バレット モンク

バレット モンク

白人と黒人、あるいはアメリカ人と東洋人とのコンビによる珍道中、師匠と弟子による修行もの、こういうのは映画のいい題材だと思う。ジャッキー・チェンだと、彼のキャラクターから言って、悟りを開いた人とはならないが、チョウ・ユンファならそういう人物がぴったりだ。彼が何で今更こんな映画に?という批評もあるようだけれど、私にはぴったりのはまり役に思える。私はWOWOWで「NYPD15分署」を見たくらいで、「アンナと王様」も「グリーン・デスティニー」も見たことがない。「NYPD15分署」もあんまりなあ・・。彼は「いい人顔」なので、その裏をかいて悪徳刑事をやればインパクトはあるけど、見ている側としてはどうしても悪人には見えない。「バレット モンク」みたいにいつもニコニコしている僧の役なら、彼のフニッとしたしまりのない顔には最適なのだ。時たまきりっとした表情をしても、何か忘れてるぞーみたいなところがどうしてもある。体つきも普通。武術の達人なら見せ場で上半身裸になるとかさ、文字を体に彫っているのならそれも一つの見せ場になる。秘法を体に彫っていることがばれた後では特に隠す必要もないしね。でもそういうのもなし。着ているものもオシャレとは正反対。茶色がかった下着だのダボダボズボンだの・・。真っ白なランニングシャツなんて考えてもいないわけよ。何枚もワケのわかんないもの重ね着してるし、ボタンはとめてないわ、シャツのスソははみ出してるわ・・。布地そのものもゴワゴワで重そう。きっと合成繊維じゃないんだろうな。・・で、その上にいかにも軽そうな(髪がね、なかみじゃないよ)頭と、しまりのないニコニコフニフニ顔が乗っていて、その対照が笑えるの。私は武術映画が好きなんだけど、最近のものは見る気がしない。ワイヤーアクションは名作「侠女」を見れば十分。この映画がただのワイヤーアクションが売り物の作品だったら、私は見に行かなかった。ユンファに興味があるわけでもないしね。それでも見に行く気になったのは、彼の役がチベット僧と知ったから。悟りを開いた人のありがたい言葉には興味があるの。中には「マトリックス」みたいに、いかにもありがたそうだけどうすっぺらい場合もあって、そうなるともう特撮や出演者に興味があるわけじゃなし、二作目も三作目も見なくていいや・・ってことになるの。巷でいくらヒットしていようがね。

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昔はテレビシリーズの「ロングストリート」のブルース・リーが出たエピソードとか、「燃えよ!カンフー」とかいいのがあったと思う。今回の僧(名前がないのでこう書くしかない)もなかなかよかったな。メチャクチャなストーリーもありえないアクションも、僧のありがたい言葉や行動で帳消しにしてあげるわ。さて、冒頭から必要もないのに目のくらむような吊り橋の上で師弟対決。どういうわけかストラッカー率いるナチの一隊が現われて、秘法を記した巻物を奪おうとする。何でチベットにナチがいるの?秘法は世界の運命を左右するもので、今の人間には扱うのはムリだから、誰の手にも渡らないよう守らなくてはならない。師匠は60年も守り続け、今次の後継者にその仕事を引き継ごうとしていた。でも秘密秘密と言いながらも子供と猿が簡単に入り込んで儀式見てまっせー。この巻物、後の方でストラッカーが孫娘のニーナに奪わせて、念願のなかみを見たらラーメンの作り方だった・・なんてオチがあって、最高に笑える。奪われた時の用心に、僧は経典を体に彫り、しかも最後の部分は自分の頭の中にしまっておくという方法を取ったのだ。何という頭のよさ!ところでこの秘法、最後の方でストラッカーが唱えると、ヨボヨボだったのがどんどん若くなっていく。その上僧みたいに、いやそれ以上に強くなっちゃう。つまりこの経典には唱えた者を不老不死で強大なパワーの持ち主にしてしまう力があるわけ。結局ストラッカーは最後まで唱えることはできなかったんだけど、最後まで唱えていたらどうなっていたのかな。そこらへんははっきりしないよな。巻物の守護者は年を取らず、ケガをしても(銃で撃たれても)平気。1943年に守護者になった僧は、60年後の今も若いままだ。でも彼が持ち歩いている巻物のなかみはラーメンのレシピ。巻物が彼の手にあろうが、他人の手に渡ろうが無関係・・てなわけで後半は巻物は出てこない。守護者イコール巻物なのよ。でも1943年に彼が巻物を手にした時には、ちゃんと経典が書かれていたわけでしょ?その巻物はどうしちゃったの?師匠は言ってたっけ「私もまだ(なかみは)見たことがない」って。ラストで経典は僧の体から後継者であるカーとジェイドの体に移る。守護者としてのパワーも同時に移る。60年前、僧が引き継いだ時は守護者としてのパワーだけが師匠から移った。

