ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ

ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ

「ハイド・アンド・シーク」行きます。最初予告を見た時、ロバート・デ・ニーロが出ているのにびっくりしたのよ。彼のホラー映画って珍しいのでは?目の下にクマ作ったダコタ・ファニングが髪に手をやり、けだるげにセリフ言うのを見て、何だこりゃーって思ったわ。ちょっと前までオシメしてたのに、もうけだるげものうげムードですか?何か背のびしてるみたいで・・まあいいんですけどね。ものすごく見たいとは思わないけど、機会があったら見てもいいかな。ところがノベライズ買っちゃって・・大した量じゃないからすぐ読めちゃう。でも最後まで読んでしまうとオチがわかって映画を見に行く意味がなくなる。だから最後の方はお預けにしておいて、映画を見てから残りを読んだのよ。読んでいても何となくありきたりな印象で、ワクワクするようなところが全然ない。だから映画の方もあんまり期待できないけど、まあデ・ニーロがどんな感じかなってそういう興味で見に行った。内容は・・登場人物や場所が限定されているので盛り上がりに欠ける。チャーリーの正体がわかってからの展開がちょっと長く感じる。演技合戦をムリに見せられているような感じ。懐中電灯をつけたり消したりするところは「ソウ」を思い出しておかしくなった。あっちはカメラのフラッシュで、何回目かにお約束のドッキリがある。それと同じでこっちも恐怖にゆがむエミリーの泣き顔がパッと浮かび上がっては消え・・のくり返し。そして何回目かに・・。作る人ってこういうのやりたいんでしょうね。見る方は「またか・・」って思うんだけど。内容は「シークレット・ウインドウ」に似ていて・・。本だと読んでいてもチャーリーの正体ってはっきりしないんだけど、映画は親切すぎて・・ラストまで持たない。私はヤカンのシーンでわかっちゃったな。何もあんなにあからさまに・・。「シークレット」でもヤカンが出てきたな、夢のシーンで。何でこんなに似ているんだあー、なめたらヤカンぜよ!(←アホ)それでもねえ、いちおうは思ったのよ。こんなに簡単にばらすようなシーン入れるわけがない。いくら何でも○○が××だなんて安易すぎるぅ。そう思わせておいてラストで引っくり返り・・ってあらら、そのままやんけ。何か看板立ってたよな、入口に。結末を教えないでくださいとか何とか。

ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ2

そりゃギャグ・・じゃない、オチ一発の映画だから(違うって!)ばらされたらそれっきり。でもこういうやり方って映画の宣伝の一方法でもあるわけで、私なんぞは「ああ、またやってるな・・」と。そのことによっていっそう期待するほどこちとら純情じゃない。例によってパンフではしっかりとネタばらし・・まあいいんですけどね。宣伝と言えばテレビのスポットで「怖かった!」とか「感動した!」とか興奮して感想述べていましたけどどこが?この人達の見たのと私の見たのと、ホントに同じ映画?だって私怖くもなかったし感動もしなかったんだもん。何が怖いの?チャーリー?途中で正体ばれてるじゃん。何に感動するの?父娘の間に通う愛情?まあ確かにデビッドのエミリーへの愛情は十分描写されてはいるな。でも別に感動は・・。デビッドがエリザベスに話す「彼女(エミリー)には、僕よりマシな子供時代を・・」という言葉。そのまま取れば経済的にマシな・・っていう意味かな?と思う。つまりデビッドの子供時代は貧しく辛いものだったが、娘にはそんな思いはさせまいと一生懸命働き・・っていう。でも本だとデビッドは9歳の頃には継母の虐待を受け、そのせいで精神を患っていたのよ。何とか克服し、心理学者にまでなったけど、母親を亡くしてからのエミリーは9歳の頃の自分と同様精神を患っている。彼女には自分のような悲惨な子供時代ではなく、暖かい家庭を与えてやりたかったのに・・デビッドの苦悩の裏にはそういう事情があるんだけど、映画では省略されてしまっている。そう、この映画かなり省略されている部分があるのよ。別に省略されていたって映画として成立するけど、登場人物の思いに深みが出ない。感動しにくいのは一つにはそのせいでもあるのよ。表面的な出来事だけで感動するのはムリ。本は映画の説明不足な部分をいろいろ補ってくれる。例えばなぜ「チャーリー」なのか。映画にはそのシーンは出てこないけど、アリソンは寝言で浮気相手の名前を言ってしまうのよ。それがチャーリー。なぜチャーリーはエリザベスを殺したのか。それはエリザベスが進んでデビッドに近づいてきたから。チャーリーはデビッドとエリザベスが親密になるのは困るのだ。なぜならエリザベスはエミリーと違って大人であるから、ゲームにかこつけてチャーリーの正体をあいまいにしておくことはできない。

ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ3

デビッドがチャーリーを捜し回っている時に出会ったのが隣人のスティーヴン。彼の言葉の中に「シャベル」が出てくるが、映画を見ていてもその意味がわからない。デビッドが今持っているのは(自分を守るための、そしてチャーリーに対抗するための)包丁である。スティーヴンが包丁のことを言うのならわかる。例えば「なぜ包丁なんか持ってるんですか?危ないじゃないですか」とかさ。本だとスティーヴンはシャベルを持って森から出てきたデビッドをさっき目撃したのよ。デビッドは○○を埋めるためにシャベルを使ったのよ。さて何を埋めたんでしょうか?こういう映画の感想って書きにくいよな、いちおうまだ公開中だし。「ハイド・アンド・シーク」じゃなくて「○○○・アンド・ハイド」だろッ!・・なんて突っ込みも入れられない(入れてるけどさ)。説明を省いて正解だったのがラストのエミリーの絵。ここですべてが引っくり返って事件は解決したように見えるけど終わってなくて、被害者に見えるエミリーが実は加害者で・・というふうに思えてくる。洞窟でのエミリーの行動は実はわざとで、キャサリンがチャーリーを撃つよう仕向けたのでは?・・とかさ。あの状況ならキャサリンはエミリーを助けるためなら殺人だって何だってするわよ。正当防衛りっぱに成立するし(それにしたって一発撃てばすむことなのに何発も・・)。それまでのエミリーの行動が全部怪しく思えてくる。9歳のデビッドがそうであったように、エミリーにもその徴候が・・。事件後キャサリンの元ですっかり明るく元気になったエミリーだが、それは彼女の一部分であって・・。さてこの映画で一番重要なことはチャーリーの正体を隠しておくこと。ばれたら(ばれてるんだけどさ)ホラーでもサスペンスでもスリラーでもなくなっちゃう。デビッドとしては娘の秘密の友達であるチャーリーの正体を何とかして突きとめたい。でもエミリーがしゃべっちゃうと映画としては「はい、それまでよ」だから、エミリーの言葉は選択されたもの、ぼかされたものとなる。普通だったらこんな言い方はしないけど、そういう不自然さを病気のせいにすることはできる。チャーリーの正体をそういう不自然な(苦しまぎれの)方法で隠す一方、途中でわかるような描写もしている。これがホントのかくれんぼだよなあ・・。つまりかくれんぼって絶対に見つからないのでは遊びとして成立しない。

ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ4

隠れる方が適当に存在をちらつかせて、見つけてもらえるよう鬼を誘導する。クスクス笑ったり「まあだだよ」と答えたり。鬼はそれらの声や気配を頼りに見つけるわけで。エミリーはチャーリーの正体を知っていながらはっきりしたことは言わない。デビッドはチャーリーの正体を知ろうとエミリーの言動を頼りに模索するが、それでいて安易に正体をばらされている。作り手がそういう(真実が見え隠れする)かくれんぼ的路線を狙っていたとは思えない。彼らが狙っていたのは見る者をワクワクドキドキさせ、思いがけないオチで鮮やかにしめくくる正統派ショッキング路線だったと思う。結果的には不発で、恐怖も感動も大したことない凡作になってしまったんだけどさ。それでもいつも通り二回見て、二回目はエミリーに注意していた。明るく元気なエミリーの性格が変わったのは母親が自殺したせいだ。ショックで心を閉ざし、10ヶ月たった今もそのまんま。その彼女に変化が起きたのは新しい家に着いた時。デビッドは不動産業者のハスキンスや保安官のハファティと話をしている。ふと気がつくとエミリーの姿が見えない。あわてて捜すと森の入口にたたずむエミリーの後ろ姿が・・。この時点ではチャーリーはまだエミリーの前には現われておらず(後ろには現われているかも・・おっと口がすべったぞ)、様子がおかしいのはチャーリーのせいではない。一回目を見ている時には森の中に怪しい人影でも?と思ったけど、そうでないことは二回目にはわかってるしね。彼女は後ろ向きだからどういう表情をしているのかは不明。顔がうつった時にはおびえたような表情をしている。私はここでエミリーに変化が起こったのだと思うな。おびえたような表情をしていたのは、その瞬間我に帰って、それまで自分が何をしていたか記憶がないせいだと思うな。もちろん立って森を見ていたんだけど、その表情や頭の中で考えていたことは普段のエミリーとは違っていたと思うよ。ストーリーはその後のチャーリーの出現で、エミリーからは注意がそらされてしまうけど。・・で、ラストの絵によって「え?」となるわけよ(シャレか?)。私はこの絵を見るとグレタ・ガルボの出た映画の題名「奥様は顔が二つ」を思い浮かべちゃう。・・さてその後のエミリーは人形に興味を示さなくなる。デビッドがエミリーの部屋の棚から人形のコレクションがなくなっているのに気づくシーンがある。

ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ5

一回目はからっぽの棚が何を意味するのかわからなかったんだけど。その上人形を傷つけるなどの残酷さが出てくる。エリザベスの姪を初めて見た時も(車の窓越しなのではっきりとはわからないが)、鉄棒から落ちたと思ってニヤリとし、それがふざけただけで何でもなかったと知ると失望する。魚釣りのエサにゴキブリをつけるところもそう。ところでこのゴキブリ、明らかに作り物ですな。いくら演技派のダコタ嬢でも本物のゴキブリはつままないでしょう!話はそれるけど、一回目終了後の休憩中、床をゴキブリが散歩していたわ。二匹いたけど一匹は全然動かなかったから、一回目のお客に踏みつぶされて昇天していたのだと思うわ。それはさておき、このようにこの映画ではダコタ嬢の「魔性の女」ぶりも見せようとしていて、それをラストの絵につなげて「そうだったのか!」と驚かせたかったんでしょうね。あらそうなるとチャーリーの立場は?彼が恐怖のメインになるはずじゃなかったの?彼踊らされていただけですか?オルゴールのバレリーナみたいに。「エミリーちゃんは顔が二つ」がいいアイデアなのは確かだ。でも二段がまえのオチなのに衝撃度は今いち。チャーリーの方はそれでもそれなりに筋が通るように説明され描写されているが、エミリーの方は筋が通らない。この映画ではチャーリーとエミリーが友達だという設定がある。森の入口にたたずんでいた時はっきり表に出てきた(分裂したのは母親の自殺でショックを受けた時だろうが)もう一人のエミリーは、チャーリーと一緒に残酷な遊びに興じた魔少女であり、彼女はそれゆえにチャーリーと気が合った。本来の人形好きで心を閉ざした無気力なエミリーはもしそういう記憶(残酷な遊びをしたという)があれば、チャーリーを嫌ったはずである。そういう記憶がないからチャーリーを友達だと思ったんでしょ?風変わりだけど一緒にかくれんぼをしてくれるおじさん程度の・・。チャーリーはどちらのエミリーとも一緒に過ごしているはずで・・でもそういう(両方を知っているという)描写はなくて、クライマックスではただただ怖がらせいたぶって喜んでいるわけ。この時のエミリーが本来のエミリーであろうが、芝居をしている魔少女エミリーであろうが、どっちにしても説得力なし。・・てなわけで(何度も書くけど)今いちな出来の凡作だけど、いつも通り二回見てそれなりに満足して帰ってきましたとさ。

ハイド・アンド・シーク 暗闇のかくれんぼ6

あんまり期待しないで行ったからさほど失望もしなかったわけ。宣伝に乗せられちゃダメ。でも性こりもなくやってるのよね、通常版以上にショッキングなアナザーエンディング・・とかさ。パンフにはキャストのところに「幼い男の子」とか「ウェイトレス」とか書いてあって、そんな人達出てきましたっけ?だからアナザーエンディングの方に出ているのかなー、幼い男の子って子供時代のデビッドかなー、封印するほどショッキングなエンディングって成長後のデビッドが自分を虐待した継母に復讐するところかなーっていろいろ想像したんだけど、違うようで・・。エミリーの絵じゃなくて、入院してるらしいエミリーの描写で終わるんですか?それが封印するほどショッキングなことなんですか?精神病院に入院しているらしいから?まあIMDbにはキャストのところに「幼い男の子」の他に「disturbed boy」ってのも載っていて、わけわからんけどカットシーンがあるのは確か。さて・・キャストと言えばなかなか豪華で、デ・ニーロ、ファニングの他にエリザベス・シュー、ファムケ・ヤンセン、エイミー・アーヴィングらが出ている。ただデ・ニーロが60代、アーヴィングが50代でエミリーの両親としては年を取りすぎ(本ではもっと若い)。オルゴールやチャーリーが歌う「マネシツグミ鳥がどうたらこうたら」という歌は、マザー・グースの子守唄らしい。私この曲どっかで聞いたことあるのよね。・・で、さんざん考えてやっと思い出したわ。「ザ・クロウ」で冷酷な女カーリーが、アッシュの子供を撃ち殺す前に歌っていたのよ。耳元でやさしく「いい子だから泣かないで、永遠の命をあげるから」ズドン!・・さて私が見に行ったのは公開一週目の平日。たいていの映画館はその日がレディス・デーだけど、ここは違う。そのせいか二回とも25人くらいでしたな、パラパラ。他の館はもっと入っていたんでしょうけど。館内には別に驚きも走らず、満足ムードも漂わず・・静かなもんです。映画は・・音楽がうるさく感じましたな。恐怖を盛り上げるためなんだろうが、何かしっくりこない。最近「息子のまなざし」見まくっていて、BGMなしに慣れちゃっているから、入っていると不自然に感じちゃう。音楽によってドキドキするんじゃなくて、ここでこんな音楽流れてくるわけないだろッ・・って突っ込み入れたくなるわけよ。