ぼくの美しい人だから

ぼくの美しい人だから

ぼくはマックス、原作では小男になっている。小柄、発育途上、チビ・・何でもいいけど何でこんな設定にしたのかな。どんな恋愛映画だってたいていは男の方が背が高いよ。ダドリー・ムーアは別としてさ。そのぶん男前ってことになっているけど、そんなのあんまり役に立たない。若くて美しくて仕事に成功していて、でもチビ。どんな男が思い浮かぶ?イライジャ・ウッドとかさ。「ぼくの美しい指輪だから」捜しに旅に出るってか?そりゃマックス役のジェームズ・スペイダーは文句なしのハンサムで、これ以上ないくらいのはまり役。アップでうつると見ている女性全員KOされる。審判疑惑ゼロ。でも全身うつると「頭でかッ!」「顔でかッ!」ついでにもしかして「足みじかッ!」って現実に引き戻される。でもこの頃はまだよかった。今じゃ太って若い頃の面影ない。夜寝る時フトンいらない。肉ブトンで十分間に合う。おっと話がそれたぞ。「ぼくは美しいチビだから」DVDのカバー見た時にはがっくりさせられたな。まるで大木・・老木でもいいけど、それにとまったセミみたい。それも夏の終わりの、相手見つけ損なったひん死のセミみたい。もう誰でもいいですッ!それともこの身長差に驚くわけ?文庫本のカバーも情けない。「女王様とお言い!」「足の指をなめなさい」・・ってどういう趣味だよ。「ぼくは靴のヒモ結ぶ人だから」ノーラ女王様には逆らえないからこうしてご機嫌取っておかないとね。「ぼくはマメな人だから」おっと、ノーラ、頼むよ頭に手をやらないでくれる?髪が乱れるから。「頭頂部警戒警報発令中」なんて、ぼくの一番気にしていることを。今日はうまく隠せたのにウッもうぼく立ち直れません。ちゃんと立ってよ。ぼくの頭手すり代わりにしないで。飲みすぎだってば。タバコもじゃんじゃん吸うし、健康のことまるで考えていない。何の話だっけ・・ああ、そうそう文庫本のカバー。ブックオフとか行くと必ず100円のところに数冊ある。「男と女の至上の愛」描いた永遠のバイブルだってのに何で売り払うわけ?読みあきた本はさっさと売りましょうってぼく達あきられたの?で、カバーだけどぼくって忠犬みたいでしょ。ご主人様のためなら何でもします。右と言われりゃ右向いて~とても幸せ~♪はいお手!ワンワン!ひざまずいて靴のヒモでもロープでもワイヤーでも何でも結びますってばご主人様!

ぼくの美しい人だから2

たいていの映画では若くて美しくてはかなげなのはヒロイン。人生経験豊かで強烈な個性持っているのはヒーロー。でもぼく達の場合は逆で、クモの巣に引っかかった美しい蝶がぼくなのよ。引っかかった現場は酒場。ぼくはその前に妻のジェイニーのスライド見せられて、古傷がうずいて普段の冷静さ失っていたんだなー。原作では泣いちゃうけど映画ではぼーっとした顔してそばかすジェイニーに見ほれていたのよ。「ぼくは純情な人だから」その直後に不純になっちゃったけど・・ジェイニーごめんね!・・ぼくは二人はこれでいいと思っていて。君が死んだ後も二人はとっても幸せだったと思っていて。君のお母さんサラは君の欠点見抜いていたけど。自分の娘であっても欠点は欠点だとちゃんと区別していて。ぼくみたいにあいまいじゃない。ぼくみたいに甘くない。ぼくみたいに甘ったれじゃない。過去に生きていて新しい恋人作るなんて思いもよらなくて仕事一生懸命やっていて。人間関係・・家族とか友人とかユダヤ人社会とか何とかつき合って、きのうも今日もこれからも続いていくはずだったのに。27だけどもう老人みたいな心境。「ぼくはもう終わった人だから」それがノーラに会って一変する。花開くぼくは美しいでしょ。普通こういう場合美しく花開くのはノーラの方なんだけどスーザン・サランドンがやっているから花は開かない。花しぼむ。花枯れる。ぼくの顔のアップなら肌はきれいだし、まつ毛長いし。ハーレクインロマンス全開で画面を見る女性の目は輝き、男性は目をそらす。これがスーザンだと・・出た~ホラー映画、オカルト映画、パニック映画。ぎょろりとした血走った目、赤く上気した顔は殺人鬼にしか見えない。子供が見ると引きつけ起こし、大人が見ると夜うなされる。ここで見ている人は確信する。この題名はおかしい。「ぼくが美しい人だから」「ぼくだけ美しい人だから」「ぼくこそ美しい人だから」何でもいいやどれも正解だから。ノーラは「ぼくにとって美しい人だから」他の人がどう思おうとかまわない。ブスだろうが年増だろうがだらしがなかろうがインランだろうが。たいていの人は思うだろう何が悲しゅーてこんな女と。過去のある貧しい女だったとしてももっと若ければりっぱにハーレクインになったと思う。不釣合いの程度が大きいほどドラマチックになる。

