ヘルハウス

ヘルハウス

これはたぶん戸塚あたりの映画館で見たのだと思う。あの頃の戸塚は、駅のまわりにも何もなく、まだ田舎だった。何かと二本立てだったと思うが、何を見たのかは覚えていない。「ヘルハウス」はその後テレビでも見たし、だいぶたってから原作も買って読んだ。DVDも買ったが、特典は予告編だけ。このジャンルの映画としては人気のある方だと思うが。コメンタリー、ドキュメンタリー、インタビュー・・何でもいいからくっつけたってばちは当たらないと思うが。日本語吹き替えさえついとらん・・ケチ!たぶんこの映画の人気の大部分は、フローレンス役パメラ・フランクリンが負っている。小柄で細くて、22か23という若さ。女学生か修道女のようにういういしく、清楚で、それでいてエロチック。男性陣にはたまりませんわな。原作を読んでびっくりするのは、フローレンスが43歳の成熟した女性であること。赤毛で背が高く、巨乳で元女優。でも映画にこういうタイプ出してきても映えない。霊の方がやられちゃいそう。危なっかしさの漂うフランクリンのようなタイプでないと。ライオネルとアンのバレット夫妻の関係も、映画と原作では大きく違う。それはちょっと置いといて・・物理学者のライオネルは、大富豪のドイッチュにヘルハウスの調査を依頼される。ドイッチュは高齢で、死後の存続に興味持ってる。最近べラスコ邸・・ヘルハウスを購入したのもそのせいだ。ライオネルは10万ポンド(原作では10万ドル)という報酬に驚くが、期限が一週間というのにも驚く。なぜそんなに急ぐかと言うと、ドイッチュは末期ガンなのだ。できるだけ早く答を知りたい。ただしここらへんのことは映画には出て来ないので、ドイッチュはおっそろしく気の短いじいさんにしか見えない。調査のために集まったのは、ライオネルとその妻アン(原作ではエディス)、精神霊媒のフローレンス、物理霊媒のフィッシャーの四人。彼らの食事を運搬する老夫婦はカットされている。着いて早々フローレンスは、若い男・・べラスコの息子ダニエルの霊に気づく。彼は父親の強大な力のせいでヘルハウスから出ていくことができず、苦しんでいる。何とか助けてあげなければ。彼の死体・・ミイラや、誕生を記した聖書が見つかり、フローレンスは彼の存在を信じ込むが、他の者は違う。いいようにだまされているだけ、あるいは彼女自身が作り出した幻想・・と、冷ややか。

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実際後で彼女は、若くして亡くなった弟デヴィッドの悲しい記憶が、ダニエルへの同情に転化・利用されてるのに気づく。でも映画ではそういう過去はカットされ、聖書の部分も出て来ない。聖書の一節がべラスコの正体を知る重要な手がかりなのだが、そういうのも描写されず、クライマックスでフィッシャーが突然口にするので、唐突な印象受ける。さてバレット夫妻だが、ライオネルの方は原作では50代なかばという設定。演じているクライヴ・レヴィルは、当時まだ40過ぎたばかりだが、老けた感じ。数年後の「刑事コロンボ」の方がよっぽど若々しい。まあ要するに「ヘルハウス」のせいで私はレヴィルはもう中年と思い込んでいたので、「コロンボ」を見てびっくりしたってこと。ライオネルは12歳の時に小児マヒにかかり、そのせいで足が少し不自由。頑固で几帳面で、自分の体に気を使う。毎日水泳をし、蒸気風呂に入る。べラスコ邸にはプールも蒸気風呂もあるので、早速利用するが、ある時とんでもない目に会う。でも映画の方は小児マヒも足が不自由もプールも蒸気風呂もなし。いかにも英国風な、少々堅苦しいところはあるにしても普通の夫婦に思える。アンは仕事熱心な夫に、多少さびしい思いはしているものの、欲求不満とまではいかない。原作でのセックスレス、アル中の父親、しかも性的虐待まで・・そういう苦悩・過去は省略されている。ヘルハウスで幻覚を見たり、酒を飲んでフィッシャーに迫ったりするのも屋敷のせいであって、彼女自身が問題をかかえているわけではない・・と。アンは酒・・それも媚薬入りの・・と一緒にポルノ写真も見つけるが、映画はうつさない。お行儀がいいと言うか。あれこれ見せるより、俳優の演技に任せると言うか。フローレンスを使って交霊実験をする際、彼女が何もトリックを使えないよう、エディスが身体検査をする。裸になってもらって、髪の中や口の中、腋の下などを調べる描写が原作にはある。その際エディスは、誰かに見られているような気がして不安になるのだが、そこらへんも映画では省略されている。たぶんリメイクされたら・・リメイクはしないで欲しいと書いてる人もいるが・・真っ先に映像化されるのだろう。私自身、狭いキャビネットの中には自分とフローレンスしかいないはずなのに、誰かの視線を感じる・・というのは、いいシーンになると思う。

