プルーフ・オブ・マイ・ライフ

プルーフ・オブ・マイ・ライフ

何かねーこの題名何とかならなかったのかしら、まぎらわしいでしょ。・・映画が終わった時には二種類のお客がいると思った。深い感動にひたっている人・・これはまあ少数でしょう。たいていの人は結局何だったの?こんなもんで終わり?・・と大なり小なり失望していたのでは?数学が題材になっているけど別に・・具体的には何もありません。いよいよ証明・・というシーンでは緊張しますが、すぐに「はあ?」となります。まあ証明されたってあたしゃどうせ理解できないからいいんですけど、それにしたって腰が砕けますぜ。そっちの興味で見に来ると当てがはずれてがっかりするかも。ラブストーリーを期待して来ると・・まあ宣伝はそっちの方に力入れてる。「愛の証明」とか何とか。でも愛なんて証明したからってどうなるものでもないでしょ。証明しようとやっきになる人はいるでしょうけど。愛の証明というテーマがなかったら、映画も本も音楽もこんなにおびただしく生産されることもないでしょう。でも愛は証明しなくたってそこにあるものだし、証明したからと言ってそこにあるわけでもないんです。なくたってほどほどには生きていける。あるからって世の中すべて平和になるわけでもない。愛って一つじゃない。犠牲になる愛、攻撃的な愛、いろいろあるのよー。私がこの映画を見に行ったのは出演者のせいです。グウィネス・パルトロウとジェイク・ギレンホール。ジェイクの方はどうもギンレイホールと言いそうになってしまう。飯田橋あたりに住んでいそう。グウィネスは「恋に落ちた~」で有名になったけど、私は興味がないので見ていない。「偶然の恋人」や「抱擁」のような小さめな作品が好きだ。よく彼女のことを「美貌で」と書いてあるけど、私はそうは思わない。貧相な顔立ちだと思う。でもそこがいい。体つきも虚弱そうに見えるけど、けっこう動き回っていて、もしかしたら体力あるのかも・・と思わせるところがいい。キャサリン(グウィネス)は重荷をしょい込んでいるけど何とかやっている。若いからそれができる。元々社交的な性格じゃない。自分自身への欲望が少ない。認知症の父ロバート(アンソニー・ホプキンス)の世話を一人で引き受ける。彼女なら犠牲になれる。自分のやりたいこと・・恋人を作るとか学業を続けるとか仕事につくとか・・を犠牲にできる。でも・・大丈夫そうに見えたけど実はそうではなかった。

プルーフ・オブ・マイ・ライフ2

父ロバートが急死して一週間。もう自由なはずなのに落ち込んでいる。もう好きなことができる。好きなところへ行ける。人生を自分のことに使える。でも何をしたらいいの?実際には彼女は父の世話をしつつ自分も数学をやっていた。父のために家庭で演技をし、家庭外に向けても演技していた。そりゃあ父は確かにおかしくなっていた。でも正常に戻っていた時期もあったのだ。続いてくれるかに見えた、あの希望の芽生えた一時期・・。かつての教え子ハロルド(ハル)は、ロバートの書斎を調べさせてくれ・・と言ってくる。もしかしたら重大な発見をしているかも。発見が埋もれてしまうようなことになったら大きな損失だ。彼がそう思ったのもロバートに「正常な時期もあった」からだ。もしロバートが病院や施設にいたのなら・・彼の精神状態が発見どころではなかったのもわかったのだが・・。そう・・ロバートは確かに病気だった。しかしキャサリンは病院や施設に入れるのを拒んだ。病気のためにはよくないとしても、家で好きなように過ごさせてやりたかった。その点ロバートはとっても幸せだった。娘は彼に話を合わせてくれた。キャサリンは演技をしていた。心の中では絶望していたけど。彼女は復学したばかりの大学をやめ、父の世話に専念する。目標をなくし、ぐうたらな生活を送る。父はそんな彼女を「時間をムダにしている」としかる。心を入れ替えたキャサリンは再び数学に取り組む。そして・・ある大発見をする。書き留めたノートを抱き、心躍らせて父の部屋へ行く。父も興奮していた。すばらしい証明・・ついに完結した証明。彼女は自分のはひとまず置いといて、父のノートを見る。そこに書かれていたものは・・。父の葬儀の後、姉のクレアは家でパーティを開く。キャサリンはハルを自分の部屋に招き、その夜二人は結ばれる。偶然出会った最初の日から二人はお互いに好意を持っていたのだ。幸福感にひたるキャサリンは翌朝ハルに一つのカギを渡す。父のデスクのカギ。あのノートの入っている引き出しのカギ。ハルはとんでもない発見に驚く。ずっと書斎を整理していたものの何も発見できず、もうあきらめていたのだ。キャサリンの言う通りここにはゴミしかないのだ・・と。でも違った。天才ロバートはやっぱり大発見をしていたのだ!だがキャサリンは言う。「私が書いたの」・・このシーンが前半のハイライト。

