ダ・ヴィンチ・コードと巌窟の野獣と妄想

ダ・ヴィンチ・コードと巌窟の野獣と妄想

さていよいよ20日から「ダ・ヴィンチ・コード」公開ですよ。私が言わなくても皆様先刻ご承知でしょうが。原作はやっと文庫化されたので早速読みました。テレビの特集番組もそれとなく見ています。ベストセラーは読まないし、大ヒット(たぶんするでしょ)映画も見ない私だけど、レオナルド・ダ・ヴィンチですからね。それとポール・ベタニーね。「ダ・ヴィンチ・コード」のベタニーと、ヒッチコックの「巌窟の野獣」がどう関係するんじゃいと思うかもしれないけど、まあ妄想つながりです。妄想だから好きかってなこと書くけど許してたもれ。さて・・特集番組の中には「?」なものもある。つまり一方的な見方をしていたり、あおるような無責任な取り上げ方をしていたり。まあテレビでこういうふうに言っていたからって、こういう描写をしていたからって、頭から信じ込むほどこちとらおめでたくもないけどね。まあそれはともかく「誰でもピカソ」では30年以上も前にイタリアで製作された「レオナルド・ダ・ビンチの生涯」がくり返し使われていた。少し前「ダ・ヴィンチ ミステリアスな生涯」と改題されてDVDが発売されたけど、「ダ・ヴィンチ・コード」人気にあやかったのかな。このドラマはものすごくていねいにゴージャスに作ってあって、もうホント、ダ・ヴィンチ決定版!っていう感じ。発売された時はうれしかったけど・・でもまだ買ってないの。NHKでやったのよりだいぶ短くなっているから。数年前だか再放送されたのを見て、「あッここが抜けてる」「あッここもない」・・とがっくりしたのよ。何でカットするんねん。しかもDVDは吹き替えも違う人だし。井上孝雄氏や滝田裕介氏の声がまだ耳に残っているというのに!主演はフィリップ・ルロワで、他に知ってる人はオッタヴィア・ピッコロだけどす。モナ・リザのことはあんまり出てこない。はっきりしたことはわからないのだから、変にそれらしき女性出してエピソードでっちあげたりしない。そこがよかった。・・てなわけで、このドラマの影響もあるけど私は昔からダ・ヴィンチには興味持っていましたの。だから小説の「ダ・ヴィンチ・コード」には期待しましたの。でも読んでみたらそんなでもないのね。ダ・ヴィンチやモナ・リザは宣伝しているほど主体じゃなくてがっかり。いちおうおもしろく一気に読めましたけどね。

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今はちょっとした知識が持てはやされる時代だから、こういう薀蓄がぎっしり詰まったのを読むと、自分まで利口になったような気になれる。こういうの知ってる?・・とまわりに自慢できる。その一方で次から次へと難問を解いて先に進むのは、パズルやゲームの感覚。二つの要素が合わさったのがこの小説の魅力であり、売れた理由だと思う。特に日本では宗教の土台はないし、聖杯とかシオン修道会とかマグダラのマリアとかオプス・デイとか、そういうものへの興味で売れたとは思えない。たいていの日本人にとっては、教会の立場なんてどうでもいいことだと思う。私は・・薀蓄に関しては、これまでに見た映画と結びつけて思い出しては楽しんだ。カバラ密教とアナグラムは「綴り字のシーズン」、グラストンベリーやアリマタヤのヨセフは「ギャザリング」、他には「悪霊喰」とか「抹殺者」とか。特に「ギャザリング」は・・ああいう「そこらへんのホラー映画」としか扱われない作品でも、ちゃんとそれなりの歴史的背景をふまえて作られているのだ・・とわかって興味深かった。男女が深夜、容疑を晴らすために謎解きをしながら奔走するという設定は、ウィリアム・アイリッシュの「暁の死線」を思い出す。私はこの小説は子供の頃読んだが、その時は確か「深夜の追跡」という題だった。「ダ・ヴィンチ・コード」は、終わりの方にかなり強引などんでん返しがあり、しかも結末はあいまい。あれだけ引っ張っておいて、期待させておいて、尻すぼみ。推理小説としてはあんまり出来はよくないと思う。謎解きにしてもあまりくり返すと何のためにやってるのかわからなくなって、現実味がなくなる。私はこれは薀蓄を楽しむ小説だと思うな。映画の方はどういう展開になっているのか不明だが、白子の修道僧役でポール・ベタニーが出ていることは前にも書いた。白髪・白い肌・赤い目(血液のせい?)。で、ここでやっと「巌窟の野獣」なわけだけど、原作はダフネ・デュ・モーリアの「ジャマイカ・イン」。「巌窟」には出てこないけど、原作には白子の牧師フランシス・デーヴィが出てくる。で、そのフランシス役にポール・ベタニーはぴったりだからぜひやらせてみたい・・と。「ダ・ヴィンチ・コード」でのベタニーの写真や予告を見る度にその妄想が頭の中かけめぐって・・もう離れませんの。

