くちづけはタンゴの後で

くちづけはタンゴの後で

このビデオを見た後、原作を捜しまくり、やっと見つけて勇んで読んだらこっちの方は悲劇だった。しかも非常に後味の悪い。原作ではヒロインは非常な美人。ビルは一目見てその美しさに驚き、恋をしてしまう。映画ではシンデレラストーリーなのにヒロインはブスでずんぐり。髪も服装もダサいし、マナーは知らないし、無教養で汚い言葉を平気で使う。髪を整え、化粧を変え、きちんとした服を着て変身するが、顔立ちや体型はそのまんまだから、一転して美人に・・とはならない。しかしビルと散歩しているうちに彼女はだんだん優位に立ってくる。何たってビルはマザコンぎみのお坊ちゃま。家出をし、男と同棲し、妊娠して捨てられ、職も失い放浪生活・・のコニーにくらべれば世間知らずもいいとこで、他人になりすましているという弱みさえなければ、彼女はいくらだって優位に立てるのである。ビルはコニーが別人であることを調べあげ、母親がコニーに財産を分けようとするのを止めようとする。ところがコニーが固く辞退するのを見て、彼女が財産狙いでないことを知り、態度を改める。タンゴを踊った後でキスをすると、ビルの方はもうフラフラになって舞い上がってしまう。コニーの方はキスをするまでビルのことは何とも思ってなくて、そこで初めて彼が好きなのだ・・とわかる。それまでの彼女にとっては子供がすべてで、ウィンターボーン家にとどまっていたのは子供のためだったのである。子供のためなら何だってやる、「母は強し」なのである。だから恋して舞い上がっているビルなんかもう思いのままにあやつれるのだが、コニーには分別があるからプロポーズされた後屋敷から出る決心をする。・・とまあいろいろあるのだが、絶対ありっこない設定だし、特にパコが駅でコニーを説得する時の言葉なんか、甘っちょろくて聞いていられないよー。コニー役のリッキー・レイクも他にいなかったのかいと言いたくなるような非シンデレラ的顔立ちアンド体型である。だからこれにノレない人は見ていてつまらんだろうし、ブスでデブだからこそリアルなのだと思える人は大いに楽しめるだろう。美男美女のラブストーリーなんて他にいくらでもあるから。私自身は、さしてとりえはないけれど分別はあるコニーを好もしく思う。また人生経験が豊かで、どん底も経験したコニーはビルのよき伴侶となるだろう。見終わってスッキリした心地よい気分になれる映画だ。

くちづけはタンゴの後で2

原作ではスティーブを殺したのは絶対に自分ではないから、相手が犯人なのだと二人が悩み苦しむところで終わる。最初ビルの母親グレースが、死ぬ直前に「私が犯人だ」と告白した遺書を残し、二人は(相手が犯人でないとわかって)お互いにホッとして結婚し、幸せな生活に入る。ところが二通目の遺書があり、それには「私のしたことではない」とあって、二人は打ちのめされそれからは互いに疑って地獄のような日々を送るはめとなる。しかし考えてみればこれはおかしいのである。もしビルが犯人で、そこへ母が「犯人は私」と言い出したのなら、彼は「母は無実だ、真犯人は僕だ」と告白するはずである。なぜならビルは罪を愛する母になすりつけて知らん顔をするような人間ではないからだ。自分が犯人でないからこそ母親の告白を真実と受け止めたのである。ヒロインの場合は、この小説は彼女の行動を追うことで成り立っているから、彼女が行った時にスティーブがすでに死んでいたのなら彼女は犯人ではありえないのだ。もし彼女が犯人ならこの小説自体が成り立たなくなる。二人が犯人でないのなら真犯人は別にいるはずで、互いに相手を疑って苦しい思いをする必要なんかないのである。二通目の遺書があること自体不自然である。真犯人が見つかって二人が幸せに暮らしている場合はこの遺書は彼らをホッとさせるだろう。しかし見つかっていなくて母親が犯人と二人が思い込んでいたらどうなる?しかも二通目のにはまるでビルが犯人であるかのような記述もあるのだ。普通母親がこんな息子の不利益になるようなことをわざわざ書くか?この二通目は真犯人が見つかった場合のみ開封としておけばよかったのだ。二人を地獄へ突き落とすようなことを書いておいて「(自分が無実であることが)結婚の贈り物です」だなんて一人よがりもいいとこ。もし前言を取り消せば二人が喜ぶだろうと単純に考えていたのだとしたら、グレースは重い心臓発作で頭の中が混乱していたのだろう。そういう状態で書かれた遺言状を見せられる若い二人こそいい迷惑である。また二人の方もバカだ。スティーブはいろいろ後ろ暗いことをやってきていて敵も多いのだ。たまたま誰かが先に来て、彼を殺したってことも十分ありうる。告白通りグレースが犯人なのかもしれないし。だから二人が愛し合いながらも相手を疑ってどんなに苦しもうとこっちとしては「ばっかじゃないの?」としか思えない。

くちづけはタンゴの後で3

このように原作は推理小説としては穴ぼこだらけで、ヒロインにも感情移入できず不満が残る。まあこういう表面的な見方をせず、文章を細かく分析すればまた違うのかもしれないが。描写にあいまいなところ、含みを持たせたところはいっぱいありますから。でも私は分析する気はありませんけどね。ヒロインはどうしてビルのことを信じてあげないんですかね。さて映画の方は、きちんと(?)犯人がつかまる。コニーはその女性が自分と全く同じに妊娠を機に捨てられたことを知り、彼女に腕のいい弁護士をつけようと決心する。そういうところが彼女のいいところで、大金持ちになっても変わらない。エンディングに流れる曲は、やっとこさ入手したサントラの中には入っておらずがっかりした。少し前ラジオで流れていて、最初は「聞き覚えのある曲だなあ、何だっけ」とずっと考えていた。あっそうだ・・と終わり頃になってやっと思い出したけど、結局曲名もアーティスト名もわからないまま。残念。監督のリチャード・ベンジャミンは私にとっては俳優のイメージが強い。「ドラキュラ都へ行く」で恋人をドラキュラに取られちゃう情けない男を演じていた。ブレンはこの頃が美しさの絶頂で、この後「ジョージ」のために体型も顔つきも変わっていくこととなる。この頃のブレンを見ていて感じるのは、その透明感である。まるで天使が何かの手違いでこの世に生まれてきてしまったという感じなのだ。この映画では双子を演じているが、大人しいビルよりもややいいかげんなところのあるヒューの方が人気があるようだ。彼は幸せの絶頂にいるというのに、列車事故で死んでしまう。それでいて見ている方には何の悲しみも伝わってこない。それは彼は死んだのではなく、自分が元いた場所に、本来いるべきところに帰ったからである。「帰った」のであるから、いなくなったからといって悲しむ必要はないのだ。見る者にこういうふうに思わせる人ってそうはいない。彼の天使のような美しさ、透明感は残念ながら最近ではうすれて(というか変化して)きている。まあだからこそこの時期のブレンの映画は貴重なんですけどね。さて先週は「バイオハザード」と「ミーン・マシーン」を二回ずつ、今週は「クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア」を四回見てきた。まあ私は必ず二回見るんだけど、「クイーン」はもっと早くに見ていれば十回は見たかもね。すっごく気に入りました。