プルーフ・オブ・マイ・ライフ3

このシーンでのグウィネスはいい。うつし方もいい。正面から堂々とうつすんじゃなくてちょっとはんぱなうつし方。はっきり堂々と言うんじゃなくてちょっとはんぱに言う。見ていて「エッ?」となる。思いがけないセリフなのでびっくりさせられるが、でも確信を持って言っていないように聞こえる。「ホントかな?」って思ってしまう謎めいた表情のキャサリン。この映画でのグウィネスはセリフが多い。元が舞台だから多くて当然なのだが、一つ一つていねいにしゃべっている。言葉を自分のものにしている。キャサリンは見かけは細くて頼りなさそうに見える。いろんなストレスにさらされている。父の介護、自分自身の将来への不安、父の死のショック、頼みもしないのにクレアがかってにことを運んでしまうこと。それらに打ちのめされ、押しつぶされそうになっていながらも抵抗し、ふんばっている強さ。それはもう強情さと言った方がいいかもしれない。楚々としていながら芯が強い。これはもうグウィネスの一番の特徴でもあるから、彼女ほどキャサリン役にぴったりな女優はいない。・・とは言えキャサリンのような女性は、その強さが別の方向に向けられると大変なことになる。「私が書いたの」と言ってもハルもクレアもすぐには信じない。ロバートのノートだしロバートの筆跡だしロバートは天才だし。キャサリンはヘソを曲げるが、その曲げ方は凄まじい。特にハルに対しては、愛し合った時のキャサリンとは別人。とことんまでハルをなじる。クレアとの姉妹ゲンカも凄まじいが、ハルへの言葉はすごい・・と言うかむごい。キャサリンにすれば、愛し合っている以上は無条件に自分を信じてくれなければいけないのだ。諸般の事情は確かに彼女に分が悪い。ロバートが完全におかしくなっていたことは彼女しか知らない。彼女が数学を研究していたことはまわりの者は知らない。ハルはとにかく検証してみようと提案する。大学へ持って行ってみんなに見せ、公平な立場でこの証明を検証する。今の段階では高度すぎてハルにもよく理解できないのだ。しかし頭に血が上ったキャサリンは・・。「それを言っちゃあおしまいよ」という言葉があるけど、向こうの人ってホント最後まで言うのよねえ。何でそこでやめとかないのよーって呆れるくらいこてんぱんに相手をやっつけるのよ。いちおう落ち込んで部屋に閉じこもるんだけど、そのうちあの晩の記憶が甦ってくる。