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やっぱりベタニーのようなちょっと色素薄い系で、知的な顔立ちの若い人でないと・・ムヒヒ。デュ・モーリアと言えば「レベッカ」が有名である。「巌窟」はヒッチコックのイギリス時代最後の作品で、この後アメリカへ渡って「レベッカ」をとり、この作品がアカデミー作品賞をとるわけだ。それ以外にもあの有名な「鳥」はデュ・モーリアの短編を元にしているし、けっこうつながりがある。他にも映画化、テレビ化されている。ニコラス・ローグが監督した「赤い影」はリメイクされるようだ。原作は「真夜中すぎでなく」に入っている短編「今見てはだめ」で、私は映画の方は見てないが、かなりゾクッとする小説である。30年くらい前にはデュ・モーリアの作品はたいてい入手できたが、今はほとんど絶版らしい。簡単に手に入るのは「レベッカ」「レーチェル」「鳥」くらいか。彼女の小説には全然関係のない邦題がつけられていることが多い。「愛はすべての上に」「愛の秘密」「愛すればこそ」「愛は果てしなく」「愛と死の記録(「レーチェル」として文庫化)」「愛と死の紋章」・・もう笑っちゃう。お昼の奥様何とか劇場みたいなんだもん。私が彼女の作品をいろいろ読んだのは、彼女の描くヒロインがやや変わっているからだ。女として生まれたからにはやるべきことはたいてい決まっている。・・と言うか決められてしまっている。釣り合った相手と結婚し、夫に仕え、子供を産み育て、家庭を守る。でもその枠におさまりきれないものがある。それが心だ。家族や家柄、窮屈な衣装に束縛されていても、頭の中では何でも自由に考えることができる。なぜ女だからという理由で、あれをしてはいけない、これをしてはいけないとなるのか。なぜ女には自由が与えられないのか。でも心はいつだって自由だ。心の中まで束縛することはできない。彼女の作品からはそういう渇望のようなものが伝わってくる。男性を主人公にした小説もあるが、その場合でも自分の居場所を求めていたり、現在の状況への違和感を感じていることが多い。「わが幻覚の時」では主人公は幻覚剤の助けを借りて何と14世紀へタイムトリップしてしまう。さて「ジャマイカ・イン」は「埋もれた青春」という邦題だが、私はなぜ原題のままにしなかったのかな・・と残念に思っている。イギリスのさびしい田舎なのになぜジャマイカ館なのか。いかにもうさんくさくて犯罪のにおいがする。

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映画の題名「巌窟の野獣」なんて、どこから来ているのかな。「白夜の陰獣」姉妹編みたいじゃん。巌窟なんてほとんど出てこない。まあジャマイカ亭は石造りだから、見ようによっては巌窟に見えないこともないし、中にいるジョスやその仲間は悪党一味だから野獣と言えないこともないけどさ。映画は1939年製作で当然モノクロ。DVDを買ったが画面はかなり痛んでいる。実は原作を読んだ後映画化されていることを知り、ヒッチコックだしモーリン・オハラだし・・と期待したのよ。ずーっと見る機会を待っていたんだけどNHKBSだったかでやってくれて、キャッホーと狂喜したのよ。そしたら・・何これ、原作とは似ても似つかぬアホ陳腐映画。フランシス出てこない。じゃ誰が犯人よ、え?まさかこのエロ中年デブオヤジ?ひ、ひどい、ひどすぎる!ヒッチコックのバカ、アホ、クソッタレ・・と大いに怒り、落胆したわけですの(と言いつつDVD買いましたけどさ)。ネットで調べると評価は低い。あったりまえでーす。でも・・だからって原作までけなさないでくださーい。ヒッチコック自身は「バカげたお話」と言ってるそうですが私に言わせれば映画の方がよっぽどバカげてます。ネットの紹介文には「かなり滑稽で映画にしようのない物語」とあるけど、そんなことありませんてば。ちゃんと原作読んでるのかよッ!映画は原作のよさほとんど生かしていません。カギとなる存在フランシスを出さず、太った中年のスケベオヤジ出してきちゃった。サスペンスものの大事な要素である謎を、一つは開始早々、もう一つは30分もしないうちに明らかにしてしまう。と言うか隠しておこうという気が全然ないの。全部わかった上で見せられるサスペンス映画って・・辛いものがある。何に期待しろと?何にワクワクしろと?これで魅力的な馬泥棒や謎めいた牧師が出ていれば少しは興味もつながるけど、太ったエロ中年じゃあねえ・・。ヒロイン、メリイ(映画ではメアリー)は早くに父をなくし、母親と二人で暮らしていた。生活は苦しく、母親が病気で死んでしまうと、あとはもう叔母のペーシェンス(映画ではペイシャンス)しか頼る者がいない。叔母は夫のジョスとジャマイカ館(映画ではジャマイカ亭)を経営しているらしい。ところが近所の者はジャマイカ館と聞いただけで態度が変わる。どうもよくない評判があるようだ。