ぼくの美しい人だから3

ぼくには悲しい過去。彼女にも悲しい過去。彼女にもぼくにも同情してくれる異性はいて、いっときは心が動くんだけど最後には君しかいないあなたしかいないとなってすべての障害を乗り越えて結ばれる二人。とうとう最後には結ばれる二人。でもぼく達の場合は違う。最初にぼくが襲われたことで始まったんだし。ぼくの彼女へのプレゼントは小型掃除機だったし。原作にしろ映画にしろこういうのを見てロマンチックだハーレクインだとため息つけるのかな。設定そのものは逆ハーレクイン。美しいのはぼくだし花開くのもぼくだ。と言うか花を散らされたんだけどさ(ビミョー)。ところで映画では大事なことが抜けている。貧しい子供時代を生き抜き、今このしゃれたアパートに住めるのはコピーライターという仕事のおかげ。華やかだけど競争は激しいしクライアントには気をつかう。そこらへんの苦労は原作には十分書かれている。でも映画ではつけ足し程度。ノーラに溺れて昼休みを長く取り、上司のローズマリーに注意される。演じているのはキャベツ・・じゃないキャシー・ベイツ。ちょこっと注意してあとは用ずみ。映画は仕事のことなんかほったらかし。とにかくぼくとノーラのあれこれを描く。現実はそれじゃすまないけど映画だから。焦点ぶれさせないために省く。でも描写されることってどの映画でも小説でもくり返されていること。愛しているんだろうか。愛されているのかしら。ジェイニーのことを思い出さなくなったぼくは薄情者だろうか。彼と一緒にいたっていずれ捨てられるのは目に見えてる。彼と私とでは違いすぎる。何で私をみんなに紹介しないの。ごめん君を傷つけたくなくて。なぜ私のことを隠すの?私のことが恥ずかしいの?やめてくれみんな君のためを思ってしたことなんだ。私にウソをつくのはやめて。私はウソをつかれるのが一番きらいなの。あのーそういう君こそウソをつきまくっているぜノーラ。ノーラは常に不安定で自信のなさと自己主張が交互に顔を出しまことに扱いにくい。見ていて女性はノーラに感情移入できるのか。そーよそーよウソつくなんてサイテー。ウソをついていいのは女性だけ。だって女のウソはかわいいものだから。とかさ。原作ではぼくの心理は詳細に描写されているけど、ぼく以外の登場人物はぼくから見て○○・・の形になっている。ぼくから見て機嫌がよさそう、ぼくから見て機嫌が悪そう・・。

