモノリスなのだが)のだから、木星は明るい色をしていないと絵にならない。ただここで起こっていることが見ている者にちゃんと伝わったかどうか・・。私は前に見た時には意味がさっぱりわからなかった。今回は原作を読んでいたので、木星が内側に急激に収縮した後大爆発を起こし、超新星になったのだとわかったけど。映画はちょっと描写不足かな・・という気がする。この映画は謎解きの任を負っていて、それはまあちゃんと果たしていて、ではそれ以外のことはどうなのだろう。作る側はただの続編で終わりたくないはずだし・・。この映画の主題は協力とか和解といったことだと思う。アメリカ人であるフロイドに木星へ行く話がソ連の科学者から持ち込まれた時、米ソ関係は悪化しつつあった。レオノフ号が木星に近づいた頃にはほとんど戦争状態だった。しかし木星が爆発して太陽となり、空に二つの太陽が輝くのを見た両国の大統領と首相は和解する。宇宙からメッセージが到着し、地球以外にも知的生命(それも太陽を出現させるようなとほうもない力を持った)が存在することがわかった。地球の中でいがみ合っている場合じゃない・・って。もっとも映画では未知の存在を知って敬虔な気持ちになったように表現されているけど、私には宇宙人に攻撃された場合を考えてひとまず手を結んでおけという打算的な和解に思えてならない。ラストは木星の衛星の一つ、エウロパでのモノリスをうつす。
2010年3
足を踏み入れてはならないと言われたエウロパはそのうちに豊かな水をたたえ、植物が生い茂るようになる。「2001年」で人類の発達にモノリスが力を貸したように、ここエウロパでもこれから生物が発達していくのだろう。気の遠くなるような先のことなのだろうが。原作には米ソの政治的対立なんて登場しなくて、こっちの方、つまり地球のはるか昔からエウロパの遠い未来まで続くモノリスの役目の方が、主題になっていると思う。さて「2010年」は「2001年」のような何とも言えないすごみや重みの感じられない普通の映画である。毎日新聞のテレビ欄ではオススメ度は☆だった。星一つは「時間があれば」という程度の評価である。ずいぶん低い評価だと思う。私の中ではこの映画は実はけっこういいセンいっている。前半はまあどうってことない。フロイドをあんなふうにセクシーに描く必要はないと思うし、マックスを途中で死なせる必要もない。こういう映画のお約束で、誰かが命を落とすことによって盛り上げようとするわけだ。原作では誰も死なない。登場人物が多く、「2001年」のファンが期待する宇宙の静けさとか、限りなく低い人口密度(つまり孤独感てこと)とかいったムードはなく、伝わってくるのは「にぎやかさ」である。こちらは活気のあるSF映画を求めているわけではないのでちょっと失望する。しかしディスカバリー号が登場し、レオノフ号との間に連絡橋が渡され(ここは「サンダーバード」の7話を思い出してしまう)、「2001年」と同じセットが再現され・・とだんだんいいムードになってくる。そして何と言ってもHALの登場。チャンドラのHALへの愛情は見ている者の心を打つ。機能を回復し、あいさつするHALの赤い目の上にそっと手を置いてやさしくなでるシーンがいい。そのすぐ後のシーンではフロイドとカーナウが万一の場合に備えてHALの回線を切る相談をしている。HALを信頼しているチャンドラと信頼していないフロイドの対比。モノリスに遭遇する前に回線を切られたため、HALにはフロイド達が期待する情報は何も残っていなかった。しかしHALの故障の原因はわかった。矛盾した命令を与えられたためHALは狂ったのである。さて大した成果もなく、米ソ関係の悪化によって両船は帰還することになる。ところがフロイドの前にボーマンが現われ、二日以内に立ち去るよう警告する。
2010年4