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とは言うもののたった一人の身よりなので行ってみると、旅館らしい雰囲気はどこにもなく、叔父のジョスは恐ろしい容貌と巨躯で、見るからに残忍で異常。叔母は若い頃の面影はどこへやら、夫のカゲにおびえる幽霊みたいになっている。映画だと叔母はもうちょっと身ぎれいでしっかりした女性になっており、原作とはイメージが違う。彼女ははっきりと夫を愛しており、それがこの映画の一つの泣かせどころとなっている。さてジョスには弟がいて、このジェムは頭がよく口のうまい馬泥棒。映画では弟は出てこなくて、トレハンという男が出てくる。彼はジョスの一味に加わったばかりなのだが、リンチに会い危ういところをメアリーに助けられる。このトレハンがジェムの役割を果たすわけで、名前もいちおうジェームズである。テレビ化された「ジャマイカ・イン」ではジェレマイア(略してジェム)となっている。メアリー役のモーリン・オハラは当時19歳くらいで、原作では23歳だから少し若すぎるが、見た目は十分23に見える。美しさは相当なもので、画面も彼女の美貌を強調するため、あれこれ工夫をこらしている。視線の投げ方、うつす角度、うつす秒数・・サスペンスには手を抜いても、美女をうつすのには手を抜きません!て感じ。主演はどちらかと言うと領主ベンガラン(チャールズ・ロートン)で、とにかく出まくる。もう手に負えない、かってに好きなだけ出ていろ、もう知らん・・そんな感じ。この映画の出来が悪いのはロートンのせいという説もあるが、確かにそうなんだろう。トレハン役はロバート・ニュートンで、この人は「宝島」や「海賊黒ひげ」などで有名である。「巌窟」ではまだ若く、オメメパッチリの色男で、ダニー・ケイによく似ている。トレハンは実は政府の密偵で、ジョス達の悪事をあばくために潜入していたのだ。映画でびっくりすることと言ったらこれくらいで・・と言うか、びっくりのうちにも入らないんだけどさ。ベンガランが出てきた時から「私が黒幕」と顔に書いてあるように、トレハンの顔にも「私は正義の味方」って書いてある。ついでに「ヒロインと恋に落ちるとしたら絶対私」ってね。もう何もかもが見え見え。トレハンは政府の密偵なのに仲間誰もいなくて、ジョス達が船を難破させ、乗組員殺すのを黙って見ていたわけで、あんまり有能には見えませんな。