ぼくの美しい人だから4

だから常にぼくが登場し、ぼくがいない時のノーラとか友人とかの描写はないんだ。原作では「常にぼくが美しい主役だから」。ぼくは確かに堕落したんだろう。清く正しく美しくまるで天使みたいに生きてきたのに。ノーラのせいでゴミタメでも平気になっちゃった。じゅうたんがずれていてもたぶんもう気にしないと思う。ノーラが姿消して、映画だからわりと簡単に再会できる。原作だとノーラが他の男と暮らしていたりしてもうちょっと複雑だけど、映画はね。ここまでくっついたり離れたりの連続で来ているから、最後近くになってまた新しいややこしやーを出すのはタブー。殺し文句で一気に決めてハッピーエンドにもつれ込み・・じゃない、なだれ込みたい。ぼくが君に合わせる。何だったらぼく純白のウェデイングドレス着ちゃいます。白無垢でもオッケーあなた色に染まりますーワンワン忠犬マックス。映画見ている女性にとっちゃ夢のような状態でしょ。男性にとっては悪夢。でもってレストランでの醜態で幕。原作では夕食のテーブル整えて来るか来ないかわからないノーラを待つ。彼女に合わせるにしたってきちんとして会う。お客がいるのにテーブルにノーラ押し倒してふざけるなんていう・・そんな下品なことはしない。映画はなぜあんな終わり方にしたのだろう。「ぼくは美しく終わりたかったんだから」サランドンはどんな映画に出ても自立した女主張しているような印象受ける。「あたしは一人でちゃんと生きていけるんだから」「あたしにウソをついてごまかすことは許さないんだから」とかさ。でもこの上なくノーラにぴったりなのは確か。スペイダーもぴったり。ジェイニーなくして普通に生活していながらも呆然としているところ。痛い目に会うとわかっていてノーラに近づいていく危うさ。赤頭巾ちゃん気をつけて。近づいていくと言うより女郎グモに絡め取られるようでもあり、子犬のようにすり寄っていくようでもあり。有無を言わせず女性をしたがえさせてしまう男らしさではなく、すべてのものに負け、すべてのものに押しつぶされている弱さと言う強さ。楽しい時でも愁いをおびた目。美しさ全開。原作では黒い髪ってことになってるけどここは金髪でなくちゃ始まらない。天使は金髪でなくちゃだめ。ジェイニー役マリア・ピティロはほんのちょっとの出演とあとはスライドのみ。でもノーラとは全く違うタイプで印象に残るよううまく作ってある。

ぼくの美しい人だから5

もしジェイニーが死なずあのまま結婚生活が続いていたら。子供ができていたら。お互いのいやな面が見えたかもしれないし、大ゲンカしたかもしれない。でもやっぱりぼくはジェイニーが好きでずっと愛し合って暮らしたと思う。さほどドキドキすることもなくおだやかに。ラストはぼくとノーラの再出発ムード(あるいは元の木阿弥ムード)だけど、これがいつまで続くかはわからない。ノーラは十年後を心配する。自分は52でぼくは40にもなっていない。きっと毎日ドキドキするだろうしおだやかでもないだろう!総じて言えば映画はそれぞれがはまり役で、原作に登場するキャラが血と肉を持っていきいきと動き回る。ここで他の出演者について書いておく。ノーラの姉ジュディ役がアイリーン・ブレナンで、いい味出してる。レイチェル役のコロコロ太った女優さんもいい。パーティに招かれた時、ほとんどすべての人がノーラを好奇の目で見たけど、彼女だけは全くわけへだてなく親切に接してくれた。その人のよさ、愛情の豊かさ。他にスティーヴン・ヒルも出ている。今の人は知らないだろうがテレビの「スパイ大作戦」でピーター・グレーブスに代わってリーダーを演じた人。地味すぎて不評だったようだが。ノーラをねちねちといじめるシェリー役の人もどこかで見たような人だ。「殺意の罠」に出ていたらしい。原作者グレン・サヴァンも出ているようだ。映画はストーリーもわりと表面的でわかりやすい。しかし・・女性客への媚びが強く感じられる。都合のいい女ならぬ都合のいい男。こういうストーリーにしたのできっと気に入ってもらえるはずという自信が見え見え。いくつかの殺し文句はなるほどうまくできているけど。スペイダーの美しさは完璧で文句のつけようがないけど。でも内容のどことない浅さ、甘ったるさは隠しようがない。原作はもうちょっと深い。苦い。仕事のこともそうだし、ジェイニーの母サラとぼくとの心の通い合い。サラのジェイニーに対する見方はぼくとは違っていて、同じくジェイニーの、ぼくの母に対する見方もぼくとは違っていた。扱いにくいぼくの母に常に親切に接していたジェイニー。その母も(原作では)あっけなく死んでしまう。ぼくとノーラのことがメインとは言え、それ以外のことも実にていねいに書かれているのだ。「ぼくのお勧めの小説だから」DVDとともに末長く手元に置いてね!