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僧がいつ経典を体に彫ることを思いついたのかは不明だが、自分では彫れないから誰かに頼んだはずだ。当然その時には師匠も見なかった経典を見たはずで、彼にしろ彫り師にしろ口に出して唱えないようにするのは大変だったのでは?間違ってないかどうか確かめる時なんて「えーと、○×△□で・・」なんてつい口に出してしまいそう。それにしてもずーっと中も見ないでただただ守り続けてきたものを初めて開けた時にはドキドキしたでしょうな。小説には数千年と書いてあるが、シャカはB.C.466~386?だから二千数百年てとこだろう。ちなみにチベットに仏教が伝わったのは7世紀である。へのへのもへじが書かれているだけかもしれないのに、誰も中も見ずに守り続けてきたなんてすごい責任感だよね。守護者のパワーと経典のパワーが両方備わったらいったいどうなっちゃうのかしらね。そういうのがはっきりしないまま、やたら追いかけっこや奪い合いや殴り合いをやってるんで、そんなんでいいんですかー?と思っちゃうけど、グイグイと押し切っちゃう展開の力強さはあるな。1943年のチベットから2003年のニューヨークへ、時間と舞台は一挙に飛ぶ。ラッシュアワーの地下鉄、ストラッカーの部下に追われる僧、警官に追われるスリのカー。二組の追いかけっこ、あおりをくらって女の子がホームから落っこちてしまった。しかも足をはさまれて動けない。お約束通りそこへ地下鉄が・・。足元の黄色い線までお下がりください・・なんて言ってる場合じゃない。僧は線路に飛び降りる。彼の隣りにはカーが・・。彼がもうちょっと見てくれのマシな青年だったらよかったのに・・って最初は思った。巻物の次の守護者はスリ?しかもアメリカ人?おいおいなんちゅー設定だよ、テンジン兄弟でなくたって反発するわな。まばらにヒゲの生えた、顔のゆがんだアンちゃんじゃしょーがねーな。それも僧から早速巻物を盗んでしまうばちあたり者。でもまあ見てくれは今いちだがカーはいいヤツだ。ホットドッグを二つ買うと、一つはサッと道ばたのホームレスにあげるしね。線路に女の子が落ちた時には、気がついたら自分も飛び降りて、僧と二人で何とか助けようとしていた。あれこれ考える前に行動しているんだよね、いいことも(人助け)悪いことも(スリ)。二人の関係が深まっていく過程はありきたりだが、アホらしい特撮に目をつぶればなかなか楽しめる。