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映画は90分ほどで、登場人物を減らしたりエピソードをカットしたりするのは当然だ。しかし90分あれば、例えば「アイデンティティー」みたいな充実したサスペンス映画も作れるわけで・・。「巌窟」は、何か余計なことをやってて話がちっともふくらまず、時間をムダにしていると言うか。見ていてじれったいしうんざりするし、最後は絶望ですよ。こんなの作りやがって!という怒りと暗澹たる思い。いくつかとりえはあるものの大半は失望。まあヒッチコックの場合「巌窟」に限らず「レベッカ」も「マーニー」もそうなんだけどさ。原作の特徴が全然生かされない。きれいな女優さん出してきて思う存分きれいにうつす。原作の持つ鋭さ、作者の意図、張りめぐらされたサスペンス・・そういうのは脇に押しやられてしまっているの。もちろん映画と原作は別のもので、全部原作通りにする必要はないし、第一不可能だ。でもここまでスカスカで生ぬるいの見せられると・・トホホもいいとこ。ヒロインが何を考えているのか伝わってくるヒマもない。きれいにうつし、きれいなドレスを着せたり下着姿にしてみたり、要するにストーリーとは関係のない部分であれこれやっているのよ。原作ではヒロインのメリイは地に足が着いた女性。農場で苦しい生活を送ってきた彼女は、たいていの若い女性が夢見ることには興味がない。恋人どうしの甘いムードなんてほんの一時のこと。その先に待っているのは子供の泣き声と夫婦のいさかいだけ。メリイは一人で生きていこうと決めている。曲がったことが嫌いだからペーシェンスがジョスのようなならず者と一緒に暮らしているのが理解できない。ジョスの悪事をあばき、叔母を救い出し、真っ当に暮らしたいと思っている。彼女の人生設計に男性は登場しない。それでいながらジェムに引かれてしまう。兄ほどではないにしてもならず者には違いない、将来はろくなことにならないに決まっているジェム。このジェムっぽさはトレハンにはほとんどなく、映画ではジョスの手下ハリーの中に見出すことができる。原作での行商人ハリイは、歯が欠けていていやらしさやずるさのかたまりみたいな男だが、映画ではそこまでひどくはなく、ジョスの手下の中でも印象に残る。原作でのジェムはちょうどこんな感じの男なのではないか。

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映画ではもう一人若くてひょろっとした下っ端が出てくるが、これは原作の薄バカの少年の役回りだろう。原作とは違いなかなかハンサムな顔立ちなのだが、あんまりはっきりうつしてくれない。何しろモーリン・オハラをきれいにとらなくてはならないからね。さてジャマイカ館で暮らし始めたメリイ。旅館なのにお客は一人も来ず、それでいてある晩酒場は男達でいっぱいになる。飲んだくれ、大騒ぎをするが、それでいて何やら仕事もしているような。闇にまぎれて荷物を運んでいるということは密輸?誰かが下でいさかいをしているのが聞こえる。誰かがジャマイカ館の一室に隠れているようで、歩き回る音がする。誰かの悲鳴が聞こえたような気がする。天井からヒモがぶら下がっている。隠れていたのは誰?誰かが吊るされて殺されたの?こういったスリルやサスペンスは映画には全然ありませんよ。秘密は謎は正体は・・みーんなはいどうぞとばかりにあからさま。全然待たせず明かしてくれるからこっちは推理する必要はないの。さて一人で苦闘するメリイを助けるのが牧師フランシス。やさしく暖かく誠実で明るくて、メリイは彼に何もかも話す。心のよりどころ、相談相手ができてホッとする。いざという時には牧師館にかけ込めばいいのだ。ある晩深酒をしたジョスはメリイに自分の秘密をしゃべってしまう。彼は破船賊で、偽りの灯をともし、船を岩場ヘおびき寄せ、難破させて積荷を奪うのだ。存在を知られないよう乗組員も客も皆殺しにする。女も子供も手足を折って溺れさせる。映画と違い、原作ではこの時初めて破船賊のことが出てくる。メリイは苦悩する一方で、ジェムに引かれていく自分をどうすることもできない。二人で市へ出かけた帰り、ジェムとはぐれたメリイは雨の中を歩く。そんな彼女の前に現われて助けてくれたのはまたしてもフランシス。政府が海岸を巡視する措置を決めたから、これからは海賊の横行もなくなる・・というフランシスの言葉に安堵するメリイだったが、ジャマイカ館で彼女を待っていたのは仕事に出かけようとするジョス一味。海岸へ連れて行かれたメリイは何とか逃げ出し、船に危険を知らせようとするがまたつかまってしまう。一方ジョス達の方も大幅に予定が狂ってしまう。船を難破させたものの予想外に早く夜が明けてしまい、人目につくことを恐れ大あわてで逃げ出すはめになる。