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と言って何もかも開けっぴろげ・・セックスレスの苦悩やポルノ写真、全裸にして身体検査、取り憑かれたフローレンスがエディスを誘惑など・・に映像化したのでは、この映画の持つよさは失われると思う。この映画の前半の見せ場は、フローレンスの指先から心霊体が出てきて、生き物のようにキャビネットの外へ流れ出てくるシーン。映画は多くのことが省略されているのだが、その一方で原作に忠実な部分もあるのだ。トランス状態のフローレンスがいるのは、まわりをネットで囲まれたキャビネット・・というのもその一つ(原作はカーテンだが、それだと我々にフローレンスがよく見えない)。心霊体はそのうちまとまり始めて、人影のようになるのだが、映画はそこまで行かず中断されるので、このシーンが何のためにあるのかわからない。さて、フィッシャーは20年前(原作では30年前)の調査隊のたった一人の生き残り。その前の調査と合わせて八人死んでいるが、彼は今回も生き残るつもりだ。彼から見るとフローレンスは心を開きすぎだ。愛によって救済できると信じているけど、むやみに心を開くのは非常に危険だ。特に相手がべラスコのような邪悪な存在の場合は。ダニエルが実在したという明確な証拠は何もない。一方ライオネルの方は霊魂を信じようとしない。ある種の残存エネルギーが人々を惑わしているのだ。霊魂ではなく、家に行き場のないエネルギーがたまっているのだ。だから彼の機械によってそれを打ち消せば、エネルギーはなくなり、現象は起こらなくなる。フローレンスは自分の主張が否定されるのが悔しくてたまらないのだ。精神霊媒のはずなのにポルターガイストを起こし、こっちを攻撃する。ダニエルの仕業なんかじゃない。現象を起こしているのは彼女の怒りのエネルギーだ。その証拠に痛めつけられたのは自分だけではないか。この二人のいがみ合いから、フィッシャーは距離を置いている。自分の殻に閉じこもり、行動を起こさないでいる。一週間過ぎたら、ドイッチュにはてきとーな報告をし、金をもらってそれで終わりにすればいい。何もしなければ家は攻撃してこない。進んで命を落とすようなことはすまい。でもライオネルに指摘され、なじられ、ショックを受ける。生き延びようとすることがそんなに悪いことなのか。でも元々は善人だから、自分の卑怯さを恥じないではいられない。