ボーマンはフロイドにも妻のベティにもこれから何が起こるのかはっきりとは言わない。「あることが起こる」「すばらしいことだ」・・ベティに会うためにはるばる地球まで飛んでいって、何を言葉をぼかしているんじゃい・・と思ってしまう。フロイドの前にだけ現われたのではソ連の隊員を説得するのは難しいに決まっているのに、それでもフロイドの前だけに姿を現わすボーマン。ここらへんは定石通りという感じで物足りない。そのうちに木星の近くに浮かんでいたモノリスが消えてしまい、木星の表面には不気味な黒点が現われる。なぜフロイドが出発を急ぐのか不審に思っていた他の乗組員も異常を感じ、発進の準備にかかる。結局フロイドはボーマンのことはしゃべらなかった。誰も信じるはずがないからだ。それでも強い反対が出なかったのは、誰だって早く地球に帰りたいからだ。計算された日より早く出発することは、地球への帰還軌道に乗るのによぶんな燃料を必要とすることでもある。レオノフ号の燃料切れを防ぐためにフロイドが考えたのは、二つの船を合体し、ディスカバリー号を発進に利用することだった。軌道に乗ったところでディスカバリー号を切り離し、レオノフ号だけが地球へ向かう。ここらへんはまあわかる。ディスカバリー号は発進に耐えきれなくなった場合は別として、発進の後で爆発するわけでもないし、そのまま燃料切れの状態で木星のまわりを回り始める。この時点では木星が爆発するなんて誰も知らないから、ディスカバリー号は何年か後にまたやってくる探検隊によって回収されることもあるだろうとみんなは考えている。それなのに何でチャンドラは「ディスカバリー号を破壊するんだぞ」なんて言って発進に反対するのかな。ここらへんは映画と原作では感じが違う。当然なことだがチャンドラはこの計画には気が進まない。フロイドやカーナウはHALに愛着など持っていないからウソでも何でもいいからHALを説得しろと言う。HALにはウソは絶対だめだってことは証明ずみなのにまたしても・・。「人間でも機械でも敬意を持って扱うべきだ」と言うチャンドラも、カーナウに「どっちが優先だ?人間だろ」と言われればそれ以上は何も言えない。「機械にも敬意を」という言葉は「A.I.」を思い出させる。HALの任務は木星の観察なので、予定より早い発進とそのやり方について、当然疑問をいだく。
2010年5
噴射のカウントダウンをしながらもHALはチャンドラに質問を浴びせる。チャンドラも決心して真実を話し、HALは納得する。この息詰まるようなシーンは原作にはない。立ち去るまでの猶予期間も15日間だったし、木星が爆発する頃にはレオノフ号は木星からかなり離れていた。映画はテンポが速いだけに緊迫感があり、感動の度合いも大きい。その一方で最大出力で噴射をしている宇宙船のそばをうろうろしているチャンドラがなぜ吹き飛ばされないのか・・とか、あんなに近くで木星が爆発したんだからレオノフ号の軌道がずれるはずだ・・とか、木星の衛星達が影響(太陽が出現したことによる気候の変化のことではない。今まで釣り合っていた引力のバランスが崩れて大変なことになると思うのだが・・)を受けるはずだとかいろんな疑問がわく。まあそれはいいとして映画での運命を受け入れるHALの姿にはホロリとさせられる。「理解しました」という言葉、「真実をありがとう」という言葉。その一方で続けられるカウントダウン。機械として正確に仕事を続けながらも、一方では非常に人間的な面を見せる。疑問を持ち、納得のいく答えを求め、事実を受け入れ、感謝し、別れを告げる。HALが行きついたのは非常に人間的な自己犠牲という境地だった。もちろんそこにはセンチメンタルな部分はないんだけれど、見ている者はどうしてもHALを人間として見てしまう。レオノフ号が発進し、ひとりぼっちになってしまったHAL(ここがまた泣かせる。誰もいなくても仕事を続けるけなげさに胸キュン)にボーマンがやさしく呼びかける。「2001年」と同じHALの「怖い」という言葉。今回の「怖い」にはボーマンへの甘えすら感じられる。より人間に近くなっているHAL。地球へのメッセージを送信しているうちに爆発の衝撃でディスカバリー号は消滅。この部分は原作ではちょっとホッとする書き方になっている。映画は当然のこととしてフロイドを前面に押し出し、いろいろ活躍させている。しかし機械を何かの手段としか考えないフロイドは私には魅力的でも何でもなくどうでもよかった。この映画は「2001年」以上にHALを魅力的に描いている。その点では非常にうれしかったし、そのことでこの映画への私の評価も高まった。HAL役のダグラス・レインの声の演技には本当に脱帽である。ちなみにSALの声はなんとキャンディス・バーゲン!