プルーフ・オブ・マイ・ライフ4

興奮して自分を呼んでいた父の声・・「ついに完成したぞ!」、父が差し出すノート・・キャサリンの信念が崩れてしまう。あの証明を本当に自分が書いたのかわからなくなってしまう。混乱してクレアに「私が盗んだ」と告白してしまう。もう抜け殻になって、何もかもクレアの言う通りにしようと思う。シカゴを去り、ニューヨークに行って姉に面倒見てもらおう。自分は父親の才能だけでなく、病気も受けついでいるのかもしれない。そのうちおかしくなって病院に入れられるのかもしれない。・・だからねえ・・強いだけではだめなんですよ。ポキンと折れるともうあやつり人形みたいになっちゃう。こうなるとハルが何を言ってもだめ。奮闘するハルは見ていても気の毒である。彼は証明をみんなに見せ、検証した。発表すれば大ニュースになる。検証の過程でこれがロバートのものではないことに気づく。キャサリンが言ったのは本当のことだった。あの時なぜキャサリンを信じてあげなかったのか。結果を知らせようとかけつけると、キャサリンはクレアに連れられて引っ越すところ。彼女には取りつく島もない。ハルの親切、好意、友情、愛情、おわび、努力・・その他モロモロはことごとく手ひどい言葉で返される。なじられ、侮辱され・・あのねえ・・ここまでひどい仕打ちを受ければ、たいていの者は呆れ、怒り、離れていきますってば。映画だからキャサリンが後でのこのこ戻ってきた時、ハルは受け入れてくれるけど、常識で考えればムリですってば。そう思いたくなるほどキャサリンはきついんです。自分かってなんです。しかも!戻ってきた時もハルにあやまらないんです。何てずうずうしいんでしょう!将来父みたいにおかしくなるかもしれないぞーって脅すんです。でも・・しょうがないんでーす、映画だから。何言われたってハルは受け入れます。ジェイク・ギレンホールはすごくいいです。設定ではキャサリンが27でハルが26。でも実際はグウィネスの方が8歳年上だからちょっと苦しいです。だからジェイクは不精ヒゲ生やしたりラフな格好したりして、せいぜいキャサリンと釣り合うよう見せている。ハルはキャサリンが一番助けを必要としている時に助けてくれなかった、つまり信用してくれなかった愚か者ということになってる。でも・・それってひどすぎると思わない?

プルーフ・オブ・マイ・ライフ5

全体的に見渡して公正と思われる判断を下すことと、すべてが不確かでも愛情という名の元に無条件に信じることと、どっちが正しいかなんてはっきり言えるわけないじゃん。ハルはできるだけ公正であろうとしただけ。不確かな状態、つまりロバートの筆跡とキャサリンの筆跡が似てるかどうかなんて彼にはわからない状態(ハルはキャサリンの書いたものを見たことがないんだから)で、キャサリンに「どっちなのよ、父が書いたと思うの?私が書いたのと思うの?さあ言えこらッ」と詰め寄られて仕方なく「お父さんの筆跡だ」と言ってしまったのよ。キャサリンがムリに言わせたも同然なの。でもキャサリンにとっては自分を信じてくれないハルは裏切り者。やれ発見を盗むために教授の娘に近づいてうまく成功しただの何だのと、相手を思いやる心もなく思いつくままに吐き散らす。この映画でのキャサリンはちっともかわいそうじゃない。翻弄されるハルが気の毒。ラスト、キャサリンに気づいた時のハルの表情がいいですな。学生達と一緒に歩いている時の悲しそうな目。ジェイクの特徴ってその悲しそうな目にあると思う。子犬のような目。「ドニー・ダーコ」の時から印象的だった。ハルはキャサリン以上に傷ついているはず。でも彼はキャサリンに引かれている。だからどうしようもない。キャサリンが戻ってくればハルは一緒におらずにはいられないの。自分よりも才能があり、精神的に不安定で扱いにくいキャサリンは、将来ハルのお荷物になるだろう。それでもね。一緒にいることが愛の証明なんですよ。・・てなわけでジェイクはハル役に適任でした。私が密かに望んでいるのは、ジェイクとトビー・マグワイアとウェス・ベントリーの三人の共演。コメディーでもサスペンスでもいいからさ。きっと史上最大のお客が混乱する映画になると思うよ。だって似てるもん。ロバート役のアンソニー・ホプキンスは、おかしいのかまともなのかよくわからない役をうまく演じていた。顔も体もちょっと丸くなって、興奮して熱くなっているところとか、あぶらぎっている感じとかがよかった。姉クレア役はホープ・デイヴィス。「死の接吻」とか「隣人は静かに笑う」とか、私にはカワイコちゃんのイメージが強いのだが、そういうのやっていた時すでにいい年だったのね。シワが増え、体型も丸くなったが、スッとのびた脚の線などなかなかきれいだ。