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僧に言わせれば重力の法則もノープロブレム。ところで普段空気の存在を意識しています?我々は無意識に呼吸しているから、それに慣れてしまって、意識的に呼吸をするのは難しいのだ。僧とカーが倉庫みたいなところでいろいろやるのはまさにそれで、僧は「空気を踏む」とか「空気の中を泳ぐ」とか言って、カーを閉口させるが、呼吸だって空気の友達になったようにうまく利用しないと体力を消耗してしまう。カーは武術映画を見て自己流の練習をしてきた。若くて体力があるからガムシャラに訓練するけど、正しい方法ではないからチンピラ相手には何とかなっても、僧には全く通用しない。どんな武術をやるにしても呼吸をちゃんとコントロールしていないと、ハーハーゼーゼーとなって動作がメチャクチャになってしまう。女の人にはいないけど、男の人の中には、滝のように汗を流し、体をこわばらせ、オレはこんなに集中して倒れそうになるくらいフラフラなのを、何とかがんばってこらえてやってるぞーと言わんばかりに演武するのがいる。息を切らしてやってるのを見ると、あんたやり方間違ってるよ、何ムダなことしてんのさ、体に悪いよー・・と言いたくなる。でもこういう人って人の言うこと聞かないから言ってもムダなんだけどさ。本当の達人は演武を始めた時と終えた時が変わらないのよ。動き始める時に、首のあたりにそよそよとかすかな風が吹いているようにイメージするの。そして動いている間中ずっとそのイメージを保ち続けるの。例え激しい動きをしていてもね。僧は呼吸のことは言っていなかったようだけど、きっとそうしてると思うな。彼は悟りを開いた人だから人格的にも円満だ。大昔に読んだ「燃えよドラゴン」の小説では、主人公のリーをこんなふうに形容していた。「その、もの静かで、あいそうがよく、しかも謙虚な青年」・・これを読んだ時には「物静か」や「謙虚」はわかるけど、「愛想がいい」ってのは・・と意外に思ったものだ。でもそのうちにわかってきた。道を極めた人はまわりの人とうまくつき合い、いつもニコニコと愛想がいいのだ・・ってね。もちろん「孤高の人」もいるんだろうけど。カーは中国映画専門の映画館で働いている。館主はなぜか日本人。口うるさいけどカーのことを誰よりも心配しているコジマ。演じているのはマコだ。年を取ったけど、元気な姿を見るのは日本人としてうれしい。

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僧はチベット人、ストラッカーはドイツ人、カーはアメリカ人、カーが好きになるバッドガールことジェイドはロシア系、コジマは日本人、カーを痛めつけるファンタスティック(小説ではファックタスティック)はイギリス人、タクシーに乗れば運ちゃんはインド人。いろんな人種が出てくる。巻物の守護者がチベット僧でなくたって不思議じゃないかも。僧もチベット僧かどうかよりも、三つの預言があてはまるかどうかで継承者を決めようと思っている。でも巻物がチベットを遠く離れているのは、本来あるべき姿ではないのだろうな。ところで字幕ではジェイドを「浄土」と表現しているが、小説では「翡翠」になっている。きっと彼女の目がグリーンだから母親がそういう名前をつけたのだろう。カーが彼女から盗むお守りのネックレスも翡翠でできている。辞書でJADEを引くと「翡翠」「玉(ぎょく)」になっているからこっちの方が正しいのだろう。もっとも同じつづりで「あばずれ女」なんていう意味もある、ウーム。中盤のヘリコプターを使ったアクションはよくできている。巨大なパラボラアンテナがビルの屋上から落ちちゃうし、僧はヘリにぶら下がっちゃうし、カーはビルから落っこちそうになる。「ブラック・ダイヤモンド」よりよっぽどマシじゃわい・・などとニタニタしながら見ていた。もっとも人対人のアクションはねえ・・。見ていて感じるのはカットが短いこと。例えば一回の蹴りをうつすのに三回は場面が変わる。思い出すのはテレビでいやになるほど見せられた「ラスト・サムライ」のCM。真田氏がクルーズ君に刀を振り下ろすのに、振り下ろす瞬間、振り下ろしている最中、振り下ろし終わったところ・・とめまぐるしく場面が変わるでしょ、ほんの一秒かそこらの動作なのに。スピード感を出すためと言えば聞こえはいいけど、たいていはその動作を通しではできないからそういう方法を取る。真田氏の場合は寸止めができるはずだけど、それでもああやって細かく切ってしまう。アクション映画で蹴っているシーンとか棒を振り回しているシーンで、ちゃんと俳優の顔が見えていて、これこの通りウソ偽りなしに本人がやってまーすという証明つきのスローモーションてあります?ワイヤーアクションの部分をスローで見せることはあるけど、複雑な動きでの本物がやっているスローってほとんどないでしょ?