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獲物はほとんどなく、しかも証拠をいっぱい海岸に残してきてしまった。もううわさですませることはできず、そこらじゅう封鎖され捜査されるだろう。ジョス達はジャマイカ館から逃げ出す準備をする。そのスキにメリイはフランシスに知らせようと牧師館へ走るが留守。仕方なく治安判事のバサットを訪ねるが彼も留守。ちなみに映画のベンガランは、フランシスの悪の部分とバサットの地位の寄せ集めだと思われる。・・とほうにくれたメリイがジャマイカ館に戻ってみると・・ジョスもペイシェンスも殺されていた。いったい犯人は誰?ジョスは誰にあやつられていたのか。頭のいいジェムが破船賊の黒幕なのか。・・原作はこのようにスリリングで怪奇ムードたっぷり。ちょっとしたことから犯人は正体を現わす。何と牧師のフランシスが黒幕だったのだ、ええーッ!あのさ、映画もこれくらい驚かしてよ。しかしメリイは怖くない。愛するジェムが潔白だと知った今、彼女には恐れるものは何もないのだ。ここらへんは「レベッカ」に似ている。「レベッカ」のヒロインは、夫マキシムが前妻レベッカを忘れられないのではないか、自分はただの代替品なのではないかと苦悩する。マキシムとは親子ほども年が違い、家柄も教養も容姿もレベッカには遠く及ばない。全く自信が持てずおどおどいじいじ。一時は家政婦にそそのかされて自殺まで考える。しかし!レベッカが事故死ではなく、マキシムに殺されたのだと知ると・・マキシムがレベッカを全く愛しておらず憎んでいたと知ると・・バンザーイですよ。おどおどもいじいじもなし。強い女にヘンシーン!ですよ。レベッカは聖女でも何でもないただの性悪な浮気女。ヒロインにとってはマキシムがレベッカを愛していなかったということが一番重要。マキシムがレベッカを殺したことは大したことじゃないんです。だからどこまでもウソをついてマキシムをかばう。それはもう理屈じゃない、愛です、愛!愛すればこそ、愛はすべての上に、愛は果てしなく、愛の秘密、何とでもどうぞ!「んなばかなー」と思うかもしれないけど、21歳のうぶな女性ならそれもありなんです。悪妻に悩まされたマキシムが、悪妻を殺してしまったことに悩み続け、今また死体が発見され殺人が表に出そうになってピーンチ!私が彼を守ってあげなくて誰が守るって言うのよ!

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彼のためなら例え地獄に落ちてもかまわない!・・とヒロインはふるい立つわけです。問答無用の愛でありんす。それが!映画ではこの肝腎な部分が骨抜きになっているんですの。マキシムが殺す前にレベッカは死んでしまうんです。まー何て都合いいんでしょう!マキシムは殺人犯ではありませーん。あッだったら事実隠しておびえる必要ないだろーが。アンタが潔白じゃあこの映画成り立たないだろーが。せっかくのクライマックスがこれですよ。盛り上げておいて・・針で刺そうとしたら空気が抜けちゃった風船みたい。こ、この針をどこに刺せばいいの?!この宙ぶらりんな真実は何?ラストの火事もちっともヒロインの危機じゃないし、何だよこの甘ちゃん映画は。いくら夫でも殺人犯かばうのは世間の常識にはずれるってか?でもその常識が通じないのが男女の仲だし。常識にしたがうのもはずれるのも人間の心だし。その人間の心を描くのが映画であり小説であり・・。何でこんな映画がアカデミー賞とれるのかいな。・・さて、ジェムのせいで正体がばれたフランシスはメリイを連れて逃亡する。「巌窟」でもベンガランはメアリーを連れて逃げる。しかし港で追いつめられ、船のマストに登り、自分から落ちて死ぬ。ベンガランは実は狂気の血筋で、最近とみにおかしくなっていたというわかりやすくもとってつけたような言い訳が使用人によってなされる。フランシスの方はマストではなく崖をはい登っているところをジェムに撃たれて死ぬ。上へ登って行く黒くやせた姿はまるで岩に吸いついた水蛭(ひる)のようだという描写・・いいと思いません?読んだだけで頭の中で鮮やかに映像化される。事件が解決した後、心身ともに疲れたメリイはホームシックになる。いやな思い出ばかりのこの土地を離れ、生まれ育ったところへ帰りたい。バサット一家は親切にしてくれるが、ここは自分の居場所ではないような気がする。そんなある日、馬車に家財道具を積んでやってくるジェムに出会う。彼が向かっているのはメリイの故郷とは反対の方向だ。メリイは迷った末、ジェムと一緒に行くことにする。ハッピーエンドですな。「ジャマイカ・イン」はジェーン・シーモア主演でテレビ化されている。そちらの方にはジェムもフランシスも出てくるから「巌窟」よりはずっと原作に忠実なんだろう。