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原作によれば、彼は前回の調査の後、詐欺とかつまらない犯罪に手を染める。でもそれは彼の才能に目を付け、寄ってくる連中から身を守るため。あの神童が犯罪者に落ちぶれたとなれば、誰も寄ってこない。しかしその後も密かに自分の能力を磨き続けてはいたのだ。この部分は映画には出て来ない。ライオネルが去った後、フィッシャーが取る行動は、映画を見ていただけでは意味がわからない。静かにしていたかと思うと突然ギャーとかわめき、苦しみ出すので、コメディーにしか見えない。あのシーンの本当の意味は、傍観者でいたことを反省し、それまで固く閉じていた心をほんの少し開いてみたところ、たちまち凄まじい力に翻弄され、さんざん痛めつけられた・・ということである。その後フローレンスが話しかけた時、フィッシャーがすっかり意気消沈・・なげやりにすらなっていたのは、自分の能力に対する自信が打ち砕かれてしまったからだ。さて、あれこれあってそのうちフローレンスが死ぬ。最初に見た時は意外に思った。ああいうかわいらしいタイプは普通生き残る。その後ライオネルの機械によって、さしものヘルハウスもきれいになったと思われたが・・それもつかの間、ライオネル死亡。原作では二人の死体は町へ運ぶが、映画ではそのまま。もうこの頃にはドイッチュは死んでいる。彼の息子はこの調査には反対なので、知らせようともしない。報酬を支払う気はさらさらなく、かえってヘルハウスで全員死亡となるのを期待しているのだろう。ライオネル達がちゃんとした契約かわしてないというのもアレだが、ドイッチュが末期ガンだなんて知らないし・・ましてや薬の飲みすぎで死ぬとは・・でもこの部分も映画にはなし。原作のエディスと映画のアンとでは、ライオネルの死の受け止め方は少し違うと思う。エディスにとっては、今回の出来事は自分を見つめ直す機会になったことだろう。仕事で少し離れていただけで眠れず食べられず、自殺まで考えるほど夫に頼り切っていた自分。でもヘルハウスで過ごすうちに夫に対する見方、考え方が変わってきた。彼が何か言っても、信じてない自分がいる。いつも何よりも先に研究がある。次が自分の健康。妻はこの二つがスムーズにいくよう、いつだって献身的に協力してくれる存在。夫としての務めを果たさなくても、何の不満もいだかない、都合のいい存在。

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エディスにとっては、ライオネルの死は悲しいことではあるけれど、その一方で新しい自分に目覚める第一歩でもある。もう頼る相手はいないのだ。・・映画の方は、酒に酔っての醜態という危機はあるものの、そのおかげでかえって二人の絆は深まった・・みたいな。心が寄り添い、ちょっとしたこともうれしい温かいムード。だからその矢先の夫の無残な死は、アンには大ショック。まあ映画の方が流れとしては単純でわかりやすい。二人の死に責任を感じたフィッシャーは、自分一人でべラスコに挑む決心をする。前の調査でのメンバーの死因は原作とは変えてある。両足骨折とか両足マヒとか、足に関係するものにしてある。そこからフィッシャーは、べラスコが2メートルもある吠える巨人ではなく、チビだったと見破る。べラスコはそれを隠すため、自ら膝から下を切断、長い義足をつけたのだ。何もかも彼の強固な自我のなせる業。彼は自分の死体さえ、生きているかのように保存する。最初見た時は、いきなり変なじいさんがうつるのでびっくりさせられた。べラスコ役はマイケル・ガフ。もっとも私は人形かな?・・と思っていて。後年「バットマン」を見てびっくりしたわけで。このシーンで残念だったのは、グラスにワインが入っていること。何十年もたってるんだから蒸発するはず。でも映画はそんな細かいことは無視し、さっさと終わる。不吉な感じのするメロディーが流れ、お客が思うことはただ一つ・・フィッシャーとアンは報酬ちゃんともらえるのかしら・・。フィッシャー役はロディ・マクドウォール。メガネのせいで目が大きく見え、異様な感じ。演技が大げさと言うかわざとらしいと言うか、そのせいで鼻につくと感じる人もいるようだが、まあはまり役。アン役ゲイル・ハニカットは、フランクリンのせいでだいぶ存在がかすんでしまうが、彼女なりにがんばっている。細くてつんと尖った小さな鼻が印象的。マクドウォールとレヴィルの鼻は大きいからなあ。しかも二人して向き合ってる大うつしのシーンあるし。・・てなわけで、「ヘルハウス」と言えばフランクリンのヌードとか、そっちの感想になるのが普通なんだろうけど、原作のせいでエディス(アン)に思いが行きましたな。