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めまぐるしく場面が変わるアクションシーンを見続けさせられていると、「少林寺」が懐かしく思えてくる。彼らはちゃんとやっているから、一つなぎのアクションをスローで連続して撮影することができる。途中でアップになったりロングになったりしない。ああいうのを知っていると今の映画で見るアクションはねえ・・感動がうすいな。監督さんはミュージックビデオの達人なの?ならばうまくつなげるのはお手のものだな。それとも編集の人が細切れにしているのかな。とにかくここは代役、ここも代役、こりゃまた代役、ありゃまたしても代役・・なんて見ているお客にわかるような映像とってるようじゃだめだよーん。代役と言えば「ザ・ウォッチャー」を見ていて笑っちゃったシーンがある。キャンベルとポリーがガラスを蹴破って窓から飛び出すシーン。二人ともスタントマン(ウーマン)だから手で顔を隠している。でもスローだからポリーちゃんの足がガラスを蹴破った後でさらに突きのばされて、空手の飛び蹴りみたいになっているのがはっきり見えるわけ。これじゃか弱い女医さんじゃなくて武術の達人だ。スローになんかするから余計なアラが見えちゃうのよーん。話を戻して、一人の武術の達人(しかも演技のできる!)を誕生させるには長い長い年月がかかるからなあ。そんな手間かけるくらいならフィルムのつぎはぎで達人を誕生させちゃえ!ってことになるんだろうな。さてカーは、コジマの元で働きながらも自分がどういう人生を送るのか、まだわからないでいる。いちおう映写技師らしいがスリで一稼ぎ・・なんてフラフラしているから映画が中断してしまった。お客は怒ってスクリーンにいろんなものを投げつける。向こうのお客はガラが悪いな。そうじも大変だろう。フィルムの中断なんてめったにないことだろうけど、私は一度経験あるな。でもお客は騒ぎもしないし、じっと大人しく再開を待っていたよ。もう一つ珍しい体験をしたことがある。「死亡遊戯」を見ていたら内容の順番が前後入れ替わっていたのだ。二回目に見た時もそのままだったから、リールのかけ違いではなくて、フィルムのつなぎ間違いだろう。フィルムの途中でのつなぎ間違いじゃその場で直すこともできない。私みたいに何十回も見ている者ならああ、こことここを間違ったなってわかるけど、初めて見た人はずいぶんメチャクチャな内容の映画だなあと思ったことだろう。

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でもその時も、誰もなーんも言わないでシーンとして見ていたよ。さて出会った翌日、カーと僧とジェイドの三人が外で立ち話をするシーンでの、あたりを見回しているユンファの表情がいい。気にかかる様子で、それでいてぼーっとしていて緊張感がない。あれでも精一杯顔をきりりとさせて、油断のない顔つきにしているつもりなんだろうな。でもだめなのよね、ほのぼの感しか感じられないの。そこがいいんだけどさ。ストラッカーの手下に追われて逃げ込んだ先はチベット仏教の寺院。何でこんなのがあるの?しかも地下に。テンジン兄弟が後継者に推したく思っている若者は、カーと力くらべをする。その様子から見ても、この若者がまだまだ人間的に未熟だということがよくわかる。ヘリコプターのアクションシーンの後、僧とカーはタクシーでカーの住居である映画館へ向かう。一方巻物を手に入れたニーナは持ち帰ってストラッカーに見せる。待ちかねたストラッカーが読むと・・ラーメンのレシピ。孫じゃなかったら殺すところだ・・と怒られたニーナは、映画館へ行きコジマを殺す。先にタクシーで出かけたカー達が何でニーナより後に到着するのかな。出発地と到着地が同じで、ニーナの方が明らかにいろいろやっているじゃないの。これと同じことは「ダークシティ」でもあったな。カー達の乗ったタクシーのインド人の運ちゃんが道を間違えたか、ケータイに夢中になってどこかへぶつかったか、さもなければ奥さんが産気づいたんでしょうよ。それとコジマが殺されて、住み込んでいたカーがいなくなったら、彼に疑いがかかると思うな。映画館にお客が来ないというのもおかしいな。ネオンがついているんだから休みじゃない。いつも通りお客が来ると思うな。どうしたんだおかしいぞ・・って騒ぐと思うな。ここらへんの描写はご都合主義と言うかいいかげん。寺院も襲撃され、二人はジェイドの家へ。行ってみるとガードマンつきの大豪邸。ジェイドもカーと同じで自分の進むべき道を模索していた。いかれたバッドガールはうわべだけ。しかしなあ、巻物の継承者がケチなスリとロシアン・マフィアの大ボスの娘ですか・・、開祖様もびっくりだね。ここでの僧と番犬とのツーショットが何とものどかでいい感じ。獰猛な動物ともすぐ仲良くなっちゃう・・ここらへんは「燃えよ!カンフー」を思い出す。自分の波長を相手(動物)の波長に合わせてしまうんだろうな。