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何とか見たいものだ、テレビでやってくれないかなーDVDで出てくれないかなーと切望しているのは、日本では私一人だろうなあ、やっぱ(ぐすん)。自立した女性メリイは非常に印象的だが、フランシスもメリイ以上に強い印象を残す。具体的な描写は出てこないものの、彼は明るくやさしく熱心な牧師として説教をし、告白を聞き、祝福を授けているのだろう。メリイは彼には数回しか会っていないが、ほとんどすべてを話し頼っている。彼女のまわりでまともなのはフランシスしかいない。その一方でメリイは彼の白髪や透き通った目になじむことができない。見かけが普通の人間と違っているように、彼の内面も違うのではないかと考えたりする。そしてそんなことを考えてしまう自分を恥じたりするのだ。フランシスがメリイに親切にし、メリイがフランシスを頼る部分は、映画ではベンガランとメアリーのそれになる。しかし何度も書いているようにベンガランは太ったスケベオヤジでしかなく、謎も秘密も隠されてはおらず(出てきた時から狂気まる出し)、したがって何の魅力もない。彼を頼るメアリーは金持ちに弱いバカ娘にしか見えない。映画としてちっとも盛り上がらないのである。私が心引かれるのはフランシスの心理である。デュ・モーリアの特徴はこういう常識から逸脱した人物の造形がうまいことにある。映画のように狂気の血筋なんて単純にかたづけたりしない。フランシスは時代に逆らい、人類に逆らい、いやいやながら生まれてきた人間である。彼はもっと太古の昔に生まれるべきだった。自分のいるべき場所、心のよりどころをキリスト教に求めたものの、すべてはおとぎばなしの上に成り立っていることを知り、失望する。それでも隠れ蓑としては十分で・・。彼はスペインとかアイルランドでもうわべは親切な牧師として、裏では犯罪者として二つの顔を使い分けていたのだろう。たいていの人間は疑いもせずキリスト教を信じ、ぽかんと口を開けて彼の説教を聞き、つまらないうわさにおびえるのだ。真実を見ることもない。しかしメリイは別だ。彼女には真実を見抜く目があり、勇気があり、単純で力強い。だからこそフランシスは彼女に引きつけられる。自分があやつっているジョスのことを聞かされ、相談されるという偶然に驚きながらも、メリイに助言をし、親切にせずにはいられない。

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つまずきの石だとわかっていて近づかないではいられないし、今また足手まといだとわかっていて彼女を連れて行かないではいられない。こういうフランシス役にポール・ベタニーぴったりだと思いません?って誰に聞いてる。さて感想を書き始めた時にはまだ公開されていなかった映画も始まり、いちおう見てみましたよ。混雑を避けるため平日午前、しかも吹き替え版。まあ映画の感想はまた別に書きますけど、私はやはりポール・ベタニーばっかり見ていましたの。今まで「埋もれた青春」読んでいても、フランシスはどうイメージしていいかわからなかったのよ。でもこれからは・・ベタニーですよ。フランシス役にベタニーはぴったりんこ。彼以外考えられなーい・・とネコまっしぐら・・じゃない妄想まっしぐら。「ダ・ヴィンチ・コード」でのシラスは、白子故に悲惨な生活を送るが、アリンガローサ司教と出会い救われる。そして信仰の厚さ故に罪を犯すのだ。フランシスが悪の道に入ったのも他人と違う自分の容姿のせいだろう。最初から自分は神々のいる太古に生まれるべきだった・・なんて考えたとは思えない。自分は人とは違う、自分はここにいるべき人間じゃない、自分は別の時代に生まれるべきだったのだ、自分は間違って今この19世紀に生きているのだ。まわりの人間は皆愚かであるから、簡単にだまし、あやつることができる。前にいたところでもここでもそしてこれから行くところでも、自分は自分の思う通りに生きることができる。自分はこの時代の人間ではないのだから誰も自分を裁くことはできず、邪魔することもできない。フランシスの心理を分析すればこういったところだろう。フランシスにはアリンガローサのような導き手もいなかったし、キリスト教も救いにはならなかった。だからフランシスとシラスには似ているところもあるが違っているところも大いにある。はーそれにしてもヴィジュアル的にはねえ・・ぴったんこ。ワクワクするようなゴシックホラー作れると思うんだけどなあ「ジャマイカ・イン」。やさしい声をし、白髪が後光のように顔のまわりを縁取り、シワはなく、透き通った目をして過去を見つめている。そしてその目は時に命ある炎のように燃えるのだ。きっとその時の目はシラスのように赤いのだろうなあ・・。