汚れなき悪戯

汚れなき悪戯

この映画は何度も見た。最初に見たのはいつだろう。テレビで見たのか、学校で見に行ったのか。日本での初公開は1957年らしいから、その時でないのは確かだが。まあとにかく最初に見た時は意味がよくわからなかった。特に最後マルセリーノが死んでしまうのが理解できない。彼は天使か何かで、一時的に人間界にいたけれど、天国へ戻ったということなのか。病気でもケガでもないのに死んでしまう理由はそれしか思い当たらない。マルセリーノのかわいらしさや、修道士、動く手しか見えないキリストなどは鮮明に覚えていたが、それ以外のことは忘れていた。今回久しぶりにNHKBSで見たが、冒頭の少女のシーンは全く覚えがない。ある日教会の入口に捨てられていた赤ん坊。そのまま修道士達が育てるが、五年後には元気ないたずらっ子に。そのうち屋根裏にある磔のキリスト像を見て、おなかがすいているのでは・・と食べ物を持っていくようになる。奇跡が起き、像は動き始める。食べ物がなくなるのをいぶかしんだ一人がある日マルセリーノのあとをつけ、そこで見たものは・・。像のそばで死んでいるマルセリーノ。映画を見た人が普通覚えているのはこういった内容だ。私もそうだった。でも今回気がついた。これらは神父が病気の少女にしてあげたお話なのである。少女が何の病気でどういう状態なのかははっきりしない。今見れば医者ではなく神父が呼ばれたというのが気になる。母親が容体は変わらないと言うのも、いい兆候なのかそれとも・・峠を越してもう快方へ向かってもいい時期なのに相変わらずよくない・・みたいな感じで。お話をしてあげようと言う神父に、父親は「今日でなければいけませんか」と聞き、神父がちょっと考えてから「そうだ」と答えると、母親はハッとしたような表情で夫を見る。とどめを刺すのが、神父の半分は親のためという言葉。マルセリーノは私が思っていたような天使ではなく、普通の人間のようだ。赤ん坊の身元を確かめようと修道士達が調べて回るシーンがある。そのうちの一人が、両親とも死んでいることを突き止める。

汚れなき悪戯2

天使が天国へ戻るのとは違い、小さなマルセリーノが死んでしまうことは理不尽な気がする。たとえ彼がそう願ったのだとしても。でもこの少女だって病気で死ななきゃならないのは理不尽である。本人は不安だろうし、両親の嘆きはいかばかりか。それがわかるから神父はマルセリーノの話をしたのだと思う。死ぬのは・・天国へ召されるのは悲しいことでも怖いことでもないということ。親に対しては、子供はとてもいいところへ行くのだということ。そういうことを言いたくて神父はこの話をしたのではないか。ラスト・・神父は一人帰っていく。少女がどうなったのかはわからない。マルセリーノを演じたパブリート・カルヴォは52歳で亡くなったようだ。この映画は白黒だが、かえってそれがよかった。黒い髪、黒い瞳。ちょっとおなかを突き出したような体つき、走る時のすばしっこさ。素朴で自然で演技臭がない。修道士達がまたすばらしい。マルセリーノが付けたあだ名・・台所さん、病気さん、鐘つきさんなど微笑ましい。ヒゲでよくわからないが、中にはかなりのイケメンも。修道士としての使命を果たしながらもマルセリーノをかわいがる。だから彼には12人もの父親がいるわけだが、でもやっぱりお母さんに会いたい。そこが泣かせる。マルセリーノが起こした奇跡は・・磔のキリストが動き出したことは修道士に目撃され、大評判になり、お祭りとして祝うようになった。今もちょうど祭りの真っ最中で、人々は教会へ出向き、町は空っぽだ。残っているのは少女の一家だけで。今ではマルセリーノのことも忘れ去られているようだ。そのいわれを神父が改めて話した・・と表向きには見えるが、それに乗っかって神父は死を受け入れることをほのめかしたのではないか。でないと、病気の少女とその両親に小さな子供が死んでしまう話をする理由がない。神父役はフェルナンド・レイか?作られてからもう60年近くもたつわけだが、全然古さを感じない。見る度にこっちの年齢は上がっていて、印象も変わってきているのがわかる。年を取って死が近くなればなるほど見えてくるものがある・・そんな映画。