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そうすると空気と同じだから動物は相手の存在が気にならなくなる。空気に怒ったってしょうがないからね。だから動物は大人しくなる。さてニーナは、コジマを殺した時ジェイドの存在にも気がつき、邸を急襲して僧をとらえることに成功する。僧をしばり上げ刺青をスキャンするんだけど、どういうわけかコーフンしてくる。そりゃいつもストラッカーにこき使われてるし、正体を隠すために人権擁護団体の理事なんてやらされているし、女の幸せとは無縁だから欲求不満なわけよ。普通ならここで、とらわれている側のムキムキの筋肉(ワセリンつき)をここぞとばかりに見せびらかすところだけど(誰かさんならやりそー)、ユンファは見せません。見せるほど筋肉ついていないんですっ。・・で着ているのがアレでしょ。もうちょっとマシなものを着せてあげてよ・・という気もするけど、情けない格好なのがかえってけなげでいいわあとも思えたりして。一方ジェイドとカーは僧の救出に向かう。「私の装甲カーはどう?カー」なんていうセリフが笑わせる。彼女は自分を鍛えると同時に、武器もいろいろ備蓄していたのだ。お金のないカーは武術映画を見てまねするより他に方法がなかったけれど、彼女にはお金がある。武術も言葉(チベット語)も一流の先生に習ったことだろう。ここらへんは単純にアクションシーンを楽しめばいいんだけど、ジェイドのやり方は僧のとは異なっているってことは忘れない方がいい。これは後で書くけど。僧救出のくだりは、映画と小説ではかなり違っている。小説ではファンタスティック一味がジェイドの手助けをする。映画のクライマックスである屋上での死闘は小説にはない。前のヘリコプターのシーンと同様、このクライマックスでのシーンはよくできている。もちろんカットが短くて編集で何とか見せているっていう代替感はぬぐえないけどね。それにしたって役者さん達は大変だったでしょうよ。ストラッカーは60年前の悪夢(あと一息で秘法が手に入るってとこでおじゃんになってしまったこと)が再びくり返されそうになって、「秘法が手に入らないのなら死の道連れにしてやるー♪おまえーをみちづれにー♪」なんて憎たらしいことをほざく。「60年間、気持ちが変わるのを待っていた」という僧の言葉が胸にぐさりと来ますなあ・・。60年ですよ、60年!はんぱな数字じゃない。

