真夜中のサバナ
原作はかなり長い。映画も長い。155分もある。ただ、見ていてさほど長くは感じなかった。原作を読んだばかりなので、誰が誰だかわかる。ジム(ケヴィン・スペイシー)は骨董商。家具などの収集、修復をしている。大金持ちで大邸宅に住んでいる。マーサー邸・・「ムーン・リヴァー」などで知られる音楽家マーサーが住んでいた。ジムは毎年クリスマスに豪華なパーティを開く。その取材に訪れたのが作家のケルソー(ジョン・キューザック)。ある晩ジムはビリー(ジュード・ロウ)という青年を撃ち殺す。彼は家具の修復を手伝うなどしていたが、すぐカッとなる性格で、麻薬もやっていた。ジムは正当防衛を主張する。そのうちビリーは男娼で、ジムとも関係があったことがわかる。ケルソーはこの事件を本にしようと取材を始める。原作はノンフィクションだが、100%そうなのかはわからない。途中でジムがケルソーに告白するが、その直後新事実がわかり、裁判に有利になりそうなので、その告白は弁護士ソニー(ジャック・トンプソン)には言わずじまい。告白を聞き、事実を知っているのはケルソーだけ。ジレンマをかかえることとなる。監督はクリント・イーストウッドだが、評判はあまりかんばしくない。ヒットもしなかったようだ。私も見ていて退屈はしなかったが、平板な印象は受けた。もっとも私はイーストウッドの平板さが好きでもあるのだが。美しい風景や風変わりな住民達・・原作通りヒモつきのハエやアブを顔のまわりに飛ばしているルーザー、ジョージア大のマスコット、ブルドッグのウガが出てきたりする。ピアニストのエマやオカマのショーガール、シャブリは本人が出てくる。裁判長役はジムの弁護士を務めたサニー自身だ。そういう見どころは多々揃っているが、どうもねえ・・。特にシャブリは、ただの気持ちの悪いおばあさんで、今にも死にそう(今も生きてるけど)。彼女のエピソードに時間を割いて、かえって焦点がぼけてしまっている気がする。社交界デビューパーティをだいなしにしそうになるのは原作にも書いてあることだが、こんなシーン入れる必要あったのかね。キューザックははまり役(エドワード・ノートンもケルソー役候補だったらしい。彼もこういう役似合いそうだ)だし、スペイシーも悪くない。字幕だと「ああ」と訳される「フーンフン」という相槌が・・その言い方が印象的。
真夜中のサバナ2
ただ、事件の中心人物としてスポットが当たるはずのジムが、他の住民の描写が多いことや、裁判で一番最後に証言するという弁護士の戦略のせいで、かえって印象うすくなってしまった。いつうつっても証言を聞いているだけじゃねえ・・。逆に少しの出番で強烈な印象残すのはロウ。ぎらぎらと輝く邪悪な美しさ。実際のビリーがどういう顔をしていたのか知らないが(DVDには実際のジムの写真はうつる。「ミディアム」のデヴァロスことミゲル・サンドヴァルにそっくりだ)、ここでのロウは大変な美貌である。しかも燃え盛る炎のような手のつけられない性格。男女を問わず引きつけ、酒をがぶ飲みし、車をすっとばし、クスリをやる。これで長生きできるわけがない。それでいて裁判でジムが有罪になり続けたのはなぜなのか。ジムに有利な新証拠が出てきても有罪になってしまうのはなぜなのか。裁判は長引き、四度目には場所をサバナからオーガスタに移し、先入観のない陪審員が審議し、それでやっと無罪になる。事件から8年もたっているが、映画の方は一回の裁判で・・ということにしてある。だからジムがケルソーに告白するのはやや唐突な感じがする。何度も裁判をやり直し、何年もたって、もういいかげん(本人もまわりも)いやになって、実は・・と言い出すのならわかる。実際原作を読んでいて思うが、儲かるのは弁護士だけだ。ただそれだと、作る側がいろいろ面倒をしょい込む。歳月の流れを描写しなくちゃならない。しかも見る者を退屈させずに。実際私は155分もあるのは、裁判が長引くせいだと思っていたくらいだ。でも一回ですませる。他の出演者はソニーの部下ベティ役で「猿の惑星」のキム・ハンター、もう一人ヘンリー役の人はカール・マルデンにそっくりだ。ブーン刑事役は「MOON44」や「VISITOR」のレオン・リッピー、検事ラージェント役は「デッド・サイレンス」や「グリマーマン」のボブ・ガントン。裁判で証言するタッカー役は何とマイケル・ローゼンバウム。ウーム、まだ若い。そしてかげりのあるハンサムだ。ジムが無罪釈放される決めてとなった新証人の看護婦役の太った人は「ザ・シークレット・サービス」に出ていた。ヴードゥー教の呪術師ミネルバ役はアーマ・P・ホール。「ナッシング・トゥー・ルーズ」に出ている。
真夜中のサバナ3
このミネルバの言うことはなかなか深い。呪術と言ってもいろいろで、呪いをかけたり解いたり両方する。ジムは自分の立場が有利になるようミネルバに助力を頼む。ミネルバにはビリーの強い怨念がわかる。ジムを強く恨んでいる。何とかそれを和らげなければならない。ビリーにもいい面はあったはずで、それをジムに話させる。ビリーをおだて、いい気持ちにさせれば呪いもゆるむ。一番大切なのはジムがビリーに毎日許しを乞うこと。後でケルソーがジムに聞く。ミネルバに言われたことをちゃんと実行するのか。ジムは「とんでもない、誰がやるもんか」と一蹴する。彼はミネルバに助力を頼むが、全面的に信じているわけではない。自分に都合のいいことだけを信じ、効果を期待しているのだと思う。本を読んでいる時、映画を見ている時、ジムがミネルバの言う通りにしていたら運命はどう変わっていただろう・・と何度も思った。原作だと三回目の裁判の時、一人だけ強硬に有罪に反対する陪審員がいて、評決がまとまらず、四回目の裁判をすることになるのだが、ミネルバのおかげみたいな描かれ方をしている。映画にも取り入れたらおもしろくなっただろうに・・。さてやっと無罪放免になったジムだが、ほどなく急死する。死んでいくジムの目に見えたのはビリーの幻。事件と同じ部屋、同じ位置。あの日もしビリーに撃たれていたなら自分が倒れていたであろうその場所。ビリー(の幻)と目が合う。ニヤリと笑うビリー。彼の怨念の凄まじさを表わすいいシーンだ。私としてはこのシーンで終わって欲しかったが、映画はこの後もだらだら続く。映画ではケルソーとマンディが結ばれる。マンディ役はアリソン・イーストウッド。実際のマンディとは設定を変えてある。こういう若くてきれいでまともな性格の女性一人くらいは出してこなけりゃ・・他に誰もいないのだ。オバサン、オバーサン、オカマばっかりだから。しかしケルソーとマンディの新生活・・なんていったい誰が見たいと思うだろう。せめてジムの葬儀でのミネルバとケルソーの会話でしめくくって欲しかったな。冒頭とラストに出てくる少女の墓碑がとても印象的だ。何で両手に皿(?)持ってるんだろう。