光る眼(1995)

光る眼(1995)

我が家にある百科事典によれば、カッコウはツグミなどの巣に卵を一つだけ産む。卵は先に孵化し、生まれたヒナはまだかえっていない他の卵を巣の外へ押し出してしまう。原作はジョン・ウインダムの「呪われた村」で、私はこれを高校生の頃に読んだ。原題は「ミドウィッチ村のカッコウ」で、この場合のカッコウは宇宙人である。イギリスの寒村ミドウィッチに起こった24時間のデイ・アウト(空白)。人間も動物も意識を失っていた間に何があったのか。二ヶ月ほどすると、村の出産可能な年齢の女性全員が妊娠していることがわかる。絶対に子供ができるはずのない女性は困惑し、子供を待ち望んでいた女性は喜ぶ。61人もの金色の目をした子供が誕生し、成長するにつれ、不思議な力を発揮してまわりの者を悩ませる。彼らがストレンジャーズであり、女性達がホスト・マザー(宿主)として利用されたのは明らかである。彼らの正体は、目的は何なのか。宇宙人の侵略というのは、SF小説の題材としてはおなじみである。ただこの小説の宇宙人は円盤から降り立って光線銃を振り回すわけではない。生まれた子供達が本来はどういう形をしているのかもわからない。彼らの目的が地球の支配なのは明らかだが、その計画は実によく考えられたスグレモノだった。宇宙人は地球の女性の体に宿り、生まれ、成長する。原作では普通の子供のおよそ二倍のスピードで成長し、9歳で16か17に見える・・ということになっている。そのことだけでも彼らがストレンジャーズであることは間違いないが、外見はどうであれ、彼らがまだまわりの保護を必要とするか弱い存在であることもまた間違いない。暦の上での9歳は確かに「子供」である。女性の中には例えどんな子供であろうと、自分のおなかをいためた子供であるからかわいいという盲目的な愛情を持っている者もいる。さらに、成長するにしたがって何やら不思議な力をふるい、まわりの人達を混乱させたり、傷つけたとしても、それによって彼らを罰することはできない。法律は念力やテレパシーの存在を念頭に置いて作られてはいないからだ。本来人間を守ってくれるためにあるはずの法律がここでは全く役に立たない。宇宙人はこれらの、子供というものへの世間の常識(子供にそんなことができるわけない)、母性愛を逆手にとってうまく利用し、仲間を送り込むことに成功したのである。

光る眼2

ところで村の人達は自分達のことで頭がいっぱいで考えもしなかったが、デイ・アウトはミドウィッチにだけ起こったのではなかった。それまではさほどでもなかったのに、子供達が急に力をふるい始めたのにはそれなりの理由があった。ロシアのある町にも同じようなグループが存在していたのだが、ある日突然町ごと破壊されてしまったのだ。小説の設定は1950年代だから、鉄のカーテンという言葉が使われている。ロシアでは個人は国家に奉仕するために存在する。しかし子供達にとって一番重要なのは自分達が生き残ること。国家よりも自分達を優先する彼らの存在は、そのうち国家の存続を脅かすものとなるだろう。ただ、抹殺するとしてもまわりの者が何か知っていると心を読まれてしまう。だから予告なしにある日突然住民もろとも・・。しかしイギリスではそんなことはできない。国家は個人に奉仕するためにあり、人間には「生きる権利」があるという思想で国家が成り立っている。あまり文明化されていない地域で生まれた子供達は母親もろとも殺されてしまったが、文明人はそんなことはしない。それ以上にロシアにしろイギリスにしろ上層部には別の思惑があった。鉄のカーテンのあちら側とこちら側で同じようなことが起きたのなら、同じに育てていれば将来何かあっても対抗できるだろうと考えたのだ。あっちのが超能力集団だったとしても、こっちにも同じのがいれば安心できる。核兵器と同じである。でも育ててみたら相手への脅威になるどころかこっちの存続さえ危うくするものだった。・・で、こっちはかたづけたから(もしそっちにもいるなら)なるべく早くかたづけた方がいいよ・・このままじゃ国家どころか人類が危ないよ・・という警告がロシアから各国の政府に発せられる。子供達はこのことを知っていて、自分達を守ることに神経質になっている。自分達は支配者であり、地球人との共存は全く考えていない。自分達に手出しせず、もう少し成長するまでほうっておいて欲しいと思っている。もし邪魔をするなら二度とそんな気が起きないくらいこてんぱんにやっつけるのが最良の方法だと思っている。まあ結局はそういう激烈な手段をとったことが彼らの破滅を招くのだが・・。うまく地球にもぐり込み、人間の子供として育てさせることに成功したのに、結果を急ぎすぎて失敗したのはやはりまだ未熟だということか。

光る眼3

ここまでは原作について書いてきたが、多少古くさい面はあるにしても、いろいろ考えさせる部分(女性は当事者だが男性は傍観者でしかないとか・・)のあるいい小説だと思う。では映画の方はどうかと言うと、それらを取り去って、うわべのストーリーだけを拝借している。舞台は現代のアメリカに移され、子供の人数は減らされ(これは仕方ない)、目も金色ではない。二倍のスピードで成長するわけでもない。ファーストシーンから何やらはずしているなあ・・という感じ。それがずっと続く。子供達をどうやって表現したら観客を怖がらせることができるのかが作り手側にわかっていない。ただ並んで歩いていたって不気味でも何でもない。原作ではまわりの大人達の右往左往ぶりが細かく書かれ、子供達の記述はむしろ少ない。でも無邪気な子供の部分(アメ玉に大喜びするとか)と、冷酷な異星人としての部分(金色の目にじっと見つめられた時の恐怖感)がちゃんと読む方に伝わってくる。クライマックスのアランと子供達の対決ときたら・・。心を読まれないように壁を作れ・・って本当にレンガの壁が出てきた時には・・。子供達のテレパシー攻撃で心の壁が崩れそうになるのを必死でこらえるアラン。そのうちにレンガの壁が崩れ始めて・・ってこれギャグだよね。呆れるよりもカーペンター監督、大丈夫?って心配になってしまった。一生懸命演技しているクリストファー・リーブが何だか気の毒。さてツボはずしまくりの映画だけど、ちゃんと観客の心をつかむデビッドというかわいい男の子が出てくる。彼のパートナーとなるべき女の子は死産だった。そのため彼はグループの中で落ちこぼれとして冷たく扱われている。ちなみにここらへんの男の子と女の子が対になってとか、片方が死産で・・という設定は原作にはない。デビッドが他の子よりずっと体が小さいのはパートナーがいなくてうまく成長できないせいか・・。他の子ほど冷酷ではなくて、母親のジルや、アランとの心の通い合いもある。だから観客は自然に彼の味方をするようになり、彼だけは助かって欲しいと思うようになる。・・でその通りになるのだがこれも原作にはない。こうでもしないと内容が盛り上がりようがない。まあこの映画でよかったのはかわいいデビッドと母性愛にあふれたジルが助かったこと。子供達をヘンに変身させなかったのもよかった。でもアランが死ななくてすむ方法はあったと思うよ。