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学生時代、英語の時間に訳させられた誰かのエッセイにあったっけ。「人は誰かに説得されて自分の意見を変えるのではない。ある日突然自分でもわからない理由で意見を変えるのだ。人は自分の説得で意見を変えさせたのだと思うかもしれないが、意見を変えた人は誰かのせいで意見が変わったのだとは絶対に思わない」とか何とか。僧はストラッカーにお説教したりはしない。ストラッカーが自分から変わるのをひたすら待っているのだ。追いかけられればひたすら逃げる。恩師や仲間を殺され、普通なら相手を憎むはずだ。でも憎まない。憎むどころかかわいそうだと思っている。ストラッカーが転落する途中、電線に引っかかって火花が散るシーンは「死亡遊戯」のラストを思い出す。あの時は、70歳を越えたディーン・ジャガーがスタントなしで屋上から落下した(しかも二回やったそうだ)。合成でも何でもなし、いやホントにすごい。今回のストラッカーさんもご苦労さん。彼は往生際が悪くて、後で儀式の時にもう一度現われるんだけどね。ストラッカーに撃たれたジェイドを見てカーは動転するけど、実は彼女もカーと同じ能力を授かっていて、銃弾を手で受け止めていたのよーってのはできすぎだけど、オチとしては申しぶんなし。ラスト、60年分年を取って本来の姿になった僧は明るい日差しの中、人々でにぎわう公園かどこかで、刺青されていない残りの一節をカーとジェイドに半分ずつ教える。その後で「これでもう二人は離れられない」と言うところがいい。僧の着ている服が牧師の服のようで、ここでカーとジェイドが結婚式をあげたように見えるのが心憎い。若い二人がこの先ケンカもせずにうまくやっていけるの?・・なんてヤボは言いっこなし。さわやかで後味のいい終わり方だと思う。映画では二人のどちらもが秘法本体であると同時に守護者でもある。小説ではジェイドが秘法(刺青と最後の一節両方とも)で、カーが守護者である。しかもジェイドは僧がそうであったように(シャレか?)、名前を捨て、禁欲の誓いを立てなければならない。カーはジェイドが好きなのに手を出せないのだ。しかも一生離れられないのだ。しかも・・生き残ったニーナは、かつてストラッカーがそうであったように執拗に二人を追いかけてくる。映画のように、二人はこの先60年間は仲良く暮らすでしょう・・の方がすっきりしていていいかも。

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本当にムチャクチャな映画ではあるんだけれど、それなりにこれはこうなって、あれはああなって・・とオチが用意されていて、スピード感と力強さ(強引さ)もあるので、こういう映画があってもいいんじゃない?と素直に楽しめた。音楽も気に入ったのでサントラを買ったら、何じゃこりゃ?35曲も入っているぞ。チマチマ短いのはカットだけでいいから、曲ぐらいちゃんとまとめろー!さてと真面目な話、私がこの映画で一番印象的だったのは僧の精神的背景。小説はそこらへんをより掘り下げて書いている。チベット仏教は一見消極的、受動的、何の役にも立たないように見えるが、実はより高度な精神性を持つ。例えばテンジンは自分を裏切ったディルゴ(テンジンが秘法の守護者の後継者に・・と思っていた青年)に対してどう思ったか。自分にとどめの一撃を加えようとする愛弟子を見る、彼の頭にあったのは・・裏切りに対する怒りや驚きよりも、自分の目がくもっていたことに対する反省の思い、死ぬ前に過ちに気づき、悔いることができたことへの感謝の念、そして相手に対してあわれみの心を持てたことへのありがたさ・・などだった。こういう考えって他の映画や小説ではまずお目にかからない。自分を殺そうとしている相手を「かわいそうなヤツだ」とあわれむくらいがせいぜいでしょ?感謝の念なんてとんでもない。問題は常に自分自身の中にある。自分は相手を変えることはできない。相手が自分自身を変えるのを待つ。例え変えなくてもそれがその人のカルマ(業)なのだから仕方ない。こういう深い部分はアクション映画の中で表現するのは難しい。小説ならではの部分だと思う。僧は殺生はできる限り避ける。戦いながらも相手のことを気遣う。相手は自分を殺すことしか考えていない、としてもである。ヘリから落っこちた相手に、一命をとりとめますように、ブッダの祝福を・・と祈る。こんなヒーロー今までいました?前に書いたけどジェイドはたくさんの武器を揃えていた。僧を救出するためには迷わずそれを使った。ニーナと戦った時には相手を倒すことだけを考えていたはずだ。それが普通。私自身そういう映画を見ることに慣れきっていたから、小説を読んだ時にははっとさせられた。公開最終日、一回目は30人足らず、二回目は50人くらいかな。もっとヒットしてもいいのでは・・と思ったけど、ユンファ以外は知らない人ばかりだし仕方ないのかな。