プルーフ・オブ・マイ・ライフ6

彼女はいわゆる憎まれ役だが、公平に見れば彼女なりにいろいろ尽くしてはいるのである。合理的な彼女から見れば、ロバートは設備の整った病院、あるいは施設に入れるべきである。その方がキャサリンの負担は少なく、健康にも専門家の目が行き届く。キャサリンは介護に追われ、ロバートの肉体的健康にまでは気が回らなかった。父親は頑丈だと信じ込んでいた。病院にいればロバートはもっと長生きできただろう。家で過ごすほど幸せではなかったにしても。クレアは父の才能は受けついではいなかったが、通貨アナリストとしてキャリアを築いている。父と妹を養うために一日14時間働き、家のローンも支払った。ろくすっぽ家には寄りつかなかったが、経済的には一家の柱だったのである。ロバートが亡くなった今、二人の関係はなまじ実の姉妹であるがために険悪となる。キャサリンはクレアをなじる。クレアにも言いぶんはあるが(何たって彼女のおかげで父とキャサリンは住むところがあり、食べることができたのだ)、介護を妹に押しつけたという心理的弱味がある。だからこそ今こそ妹をニューヨークへ呼び、自分が世話してあげたい。その気持ちの中には、キャサリンが父の才能だけでなく、病気まで受けついでいるのではないかという不安もある(なぜ自分も病気を受けついでいると思わないのか不思議だが、気にしない人はしないのだ。人間てそういうものだ)。そう考えるのに十分なほどキャサリンの精神状態は安定を欠いている。自分の目の届くところに置いておきたい。あなたのことは私が全部面倒見るから、私の言う通りにしなさい。反対したってだめよ。私はもうこの家を売ってしまったのだから。もう住むところはないのだからあなたはニューヨークへ来るしか方法はないのよ。あまりのことにキャサリンは呆れ、怒り、抗議するが、何を言ってもクレアは受けつけない。この映画の売り物はキャサリンとハルの愛の証明、あるいはキャサリンと父ロバートとの愛の証明だろうが、それよりももっと強い印象を与えるのがキャサリンとクレアの女の戦いである。二人は全然似ていないように見えるが、実はよく似ているのだろう。どちらもとんでもなく強情なのである。クレアの方が世間ずれしているから一枚上手である。とにかく受け流す。とにかくあきらめない。とにかく先手先手と打っていく。

プルーフ・オブ・マイ・ライフ7

自分の流れを作ってしまう。自分の方向へ持って行ってしまう。恐るべしクレア。何度も言うようだが彼女にもいいところはあるのだ。何もかも親切心からしていることだ。彼女が介護に手を出せばキャサリンとやり方をめぐって争いが絶えなかったことだろう。二人して家にいれば共倒れになる。だからクレアは離れたところから援助したのだ。彼女にできることをしたのだ。でもこんな人が家族にいたら頭がおかしくなってしまう。次々にかってにことを運んでしまう。家を売り、荷造りを始める。キャサリンはもうどうでもよくなってしまう。無抵抗になってしまう。私は父の発見を盗んだ。あの証明は私のではない。私が父を殺したのだ。ハルがかけつけるが虚脱感におそわれているキャサリンにはもうどうでもいい。私を信じてくれなかったハルなんて・・。空港に行き、搭乗を待つ。キャサリンを自分の思い通りにできたクレアは満足そうだ。だがこのままニューヨークへ行ってしまったのでは映画にならないから、キャサリンは突然考え直す。あの晩・・父の差し出すノートを読んだ。父の発見を読んだ。ノートに書かれていたのは証明ではなかった。父が狂っていることがはっきりしたあの時、私は自分のノートを父の引き出しに入れ、カギをかけたのだ。あの証明は私が書いたものだ!すべてを思い出したキャサリンはクレアをほっぽったまま空港から大学へ・・。映画だからハルは都合よく現われ、やさしく受け入れてくれる。ハッピーエンドですよ。でもねえキャサリン、一言あやまれよ!何で向こうの映画のヒロインってこうなのかしらね。・・てなわけで数学がどうのこうのじゃないんですよ。どちらかと言うと認知症の父の介護、あるいは死をめぐる家族の葛藤を主に描いているの。見ている人はそれぞれの立場でいろいろ思い当たることがあるわけ。映画だから天才的数学者の父とか、美貌の娘とかいう添え物がつくけど、そういうのを取っ払えばどこの家庭でも起こること、あるいはすでに起こっていること・・なのよ。ワガママ、許し合い、ののしり合い、思いやりその他モロモロてんこもりで、「渡る世間」見てるような感じさえしましたな。私が耳に痛かったのは、ロバートの言った「時間を有効に使え」でした。キャサリンはまだ20代だけど、彼女と違って私にはあんまり時間ないですからね。ムダにしないようせいぜい肝に命じましょう!